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商売ロックと「ロックな生き方」

私はロックミュージック、あるいはロックンロールはどちらかと言えば嫌いで、ほとんど聞いたこともなく、知識も無いが、「ロック」とは何かについて考察する。
最初に「ロックンロール」と「ロックである生き方」とは区別したい。ロックンロールは、「揺さぶり、転げ回る」ことだ、とここでは解釈しておく。つまり、聞く者を揺さぶり、その心が転げ回るような音楽、ということだ。だが、「ロックな生き方」とはそれとは別である。ロックンロールをやる人間がロックな生き方をしているとは限らない。ステージでギターを壊したり、ピアノの上に飛び乗ったり、舌を出したり、ステージから観客にダイブしたり、というのはあれは「演技」であり、生き方とは別のものだ。その証拠に、誰かが始めると誰かがその真似をする。それ自体、商売ロックである証拠だ。麻薬をやったり警察に逮捕されたりするのも、ロックミュージシャンには付き物だが、それも酒を飲み、立小便をするのと大差はないだろう。
では、ロックな生き方とは何か、と言えば、「既成の社会秩序に全身で反抗すること」である。
その意味で、私が最高にロックな生き方をした人間だと思うのはマルキ・ド・サドである。
ただし、その生き方を私が肯定しているわけではない。まあ、社会主義者である以上、当然倫理主義者としての私は「敵ながらアッパレ」と思うわけである。なお、アナーキストは「ロックな生き方」をすることが多いが、あれは社会主義とは別のものだ。

(以下引用)


マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族小説家。マルキはフランス語侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。


サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリ刑務所精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄英語版に1年、そしてシャラントン精神病院英語版に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。


生涯[編集]

生い立ちと教育[編集]

マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデフランス語版、かつてのコンデ公の邸宅。現在のパリ6区コンデ通りフランス語版ヴォージラール通りフランス語版付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフと、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会リセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。


1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]


1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。

牢獄と病院[編集]

サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。


サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌ英語版に収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。


獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。


サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。

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新興宗教とカルト

「大摩邇」所載の井口博士のブログから表(「オモテ」ではなく「ヒョウ」)のみ拝借。
「政治と宗教」の問題を考える上で、重要な表、あるいはリストだと思う。
「新興宗教=カルト」とは限らないが、新興宗教の8割以上がカルトと見做していいのではないか。
カルトの定義は単純に「超有害新興宗教」とするのが適切かと思う。伝統宗教は歴史と文化の一部になっているし、それが目に余るほど有害ならとっくに淘汰されているだろうからだ。
まあ、もちろん、一部の伝統宗教は有害性が高いかもしれない。特に一神教(創造主、創造神を信じる宗教)はそれを信じない者や信じない集団を敵として多くの悲劇の原因になってきた。
創価学会の信者数が圧倒的に多いが、その教義がどんなものか、私はまったく知らない。仏教系の新興宗教で、最初はカルト扱いだったと思うが、今では公明党という政党まで持って、日本の政治に大きな力を奮っている。誰か、創価学会の教義を10行以内で説明してくれないかwww

(夢人追記)「神戸だいすき」記事の一部だが、この記述に当てはまるのは、下の表のどれだろうか。

私の教団の悲願は、世界平和。

考えてみたら、世界救世教にしても、統一教会にしても「世界平和」を、掲げているんですよね。

目新しい標語ではありませんね。

宗教とは、一人一人の人生の悩みによりそい運命を転換させうるものだと考えていた私から見たら「世界平和」とは、ずいぶん大きく出たもんだ・・と、思えたのですが。

よそは、どうやって世界平和を達成しようとしているのかは知りません。創価学会と統一教会は、政治より上位に立ち、政治を自由に動かして、いわば「宗教国家」「宗教による世界支配」で、達成しようとしているようですね。

私の教団は、宗教が政治によって、なにかをするのは、邪道だと言います。

宗教は、宗教本来の法力で、世界を平和にする。
天と地を和合させ、陰と陽の調和を図り、霊界の不成仏霊を成仏させることで、霊界の「うつし世」である「現世」現象世界を救う。

