忍者ブログ

モラルの発生基盤としての「閉鎖社会」

アニメのキャラをなぜ黒人キャラにしないのだ、という黒人からの批判に対する日本人アニメオタクたちの反応が黒人差別どころか黒人憎悪に満ちた地獄のような状態になっているのだが、その中で面白い指摘だな、と思ったのがこれで、これはかなり現実に即しているように思う。もちろん、この範疇に入らない個人もたくさんいるだろうし、アフリカなどは戦乱が多くて文化が未熟のままで教育が普及していないという不運さがあったと思うのだが、このコメントにあるようなメンタリティが一般にあるというのは事実のように思える。
モラルが発達するには、ある程度の「閉鎖性」が必要な気がする。犯罪をやっても即座にどこへでも逃亡できるという世界ではモラルは成立しないだろう。自分で生産するより盗む(あるいは殺して奪う)ほうが楽なら真面目に働くはずがない。ユダヤの非モラル性も、彼らが国家の閉鎖性に縛られていないからではないか。つまり、グローバリズムが彼らの本性なのである。アフリカの黒人との違いは、彼らが知力と学問と商法という武器で完全武装していることだ。

(以下引用)

187名無しのアニゲーさん :2022/05/02(月) 21:56:09 ID:- ▼このコメントに返信
※100
有名なのが井戸・水路・学校と言った日本からの支援の話
あいつらは施しを受けて当然、なぜなら私たちは世界の奴隷制度の被害者なので世界からその罪滅ぼしに施しを受けるべきなのである、と考える
その上で自分さえ儲かればいいという土人の層が一定数いるので部品なんかはすぐ盗まれるか壊される、学校なんか運営が出来なくなる
だからいつまでたっても「エンターテイメントレベルの」支援が何度も何度も何度もテレビなんかで扱われてきた

拍手

PR

愛と正義

前に引用したブログの或る記事タイトルで、記事の内容は忘れたがタイトルが面白いので考察対象にしてみる。

(以下引用)

「愛」は「正義」の代替となるか?(読書メモ:『新版 現代政治理論』)


(引用終わり)

まず、「正義」とは何か、と言えば、「正」は論理的な正しさで、「義」は倫理的な正しさ、そして「正義」は論理的にも倫理的にも正しいということだと定義しておく。
だが、その「正義」と称するものが実にいかがわしいものであり、「自己正当化」の手段にされていることがあまりに多いというのは周知のことだろう。これは子供には「教えてはいけない」、常識ではない「常識」だ。ついでに言えば、「嘘をついてはいけない」と大人は子供に教えるが社会は嘘で成り立っている、というのも常識ではない「常識」だ。それを知らないままに社会に出てひどい目に遭う若者も多いだろう。学校というのは社会とは別のルールの世界で、子供はそこで悪い意味で純粋培養されるから社会に出て苦労するのである。
さて、本題の「愛は正義の代替となるか」だが、この一文だけでは判断不能な問いかけだろう。一般論として「愛は正義の代替になる」と断定できると思う人はあまりいないと思う。つまり、犯罪に対して罰を課したり復讐したりするのではなく、「許す」ことをこれは意味しているかと思う。それどころか、その自分に害を与えた存在である「敵」を愛することを、この命題は意味しており、そんなことができるのはキリストくらいだろう。全人類にそれができるなら、そもそもすべての悪は最初から消滅するわけだ。まあ、事故はあっても犯罪は無い社会になるだろう。
現実社会ではそれが不可能だから法があり警察があり裁判所があり刑罰があるわけだ。
もちろん、特殊な場合として愛が正義の代替になることもあるかもしれない。しかし、それはあくまで「個人的なもの」であって、社会全体にそれを要求することは不可能なはずだ。

