(前回の続き)カルリクレスの発言である。
けれども、始めから王子の身分に生まれた人たちだとか、あるいは、自分みずからの持って生まれた素質によって、独裁者であれ、権力者であれ、何らかの支配的な地位を手に入れるだけの力を備えた人たちだったとしたら、およそそのような人たちにとっては、節制や正義の徳よりも、何がほんとうのところ、もっと醜くて、もっと害になるものがありうるだろうか。その人たちには、数々のよきものを享受することが許されているし、しかもそれを妨げるものは何もないのに、自分たちのほうからすすんで、世の大衆の法律や言論や非難を、自分たちの主人として迎え入れるようなことをしたのではね。
いや、彼らは、正義や節制の徳という、その結構なものによって、かえって不幸にされるのだということは、これはどうしても避けられないのではないかね、もしも彼らが、自分たちの味方の者に対して、敵に与えるよりも、何ひとつ余計に分けてやることをしないというのではね。しかも、せっかく自分が支配している国の中において、そのありさまだとしたならばだよ。
いや、ソクラテスよ、真実には―その真実を、あなたは追求していると称しているのだがーこうなのだ。つまり、贅沢と、放埓と、自由とが、背後の力さえしっかりしておれば、それこそが人間の徳(卓越性)であり、また幸福なのだ。しかしそれ以外の、あなた方の言うようなあれらのもの(夢人注:正義や節制の徳)は、上べを飾るだけの綺麗事であり、自然に反した人間の約束事であって、愚にもつかぬもの、何の値打ちもないものなのだ。
(引用終わり)
さあ、どうだろうか。このカルリクレスの言葉は、道徳や倫理や法律の存立基盤を脅かす、明晰な論難ではないだろうか。私だったら、この言葉の前に、何の反論もできず、呆然と立ち尽くすだろう。少なくとも、考えをまとめるのに数十分以上は必要で、即座の応酬が前提の弁論の場では何一つ言えないと思う。そこに、「弁論術」を身につけることの必要性もあるのだが、その「弁論術」も、この「ゴルギアス」の前半部分でソクラテスに存在意義を否定されている。
要は、弁論術は真実追求の目的ではなく、その場の聴衆の賛意や弁論での勝利を得るための「迎合」だという理屈であるが、それは「哲学」や「真理の探究」を絶対視した立場だけに通じる理屈であることは言うまでもない。
そして、上記したカルリクレスの言葉に対しても、ソクラテスは「哲学的理屈」あるいは「純論理性」だけに基づいて反論し、相手を黙らせるのだが、その沈黙が同意の上での沈黙ではないことは言うまでもない。まあ、「言うまでもない」とは、その後の世界の歩みを見れば、権力者はほとんどがカルリクレスの徒であることを見れば分かる、ということである。詳しくは同書を自分で読んでいただきたいのだが、ここで、あるいは『国家』において、プラトンが正義や節制の絶対的意義の証明に「失敗」している(と私は思うのだが)ことが、その後の哲学の展開というか、人類の道徳思想が2000年以上もの間、ほとんど進歩しなかった、どころか低下していった理由がある、と私は思うのである。
何しろ、プラトンですら失敗しているのだから、これを論じるのは哲学者にとって鬼門である、と思われたのではないか。その結果、哲学は無益の学となったわけだ。
なお、ソクラテスがカルリクレスに反論した内容を、そのうち気が向いたら要約するかもしれない。
これも追記しておく。私がカルリクレスの言葉を面白く思うのは、「自由」とはまさに贅沢と放埓のことだ、という、誰もが無意識に思っていることをはっきりと言語化したことである。もちろん、倫理とは束縛の体系(カルリクレスに言わせれば、「自然に反している」もの)であるから、「自由」の対極なのであり、心から倫理を好む人など、ほとんどいないだろう。だが、好むものが当人にとって「よきもの」か、嫌われるものが当人にとって「悪しきもの」かと言えば、「忠言、耳に逆らう」を想起すれば、そう単純ではないことが分かるだろう。ソクラテスの論点も、大方、それに基づくものだ、と私は理解している。