護摩の火と、施餓鬼の水

火と水の浄め・・・そして、極端に位置する「火」と「水」を、調和させること。

(以下引用)
【ジョーク一発】「カルト教信者ランキング」から「スリランカの岩窟文字」まで_b0418694_14471254.jpg

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国家と「男性性・女性性」

「東海アマ」ブログに引用されていた記事で、一部に無理な論理の展開や誇張があると思うし、まだ詳しく読んではいない。しかし、なかなか啓発的で面白い記事だ。いい思考素材である。
世界的宗教のほとんどが女性蔑視、女性差別の内容がある、という指摘は特に面白い。これは私も個々の宗教については感じていたが、それが全世界的に共通している、ということには気づいていなかった。それ(宗教における女性差別)がなぜかという考察の部分は熟読する価値がありそうだ。

(以下引用)

 ライフジャーナル「母系社会が平和への鍵になる」2019.07.24
 https://naturalharmony.co.jp/journal11/

 なぜ世界から母系社会は消えたのか 女性性を尊重しない社会は滅びる!?
 前回のコラムで、イロコイ連邦をはじめとしたアメリカインディアンの多くの部族が、「母系社会」で成り立っているという話をしました。その母系社会についてさらに掘り下げてみたいと思います。

 母系社会を簡単に説明すると、一般的には母方の血筋を継承していく家族であること、つまり、現代の日本は「父系社会」なので、父親から息子へと男子が家を継いでいくところ、母から娘へと女子が継いでいくということになり、現代とはまったく逆の制度になるということです。

 古代には、世界中に多くの母系社会が存在していたと言われています。現存している先住民族の中でも母系社会を継承している民族の分布を見ると、熱帯地方に多く集中しており、寒帯地方では少ない傾向があるようです。また、農耕を中心とする民族に母系社会が多く、牧畜を中心とする民族には少ない傾向があります。これだけを見ると、温暖な地方で農耕を営む民族には母系社会という構造が適していたのかもしれません。

 さて、母系社会の大きな特徴をまとめると、部族の長は女性であり、その女性が部族内をすべて取り仕切り部族全体に大きな影響力を持っています。
 しかしその内部は非常に民主的に運営されており、決して封建的ではなく、すべての者に寛容な社会を築いています。

 中国雲南省の奥地に存在する「モソ」という民族は典型的な母系社会を継承していますが、その特徴を見るのが分かりやすいと思います。
 まず、結婚という制度がないため夫婦という関係性もなく、その概念すら存在しません。ではどうなっているかというと、「走婚」つまり「通い婚」になっているのです。
 (アマ註=日本でも合掌造りの白川郷や、弥生人文化圏では「通い婚」が常識だった)

 男性は好きな女性の家に通いながら、というより女性が好きな男性を呼び、関係性をつくります。最低限のルールがあるにせよ、一緒に住むのも自由だし、その関係を終わらせるのも自由なのです。
 もし子供が出来た時は女性の家族が皆で育てることになり、男性には一切の養育の義務はありません。父親が誰であるかは重要ではなく、誰が産んだのかが大切にされます。

 このような習慣を現代の常識的な目線で見てしまうと「これで社会が成り立つのか?」という疑問が浮かぶと思います。民族の構成はシンプルで農耕を中心とした社会なので、必要以上に現金収入を必要としていないから成立していたという背景もあります。
 また男性の存在感がないわけではなく、地域社会の中でしっかり役割があり責任ある仕事が任されています。

 ただ、至って自由であるということ。前述のように男女関係だけではなく、すべての人間関係が、とてもおおらかで寛容な社会を築いていたということです。この傾向はモソだけではなく、多少の違いはあれ母系社会を築いている民族ですべてに見られる傾向です。