ここで、改めて「愛とは何だ?」と考えてみる。古いジャズの歌に「愛とは何でしょう」とあったが、私の考えでは、愛の対象となるものを大事な、大切な存在と思うことである。それが最大に達すると、自分自身の生死より相手を大切に大事に思う場合もあり、それが古来、さまざまな芸術作品のテーマになってきた。ちなみに、世間で誤解されているが、自分の欲望のために相手を支配下に置き、その欲望の対象とすることは愛でなく、ただの我欲であり、性的には獣欲である。愛は対象を大切に思うことが本質だから、それを害する行為はできるはずがない。
さて、愛をそういうものと考えた場合、「愛は正義の代替になるか」という問い自体が無意味化するのではないか。最初から「土俵が違うだろう」という感じだ。たとえで言えば、レスリングや相撲で戦うべき場合に、歌を歌い出すようなものである。正義とは「闘争関係、利害関係の調節指針」であって、「お前に給料をやることはできないが、お前を愛しているから我慢してくれ」という経営者の下で働く労働者はいないだろう。まあ、要するに「愛は正義の代替にはならない」と言えるのではないか。




拍手

哲学の「普遍的思考」と思想の「普遍主義」

世界が唯一絶対の秩序をもち、したがってこれを正しく捉える唯一絶対の観点が存在するはずだ、と考えること、これをあえて思考の「普遍主義」と呼ぶことはできる。(中略)哲学の普遍的思考とは、さまざまな共同体を越えて共通了解を作り出そうとする思考の不断の努力だが、思想の「普遍主義」とは、唯一絶対の観点が存在するという一つの独断的信念にすぎない。(竹田青嗣「プラトン入門」より)

まあ、これ(上記の引用された言説全体)も竹田青嗣の独断的信念かもしれないが、確かに、「主義」化した思考はすべてドグマ(狂信)になる、あるいはドグマに近いものになる、という用心は世界を認識しようとする者(哲学者)には必要だろう。そして、そのドグマの中でも上に書かれた「普遍主義」は、あらゆる宗教の土台であり、狂信の土台であるわけだ。しかも、それは哲学でもあまりにしばしば生じるのである。その信仰や信念に自らを投企する勇気こそが偉人と凡人を分けることもあるだろう。ただ、竹田の定義による「普遍的思考」は常に自分の思考を疑い確認する作業が絶対的に必要であるのに対し、「普遍主義」は最終的にはその懐疑と確認を打ち切ることで成立することから、前者は哲学の支柱となり、後者は主に宗教となるのだろう。

拍手

「唯物論」とは何か

前に載せた「ふたつの唯物論」の中の紙谷氏の文章である。

(以下引用)


左翼や共産主義者というのはいつもこの世に不平を鳴らしているのだからさぞ世界は灰色にしか見えないだろうと多くの人はおもうだろう。
 さにあらず。
 世界が美しいと底なしに確信しているからこそ、それを抑圧するものへの厳しさは人一倍だといえる。 ピカソネルーダが共産主義者だったことには、それなりにワケがある。




 意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。




「こんなに世界は美しいのに
 こんなに世界は輝いているのに……」




 荒れ狂う王蟲の群れをぼんやりと見ながら、ナウシカは疲れたようにつぶやく。




(引用終わり)

最初に読んだ時から私が違和感を感じたのが

 「意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。」

という紙谷氏のこの「唯物論の定義」である。
まあ、昔の書き飛ばした(失礼)文章の重箱の隅をつつかれても迷惑だろうが、これは哲学的に大きな問題というか、問題のある発言だと思うからここで問題にするわけだ。
一応、手近な辞書で「唯物論」の解説を探してみると、

物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。(「新明解百科語」三省堂)

とある。まあ、これが常識的な唯物論の定義だろう。
では「愛」はどのように物質に還元されてとらえられるのだろうか。世界を美しいと感じるその感情はどのように物質に還元されるのだろうか。つまり「美しい物質」と「美しくない物質」があるのか、それともそれは見る人の心という「物質」のメカニズムで作られる現象なのだろうか。そもそも、心とは存在するのか。精神はいずれすべて物質に還元されるのか。
他者への畏敬や可愛く思う気持ちもすべて物質的現象なのか。
私には、紙谷氏とはまったく異なり、唯物論とは「すべてただの物質だ」という「世界の軽視」「人間の軽視」「精神の軽視」にしかつながらないように思える。

ナウシカははたして「唯物論者」なのだろうか。


















拍手

「レーニンの笑い」の謎

「レーニンの笑い」についての中沢新一の解釈を「行き過ぎた解釈」だと私は書いたが、その確認をしておく。
その前に、私自身の「笑いの機序」についての所説を書いておく。

