サローヤンが描いたアメリカは、戦争前のアメリカ、あるいは戦時中のアメリカだったと思うが、今なら読んでみたい気も少しある。現在の殺伐とした、抑圧的なアメリカ(だと私は推定しているのだが)と比べるならば、まだ戦時中(第二次大戦中)のアメリカのほうが牧歌的だったのではないか、と勝手に空想しているのである。
「何でもない日万歳!」と、「不思議の国のアリス」のアニメの中でキチガイ帽子屋と三月兎が歌うが、「何でもない日」がいかに素晴らしいものか、非常時になって分かる。いや、自分で体験しなくても、ニュースなどで大事件を見ると分かる。子供というものは、毎日が「何でもない日」であり、また「毎日が冒険」でもある。大人でも本当はそうなのだが、大人は感受性が鈍化しているから、それを忘れてしまう。小説などを読むと、その失われた感受性を少し取り戻せるようだ。それは、世界が再び輝きを取り戻すということである。(なお、「何でもない日」は、「アリス」の原作では「非誕生日」で、誕生日以外の364日のことである。)
(以下「日々平安録」から転載)、
2016-04-20
■[今日入手した本]W・サローヤン「僕の名はアラム」
- 作者: ウィリアムサローヤン,William Saroyan,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/03/27
- メディア: 文庫
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村上春樹&柴田元幸のコンビの企画で、昔文庫にあったがいつの間にか消えてしまった作のいくつかを復活させようとするものの一冊らしい。確かにサローヤンという名前も昔きいたことがあったが読まないままにいつの間にか消えてしまった。柴田さんの訳はJ・ロンドンの焚き火の話が圧倒的に面白かった記憶があり、それで書店で手にとってみて、柴田氏の解説が面白くて買ってきてしまった。
といっても実は、面白かったのはそこで引用されている同じサローヤンの著「人間喜劇」を訳した小島信夫氏の訳者あとがきなのである。いわく「小説は悪人を書いてきた。悪人でないまでも悪的要素をこれでもか、これでもかと書くためにこそ、あらゆる手法を発展させてきたのである。・・個性とは悪のバライエティだといってもいいくらいなのである。」 日本の私小説なども、人間がいかに酷い醜い存在かということの暴露合戦だったのかもしれない。
しかし、さらに凄いのはその先。「いったいバイブルというものを読むと、私の偏見からもしれぬが、キリストでさえも、善人とは思えない。天と地の間にある、この特殊な位置が、おそらくキリストを、いいようのないきびしさと孤独と逆説とに満ちさせたにちがいないが、時に悪人の相さえも呈する気がする。キリストには寛容の精神などない。寛容と見える場合にも、私たちは油断することが許されない。次に寛容は別の人に向けられる。寛容にさえもきびしさがつきまとうからなのだ。私たちは寛容をあたえられた場合にも、次におびえなければならぬことになりかねない気がする。」 うーん。
わたくしなどはウッドハウスのジィーヴスものなどを読んでも、なんで西欧の人士があれほどウッドハウスを賞賛するのかよく理解できないけれども、それは、西欧を覆う罪の意識の重さを実感として感じることができないためなのだろうと思う。西欧の人たちはおそらくウッドハウスの描く罪の意識のない世界を読んで救われるのである。キリストの眼差しのない世界に憧れるのである。すべての人が罪人である世界はつらい。それで、このサローヤンの短編集は悪人のいない世界、「善人の部落」を描くものらしい。
ところで、この短編集は原題が「My name is Aram」で、まさに「僕の名はアラム」なのだけれど、「僕の名はアラム」というのは日本語としてどうもしっくりこない気がする。「ぼくはアラム」「アラムって名前」「おいらはアラム」・・なんでもいいけれども、「僕の名はアラム」といういい方はしないような気がする。漱石の「我輩は猫である」を「I am a cat」と訳したら変である。福原麟太郎氏は確か「Here am I, a cat」と訳していたように記憶する。