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「戦争」というもののホッブズ的定義

「副島隆彦の学問道場」で知った「めい」という人の個人ブログ記事の一部だが、ホッブズの「リヴァイアサン」の中に、これほど痛烈な、そして真実を射抜いた言葉があることを初めて知って、この人のブログもとりあえず「お気に入り」に入れたが、それは「リヴァイアサン」を読んだ人を尊敬するというだけのことで、めい氏の思想や思考の在り方にはさほど共感していない。
特に私はデカルトを、尊敬する思想家のベスト3に入れている人間なので「デカルト的呪縛」という失礼な言い方には反発せざるを得ない。
「自我」というものを「存在しない」と見る「めい」氏から見れば、デカルトは思想的敵なのだろう。だが、自我の存在しない人間とは人間ですらない。単に、我々の精神や「自己認識」は相互関係で変動するだけで、それは自我が存在しないなどという馬鹿な結論にはなるはずがない。つまり「デカルト的呪縛」とは、勝手に自分で自分を呪縛するだけの話である。デカルトとは何の関係もないことだ。
だが、下に引用した中で、ホッブズの言葉(赤字にする)は熟読玩味する価値がある。
「力と欺瞞は戦争状態における二つの主要な美徳である」とすれば、資本主義とは「資本家の消費者への恒常的戦争状態」でもあるわけだ。DSが全人類の99%の敵である所以だ。

以下引用)

「デカルト的呪縛」からの解放 [思想]


4年前、平成14年2月21日に正気煥発板に書いたものを転載しておきます。
私が大好きな川喜田二郎氏の一文も入っていますので。


(転載はじめ)


「構造改革」とセットで語られる「努力したものが報われる社会」という言葉に違和感を感じます。いま「努力」というとき、朝から晩まで働く勤勉さを意味しない。そうやっていても首を切られるときには切られてしまう。夫婦、家族、さらに親族まで巻き込んで身を粉にして働いてきたのに、今いよいよ厳しい状態に追い込まれている自営の友人も身近にいます。まっとうさが取り柄の友人です。時代の波といえばそうかもしれないが、結局、声を荒げて人を押しのけて進むことのできる人間が幅を利かすような世の中になりつつあるのではないか。祖父の代からの選挙地盤を受け継ぎ、「努力」とはあまり縁のなかったような小泉首相の口から出るその言葉は、いかにも白々しく聞こえます。


戦後、経済発展による基本的欲求の一応の充足は、「貧しさ」からの脱却と抱き合わせだった「上昇志向」からかなりの日本人を解放したように思えます。「一億総中流」となった時点で、「上昇志向」は、全体からすればごく限られた「野心家」に限られるようになった。「努力したものが報われる社会」の掛け声は、「野心家たれ」との叱咤激励とも聞こえます。果たしてそういう社会が「いい社会」なのかどうか。



ホッブズは言います。
戦争状態とは戦闘行為が行われている状態のみをいうのではない。争おうとする意志が示されていれば、それは戦争状態といえる。すなわち、戦争の本質は、《平和》へと向かう意志のない状態にある。それは、悪天候とは一度や二度の土砂降りを指すのではなく、雨の降りそうな日が幾日も続く状態をいうのと同じである。≫
≪各人の各人に対する戦争状態においては、正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。共通の権力が存在しないところには法はなく、法が存在しないところには不正はない。力と欺瞞は戦争状態における二つの主要な美徳である。
≪戦争状態においては、各人が自分で獲得し得る物だけがその人の物であり、しかもそれは、それを保持しうる間だけに限られる。≫(「リヴァイアサン」第13章)


ホッブズによればそうならないための歯止めとして持ち出されたはずの「権力(国家意志)」が、今の日本では、経済のグローバル化にあわせて、むしろその歯止めを取り払う方向に動き出している。ホッブズが「観念」として想定していた社会を「現実」化しようと躍起になっている。「いい社会」とは、こうした方向とは対極にあるのではないでしょうか。