 かつての日本も平安時代までは明らかに母系社会を築いていたといえます。おそらく当時は一部の貴族や武士階級を除き、明確な結婚の制度もなく女性が家系を継いでいました。

 世界的にみると人々の生活習慣や社会的な仕組みに大きく影響を与えた出来事は宗教の広がりです。有史以来、世界に急速に広まった宗教には女性を蔑視する内容がとても多いことに気が付きます。
 キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・仏教にいたるあらゆる主な宗教で経典の中に明確に女性蔑視を記述しており、表向きは平等と教えながら本質的に男性から劣っている存在であると位置づけていることから、とても矛盾をはらんでいます。
 神道についても穢れという考え方があり、例えば相撲の本場所の土俵には女性が立ち入ると穢れるという理由から厳しく禁じています。

 もちろん宗教もその時代とともに内容の解釈や記述が変えられてきているので理解は様々です。宗教の発祥初期からそのような教えがあったかは定かではありません。
 ただし、世界的に共通していることは、みな同じように男女の関係性に抑圧的な厳しい戒律を設けて、女性の位置づけを低く保ち、同時に善悪の概念を強力に植え付けてきたと言えるでしょう。

 日本も平安時代以降、本格的に仏教が普及してきたところから、明らかに父系社会への転換が起こりました。それが直接的な要因と断言できませんが、やがて戦国時代へと移り変わっていきます。
 ではなぜ、そもそも多くの宗教が女性を蔑視してきたのでしょうか? ここは大いに想像力を膨らませる必要がありますが、それは主な宗教が常に権力と結びついてきたという経緯があります。

 歴史上、常に政治が宗教を利用して、逆に宗教も政治を利用してきました。時の権力者たちは民衆をコントロールするのに宗教を使い、宗教にも様々な便宜を図ることで関係性を強固にして、必要であれば教義を書き換えてでも目的を達成させようとしてきました。
 当然ながら権力者やそれを取り巻く者たちは、その体制に反対する人々を物理的・政治的に抑圧しました。

 しかし、どうしてもコントロール下に置けない勢力がありました。それが女性だったのです。まだ母系社会が色濃く残る社会であっても政治的には優位な立場になっていた男性が、すでに社会全体に浸透していた女性の影響力を弱めることが出来ないため、宗教の力を使って存在そのものを低く劣ったものとして定義しました。つ
 まり権力者はそれほど女性の力を恐れました。

 中世のヨーロッパを中心に起こった魔女狩りはまさにそれを象徴する出来事であったといえます。人並み外れた霊的能力や知識をもった女性を魔女や悪魔の使いとして仕立て上げ、社会を惑わすものとして民衆の恐怖を煽り、社会的に影響力のある女性を抹殺してきたのです。

 ここまで読んだ方は、「では父系社会というのはそんなに悪い仕組みなのか?」と思われるかもしれません。
 実はそうではなくて、現代社会の中で父系社会を形成する男性性の要素が強くなり過ぎたということです。古代では母系社会と父系社会が共存していた形跡が多くみられており、中には双方が混ざった習慣を持つ民族もあります。

 近代では、その男性性の特徴である論理的・競争心・実力主義・結果重視などの傾向が過剰になり、社会の中で常にその条件に合うように生き方を要求されます。
 更に付け加えると、宗教の普及とともに貨幣経済が強力に広がり、社会を構成する要素として最も大きな影響力を持つことになったため、なおさら男性性を増長させることになりました。戦争や民族的な争いが絶えないことも、男性性の過剰という問題が根底にあるからではないでしょうか。

 女性への差別や蔑視や抑圧的な行為は、明らかに男性性過剰の結果であり、逆に言えば女性性の欠如の現れです。
 これは生物学的な男と女の違いの問題ではありません。どちらにも男性性、女性性の両方が備わっているからです。

 長い歴史の様々な場面で女性(性)が犠牲となってきた事実があります。犠牲とは、その犠牲の下に社会が成り立ってきたという意味です。
 さて、それを犠牲にして得てきたものは何でしょうか。国家の軍事的な強さでしょうか? 経済的な強さでしょうか?

