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色即是空

物の存在というものは、観測されて初めて存在が確認・証明されるわけで、聴覚の無い人には音は存在せず、盲目の人には色は存在しないのと同様である。とすれば、知覚の主体である私というものが存在しなければ、世界は存在しないと言っていい。つまり、「僕だけのいない街」ならぬ、僕だけのいない世界だ。もちろん、世界が存在していることを我々は常に実感している。おそらく、その世界は自分が存在しなくても実在しているだろう。しかし、その世界はその中に存在しない私にとっては無意味であり、実在しないも同然であるわけだ。
「色即是空 空即是色」を理解すれば仏教の本質は理解できたと言えると私は思っているが、それは、単純に「私がいなければ世界は存在しない。私がいれば世界は存在する」意味だと私は解釈している。もちろん、前に書いたように、これは「私がいなければ世界は存在しないと同じことだ」ということである。
厄介なのは「色」という言葉で表されているのが、現代の言葉では「現象」であることだ。現象という言葉の中の「象」は「形」の意味だが、「現象」が示す対象は視覚的な現象だけでないのは誰でも知っている。「色」も同様で、これは「感覚的・直感的にとらえたすべてのもの」なのである。(明治書院「新釈漢和」より)つまり、知覚された現象のすべてだ。

「色即是空 空即是色」とは、「認識の主体である私が存在しなければ世界は存在しないと見做せるし、認識主体である私が存在して初めて、私にとっての世界は存在する」という単純なことだ。
これを「苦」の面から見ると、世界が苦であるのは、私が世界を苦だと見ているからだ、ということになる。我々はそれぞれが「自分の色眼鏡」で世界を見ているわけである。世界は人間が「勝手な意味づけ」をすることで、苦楽の世界になると言っていい。野良犬や野良猫には苦も楽も無いだろう。ただし、彼らが人間より幸福かどうかは分からない。
文化とはそうした「意味づけされ装飾された世界」だとも言える。個人個人としては、その現象への意味付けが過重なものになると不幸になるわけだ。その場合、「空観」をすると精神衛生にいいだろう。つまり、この世界の「空相」を観じるわけである。そうすれば「この世界の空相は不生不滅、不垢不浄、不増不減であり、故に、空の中には色も無く、受想行識も無く、眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無い」となる。当然、悩みの対象は消滅するわけだ。



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自己愛と悟り

前にも書いたのだが、私の好きな昔の漫画の中で、高嶺の花に恋した男に、その友人が「あきらめちゃいけないよ! だってあの人は『趣味が悪い』かもしれないじゃないか!」と励ます話がある。実際、すべてに優れたスーパーウーマン的な女性のただひとつの欠点が、男の趣味が最悪だ、ということもありうるわけである。つまり、どんなダメ男でも、そのダメなところが利点になって、万能のどハンサム超人に恋愛で勝つことはあるわけだ。
さて、私の持論は「人間は自己愛の動物である」というものだが、自己愛とは利己心と同じではない。誰でも、自分自身を愛さない人間はいないが、そのために自分だけに利益があるように行動する精神が利己心である。これは嫌悪すべき精神だが、それと異なり、自己愛は人間が生きる土台である。たとえば、他人に褒められると嬉しい、というのは自分の価値が評価されたことが自己愛本能をくすぐるからである。
自己愛が希薄な人間ももちろんいるが、たとえ自殺をする人間でも自己愛はある、というのが私の考えだ。むしろ自己愛が過ぎたために、「今の自分が理想の自分と著しくかけ離れている」ことに耐えきれず自殺する、というのが、ある程度知的な人間の自殺ではないか。つまり、自己嫌悪も実は自己愛のひとつの現れだ、ということである。などと言えば、最初から逃げ道を用意したインチキ理論だ、と言われそうだが、まあ、動物の自己保存本能の存在を認めるなら、私の「自己愛」説はそれとさほど遠いものではない。
ここで「虚栄心」というものを考えてみる。つまり「見え(見栄)」である。虚栄心が自己愛を土台にしていることは言うまでもないだろう。自分を実力以上に評価されたい、というのが虚栄心である。「他人の評価」が虚栄心の本質なのである。この世に自分しか存在しなければ虚栄心など生まれようがない。ところが、その「自分を評価する他人」をそれほど自分は評価していなくても、その他人の評価を自分が気にするということはよく起こるのである。ここにはやはり自己愛の魔物が存在していると思える。
まあ、仏道の修行者が捨て去るべきものが「我執」つまり「自己愛」だと思う。世間の誰からも見下げられるような存在になっても平気である、というのが悟りなのではないか。手塚治虫の「火の鳥」の中に、それに近い話があった気がする。もっとも、我執を捨てたらそれで終わり、というのでは面白くも何ともない。そこが大乗仏教と小乗仏教(上座部仏教)の分かれ目だろうか。さらに、大乗仏教(ほとんど必ず組織化され、組織悪を生じる)ほど堕落しやすいのではないか、というのが私の直感である。もちろん、これは仏教だけの話ではない。