以前も引いたような気がしますが、「あー、この感覚なんだ」と気づかせてくれた文章があります。川喜田二郎著『「野生の復興」デカルト的合理主義から全人的創造へ』(祥伝社 平成七年)の終章です。


  *   *   *   *   *


・・・・・管理社会の中で育った個人主義者は、他人を押しのけてでも自分が上に立ちたいという権力欲の虜になりがちである。親子・夫婦・友人たちとの、もともと持ち合わせた素直な人間らしさよりも、この権力欲を最優先する。そうして、それがもともとの偽らない人間性だと信じ込みたがる。
・・・・・文明の毒気に当てられてもけっして崩れない、鍛えられて逞しい素朴人を、いかにして育て、保護するか・・・
・・・・・(自分にとって未知なひと仕事を、白覚的に達成することによって、人の心は)この世が瑞々しく見えてくる。青春が甦る。
 馥郁たる香りがどこかから匂い、万物に愛と不思議を感ずる。利己心も利他心も、それぞれが大切な大自然からの授かりものと感ずる。どんなに状況が変わっても、その状況の中で主人公でいられる。しかも「私は山川草木のひとつである」という、言いしれぬ謙虚さを覚える。
 自分のことを、ごく当たり前の人間だと感ずる。たとえば、死ぬことはひじょうに怖い。なぜなら、もともとそう怖れるようにこの世に送り出されたからである。ただ、死ぬのは怖くても、そのくせあまり生命に執着していない。   
 それはどうやら、自分が死んでも、私を包んでいた大きな伝統体は、まだまだ生き続けていてくれるからである。
 なんと、これが安心立命というものに近いのかもしれない。
 ただ、私が今ハッキリ言えることは、誰もがあのヘゲモニズム(常に他より上を目指してやまない覇権主義)の地獄から抜け出し、それぞれに安心立命を得た方がよいということである。
 このような内面体験の一つの大きな特色は、もはや「自我」という固い観念の穀を内側から叩き破って、広い世界の自由で新鮮な空気を深々と呼吸していることなのである。
 「自我」ではなく、知・情・意いずれをも備え、肉体そのものである「己れ」として生きている。
 しかもその「己れ」は、そう自覚した方がよい場面でだけ存在するのであって、それが必要でなくなったら、いつでも「己れ」を退場させてしまう。つまり「己れ」は実体ではないのであって、方便として存在するだけなのである。     
 眠くなったら、「己れ」などなくなってしまう。仕事に打ち込んだら無我の境地になる。彼女に首ったけになったら、我を忘れる。何かの使命を感じたら、献身をも恐れない。こういったことは、誰でもよく知っているではないか。
 ならば、それを正直に受け容れたほうがよいのではないか。        
 文明は不幸なことに、方便としてしか存在しない「自我」という観念を、何か固定した実体のように錯覚させてしまった。そうして、それによって、一方では「自我」の消滅におぴえつつ、他方では留まることをしらぬヘゲモニズムという奇形児を生んでしまったのではないか。


   *   *   *   *   *


私は、「戦後教育の見直し」の最終の射程を、「方便としてしか存在しない『自我』という観念を、何か固定した実体のように錯覚」してしまうこと、すなわち「デカルト的呪縛」からの解放まで考えたいと思っています。「デカルト的呪縛」に囚われて上の文章を読むと「宗教的」と言われる事になりそうです。


「大東亜戦争肯定論」に対して厳しい評価を下す「諸君!」の長尾龍一氏の文章読みました。
「長尾龍一」で検索して下の文章を見つけました。


   *   *   *   *   *


長尾龍一「リヴァイアサン」講談社学術文庫 1999.5.3
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 読書のよろこびの一つには、日頃漠然といだいている思いに明確な言葉を与えてくれることがあります。この「近代国家の思想と歴史」の副題を有する「リヴァイアサン」はまさしく、そうした一冊です。
 著者の立場は「はじめに」において次のように宣言されます。


