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スピノザの「自由」論批判

私はスピノザなど読んだことはないので、下の引用について、彼の「自由」論を批判してみる。「批判」とは、必ずしも「非難攻撃」の意味ではなく、「論理的に検討してみる」意味である。

(以下引用)

「本書(『神学・政治論』)は、哲学する自由を認め ても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざま な論考からできている」——スピノザ『神学・政治論』のエピグラム(吉田量彦訳)


……自由とは,徳あるいは完全性であり,したがっ て,何事にせよ人間の無力を示す事柄は人間の自由に数えることができない。 だから人間は,存在しないことも出来る,あるいは理性をもたないことも出来る,という理由で自由であるとは決して言われ得ない。自由であると言われ得るのは,彼が人間的本性の諸法則に従って存在し・活動する力を有する限り においてのみである。このようにしてわれわれが人間 をますます多く自由であると考えるに従って,われわれは彼が,理性をもちいないことも出来る,また善の代わりに悪を選ぶことも出来るということをますます もって言えなくなるのである。そして絶対に自由に存在し・理解し・活動する神もまた 必然的に,すなわち自己の本性の必然性に従って存在し・理解し・活動するのである。神がその存在すると同じ自由性をもって活動することは疑 いないところであるから。こうして神は,自己の本性の必然性によって存在すると同様 に,また自己の本性の必然性によって行動する,言いかえれば絶対に自由に行動する


...Est namque libertas virtus seu perfectio. Quicquid igitur hominem impotentiae arguit id ad ipsius libertatem referri nequit. Quare homo minime potest dici liber propterea quod potest non exsistere vel quod potest non uti ratione, sed tantum quatenus potestatem habet exsistend & operandi secundum humanae naturae leges. Quo igitur hominem magis liberum esse consideramus eo minus dicere possumus quod possit ratione non uti & mala prae bonis eligere; & ideo Deus, qui absolute liber exsistit intellegit & operatur, necessario etiam nempe ex suae naturae necessitate exsistit intellegit & operatur. Nam non dubium est quin Deus eadem qua exsistit libertate operetur. Ut igitur ex ipsius naturae necessitate exsistit, ex ipsius etiam naturae necessitate agit, hoc est libere absolute agit.


出典:スピノザ「国家論」Pp.103-104: 『スピノザ・思想の自由について』訳注・畠中尚志、理想社、1967年




(引用終わり)

冒頭のエピグラム(書物の最初に書かれた引用文や献辞などを言うか。)によって、ここに書かれた「自由」とは主に「哲学する自由」だろうと推定できる。そのまま読めば、「哲学する自由」だけのこととも言える。しかし、それに続く「自由論」は必ずしも「哲学する自由」に限定されず、彼による「自由の定義」と、その考察、そして「神の自由」を論じていると思う。
では、その論を箇条書きにしてみる。

1:自由とは徳、あるいは完全性である。
2:(1の定義によって)人間の無力を示す事柄は自由とは無縁である。
3:(2の帰結として)「存在しないことができる」「理性をもたないことができる」というのは「自由である」こととは異なる。
4:(自由の第二の定義)人間が自由であると言われえるのは、彼が人間的本性の諸法則に従って存在し、活動する力を有する限りにおいてのみである。(注1)「存在し、活動する限りにおいてのみ」ではなく、「存在し、活動する力を有する限りにおいてのみである」と書いてある以上、「行動」ではなく「行動可能性(行動する力を有すること)」が自由の絶対条件だと受け取れる。(注2)その存在や活動は「人間的本性の諸法則に従っていること」が自由の大前提であるようだ。しかし、この部分だけでは、その「人間的本性の諸法則」がどんなものかは分からない。おそらく最初に書かれた「徳」がそれかと思われるが、果たして徳は人間的本性に合致するのかどうかは議論の余地が大きいだろう。
5:(以上の論から)自由をこのように考えるなら、その自由の在り方として「理性を用いないこともできる」とか「善の代わりに悪を選ぶこともできる」とは言えないことになる。
6:(神に関して言えば)神は絶対に自由に存在し、理解し活動するものであり、(自由の本質、あるいは私の「自由の定義」によって)自己の本性の必然性に従って存在し、理解し、活動するものである。(注:以下の数行は、同じ内容の繰り返しである。)

