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プラトンの「ゴルギアス」より、古代の新自由主義者、カルリクレスその1

少し長い引用になるが、同書から、問題のポイントとなる部分を抜き出しておく。同書後半にある、カルリクレス(「ル」の字が小文字だが、面倒なので大文字のままにしておく。引用先は岩波文庫、加来彰俊訳。同書p161~p163)の発言である。世界の上級国民のほとんどは彼の意見と同意見ではないだろうか。そして、この世界の悲惨の多くはここに根本原因があるのではないか。


カルリクレス:なんてあなたは甘い人なんだろうねえ! あなたのいう節制家(夢人注:自分で自分自身に打ち勝ち、節制する人。自分の中にあるもろもろの欲望やそれに伴う快楽を支配する者)とは、なあんだ、あのお人好しの、とんま連中のことかね。
(中略)
けれども、人間、およそどんなものにせよ、何かに隷属しているのであれば、どうして幸福になれるだろうか。いや、むしろこういうふうにするのこそ、自然本来における美しいこと、正しいことなのだ。それを今、ぼくはあなたにざっくばらんに話してみよう。

つまり、正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。そして、できるだけ大きくなっているそれらの欲望に、勇気と思慮とをもって、充分に奉仕できる者とならねばならない。そうして、欲望の求めるものがあれば、いつでも、何をもってでも、これの充足をはかるべきである、ということなのだ。

しかしながら、このようなことは、世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う。だから、彼ら大衆は、それをひけ目に感じて、そうすることのできる人たちを非難するのだが、それはそうすることによって自分たちの無能を覆い隠そうとするわけである。そして、放埓はまさに醜いことであると彼らは主張するのだが、ぼくが前の話の中で言っておいたように、こうして彼らは、生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを奴隷(夢人注:道徳や倫理や法の奴隷、の意味だろう。)にしようとするわけなのだ。そしてまた、自分たちは快楽に満足をあたえることができないものだから、それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども、それも要するに、自分たちに意気地がないからである。

(次回に続く)


どうだろうか。現代の新自由主義者や、多くの世界的大企業経営者やその幹部たちの思想はこれではないか。そして、保守主義者や右翼の思想の中に、こうした「力こそ美徳であり、権利である」という思想は無いか。あるいは、ニーチェやラスコリニコフの思想も要するに、これではないだろうか。はたして、プラトン(ソクラテス)はこの思想に対して、有効な反駁はできるのか。その前に、カルリクレスの言葉の後半を次回に載せる。



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