≪世界の部分秩序である国家を「主権」という、唯一神の「全能」の類比概念によって性格づける国家論は、基本的に誤った思想であり、また帝国の「主権国家」への分裂は、世界秩序に責任をもつ政治主体の消去をもたらした、人類史上最大のあやまりではないか≫(p6-7)


 著者はこの立場をホッブス、ケルゼン、シュミットの三思想家によりながら、明らかにしてくれます。とくに、著者の最も共感できるケルゼンの思想は興味深く、かつ分かりやすく説いてくれます。
 著書は二部に分れ、第一部の「国家の概念と歴史」を読むと、「主権」や「民族」といった考えが、近代の国際政治の中で登場してきた新しい考えであることに、今更ながら驚きます。
 著者が引用するケルゼンの次の言葉は最近の愛国者、民族主義者、狂信者に聞かせたやりたいですね。たぶん無駄でしょうけれど。


≪未開人は特定の時期に、祖先の霊の化体したものであるトーテムの聖獣の面をつけて、ふだんは厳しく禁じられている行為を許される。これと同様に文明人も、神や民族や国家の仮面をつければ、私人としては小心翼々として抑制しなければならない衝動を大っぴらに満たすことができる。個人が自慢すれば軽蔑されるが、自分の神や民族や国家は公然と賛美することができる。ところが、これも自己の慢心を満足させているにすぎない。また私人としては他人を強制し、支配し、さらに殺すことはけっして正当化されないが、神や民族や国家の名のもとでなら、至上の権利としてこれらをなすことができる。神が彼にとって「我が」神であり、民族が「我が」民族であり、国家が「我が」国家である理由はまさしくここにある。彼は神・民族・国家を愛し、それと自己とを同一化しているのである。≫(p233)
http://www.iscb.net/mikio/9905/03/index.htm




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自由への欲望(リベラリズム)とその集団化

遍照飛竜氏(混沌堂主人)がよく引用する「戦闘教師ケン」氏のブログ記事の一部で、面白い指摘があるので転載する。なお、ケン氏と私は政治的意見が異なることが多いが、氏の頭脳の明晰さと知識の深さは尊重している。で、氏が言う「華東」とはどこを指すのか、気になる。中華(中国)の東部なのか、中国の東に位置する日本のことなのか。大学か高校の教師と思われるが、正体不明なので気になるのである。

(以下引用)赤字部分は夢人による強調。ただし、全面肯定する意味ではなく、興味深い意見だということである。リベラリズム=個人主義ではないだろうし、たとえばテロリスト集団なども集団的リベラリズムの一種と見ることも可能だろうwww 自分の自由(法で縛られるもの)を守るためなら邪魔な連中を殺戮するわけだ。アメリカなどは、そういう「テロリスト的リベラリズム」の国家版、つまり集団化だと言えるのではないか。要するに「リベラリズム=個人主義」ではない。個人を組織と重ね合わせる「集団(共同)幻想」はどの集団でもあるものだ。国家もそのひとつだろう。

ところが、本来のリベラリズムは個人が個人であることを保つために、強大なパワーを抑止あるいは誕生させないことを旨とするもので、本質的にはナショナリズムやデモクラシーとは相性が悪いはずなのだ。
例えば、アメリカで個人武装が認められているのは、本来的には常備軍を持たないことを前提としたもので、同時に「国家の軍隊」に対する先天的な不信感に基づいている。国家の武装は個人の自由に対する脅威でしかないからだ。それは、現在の日本の(デモの武装鎮圧を前提とした)自衛隊を見ればわかるだろう。

21世紀に生きる我々は、むしろ19世紀の原点に帰って、ナショナリズム、デモクラシー、リベラリズムなどを疑ってかかる時代に生きていると見るべきだ。
これらを盲信する連中は、「共産主義以外など考えられない」というソ連人と同じ過誤に陥っていることを自覚すべきなのである。

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女性と恋愛と冒険性

別ブログに書いた過去の文章を幾つか読んでいるうちに、これは我ながらいい考察だな、と思う記事があったので、自己引用しておく。

(以下引用)