まあ、批判するのは簡単で、1と4の「定義」を、ひろゆき流に「それあなたの感想ですよね」で終わりである。「感想」ではなく「定義」だが、どこにも根拠のない定義は「感想」「主観的意見」以上のものではない。
要するに、「自由」がしばしば「欲望の恣意的な充足」つまり「悪徳」と結びつきがちであることに対して、「自由とは徳である」という無理な定義をしたために、無理な論になっている、というのが私の感想だ。しかも、神についてまで勝手な定義をしているのだから、教会から破門されたとしても仕方が無いところだろう。
「自由とは完全性である」という定義も無理だろう。これは神の完全性を「自由」擁護に援用しようとしたものと思われる。「すべてが自由なことが完全性である」という思想は、「ならば悪も為しうることが完全性の謂であり、神は善をも悪をも為しうるものでない限り完全とは言えない」となる。つまり、十全と十善は両立しえないのである。

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天上の天国と地上の天国

「白痴」を読み終わった(昔読んだ時より、理解が深くなったのか、いっそう面白かった)ので、今は「カラマーゾフの兄弟」の再読を始めたが、最初のあたりに、昔は疑問にも思わなかった「社会主義」に関する言葉があり、気になるので少しメモしておく。
それはこういう言葉だ。

「社会主義は決して単なる労働問題、即ち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、主として無神論の問題である。無神論に現代的な肉をつけた問題である。地上から天に達するためでなく天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられたるバビロンの塔である」(米川正夫訳)


「バビロンの塔」はもちろん、「バベルの塔」だろう。問題は、それがなぜいけないのか、ということだ。確かに、バベルの塔は人間の僭上な行為として神の怒りを買い、滅ぼされた。しかし、「天を地上に引き下ろす」つまり(神抜きで)地上の天国を作ろうという人間の行為は非難されるべきものだろうか。それが神という存在を無意味化するという、神への反逆という面を除けば、それは永遠の幸福を得たいという人間の涙ぐましい行為ではないだろうか。そして、神が存在しなければ、地上の天国を作ろうという行為が批判されるだろうか。
引用した箇所から数ページ後に、こういう言葉がある。これはアリョーシャの考えだ。

「長老は神聖な人だから、あの人の胸の中には万人に対する更新の秘訣がある。真理を地上に押立てる偉力がある。それですべての人が神聖になり、互いを愛し得るようになるのだ。そして貧富高下の差別もなくなって、一同が一様に神の子となる。こうしてついに神の王国が実現されるのだ」

赤字にした「貧富高下の差もなくなって」というのは、まさに社会主義の理想ではないか。前に引用した部分との違いを言えば、神聖な人間が真理を地上に押し立てる云々だろうが、それはおそらく全人類のキリスト教思想への帰依ということだろう。好意的に捉えれば、「どのような手段で社会を貧富高下の差を無くしても、信仰によらないかぎり、つまり人間の心そのものが自然に道徳を守るようにならない限り、地上の天国は不可能だ」ということだろうか。

問題は、普通の人間が普通に考えて、キリスト教を、あるいは神の存在を信じられるか、ということである。この、悪に満ちた世界を神が創造したなら、その悪の犠牲になった無垢な人間の苦悩や死がいかにして正当化されるのか。それがイヴァン・カラマーゾフの問いかけだろうと思う。私は、イヴァンの思想に与する。たとえ神が存在しても、それは善なる神であるか、あるいは人間的な善悪に関係しているかどうか、人間に分かるはずはない。としたら、神に帰依することは不可能であり、人間は人間の力で地上の天国を打ち立てるように永遠の努力をするしかないだろう。社会主義はそういう思想だと私は思っている。(ただし、マルキシズムを私はよく知らないので、宮沢賢治の言う「世界がぜんたい幸福になるまでは個人の幸福はありえない」が社会主義の定義だとしておく。)