けれども、始めから王子の身分に生まれた人たちだとか、あるいは、自分みずからの持って生まれた素質によって、独裁者であれ、権力者であれ、何らかの支配的な地位を手に入れるだけの力を備えた人たちだったとしたら、およそそのような人たちにとっては、節制や正義の徳よりも、何がほんとうのところ、もっと醜くて、もっと害になるものがありうるだろうか。その人たちには、数々のよきものを享受することが許されているし、しかもそれを妨げるものは何もないのに、自分たちのほうからすすんで、世の大衆の法律や言論や非難を、自分たちの主人として迎え入れるようなことをしたのではね。
いや、彼らは、正義や節制の徳という、その結構なものによって、かえって不幸にされるのだということは、これはどうしても避けられないのではないかね、もしも彼らが、自分たちの味方の者に対して、敵に与えるよりも、何ひとつ余計に分けてやることをしないというのではね。しかも、せっかく自分が支配している国の中において、そのありさまだとしたならばだよ。
いや、ソクラテスよ、真実には―その真実を、あなたは追求していると称しているのだがーこうなのだ。つまり、贅沢と、放埓と、自由とが、背後の力さえしっかりしておれば、それこそが人間の徳(卓越性)であり、また幸福なのだ。しかしそれ以外の、あなた方の言うようなあれらのもの(夢人注:正義や節制の徳)は、上べを飾るだけの綺麗事であり、自然に反した人間の約束事であって、愚にもつかぬもの、何の値打ちもないものなのだ。
(引用終わり)
さあ、どうだろうか。このカルリクレスの言葉は、道徳や倫理や法律の存立基盤を脅かす、明晰な論難ではないだろうか。私だったら、この言葉の前に、何の反論もできず、呆然と立ち尽くすだろう。少なくとも、考えをまとめるのに数十分以上は必要で、即座の応酬が前提の弁論の場では何一つ言えないと思う。そこに、「弁論術」を身につけることの必要性もあるのだが、その「弁論術」も、この「ゴルギアス」の前半部分でソクラテスに存在意義を否定されている。
要は、弁論術は真実追求の目的ではなく、その場の聴衆の賛意や弁論での勝利を得るための「迎合」だという理屈であるが、それは「哲学」や「真理の探究」を絶対視した立場だけに通じる理屈であることは言うまでもない。
そして、上記したカルリクレスの言葉に対しても、ソクラテスは「哲学的理屈」あるいは「純論理性」だけに基づいて反論し、相手を黙らせるのだが、その沈黙が同意の上での沈黙ではないことは言うまでもない。まあ、「言うまでもない」とは、その後の世界の歩みを見れば、権力者はほとんどがカルリクレスの徒であることを見れば分かる、ということである。詳しくは同書を自分で読んでいただきたいのだが、ここで、あるいは『国家』において、プラトンが正義や節制の絶対的意義の証明に「失敗」している(と私は思うのだが)ことが、その後の哲学の展開というか、人類の道徳思想が2000年以上もの間、ほとんど進歩しなかった、どころか低下していった理由がある、と私は思うのである。
何しろ、プラトンですら失敗しているのだから、これを論じるのは哲学者にとって鬼門である、と思われたのではないか。その結果、哲学は無益の学となったわけだ。
なお、ソクラテスがカルリクレスに反論した内容を、そのうち気が向いたら要約するかもしれない。
これも追記しておく。私がカルリクレスの言葉を面白く思うのは、「自由」とはまさに贅沢と放埓のことだ、という、誰もが無意識に思っていることをはっきりと言語化したことである。もちろん、倫理とは束縛の体系(カルリクレスに言わせれば、「自然に反している」もの)であるから、「自由」の対極なのであり、心から倫理を好む人など、ほとんどいないだろう。だが、好むものが当人にとって「よきもの」か、嫌われるものが当人にとって「悪しきもの」かと言えば、「忠言、耳に逆らう」を想起すれば、そう単純ではないことが分かるだろう。ソクラテスの論点も、大方、それに基づくものだ、と私は理解している。
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