女性と恋愛と冒険性

小谷野敦の「聖母のいない国」の中に、女性は「男女関係のどろどろ」を書いた小説が好きだ、という趣旨の言葉があるのだが、これは示唆的である。単に「男女関係を描いた小説」が好きなのではなく、それが「どろどろ」の関係であるのが好きなのである。こういう指摘はこれまであまりなされなかったのではないか。どこで誰が言った言葉か忘れたが「自分(男)にとって少女漫画とはめんどくさい少女たちのめんどくさい関係を描いた漫画だ」という趣旨の言葉があって、至言だな、と思うのだが、一般に女性というのはめんどくさい人間関係の話を好むと言えるのではないか。それが頭の単純な男にとっては謎なのである。で、そのめんどくさい関係とは基本的に男女の恋愛とそれに当然付随する性的関係であり、先に書いた「男女関係のドロドロ」なのである。それを少し表面をきれいに見せたのが少女漫画だったのだが、最近は少女漫画の中でも性行為を露骨に描いているらしい。
問題は「なぜドロドロでなければならないのか」「なぜめんどくさい関係でなければならないのか」である。そうでなければ物語にならないということもあるだろうが、ここには「女性にとっての冒険」というのは恋愛と結婚(現在は結婚はもはや若者にとって魅力のある制度ではないかもしれないが)である、というのが大前提としてあるのではないだろうか。もちろん、現実には女性の冒険家もいるし豪傑もいるだろうが、一般的には女性は恋愛と性関係に冒険性を求めると考えていいのではないか。そこで、「いい人」がなぜ恋人として女性から好まれないのかも分かる。「いい人」は「事件を起こさない」のである。つまり、人生にスリルを作り出さない。
女性が恋愛に求めるのは一種の冒険性である、という仮説をとりあえず提起しておく。
ちなみに、夏目漱石が「文学評論」の中で書いているスゥイフトの「ガリヴァー旅行記」の中に出て来るエピソードだが、ラピュタ島のある高官の妻が地上に逃げて、その優しい夫が連れ戻しに来たが、すべてを許すと夫が言っても帰らない。で、彼女が地上で一緒になっている男は貧しく汚らしい老人で、毎日のように妻を殴ったり蹴ったりするような男なのである。このラピュタの高官は人格者で人間の鑑のような人物なのである。この話の結語として「女には茶人が多い」と言ったか「女にも茶人がいる」と書いてあったか忘れたが、茶人とは普通人には分からない奇妙な嗜好を持つ連中のことである。

なお、女性にとって恋愛が冒険である、というのは少し前までは当たり前の話であり、たいていの女性はどういう男とくっつくかによって自分の一生が決まったのである。だが、基本的に男は「恋愛の食い逃げ」ができたから、男にとって恋愛は冒険的な意味合いは少ない。だから恋愛に冒険性など求めないわけだ。むしろ冒険であっては困るというのが正直なところだろう。

(追記)同じ本の中に小谷野敦は「恋愛というエゴの暴走」という表現をしており、これも秀逸な言葉だと思う。恋愛は一見相手のことを思い詰めているように見えるが、実は「恋をしている自分に陶酔しているだけ」という場合が多いのではないか。これは今敏の「千年女優」で示された思想でもあるように思う。
恋愛においては、相手ではなく、相手をネタにして自分が作り上げた妄想が、「恋愛対象の本質」だというのは、スタンダールが「恋愛論」で明示した思想だ。彼はそれを「結晶作用」という美しい表現をしているが、内実は「エゴの暴走」なのである。

ただし、相手のためには自分のすべてを犠牲にしてもいいという恋愛もあり、それはエゴの暴走的な恋愛とは別物だろう。つまり、恋愛にはふたつある、と見るべきだろう。女性より男性の恋愛のほうに、この種の「エゴを消滅させる恋愛」が時に見られるような気がする。愚劣な映画だったと私は思っているが、「タイタニック」で男は死に、女は生き残ったというのが、わりと象徴的な感じはあるwww

(追記2)