笑いとは、「驚き」と「安心」(場合により、それに続けて「自己反省」と「自己防御意識」)の連続が身体症状(表情や笑い声)となったものである。ベルグソンが言っているらしい「緊張と緩和」もそれに近いが「驚きと安心」の方が現実に近いと思う。驚きが現実の危機となると、それは「恐怖」になり、驚きが安全な種類のものだと分かると安心して笑いとなるわけだ。たとえば、道で転んだ人間を見ると我々は驚く。だが、その相手が安全だと分かるとその「転んで威厳を無くした相手」への「笑い」が生まれる。ところが、転んだ相手が動かないとなると、笑いどころではなくなるのである。


で、中沢新一の文章(紙谷氏による要約を含む)を再引用してみる。元の文章では二か所になっていたのを連続させて把握を容易にしておく。

(以下引用)

 レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
 そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
 海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。




 「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」




 これはトロツキーレーニン伝に出てくる一節である。
 中沢はこう記す。




レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」




 これぞ唯物論である。
 レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。




 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。




 しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)



「実践する人間の意識は、自分の外にむかって踏み出していく。なじみのない不気味な異和の感覚が、意識の尖端に接触し、そこをあらっていく。意識は意識ならざるものに触れながら、自分の形態を、たえず変化させていく。この実践は無限につづく。しかし、実践の波頭では、意識は客観に変容し、客観の中から、新しい意識の形態が、たえまなく発生している。そのとき、レーニンのあの笑いがよみがえってくるのだ。ドリン・ドリン!……だから、レーニン唯物論は、笑いとしての哲学なのだ。彼がマッハ主義を攻撃するのは、それが笑わないからだ。観念論は、子供の頭をなでることができない。それは、犬の腹をなでるとき、意識のなかに、絶対的自然が優しい侵入をはたしていることが、わからない。そのとき、レーニンの手のひらに触れているものを、経験の要素だと言うならば、彼のからだにあの笑いの波は、おこらない。ニーチェの言う『神的な笑い』を知ることができない。意識の外にある客観的実在だけが、人間を心の底から、笑わせることができる」(中沢)



(引用終わり)

最初の部分には(いや、中沢の文章の引用全体に)どこにも「レーニンの笑い」そのものの描写が無いのである。紙谷氏が省略したのか、中沢の本にその記述が無かったのかは不明である。だが、「ああ、ドリン、ドリン! これだ、これだ」がなぜ「レーニンの笑い」となるのかを書かないと、紙谷氏の文章全体が破綻するのではないか。

次の文章が中沢氏による「レーニンによる『笑い』の定義」かと思われるが、それが行き過ぎた解釈であるのは明白だろう。もし彼が言う通りなら、新しい事物に出会った人間は四六時中笑いっぱなしとなるのではないか? そんな人間(もしいたら多幸症というキチガイだろうが)などどこで誰が見たことがあるだろうか。

(以下引用)

 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。

拍手

「ふたつの唯物論」の考察

「ふたつの『唯物論』」というか、紙谷高雪氏の文章について、あるいはその文章で論じられている草草についての考察をするが、まあ、原文との細かい照合は面倒だし、私はここでは「印象」で論じるつもりなので、以下の文章に原文との不適合がある可能性は高いだろう。
最初に、「解釈」についてのS・ソンタグの言葉を引用する。と言うのは、紙谷氏の文章そのものが「レーニンについての中沢新一の解釈についての紙谷氏の解釈」であるからだ。とすると、それは「誰の思想」なのだろうか。それを「正確に論じる」ことがどれほどの意味を持つのか、ということになる。「レーニンの笑い」の意味(解釈)など、明らかに中沢新一の「度を越した解釈」だとしか私には思えない。

(以下引用)

「解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)」(ソンタグ『反解釈』)

(引用終わり)