 かつて男性性優位と見られる帝国が数多く誕生しましたが、ことごとく衰退・滅亡していきました。
 その一方で目立たないながらも女性性を大切にする平和な国家も存在していました。歴史の年表にはまったく出てこない史実ですが、帝国の栄枯盛衰を学ぶより、なぜ平和な国が存続していたかを学ぶことに価値があると思います。
 そうすれば、かつて理想的な母系社会を築いていた日本が、世界に先駆けて出来ることが自ずと見えてくると思います。
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 一部引用以上

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「真・善・美」は一致するという思想

下の引用は、「はてな匿名ダイアリー」での「悪役(の悪行描写)は物語創作に必要か」的な物語創作論(つまり、「トンネルを抜けた時の明るさへの感動のためにトンネルの暗い道を歩くことの不快に耐えられない人もいる」、ということ。)に対するコメントだが、現実人生や現実社会の話としてもなかなか面白い指摘だと思う。

「悪の凡庸さ(悪人は特殊な人間ではなく普通人でも悪に陥る)」という思想が、悪への同情となり、悪への腰の引けた対処になり、あるいは悪に報いるに善を以てする、という宗教的な姿勢になり、その結果、悪が世界に拡大していく、ということもありそうだし、現実にそうなっている感じもある。だからと言って、「厳罰主義」でこの問題が根本的に解決できるかどうか。

この問題への対処は、「悪は美しくない」ということを倫理問題の基点にすることではないかと、ふと思った。つまり、倫理感覚とは「行動の美」への感受性である、ということだ。
我々は、たとえば統一教会問題での政治家たちの「行動」を醜悪だと思っているのではないか? その「醜悪」という言葉は「悪は(審美的に)醜いものでもある」という思想を包含するように感じる。それは、この「醜悪」という言葉が外面的な(外観の)美醜だけでなく、行動の美醜にも使われることからも言えるのではないか。
これは、昔から言われている「真・善・美は一致する」という思想に近い。言うまでもなく、ここでの「美」は外面の美ではない。美男美女の悪党は無数にいる。しかし、美男美女ではまったくないが、善人の善性がそのまま顔に現れている人も多いのである。で、内面が下品・下種であるような美男美女は、やはりそれが顔に現れているのである。俳優やタレントや有名人の誰それをここでは指摘しない。



(以下引用)


あー。一方で、「絵にかいたような悪役でも実は事情があってそれなりにはいい人でした」展開も、作者のリアリティ観の薄っぺらさがほの見えて萎える(「正義は人の数だけある」と言っておけばいいんでしょ、的な)。


なんというか、その辺にあふれてる自分正義言い訳にした低劣な人間の底の浅さみたいなのをリアルに描いた悪役像が、読んでいて一番好ましい。

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ユダヤ人とユダ金

「読めないニックネーム」ブログの「ユダ金」という言葉への批判である。
「読めない」氏はカソリックが世界の悪の大本山という思想と思われる。
カソリックが「キリスト」教ではない、つまりキリストの本来の教えではない、という批判を私は自分のブログの「革命者キリスト」という小論文で書いている。キリスト自身も体裁上はユダヤ教徒のままで死んでおり、そして現代世界の「キリスト教徒」の中で「キリストの教え(シン・ユダヤ教)(愛と許しの教え)」を守っている人は皆無に等しいと私は思っている。
何が言いたいかと言うと、引用文中に

マラーノはキリスト教徒なのだから、キリスト教金融資本ですね。キリ金ですね。
正確には【ユダヤ】業(=金融業)の白人キリスト教徒金融資本。
ただの白人でキリスト教を信仰する銀行家集団ですね