これも同じ本の中にある言葉だが、「結婚や性関係によって自分自身が憧憬の対象としての価値低下を引き起こすというメカニズム」は、「結婚や性関係は恋愛の終わりである」、というメカニズムと言ってもいい。だから、すべての恋愛物語は結婚か性関係の締結で終わるのだが、その読者や視聴者は、それが「話の終わり」だとしか思わず、「恋愛の終わり」であることに気づいていない。つまり、そこで恋愛は死んで、結婚生活や性関係という別の相に移行するのであり、相手への幻想もそこで終わるわけだ。
そう考えると、見合い結婚や仲人結婚という昔の習慣、つまり「恋愛抜きで結婚する制度」は案外賢明だったかもしれない。なぜなら、そこには幻想が無く、したがって「失望」も無いからだ。逆に、そこから「夫(妻)への恋愛」が始まる可能性すらある。相手の実態を知った上で愛情が持てるなら、それこそ最高の関係だろう。

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保守主義と自由主義への印象

物事はやはり根本を考えないといくら考えても「多岐亡羊(道が多すぎて逃げた羊が行方不明になる)」かと思う。
我々の日常の思考はわりと単純な問題が多い(ネジを回すのにプラスドライバーを使うかマイナスドライバーを使うかの類)のだが、政治や社会の問題はそうはいかない。それで根本を無視した思考を重ねても、まったく無意味な「下手の考え休むに似たり」となるしかないだろう。

たとえば、アメリカの「共和党」の「共和」とは何か、何度調べても私の頭には入ってこない。これは訳語が悪いと思う。あるいは「寡頭政治」とか「寡頭権力(勢力)」などもあまりピンと来ない言葉だ。特に「寡頭権力」を「ディープステイト」の意味で使うのはどうかと思う。要するに「表の政治の裏側から政治を動かしている、政治の実権を持つ連中」なのだから、やはり「ディープステイト」がベストの言葉だろう。その頭数が単数か複数かが問題なのではないのだから「寡頭」という言葉は無意味だと思う。まあ、本来の意味とは違うが「僭主」というのが「ディープステイト」に近いかと思う。つまり、「本来は君主である資格が無い支配者」である。ただ、「僭主」は表に出るが「ディープステイト」は裏に隠れている。つまり、「僭主」ではなく「潜主」かwww

あるいは、何度も書いているが「地政学」という言葉も、単に「戦略」とか「軍事的思考」と言うべきだろう。政治や軍事が地理と密接な関係を持つにしても、それがすべてではないし、軍事では地理的要件など長距離兵器や大量破壊兵器があれば簡単に無意味化されるはずだ。「大陸国家」とか「海洋国家」だとかの大別は今はほとんど無意味なのではないか。「ハートランド」「リムランド」という言葉の示すような世界地図全体を大きな視点で見る思考も現代人には常識であり、事々しく言うこと自体が19世紀的(帝国主義時代的)思考だと思う。
ただ、国境が隣接していると揉め事が起こりやすいのは昔も今も変わらないわけで、それを利用しているのがDSである。つまり、「国境があるから紛争が起こる。だから国境を無くし、カネ、物、人の移動を自由にしよう。何なら世界政府を作ろう(その支配者には我々がなるけどねww)」というわけである。EUがその実験室で、その加盟国の間で貧富の格差はむしろ拡大し、固有文化が衰退しているのは言うまでもない。

さて、ここで根本を考えようと最初に考えていたのは「保守」あるいは「保守主義」という言葉と思想である。
その「保守」の対義語は「革新」であるが、たいていの人の頭の中では保守の対義語として「自由」という言葉も連想されるのではないか。特に現在の政治状況では「保守主義」に対立するのは「革新」というより「自由主義」だろう。つまり「規制の撤廃」だ。これは近年の日本の政治では野党よりもむしろ自民党がやってきたものである。特に小泉政権以降の自民党が、(と後に維新も加わって)さまざまな自由化(規制緩和。たとえば契約社員の職種の拡大)を行い、それによって庶民生活が圧迫され貧困の一途をたどったことは言うまでもない。
まあ、それらの自由化を「革新」と言ってもいい。問題はその「革新」が誰のため、何のために行われたのか、国民はずっとつんぼ桟敷に置かれていたことである。中には「革新」だから良いのだろう、「自由化」なのだから良いことなのだろうと呑気に考えていた国民も多かったのではないか。私が非常に危険視するのが、そういう「言葉の魔術」なのである。