愛情の基盤としての優越感(?)



「はてな匿名ダイアリー」のコメントのひとつだが、目から鱗である。
よく考えれば、私の基本思想の「人間とは自己愛の動物である」そのものなのだが、優越感が恋愛と結びつくという視点は私には無かった。
考えてみれば、我々が小動物や幼児に愛情を持つのも、実は我々が優越的立場であり、保護者的立場であることが大きな要素だろう。とすれば、女性がダメ男や悪い男に愛情を抱くのは変な話でも理解できないことでもない。男も、東大入学レベルの頭を持ち、博識で美女でスタイルもよく人柄もいいという女性相手に恋愛感情を抱くのは難しいかもしれない。

(以下引用)

駄目な男とか悪い男にも良い所があるんだよね 「こいつと比べれば自分は全然まともだ…」と安心出来るのもそうだし 明らかに欠点があるからこそ自分の肩肘張らずにダラダラ付き合え...


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「理想」の罠

この教えは、漫画家志望者だけでなく、若者のすべての行動における鉄則として偉大な人生訓だと思う。
つまり、「今の自分の実力以上のことはできない」という、当たり前のことなのだが、「それでもやる価値は大いにある」ということとセットであるわけだ。で、自分ができないことにいちいちがっかりする必要はない、ということも加えて3点セットで覚えておけばいいのではないか。やれば必ず経験になるし、それが自分の能力を高めるわけで、「最初からやらない」「少しやってがっかりしてあきらめる」というのがすべての道における失敗パターンだろう。
もちろん、何もやらないという生き方も、それはそれで気楽な生き方ではある。

若者は、世間を舐めているか無謀なくらいが成功者になる確率が高いと思う。些細なことに無意味に悩むのが多くの若者にありがちなパターンだろう。私は当然後者であった。

(以下引用)

唐沢なをき
@nawokikarasawa
·
昔の「アックス」より。福満しげゆき先生の見開きコラム。この回は「マンガ家としてデビューする方法」なんだけど本当にためになることが痒いところに手が届くように書いてあって当時大感心した。アシちゃんたちが全員このページコピーして行ったくらい。全文紹介したいけどそれもアレなんで序盤のみ。
画像

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言葉と精神

私は「ネットゲリラ」常連の積雲氏のコメントは読むのが面倒くさくてほとんど読まなかったし、読んでもその意見にあまり感心したことはなかったが、直近のこのコメント(前後は省略)の内容には大いに賛同する。我々の精神(知性と教養)は伝統で作られているのであり、自国の伝統を無視した精神は軽薄な精神(あるいは異国人の精神)にしかなりようはない。
まあ、科学技術の言葉でカタカナ語が蔓延するのは時代の趨勢ではあるだろうが、その大半は「自分の知識は素人には理解できないだろう」と誇示するだけの軽薄なものではないか。もちろん、積雲氏的な文章(明治文語文的文章)で現代の科学技術の説明が可能だとはまったく思わないwww やはり、ここでも、多くの問題と同様、中庸こそが正解だろう。今は西洋文明一辺倒だから、積雲氏的姿勢は貴重である。


(以下引用)


人間は言葉で認識し、また言葉で思索する生き物である。そこでだが、高度な抽象概念は大和言葉のよくするところでは矢張りなく、漢語に頼らざるを得ないのである。話し言葉ではなく書き言葉こそが高度な抽象概念を取り扱ふことを可能にしてゐるのであるな。明治期に西洋の言葉を漢語に飜譯した明治の文豪達は、江戸期に教育を受けた人々である。哲學も共産主義も人民共和國も、皆さうした明治の文豪達の造語である。漢語の故郷支那に逆輸入もされ、今も現地で用ゐられてゐをる言葉も數多あるのである。