と書いてあるが、白人か有色人かを問わず、世界の大金融家、銀行家の中で「キリスト教」を信仰している者はひとりもいるはずはない。いたら、あれほどの悪事を重ねるはずがないし、慈善的行為を頻繁に行うはずである。
カソリックのキリスト教がキリストの教えとは違う(私はそう主張しているが)、としても「キリスト教金融資本」「キリスト教徒金融資本」という言い方は非常に誤解を招く言い方で、それよりは、西洋文化の歴史の中で形成されたユダヤ人観に合う「ユダ金」のほうが適切だと私は主張する。
しかも、「ユダヤ人」なるものは存在しないと「読めない」氏は主張しており、私もそれに同意するので、「ユダ金」という言葉で被害を受ける「ユダヤ人」はひとりもいないということになる。しかし、キリストの教え(言葉)の中には西洋人の精神的バックボーンがあるので、軽率なキリスト教批判は東と西お互いの憎悪を生むだけだろう。
それに対し「シオン長老の議定書(ユダヤプロトコル)」で象徴化されたような「ユダヤ的なるもの」「ユダヤ的精神」への批判は為されるべきであり、それが「ユダ金」という言葉が適切である所以だ。

(以下引用)


Cさん”「ユダ金」の定義は「ハザール系のマラーノ」です。 民族的な意味での「ユダヤ人」など、誰も最初から問題としていないのです。”

マラーノ=キリスト教に改宗したユダヤ教徒。
なので、ユダ金=ハザール系のクリスチャン

ユダヤ系という言葉は聖書のユダヤ人の末裔はいませんのでユダヤ人という民族もユダヤ系も実在しません(名札みたいなもので、聖書の架空の人物との血の繋がりは虚構)。
ユダヤ系という言葉は無効なので、ユダヤ教徒かキリスト教徒かどうかがユダヤ金融資本の「ユダヤ」が存在するか否かの判断基準。
マラーノはキリスト教徒なのだから、キリスト教金融資本ですね。キリ金ですね。
正確には【ユダヤ】業(=金融業)の白人キリスト教徒金融資本。
ただの白人でキリスト教を信仰する銀行家集団ですね

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嘘と真実

お盆の起源についての前回の記事についてのザウルス氏のブログのコメント欄での問答も紳士的な議論で面白い。ただし、私は、信仰についてはザウルス氏のように頭から否定するのもどうかと思う。迷信でも、その迷信によって救われている人間もいるし、真実でもその真実が人を絶望させることもある。
などと宗教擁護的なことを言うと、カルトをどうするか、という問題が出てきて、これは対策が困難である。まあ、金銭的被害や奴隷的使役などの「実害があるか」どうかが鍵だろう。


(以下引用)
習合とも言えるのでは? (ji)
2018-08-14 18:34:19
お釈迦様は、確か輪廻転生を否定してましたと私も記憶しています。

なので、先祖供養にまつわるもの全てが後付けの物だと私も思います。

しかし、中国大陸に仏教が伝わった際に人民に受け入れやすくする為に道教などの要素を取り入れたのも納得できます。
土着の物と渡来の物が習合するのは、宗教だけでなく、あらゆる物がそうだと思います。

時代が経てば、時流に合わせて教えの解釈や後付けのモノが加わるのではないでしょうか。
大乗仏教も上座部仏教、チベット仏教も、その時代や地域に馴染むために発生したとも考えられると思います。

例えば、般若心経も元は中国で作られたとも言われているそうです。
空の概念を道教の無で表現しようとした解釈もあるそうです。
また、お釈迦様はマントラを否定していたそうですが、般若心経は思いっきり呪文を讃えています。
だからと言って、般若心経は偽物と言えるでしょうか?
それらが本当だったとしても、般若心経の価値は変わりないと思います。

時代と共に全ての物は変化していきます。これが正しい正しくないは、確かに研究としては面白いですが、一概に否定するのは良くないと私は思います。
事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので。
ji さま (ザウルス)
2018-08-14 18:46:52
「事実、それを信仰し頼ってきた人たちがいますので」 という理由で 「否定するのは良くない」  というのなら、オウム真理教だって、信仰して頼ってきた人はいるんじゃないでしょうか?