なぜ「保守」はダメで、「革新」や「自由」はいいことだ、という印象を人々は持つのか、というのが私がここで問題としていることだ。
だが、文章が長くなりすぎたので、稿を改めて考察したい。


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善行と「取り引き」

マルクス・アウレーリウスの「自省録」は、あまりに道徳的すぎて私のような皮肉屋には合わない部分が多いのだが、時々、目を引く言葉がある。

「君が善事を為し、他人が君のおかげで良い思いをした時に、なぜ君はそれだけで済まさず、善いことをしたという評判やその報酬を受けたいと考えるのか」(日本語訳から私が意訳した)

これはなかなか痛烈な言葉で、自分が他人に何かをしてあげた時に相手の感謝を求めるのは下品だよなあ、と思う。その下品な気持ちだけでもその善行の精神的価値はダダ下がりである感じだ。
つまり、それは無私の善行ではなく「取り引き」になってしまっているからである。

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泥棒と殺人の「罪の重さ」

昨日、ネットフリックスで「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を部分的に見たのだが、ラスト近くの死刑執行のあたりはなかなかリアルな描写で興味深かった。全体としては周知の通り「史上もっとも陰鬱なミュージカル映画」で、これをなぜ「夢の象徴」であるミュージカル映画にしたのか、製作者側の悪意すら感じる映画に思えるのだが、私が飛ばした部分は、息子の高額治療のために主人公のセルマが必死で貯めていたカネを「ふだんは親切だが」金欠の隣人かつ大家である男に泥棒され、その男を殺害するまでのシーンである。まあ、その出来事の陰惨さに比べたら、死刑執行の場面などファンタジーである。社会の底辺の貧乏人が必死で貯めたカネを盗むという行為(他者を絶望のどん底に落とす行為)の悪質さ陰惨さに比べたら、復讐としての殺人もその殺人に対する死刑執行も「当たり前」の出来事だ。
人間など生まれた時から死刑囚であり、いつかは死ぬが、自分ではその時を知らないだけだ。知っているほうがかえって「この世の束縛」から自由な気持ちになるということもある。これは絵本作家の佐野洋子が癌で「死刑宣告」を受けた時の事例だ。彼女はその宣告の後で「すべてから解放された気分」で車のディーラーの所に行き、ジャガーを現金で買ったと言う。
なお、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では重要な脇役としてカトリーヌ・ドヌーブがでているが、実に見事な演技で、彼女を俳優として見直した。(昔は単なる「お人形さん」的美貌で、それとルィス・ブニュエル映画でのエロ演技との乖離が実にエロだった印象しかなかった。)


(以下引用)

執行までの長い年月

一之瀬さんはなぜ死刑について取材するに至ったのか、こう語る。


「もともと警察ものや犯罪ものの作品に興味があり、その手のドラマを見たり小説を読んだりしていました。そのような中、刑務官の方と知り合いお話をしていく中で、刑務官の仕事は塀の中の業務ということもあり、それまで深く知る機会がありませんでしたが、刑務所の中の治安を守ることはもちろんのこと、罪を犯した受刑者の矯正、そして死刑の立ち会いと、重い責任を背負って日々業務をこなしているのだということを知り、刑務官という職業のリアルな姿を伝えられればと思ったことがきっかけです」


一之瀬さんが取材したのは、実際に死刑に立ち会った経験のあるM刑務官。大学卒業後、刑務官試験に合格。地方刑務所、拘置支所勤務を経て、現在は某拘置所に勤務している。

「刑務官が明かす死刑の話」より

死刑は死刑判決を受けてからすぐに執行されるものではない。刑法に則れば本当は半年以内に執行しなければならないが、現在は判決から執行まで平均7~10年と言われている。なかには確定から20年以上経過している死刑囚もいる。死刑囚は執行のその日まで、どのような暮らしを送っているのだろうか。