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犯罪者の特徴

「ああいう才能のない、気短かで欲のふかい蛆虫どもにとっては、犯罪が何よりありふれた避難所ですからね」

これは『白痴』の中でエヴゲーニィ・パーヴロヴィチという男が言った言葉だが、この男自身犯罪者的性質の持主のように描かれていて、だからこそ犯罪者がどういうものか熟知している感じだ。もちろん、それは作者のドストエフスキーが犯罪者というものを熟知している(彼は長年流刑されていて犯罪者たちを身近に知っていた。)ということである。
「才能がない」というのが犯罪者の特質である、というのが面白い。箇条書きすると、

1:才能がない
2:気短か
3:欲が深い
4:蛆虫である

というのが犯罪者の特徴で、これはほとんどの犯罪者に当てはまるように思う。中でも「才能がない」というのは大きい。つまり、「何か自己表現したい」という強い欲望がありながら、その才能が無い人間が、「自己表現」の手段として芸術以外に簡単に選べる(何しろ気短かだから難しいことや長期的な方法は好まないのである。)のが犯罪なのだ、ということだ。自己表現と言ってもたいした話ではなく、「周囲の人間や世間に一目置かれたい」程度のことで、要するに私が毎度言う、「自己愛」の現れのひとつだ。ただ、その欲望があまりに強いのに才能が無くて芸術などの手段で自己表現の欲望を満たせない場合の「逃避場所」が犯罪である、ということだ。
4の「蛆虫である」とは、言うまでもなく人格が低劣であることだ。
ただし、犯罪者と囚人は別と考えるべきだろう。囚人の場合は時間だけはたっぷりある(気短かでいられない)から、監獄の中で思いがけない「才能」を開花させることもあるかと思う。
まあ、とりあえず、犯罪というのは経済犯以外はあまり頭のいい人間のやることではない。

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暴力の三原則

別ブログに書いた「暴力論」の一部だが、この「三原則」は世界や社会を考察する上で有効ではないかと思うので、「思考素」としてここにも載せておく。
ただし、「暴力」をどう定義するかで、たとえば「言葉の暴力」もあれば、「組織(強者)による組織員(弱者)への暴力的命令」というのもあり、幅を広くするのも可能である。
DVなどは、まさに下の三原則の代表的事例である。
3がやや分かりにくいかと思うが、たとえば「警察」は抽象的存在で、「警察官」が具体的存在である。国家や政府は抽象的存在だが、公務員はそれより具体的である。
政治的改革運動がしばしば「内ゲバ」化するのも、下の三原則による。DVと内ゲバは同じなのである。近親憎悪だ。


1:暴力は常に「弱い相手」に向かう。
2:暴力は常に「目の前の相手」に向かう。
3:暴力は常に「具体的な相手」に向かう。


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「世界に対する信仰と希望」

別ブログに書いたものだが、大事なことだと思うので、転載して少し補足する。

「わたしたちのもとに子供が生まれた」

という言葉は、その子供は世界から「わたしたち」に贈られたものだ、というニュアンスがある。「私たちは子供を作った」ではないのである。子供は世界から自分たちへのプレゼントだ、というこれは、文明人には無い思想だろう。むしろ、子供を邪魔者、自分たち夫婦が優雅な生活を送る上での障害物と思う親が多いのではないか。子供を世界からの贈与だと思わない親は、子供を自分たちが作ったと考える。そして、子供は自分たちの所有物だと思うだろう。
子供に限らない。
人間の自己愛は、他者を低く見る思想や心性と直結している。
我々は世界を「信仰」していない。「世界」を自分たちがどうにでも自由にできるものだと思っている。自己中心主義は他者への畏敬の念を失わせるのである。
我々は確かに世界を破壊できる。だから人類は世界に優越する存在だと思っている。
だが、我々は、自分の手で木の葉一枚作り出せないのである。何かの種を撒いて木が生えてきても、それは世界が生み出したのであって、あなたが生み出したのではない。
世界への畏敬の念が失われたことと、人類の品性の下落の間には相関関係があると思う。
今の世界は子供が生まれることが本当に喜びであるような世界だろうか。その子供がきっと幸福な人生を送れるだろうという「希望」を我々は持てるだろうか。