けっきょくあなたの主張は 「何でもアリでしょ」 と言っているだけのように聞こえます。

ありがとうございます (ji)
2018-08-14 18:53:27
確かに、おっしゃる通りです。
信仰している人がいるから否定してはならないというのは、良く有りませんでした。

洗脳されている人は、それを信仰しているわけですから。
ji さま (ザウルス)
2018-08-14 19:19:38
あなたのようにさっと、ご自分の非を認めることができるひとは世の中には決して多くないと思います。敬意を表します。

つまり、信じている人がいるのなら、そこには何か真実があるはずだ、とはかぎらないということです。
この記事で明らかにしたように、いつの時代にも自分たちの利益や権力のために大衆を騙そうとする人間はいるのです。

宗教家(スピリチュアルリーダー)のような知識階級はつねに言葉 (プロパガンダ) によってひとを支配し、操ろうとするものです。それは1500年前でも現代でも同じです。わたしはそういったプロパガンダに対して警鐘を鳴らしたいだけです。
ありがとうございます (ji)
2018-08-14 19:32:04
カラマーゾフの兄弟の大審問官を思い出しました。

権力者は勿論ですが、多くの人間は現状が変化する事に酷く拒否反応を示します。
現状に慣らさせ、それが普通だと常識だと洗脳し、いざ真実を突き付けられても、真実を受け入れられない状態にする。

勉強になりました。
Unknown (コメット)
2018-08-14 20:34:31
仏教教典の原典は釈迦存命当時の北インドの民衆が話していたパーリ語で書かれているが、玄奘その他が訳した仏教教典は当然、中国語で書かれている。中国ではこの漢訳仏典を当然、中国語発音で読む。読経は一般民衆が分かるようにその国の言葉で行われるべきであり、タイではタイ語訳が使われる。ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。私はザウルス様のように文献の追求は出来ていないが、日本仏教は胡散臭いと前から思っていた。一時、中村元氏その他の本に凝ったことがあるが、膨大な仏典の中で、お釈迦様のお言葉を原型通り残している事がほぼ確実なのは、岩波文庫に収められている法句教(真理の言葉、感興の言葉?)ぐらいかもしれないと読んだような気がする。早起きすると今でもチェンマイの人々は托鉢に回る僧侶の読経を聞いて、お布施をしているのを見るにつけ、日本より仏教が一般民衆の生活の中に生きていると感じる。
コメット さま (ザウルス)
2018-08-14 21:02:08
「ところが日本では漢訳を音読みして読経するので、一般民衆は意味が分からない。最初から庶民に有り難がってもらうため、わざといやがらせしているとしか思えない。」   ・・・ まさに我が意を得たり、です。

日本の仏教では、もはやブッダの主張や思想はどうでもよく、ブッダという当時絶大な人気を誇っていたスーパースターの “威光と権威” を利用しているだけなので、ブッダの本当のメッセージを伝える必要はほとんど無かったのです。大衆操作するために “ブッダ・ブランド” を利用していただけなのです。

自分たち僧侶集団の繁栄のために仏教という言説体系をうまく利用していただけなのです。そして、実質的にはそれは今日でもそのまま続いているのです。

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「お盆」と「盂蘭盆経」

「大摩邇」所載の「ザウルスの法則」から一部分を転載。
これに続く部分では中国人に対するヘイト思想が書かれており、単なる偏見としか思えないので載せない。
ここに書かれた中にも偏見はあるだろうが、一応は学説や原典で確かめ、自分自身の頭で考えた内容だろうし、聞くべきところはあると思う。少なくとも、所与の状況をすべて疑問無しに受け入れるという家畜的態度よりははるかにいいと思う。
ただし、古来の社会的慣習については、周囲との摩擦を生まないために、「信じないが従う」という態度もひとつの理性的行為だと私は思っている。

(以下引用)



この“7月15日の盂蘭盆供養” は明らかに “仏教儀式” であり、その拠りどころは 「盂蘭盆経」(うらぼんぎょう) という仏典である。この仏典が当時日本に入っていたことは年表の 「659年」 からも疑い得ない。この仏典の伝来なしには、日本で盆供養は始まらなかったであろう。