科學や技術の世界では新しいことがたゞしいことゝ同義であつたりもするやうだが、文系の世界にあつては寧ろ話は逆。古い方がたゞしかつたろするのである。江戸や明治の古典を踏まへないなど文化の切斷であり、踏まへないものはエセ文化、ナンチャッテ 文化に過ぎないのである。否や江戸を踏まへるどころではない。支那の古典の上に我々の文化は立脚してゐるのである。別に四書五經を踏まへるべしと主張してゐる譯ではない。古典にこそ人間文化の眞髓があるのである。古い人間、古い文體、古い語彙にこそ價値があるといふ話である。まあ價値觀は人ソレゾレではあるがの。輕薄短小であることに而已價値を認める人がゐても良いのである。別にサタンの眷族でさへなければ、のハナシである。


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商売ロックと「ロックな生き方」

私はロックミュージック、あるいはロックンロールはどちらかと言えば嫌いで、ほとんど聞いたこともなく、知識も無いが、「ロック」とは何かについて考察する。
最初に「ロックンロール」と「ロックである生き方」とは区別したい。ロックンロールは、「揺さぶり、転げ回る」ことだ、とここでは解釈しておく。つまり、聞く者を揺さぶり、その心が転げ回るような音楽、ということだ。だが、「ロックな生き方」とはそれとは別である。ロックンロールをやる人間がロックな生き方をしているとは限らない。ステージでギターを壊したり、ピアノの上に飛び乗ったり、舌を出したり、ステージから観客にダイブしたり、というのはあれは「演技」であり、生き方とは別のものだ。その証拠に、誰かが始めると誰かがその真似をする。それ自体、商売ロックである証拠だ。麻薬をやったり警察に逮捕されたりするのも、ロックミュージシャンには付き物だが、それも酒を飲み、立小便をするのと大差はないだろう。
では、ロックな生き方とは何か、と言えば、「既成の社会秩序に全身で反抗すること」である。
その意味で、私が最高にロックな生き方をした人間だと思うのはマルキ・ド・サドである。
ただし、その生き方を私が肯定しているわけではない。まあ、社会主義者である以上、当然倫理主義者としての私は「敵ながらアッパレ」と思うわけである。なお、アナーキストは「ロックな生き方」をすることが多いが、あれは社会主義とは別のものだ。

(以下引用)


マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族小説家。マルキはフランス語侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。


サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリ刑務所精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄英語版に1年、そしてシャラントン精神病院英語版に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。


生涯[編集]

生い立ちと教育[編集]

マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデフランス語版、かつてのコンデ公の邸宅。現在のパリ6区コンデ通りフランス語版ヴォージラール通りフランス語版付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフと、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会リセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。


1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]


1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。

牢獄と病院[編集]

サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。


サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌ英語版に収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。


獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。


サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。

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新興宗教とカルト

「大摩邇」所載の井口博士のブログから表(「オモテ」ではなく「ヒョウ」)のみ拝借。
「政治と宗教」の問題を考える上で、重要な表、あるいはリストだと思う。
「新興宗教=カルト」とは限らないが、新興宗教の8割以上がカルトと見做していいのではないか。
カルトの定義は単純に「超有害新興宗教」とするのが適切かと思う。伝統宗教は歴史と文化の一部になっているし、それが目に余るほど有害ならとっくに淘汰されているだろうからだ。
まあ、もちろん、一部の伝統宗教は有害性が高いかもしれない。特に一神教(創造主、創造神を信じる宗教)はそれを信じない者や信じない集団を敵として多くの悲劇の原因になってきた。
創価学会の信者数が圧倒的に多いが、その教義がどんなものか、私はまったく知らない。仏教系の新興宗教で、最初はカルト扱いだったと思うが、今では公明党という政党まで持って、日本の政治に大きな力を奮っている。誰か、創価学会の教義を10行以内で説明してくれないかwww

(夢人追記)「神戸だいすき」記事の一部だが、この記述に当てはまるのは、下の表のどれだろうか。

私の教団の悲願は、世界平和。

考えてみたら、世界救世教にしても、統一教会にしても「世界平和」を、掲げているんですよね。

目新しい標語ではありませんね。

宗教とは、一人一人の人生の悩みによりそい運命を転換させうるものだと考えていた私から見たら「世界平和」とは、ずいぶん大きく出たもんだ・・と、思えたのですが。

よそは、どうやって世界平和を達成しようとしているのかは知りません。創価学会と統一教会は、政治より上位に立ち、政治を自由に動かして、いわば「宗教国家」「宗教による世界支配」で、達成しようとしているようですね。