「被告」から「死刑囚」に

■判決からの移送


数回の裁判を経て死刑が確定すると、呼び名が「被告」から「死刑囚」と変わる。確定後はその身柄はバスや飛行機などによて死刑施設のある拘置所へ移送される。そこで一般の受刑者と一緒に暮らすのかというと、そのようなことはない。


「死刑囚は隔離されたエリアで生活します。それは、死んで初めて『受刑した』ことになるため死刑囚は『未決囚』であることと、死刑のストレスを減らすためなのです」(M刑務官)

「刑務官が明かす死刑の話」より

Mさんは隔離することが重要なのだと話す。


「基本的に死刑囚のいるエリアの場所は外部に一切公表されていません。大きい施設だと、刑務官すら場所を知らないこともあります。これは刑場同様、過去に死刑囚奪還未遂事件があったことを受けて未然に防ぐための措置となっています」


その「死刑囚しかいないエリア」で死刑囚はいつ来るか分からない執行の時を待ちながら生活していくのだ。


記事後編【死刑に立ち会った刑務官が明かす…死刑囚を絶対に「名前」で呼んではいけない理由】では、死刑囚が送る生活が実際はどのようなものなのかについて記します。

自殺防止が徹底されている

■死刑囚の部屋


死刑囚は拘置所内で隔離され、「死刑囚しかいないエリア」で生活する。その部屋は、1人1室。4畳ほどで窓、洗面台、トイレ、畳のスペース…と刑務所の独居と一見してそう変わらない。


「決定的に違うのは自殺防止に特化されているということです」(取材したM刑務官)

「刑務官が明かす死刑の話」より

窓は航空機にも使用される割れない特殊ガラスで、遮蔽版で外が見えないようになっている。洗面台の鏡はフィルムが貼られ割れにくい工夫がされていて、蛇口は首吊りのヒモをかけられないようボタン式だ。


「極めつけは24時間監視カメラで監視し、そのために夜中も薄明り状態にしていること。結構明るいから最初は寝られない死刑囚も多い」(M刑務官)


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モラルの発生基盤としての「閉鎖社会」

アニメのキャラをなぜ黒人キャラにしないのだ、という黒人からの批判に対する日本人アニメオタクたちの反応が黒人差別どころか黒人憎悪に満ちた地獄のような状態になっているのだが、その中で面白い指摘だな、と思ったのがこれで、これはかなり現実に即しているように思う。もちろん、この範疇に入らない個人もたくさんいるだろうし、アフリカなどは戦乱が多くて文化が未熟のままで教育が普及していないという不運さがあったと思うのだが、このコメントにあるようなメンタリティが一般にあるというのは事実のように思える。
モラルが発達するには、ある程度の「閉鎖性」が必要な気がする。犯罪をやっても即座にどこへでも逃亡できるという世界ではモラルは成立しないだろう。自分で生産するより盗む(あるいは殺して奪う)ほうが楽なら真面目に働くはずがない。ユダヤの非モラル性も、彼らが国家の閉鎖性に縛られていないからではないか。つまり、グローバリズムが彼らの本性なのである。アフリカの黒人との違いは、彼らが知力と学問と商法という武器で完全武装していることだ。

(以下引用)

187名無しのアニゲーさん :2022/05/02(月) 21:56:09 ID:- ▼このコメントに返信
※100
有名なのが井戸・水路・学校と言った日本からの支援の話
あいつらは施しを受けて当然、なぜなら私たちは世界の奴隷制度の被害者なので世界からその罪滅ぼしに施しを受けるべきなのである、と考える
その上で自分さえ儲かればいいという土人の層が一定数いるので部品なんかはすぐ盗まれるか壊される、学校なんか運営が出来なくなる
だからいつまでたっても「エンターテイメントレベルの」支援が何度も何度も何度もテレビなんかで扱われてきた

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酔生夢人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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