 


この経典は釈迦の十大弟子の一人である目連と釈迦とのやりとりというかたちで “7月15日の盂蘭盆供養” の重要性を説くものである。


 当時の宮廷では 「盂蘭盆経」 に書いてある通り、律儀に7月15日に供養を始めたのである。つまり、この仏典は 「供養のマニュアル」 でもあったのだ。


 


しかし、日本において仏教が “葬式仏教” として成立していくうえでほとんど決定的な拠りどころとなっているこの 「盂蘭盆経」 という仏典は、実は中国で捏造されたものである疑いがあるようだ。 


ふーむ。それでは、飛鳥時代の天皇や聖徳太子や貴族たちが軒並みハマってしまったらしいその仏典、 「盂蘭盆経」 の全文をとにかく見てみようではないか。そんなに長いものではない。


 


「盂蘭盆経」 (全) 漢文和文対訳


 


 


上の「盂蘭盆経」をざっと見たら、


本論:「(2) “お盆” に見る 中国産 “産地偽装” 仏教に騙される日本人」  に進む



(2)“お盆” に見る 「中国産 “産地偽装” 仏教」 に騙される日本人

2020-08-15 16:50:05 | 歴史、考古学

(2) “お盆” に見る 「中国産 “産地偽装” 仏教」 に騙される日本人


  


 


「盂蘭盆経」 (全) 漢文和文対訳


 


すでに上記の 「盂蘭盆経」 はお読み頂いたことと思う。



 


いかがであろうか?


この捏造された文書は日本では、インドから中国に伝わって “漢訳” された “仏典” として約1500年間ほとんど疑われずに崇められ、読経されてきた。しかし今日、文献学的には偽経(偽造の経典)とみなされている。


 


 


21世紀の今日現在でも、特にお盆の時期には、この 「盂蘭盆経」  は、「お盆」 の由来、拠りどころとして日本の津々浦々のお寺の住職の法話で言及されたり、引用されたりしていることであろう。



実際、日本の仏教の僧侶がお盆に先祖供養の 「お勤め」 をして金銭物品を受け取る理由と根拠は、ほぼ1500年間、まさにこの 「盂蘭盆経」 という仏典の “絶対的権威” だったのである。


“日本の葬式仏教の拠って立つ土台” と言ってもいいくらいの確固不抜の “理論的根拠” であり、かつ “マニュアル” だった のである。


何しろ当の仏典の中でお釈迦様が死者への供養の仕方を、日付から盆に載せる食べ物まで懇切丁寧にこと細かに指示しているのだ。


しかし、その “周到なマニュアル的性格” こそ、インドのオリジナルの仏典らしくない怪しい点なのである。


 


しかし、葬式仏教にとって自らの存在意義、そして仏教学的根拠と思われていた当の最重要の経典が、今日の宗教学者や文献学者からは “偽経=捏造=フェイク” とみなされ、これはすでに “定説” となっている。


 


そして、これに対する有力な反論、つまり 「いや、そんなことはない、これはやっぱり本物だ!」 という反論は、仏教界でも歴史学界でも情けないことに皆無なのである。


 


おそらく、日本の “葬式仏教という業界” では、僧侶が 「盂蘭盆経は “偽経” である」 と口に出して言うことはずっと “暗黙のタブー” になっているに違いない。このタブーを破ることは、“業界の崩壊” につながりかねないだろう。


或る程度の知的レベルの住職たちは、この潜在的な問題に気づいているはずである。そして 「盂蘭盆経」 への不用意な言及が場合によっては藪蛇(やぶへび)になる危険性も考慮していることだろう。


 


この事例は何を意味するのか?