まず、「ふたつの唯物論」の間の論争だが、驚かされるのは、こういう議論が初期ソ連の指導層内で大真面目で論争されていたことだ。それが革命や政治とどういう関係があるのか。どれだけの重要性があったのか。私には単に「どんな知的論争であれ相手に負けたくない」というインテリたちのプライドのぶつかり合いにしか見えない。つまり「哲学において相手より上だと証明できたら、それは自分のすべての知的優位を立証する」という思考が存在したのではないか。それは当然、政治的闘争でも「こちらのほうが知的に優れているのだからこちらの言い分に全員が従うべきだ」となるわけである。私はスターリンなどがこういう論争に積極的に参加したとは思わない。それだけの教養は彼には無かっただろう。しかし、政治力や実行力(テロを含む)では彼は他の指導者たちより勝っていたわけだ。
で、「ふたつの唯物論」については私はレーニンの考えに近いが、それが「共産主義」と関わるとはまったく思わない。紙谷氏とは正反対であるわけだ。共産主義化することで、人間はこの世界とより密接に関わり幸福になるとはまったく思わない。ソ連は「本物の共産主義」ではなかったとしても、それに近い政治体制だったことは事実だろう。で、人々はそこで幸福だったか? 世界とより関わり、その幸福さを芸術などに表現したか? まったく、ゼロである。
当たり前の話だ。たとえば小説などは「主に現実の不幸や矛盾を題材にする」ものだ。プロレタリア作家にとって「現実の幸福を描く」小説などブルジョワ芸術視され軽蔑されるだろう。では、プロレタリア小説家は、革命が成功したら何を描くのか。「共産主義体制下の不幸や矛盾」を描けるか。描けるはずがない。描いたら国家反逆罪で投獄されるだろう。現にソ連ではそうなった。では、共産主義政府の下での「幸福を描く」か? そんなのは見たことが無い。あっても、北朝鮮のマスゲームのような愚劣な仮装にしかならないだろう。
とりあえず、唯物主義社会は別に共産主義だけではない。むしろ資本主義社会こそ唯物主義の極致だろう。しかし、そこでは宗教もビジネス(生活の資)として堂々と存在できる。つまりビジネス最優先社会とは、下劣極まりないものもビジネスとして存在できるし、高尚なものも存在できるわけだ。それを「自由主義」と言ってもいい。もちろん、上級国民の自由は最大限で下級国民の自由は最小限であるが、共産主義国家よりはマシだろう。(ここで言う「共産主義国家」は理想としてのそれではなく、「現実に近い」共産主義国家である。)


拍手

ふたつの「唯物論」(続き)


 ぼくは、S.ソンタグの次の一節を思い出さざるをえない。


「解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)」(ソンタグ『反解釈』)


 


 

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

 

 


 


 レーニンは、ヘーゲルを学びながら、このドイツ観念論哲学の泰斗が形式論理学をのりこえ、この客観世界の矛盾に満ちた、複雑で豊かな面白さを記述しようとしたことにびっくりした。「これは観念論なのか?」と。レーニンはノートにこう書きつける。


「客観的観念論は(そして絶対的唯物論はいっそうそうだが)まがりくねり(そしてとんぼがえりをうって)唯物論のすぐ近くへ近づき、部分的には唯物論に転化している」


 しかし、さらに「はじまりの哲学」であるギリシアの原初的な自然哲学を学んだレーニンは、ヘーゲルにすら「近代知」の小賢しさを見てしまう、と中沢は言う。このあたりは“中沢節”とでもいうべきものであるが、ヘラクレイトスが世界をみて、「永遠に生きる火」だと表現したことは、とりもなおさず、世界のこの豊かさ、底なしの深さを、ざっくりと表現したものだと中沢は見た。それをレーニンは感じ取ったというのである。


ヘラクレイトスにおいては、みずみずしい複雑な運動をはらんでいた『永遠に生きる火』が、ヘーゲル風には、たんなる『不断の生成』という、学校風の概念につくりかえられてしまう。古代哲学者の語る『火』には、闇の中から立ち現れるもの、存在(有)にむかって立ち上がってくるもの、というような新鮮な運動が感じられた。それが『有』とか『非有』という概念をもって語られてしまうと、その『立ち現れ』という言葉にこめられていた、深い意味が消失してしまっているように(レーニンには)思われた」(中沢)



「何かが見えなくなっているのだ。ヘラクレイトスには見えていたものが、近代の思考には見えなくなっている」(中沢)


 


