まあ、私が些細な物事を考えるのが好きだ、というのに似ているかもしれない。些細なことが何かの本質を示している可能性もあるわけだ。
(以下引用)
主人公はじめ登場人物が常に悩んでいることなんです。
真面目に、くだらないことに、真剣に!
例えば、
不良になるにはどうすればいいか?
なぜ自分に悪名高いあだ名がないのか?
ワルとは何か?
乗り物酔いとは何か?
なぜ番長が乗り物酔いで吐いてはいけないのか?
人間とは何か?
普通とは何か?
支配とは何か?
最強の男とは何か?
存在感とは?
名前とは何か?
笑いとは何か?
将来とは何か?
全て根源的な問いなんですね。
普段の生活では後回しにしておきたい自分の存在意義、存在価値。
そんなものを真剣に問う、普段は封じ込めている自分が生まれ存在している意味とかいった、
見ないで済ませたかった悪魔的なものをも開け放つ。
そんな対話の連続。
究極の対話を繰り返すのが、クロマティ高校の全てなんです。
あるとき、学校にゴリラが現れます。
林田が発見し、前田と神山で確認しますが、めっちゃガン飛ばしています。
普通こんな場合には、「なぜ、学校にゴリラが紛れ込んでいるのだろうか?」と考えるのではないでしょうか?
並みの漫画では、動物園から抜け出してきただの、誰かが家から連れて来ただの、といった説明的なエピソードから物語を作り出そうとするでしょう。
クロ高は違います。
正解は、
見た目は明らかにゴリラだが、
「ここにいるということは、このゴリラもクロ高の生徒ではないか?」
です。
ここから話を始めます。
さらに、
「腕時計をして携帯電話をかけているのだからゴリラではなく人間ではないか?」
「限りなくゴリラに見えるが、異様に毛深い人なのではないか?」
「ゴリラと人間をどう判別すればいいのか?」
視覚的にゴリラだ!と認識しているにも関わらず、
周辺状況から検討してみると安易にゴリラとは言い切れない、
むしろゴリラって判断は誰が決めたのか、です。
林田、前田、神山による熱い議論が始まり、最終的な結論は、
人間とゴリラを分かつものは行動様式と知性であるのでは?
という仮説に至り、その検証実験を開始します。それが内容。
これなどは一体全体、「少年マガジン」という想定読者年齢小学校高学年~高校生くらいでやる議論なのでしょうか、、
確かに、思春期を迎えた中学生ぐらいの年代には、「自分の生きる意味って何?」とか「自分の価値って何?」とか、圧倒的に大きな外部世界と小さな自分中心の自問自答が繰りかえされる時期ではあるでしょう。
いや、ひょっとするとそういう少年向けにあえてハイブローな哲学議論をぶっつけているのかもしれません、鉄は熱いうちに打て!というマガジン編集部の親心なのでしょうか。
しかし、
ここで中心に議論されていることは、
人間と野生を分かつものは何か?という極めて形而上学的な議論なんです。
形而上学(けいじじょうがく)とは、物事の本質とか存在とか実在、普遍性とか因果律とか関係や属性といった物質そのものではなく物質を成り立たせる仕組みを考えることです。
これは、近代哲学の父といわれたエマニエル・カントが、18世紀中ごろに
「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」においてやった議論ですね。
この本のタイトルが理性批判とついているので、なんだかめんどくさく怒られそうなタイトルの印象ですが、内容的には純粋理性分析、人間の理性ってなんだろうです。
カントがやったのは、人間はどうやって物事を知ることができるのか?です。
たとえばレストランの店先にあるようなエビフライ定食のサンプルを見たとき、それが本物のエビフライではなく、蝋でできた精巧なエビフライサンプルだってことが、わりとすんなり解るのはなぜか?です。
まず、エビフライという美味しい食べ物だということは、過去において食べたことがある、美味しかったという経験に基づいています。
黄色い棒状のモノから突き出した赤い三角を視覚的に捉えるという感性
→受動的直感による認識の素材の獲得です。
このパン粉を揚げたときのフライ衣の質感と赤白まだらのエビの尾びれからこれはエビフライ!と認識する悟性
→能動的な思考判断による法則の把握ですね。
次にそれが日の当たる店前の外部ショーケースに入れっぱなしになっているから、普通なら腐るか乾燥してくるはずだから、、これはサンプルだ!と判断する思考
悟性とは物体をそのまま知覚分類しているだけではなく、現象を思考判断することから生まれる認識です。
感性から悟性へ。
これらの一連の流れから物事を知っているのだ、というのがカントの議論です。
そして、エビフライを食べたことがあるから料理と認識できるのですが、
一度もエビフライを食べたことがない人でも認識できる部分もある。
黄色い棒状物体から突き出た赤い三角が皿の上に載っていること。
「何かが載っている」
というところまでは、経験なしでも分かる先天的認識であり、これをア・プリオリと呼び、時間と空間を根本形式としました。
この経験無しでも分かる認識→経験から獲得する認識→状況から判断する思考→思考から判断する認識
という流れに乗らない認識についてはどうするのか、
例えば、エビフライを食べることは正義か?
美味しいとはどういう意味なのか?
エビフライとエビフリャーはどちらが正しいのか?
もし世界がひとつのエビフライだったら?
といったような、知覚的現象に属さない形而上のことを取り扱うのが理性なのだ。
理性をめぐらせることによって感性で感知できないことや、悟性で判断できないことでも思考することが可能なのだと結論付けたのです。
エマニエル・カントはドイツ観念論哲学の祖と言われており、
この流れがヘーゲルやハイデッガーなどにも繋がっています。
そのカントがおこなって以降200年間誰もおこなっていなかった、人間とは何か?
について触れたのが、フッサールの弟子であったマックス・シェーラー。
そして、「魁!!クロマティ高校」です。
これが1巻早々に出てくる根源的な議論のひとつです。
つづく、相当つづく