私の教団は、宗教が政治によって、なにかをするのは、邪道だと言います。

宗教は、宗教本来の法力で、世界を平和にする。
天と地を和合させ、陰と陽の調和を図り、霊界の不成仏霊を成仏させることで、霊界の「うつし世」である「現世」現象世界を救う。

護摩の火と、施餓鬼の水

火と水の浄め・・・そして、極端に位置する「火」と「水」を、調和させること。

(以下引用)
【ジョーク一発】「カルト教信者ランキング」から「スリランカの岩窟文字」まで_b0418694_14471254.jpg

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国家と「男性性・女性性」

「東海アマ」ブログに引用されていた記事で、一部に無理な論理の展開や誇張があると思うし、まだ詳しく読んではいない。しかし、なかなか啓発的で面白い記事だ。いい思考素材である。
世界的宗教のほとんどが女性蔑視、女性差別の内容がある、という指摘は特に面白い。これは私も個々の宗教については感じていたが、それが全世界的に共通している、ということには気づいていなかった。それ(宗教における女性差別)がなぜかという考察の部分は熟読する価値がありそうだ。

(以下引用)

 ライフジャーナル「母系社会が平和への鍵になる」2019.07.24
 https://naturalharmony.co.jp/journal11/

 なぜ世界から母系社会は消えたのか 女性性を尊重しない社会は滅びる!?
 前回のコラムで、イロコイ連邦をはじめとしたアメリカインディアンの多くの部族が、「母系社会」で成り立っているという話をしました。その母系社会についてさらに掘り下げてみたいと思います。

 母系社会を簡単に説明すると、一般的には母方の血筋を継承していく家族であること、つまり、現代の日本は「父系社会」なので、父親から息子へと男子が家を継いでいくところ、母から娘へと女子が継いでいくということになり、現代とはまったく逆の制度になるということです。

 古代には、世界中に多くの母系社会が存在していたと言われています。現存している先住民族の中でも母系社会を継承している民族の分布を見ると、熱帯地方に多く集中しており、寒帯地方では少ない傾向があるようです。また、農耕を中心とする民族に母系社会が多く、牧畜を中心とする民族には少ない傾向があります。これだけを見ると、温暖な地方で農耕を営む民族には母系社会という構造が適していたのかもしれません。

 さて、母系社会の大きな特徴をまとめると、部族の長は女性であり、その女性が部族内をすべて取り仕切り部族全体に大きな影響力を持っています。
 しかしその内部は非常に民主的に運営されており、決して封建的ではなく、すべての者に寛容な社会を築いています。

 中国雲南省の奥地に存在する「モソ」という民族は典型的な母系社会を継承していますが、その特徴を見るのが分かりやすいと思います。
 まず、結婚という制度がないため夫婦という関係性もなく、その概念すら存在しません。ではどうなっているかというと、「走婚」つまり「通い婚」になっているのです。
 (アマ註=日本でも合掌造りの白川郷や、弥生人文化圏では「通い婚」が常識だった)

 男性は好きな女性の家に通いながら、というより女性が好きな男性を呼び、関係性をつくります。最低限のルールがあるにせよ、一緒に住むのも自由だし、その関係を終わらせるのも自由なのです。
 もし子供が出来た時は女性の家族が皆で育てることになり、男性には一切の養育の義務はありません。父親が誰であるかは重要ではなく、誰が産んだのかが大切にされます。

 このような習慣を現代の常識的な目線で見てしまうと「これで社会が成り立つのか?」という疑問が浮かぶと思います。民族の構成はシンプルで農耕を中心とした社会なので、必要以上に現金収入を必要としていないから成立していたという背景もあります。
 また男性の存在感がないわけではなく、地域社会の中でしっかり役割があり責任ある仕事が任されています。

 ただ、至って自由であるということ。前述のように男女関係だけではなく、すべての人間関係が、とてもおおらかで寛容な社会を築いていたということです。この傾向はモソだけではなく、多少の違いはあれ母系社会を築いている民族ですべてに見られる傾向です。