 「闇」「永遠に生きる火」といった宗教学者・中沢らしい、神秘めいた言葉で彩られてはいるが、中沢自身がそこに意識とは独立した客観世界の底なしの豊かさを見るのである。
 神秘の観念がうまれるのは、客観的物質世界がどこまでいってもくみつくせないからである。
 ところが、近代知は、それを経験や感覚のなかにおしこめ「解釈可能」なものに変換してしまおうとする。その底なしの闇の不安から、一刻も早く逃れるために。その粗雑な不良品が主観的観念論である。


 しかし、ヘーゲルでさえ、その近代の思考慣習から逃れることはできなかった。
 ヘーゲルは、この豊かで複雑な弁証法を、学校勉強風の概念になんとかおさめようとし、「精緻」な体系をつくってしまった。この体系こそ、ヘーゲル哲学の全体性という大伽藍を構成しており、多くの人をそこに平伏させたのだが、同時に、多くの人がそこから反逆していくことになった。


「…ヘーゲル的『精神』には、底がある。はじまりの哲学におけるピュシス(自然)やゾーエー(生命)には、底がなかった。そのために、存在と生は、たえず不思議な暗さのなかに没していく衝動を潜在させていた。『精神』には、その暗さがない。そのかわり、構築の堅固さへの自信がある。ヘーゲルの場合、その堅固さの感覚は、ブルジョア世界に特有な、明るさと堅固さへの、『その日暮らしの根拠のない自信』(ハイデッガー)によって、ささえられているのだ」(中沢)


 


ブルジョア哲学は、西欧形而上学二千年の歴史を背景にしてつくりだされた、堅固なディスクールの体系をなしている。しかし、それは、存在の底、根拠についての、特有の臆病を特徴としている。そのために、それは、美しい牛の心臓に素手をつっこんで、個体の主観である生の形態を破壊して、その内部から立ち現れる、絶対的な客観であるゾーエーの力強い露呈に、身をさらそうとはしないのだ」(中沢)


 レーニンは、しかし、ヘーゲルを学ぶことによって、のちのソ連流の「弁証法唯物論」、意識が客観の単純な反映であるということに通じるような議論、すなわちフォトコピー論を拒否するのだ、と中沢は言う。


「実践する人間の意識は、自分の外にむかって踏み出していく。なじみのない不気味な異和の感覚が、意識の尖端に接触し、そこをあらっていく。意識は意識ならざるものに触れながら、自分の形態を、たえず変化させていく。この実践は無限につづく。しかし、実践の波頭では、意識は客観に変容し、客観の中から、新しい意識の形態が、たえまなく発生している。そのとき、レーニンのあの笑いがよみがえってくるのだ。ドリン・ドリン!……だから、レーニン唯物論は、笑いとしての哲学なのだ。彼がマッハ主義を攻撃するのは、それが笑わないからだ。観念論は、子供の頭をなでることができない。それは、犬の腹をなでるとき、意識のなかに、絶対的自然が優しい侵入をはたしていることが、わからない。そのとき、レーニンの手のひらに触れているものを、経験の要素だと言うならば、彼のからだにあの笑いの波は、おこらない。ニーチェの言う『神的な笑い』を知ることができない。意識の外にある客観的実在だけが、人間を心の底から、笑わせることができる」(中沢)


 ああ、まことそのとおりである!


 左翼であるぼくらは、方針文書や理論をなぞって現実におそるおそるふみだしてみる。
 その方針と理論とちがった、あまりにも豊かで複雑で、みずみずしい現実が、ぼくらの意識にやさしい侵入をはたしたとき、臆病な左翼はびっくりして引き返してしまう。
 しかし、真の左翼は、なにがおころうがそこから実践へ、客観的世界へとわけいっていく。
 そうやって、客観的世界にわけいったものだけが、「笑う」ことができる。
 そのとき、当初想定していた理論や方針を、まったくみずみずしい、思いもよらない新たな言葉でよみがえらせる場合もあるし、たんにその理論が貧しい抽象であったことを暴露する場合もある。しかし、いずれにせよその人たちは「笑う」だろう。それは本当に唯物論の立場に立って、現実にわけいったものだけが味わうことのできる「笑い」である。


 そのときはじめて左翼は――いや左翼にかぎらず、人は、世界を「美しい」と思うことができるのである。



拍手

カレンダー

02 2025/03 04
S M T W T F S
8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析