 


はっきり言おう。


 


ある国民が、何百年も何千年も騙され続けていることがあるということだ。


 



 


あなただけではない。 あの聖徳太子も騙されたのである。 斉明天皇も、持統天皇も、聖武天皇も、清少納言も騙されたのである。現代のザウルスの場合は 「何かヘンだぞ」 と思ってちょっと調べたら、真実がすぐに出てきたのである。一般常識とアカデミズムの情報較差は、ネット時代では素人でもその気になれば簡単に乗り越えられるのだ。


 


ふつうの日本人は、いくらネット時代になっても、自分で確かめようとしないので、皆ずっと騙され続けているのだ。これほどまでに何百年も何千年も騙されていても気がつかないのは日本人だけではないだろう。教育水準の低いアジア、アフリカ、南米の国々では普通のことであろう。


 


 


実際、この記事で客観的な証拠を挙げてこれだけきちんと説明しても、「まさかそんなわけないだろ」 と思いながら真実を受け入れることに躊躇する日本人の方が圧倒的に多いであろう。ここまで読んできているあなたはどうであろうか?


 


ザウルスは歯に衣(きぬ)着せずに客観的な事実を証拠とともに伝えるが、世間一般ではそうではない。この日本という国では、主張の内容が特定の産業や職業集団の利権を脅かす可能性がある場合は、ふつうは多少気を使って、目立った発表を差し控えるとか、表現を曖昧にするとか、なるべく断定を避ける表現にするとかして “忖度” をしているのだ。


なので、そうした “忖度環境” にあっては重要な事実が世間のほんのごく一部のひとには知られていても、無知で無関心な一般大衆には何百年も何千年も気づかれないということが実際に起こり得るのである。


 


ここまで言っても、まだ半信半疑のひとが圧倒的に多いであろう。そういうひとたちのために、さらに以下に、別の角度からの証拠を提示しよう。


 



 


釈迦の助言 にしたがい、7月15日” に仏教の僧侶に “供養” してもらった おかげで 目連の “母親” はその 罪を赦された” というのがこの “偽経” のストーリーではなかったか?


 


「盂蘭盆経」 (全) 漢文和文対訳


 



 


一皮むけば、“道教と儒教のてんこ盛り” ではないか?


 


ここまで見てくれば、もう明らかであろう。仏教伝来以来、葬式仏教の盤石の基礎であったこの 「盂蘭盆経」 は、6世紀の中国の僧の手になる “産地偽装” の “フェイク仏典” だったのである。


当時すでに行われていた 道教の死者供養の伝統 と 儒教の“孝”の精神 を、仏陀の優秀な弟子の話というでっちあげの仏典に巧妙に織り込んだのである。そうやって、中国の土着信仰(道教、儒教)を当時圧倒的な人気を博していた仏教の装いで無知な大衆にスムーズに受け入れさせようとしたのである。


そもそも “先祖供養” という要素は、インドで生まれた仏教には皆無である。“先祖崇拝“ という観念は、インドの原始仏教の “輪廻転生” の思想とまったく相容れない。


 


要するに、この偽作者の本当の目的は、ブッダの本来の教えを広めるためではないのだ。単に自分の属する僧侶集団の利益と繁栄のためである。だからこそ平気でブッダの教えとは無関係の話をでっちあげることができたのである。


当時すでに “伝説のスピリチュアルスーパースター” として絶大な人気を誇っていた ブッダ・ブランド” を利用しない手は無かったのである



ブッダのストーリーの “スピンオフ” を手持ちの材料(道教、儒教)ででっちあげ、無知な大衆を騙して引き込むのはたやすいことだったのだ。


経典を書けるというだけで当時はたいへんな知識階級に属しているわけで、そうした人間にとって、文字を読むことも書くこともできない人々をいかに大衆操作するかが一大関心事だったはずである。


 


しかし、6世紀のこの仏典の偽作者は、まさか自分の “でっちあげ” が日本にまで渡って、やがては 日本の葬式仏教の繁栄の礎(いしずえ)になろうとは夢にも思わなかったに違いない。


 


けっきょく、この捏造された仏典には、仏陀の教えなどかけらもないのだ。しかし、聖徳太子もこれが仏陀の本当の教えだと信じて疑わなかったであろう。 


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