 かつての日本も平安時代までは明らかに母系社会を築いていたといえます。おそらく当時は一部の貴族や武士階級を除き、明確な結婚の制度もなく女性が家系を継いでいました。

 世界的にみると人々の生活習慣や社会的な仕組みに大きく影響を与えた出来事は宗教の広がりです。有史以来、世界に急速に広まった宗教には女性を蔑視する内容がとても多いことに気が付きます。
 キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・仏教にいたるあらゆる主な宗教で経典の中に明確に女性蔑視を記述しており、表向きは平等と教えながら本質的に男性から劣っている存在であると位置づけていることから、とても矛盾をはらんでいます。
 神道についても穢れという考え方があり、例えば相撲の本場所の土俵には女性が立ち入ると穢れるという理由から厳しく禁じています。

 もちろん宗教もその時代とともに内容の解釈や記述が変えられてきているので理解は様々です。宗教の発祥初期からそのような教えがあったかは定かではありません。
 ただし、世界的に共通していることは、みな同じように男女の関係性に抑圧的な厳しい戒律を設けて、女性の位置づけを低く保ち、同時に善悪の概念を強力に植え付けてきたと言えるでしょう。

 日本も平安時代以降、本格的に仏教が普及してきたところから、明らかに父系社会への転換が起こりました。それが直接的な要因と断言できませんが、やがて戦国時代へと移り変わっていきます。
 ではなぜ、そもそも多くの宗教が女性を蔑視してきたのでしょうか? ここは大いに想像力を膨らませる必要がありますが、それは主な宗教が常に権力と結びついてきたという経緯があります。

 歴史上、常に政治が宗教を利用して、逆に宗教も政治を利用してきました。時の権力者たちは民衆をコントロールするのに宗教を使い、宗教にも様々な便宜を図ることで関係性を強固にして、必要であれば教義を書き換えてでも目的を達成させようとしてきました。
 当然ながら権力者やそれを取り巻く者たちは、その体制に反対する人々を物理的・政治的に抑圧しました。

 しかし、どうしてもコントロール下に置けない勢力がありました。それが女性だったのです。まだ母系社会が色濃く残る社会であっても政治的には優位な立場になっていた男性が、すでに社会全体に浸透していた女性の影響力を弱めることが出来ないため、宗教の力を使って存在そのものを低く劣ったものとして定義しました。つ
 まり権力者はそれほど女性の力を恐れました。

 中世のヨーロッパを中心に起こった魔女狩りはまさにそれを象徴する出来事であったといえます。人並み外れた霊的能力や知識をもった女性を魔女や悪魔の使いとして仕立て上げ、社会を惑わすものとして民衆の恐怖を煽り、社会的に影響力のある女性を抹殺してきたのです。

 ここまで読んだ方は、「では父系社会というのはそんなに悪い仕組みなのか?」と思われるかもしれません。
 実はそうではなくて、現代社会の中で父系社会を形成する男性性の要素が強くなり過ぎたということです。古代では母系社会と父系社会が共存していた形跡が多くみられており、中には双方が混ざった習慣を持つ民族もあります。

 近代では、その男性性の特徴である論理的・競争心・実力主義・結果重視などの傾向が過剰になり、社会の中で常にその条件に合うように生き方を要求されます。
 更に付け加えると、宗教の普及とともに貨幣経済が強力に広がり、社会を構成する要素として最も大きな影響力を持つことになったため、なおさら男性性を増長させることになりました。戦争や民族的な争いが絶えないことも、男性性の過剰という問題が根底にあるからではないでしょうか。

 女性への差別や蔑視や抑圧的な行為は、明らかに男性性過剰の結果であり、逆に言えば女性性の欠如の現れです。
 これは生物学的な男と女の違いの問題ではありません。どちらにも男性性、女性性の両方が備わっているからです。

 長い歴史の様々な場面で女性(性)が犠牲となってきた事実があります。犠牲とは、その犠牲の下に社会が成り立ってきたという意味です。
 さて、それを犠牲にして得てきたものは何でしょうか。国家の軍事的な強さでしょうか? 経済的な強さでしょうか?

 かつて男性性優位と見られる帝国が数多く誕生しましたが、ことごとく衰退・滅亡していきました。
 その一方で目立たないながらも女性性を大切にする平和な国家も存在していました。歴史の年表にはまったく出てこない史実ですが、帝国の栄枯盛衰を学ぶより、なぜ平和な国が存続していたかを学ぶことに価値があると思います。
 そうすれば、かつて理想的な母系社会を築いていた日本が、世界に先駆けて出来ることが自ずと見えてくると思います。
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 一部引用以上

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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