「信仰」というものは現代からほとんど失われた心性であるが、その本当の意義は、畏敬の対象を信仰することで、人間が優れた存在や未知の(不可知の)存在に対する謙譲な心を持つことにあるのではないか。人類による世界の破壊が加速したことと信仰の喪失は軌を一にしていると思う。無限の美と富に満ちたこの世界に生まれること自体は明らかに幸福なのであり、もしもそれが悲惨に満ちているなら、人類がその傲慢さから自ら作り出したものであるのは自明だろう。


我々は「世界に対する信仰と希望」を持っているか




小谷野敦の「退屈論」の解説(野崎歓)の中に、ハンナ・アーレントの次の言葉が引用されている。


(以下引用)

「わたしたちのもとに子どもが生まれた」という言葉こそは、世界に対する信仰と希望を告げる最高の表現である。      (「人間の条件」)

(引用終わり)

「世界に対する信仰」という言葉が素晴らしい。我々は今、世界に対する信仰と、そして希望を持っているだろうか。先進国のすべてで少子化が起こっていることは、人類の多くが世界に対する信仰と希望を失ったことを示しているのではないだろうか。

世界は、挑戦し改革し支配する対象ではなく、「信仰」すべきものかもしれない。なぜなら、それは無限の神秘に満ち、無限の美に満ち、あらゆる生き物に無限の恩恵を与える存在だからだ。

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人間の値段

思うのだが、今の時代で一番安いのは「人間の値段」ではないだろうか。勤めている会社なり店なりが倒産して、貯金も無く、失業手当も貰えない人間を、幾らで買えるかと言えば、10万円程度で自由にできるのではないか。下手をしたら1万円でも買えるかもしれない。これは、性的目的で買うという意味も含んでいる。あるいは、犯罪の仲間に引き込むという意味でもいい。つまり、社会のセーフティネットが機能せず、人権が守られていない社会では、「人間の値段」は底なしに下落する、ということだ。

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ポリコレと宗教

「はてなブログ」というか、匿名ダイアリー記事だが、なかなか鋭い意見だと思う。
分かりにくい部分や誤字もあるし、部分的には異論もあるが、そのまま載せる。

(以下引用)

021-03-17

anond:20210316232303

宗教自体ポリコレ違反なんだけど、ポリコレなんかよりも歴史が長い


ぶっちゃけポリコレ一種宗教だしね。


で、カトリックとかイスラム教とか、生き残ってる宗教ってのは、「宗教狩りをやったら戦争な」ってのを血塗られた歴史証明してるわけ


井戸に毒とナチス聖書のどれが一番虐殺に加担してるかって言ったら、そらトータルでは圧倒的に聖書だよ。


ポリコレっていう新しくて弱っちい宗教にも叩かれ駆逐されるのが、第二次世界大戦敗戦国ナショナリズムだ。


第二次世界大戦勝利国が主導してる世界宗教なんだからねアレは。


から本来ポリコレなんかがポリコレ教に所属してない人にあれこれ指図する資格はない。


でも、空飛ぶスパゲッティモンスター教や敗戦国ナショナリズムで、浅く広く多くの指示を集めてるポリコレ教に勝てるかっていうとそりゃ無理だよ。


ポリコレっていうのは正しさじゃなくて”政治的な”正しさで戦ってるんだから結局の所は本当に弱い奴の味方なんかしない。


味方をすると人気が得られる奴の味方をしてるだけ。


じゃあポリコレなんて意味ない死ねって言って殺せると思うなら、それはポリコレを甘く見過ぎ。


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