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天皇とは何か

孝明天皇の肖像画を見たのは初めてだが、我流人相学的に言えば、非常に知性的な顔である。目に光がある。戦闘的な顔とも言える。口のあたりがやや前に突き出しているのは当時の日本人全体に共通した特徴だと思う。ビゴーの漫画でもだいたいそうであるはずだ。
で、問題は孝明天皇の「開国反対」姿勢のことだが、「和親条約」は快く認めていたというのは、「人道的援助をするのは大いに結構だ」ということで、では「通商条約はダメだ」というのはなぜか。おそらく、西洋でブルジョワの勃興によって貴族が没落した事実を知っていたのと、日本でも商人階級の勃興で武家や公家の貧困が加速している事実を考えたのではないか。つまり、商業というのは社会の階層構造を変える力がある、ということで、それが外国との貿易となると、日本が騙される可能性が高い、という考えがあった、と私は妄想する。そして、実際に日本は関税決定権を相手国の自由にされることで長い間苦しむことになったのである。
現在の日本でもグローバル企業や海外投資家によって富がどんどん日本から流出しており、また米国によって日本の富は吸い上げられている。孝明天皇の「排外主義」は実に慧眼だったわけだ。
なお、私は孝明天皇は長州(一部の公家の手引き)によって暗殺されたという噂は事実だろうと思っている。天皇にとっては「日本の利益=天皇家の利益」だが、長州にとっては日本がどうなろうと、長州が繁栄すればそれでよかったのである。安倍元総理や維新の売国も同じことだ。

10年近く前に歴代天皇の書跡(宸筆)を美術館で見たことがあるが、明治天皇の書の悪筆ぶりに驚いて、明治天皇は取り変えられたという説は事実だと確信した。だが、皇統の断絶は何度もあったことで、日本の天皇の存在意義は、極端に言えば「日本に天皇家がある」という事実にある、と私は思っている。存在すること自体が存在意義であるわけだ。
鎌倉幕府以降の長い武家政権の間も、政権は天皇家を滅ぼすことはなく、江戸幕末の危機に際して、幕府が天皇の考えをあれほど重視したのは、天皇という存在の政治的意義を為政者が熟知していたからだろう。そういう「国の重石(政治の重心)」がちゃんと存在していれば、政府の多少の不祥事などどうでもいいし、政権などいくら変わってもいいのである。そういう変わらぬ中心が天皇だ。つまり、天皇という存在がいなくなれば、日本史は終わり、新しい国になる。まあ、国土だけは残っても、日本人は、文化的伝統など無視した、ユダヤ民族的な無国籍民族になるのではないか。そうなると、カネと力がすべて、となるのは当然だ。

天皇は何をする仕事か、と言えば、何もせずひたすら自分の人格を高めることだけしていれば十分なのだ。秀才などいくらでも出て来るが「日本という国家の命運は自分の命運である」と常に思うのが自然である、というのは天皇という存在だけだろう。そういう存在こそが、国の命運を決める場合にはもっとも正しい判断が可能なのではないか。






(以下「東洋経済オンライン」から引用)

徳川慶喜の支持者「孝明天皇」開国嫌った真の理由

激しい攘夷論者だが、親交は受け入れていた

強硬な攘夷派だった孝明天皇(左)と日米修好通商条約の調印を迫ったアメリカ総領事のタウンゼント・ハリス(左写真:近現代PL/アフロ、右写真:Caito/PIXTA)
江戸幕府における第15代将軍にして、最後の将軍となった徳川慶喜。その最大の後ろ盾となっていたのが、第121代天皇にあたる、「孝明天皇」である。攘夷派の代表として多大な影響力を持った孝明天皇は、幕末におけるキーマンでありながら、語られることが少なく、実態はあまり知られていない。
いったい、どんな人物だったのだろうか。第2回となる今回は、孝明天皇の最大のライバル、関白の鷹司政通(たかつかさ・まさみち)との戦いについて紹介しよう。
〈第1回のあらすじ〉
安政5(1858)年、幕府は勅許(天皇の許可)を得ることなく、アメリカ総領事のタウンゼント・ハリスとの間に日米修好通商条約を締結。これに孝明天皇は激怒する。孝明天皇は外国との通商をかたくなに拒んでいた。その背景には、京から出たことすらない孝明天皇にとって、外国人や外国船は異質すぎたこと、さらに強硬な尊王攘夷派であった水戸藩の第9代藩主、徳川斉昭(徳川慶喜の実父)に「外国人が傍若無人な振る舞いをしている」と伝えられ、憎悪を募らせたことがある。孝明天皇からしてみれば、外国人の貿易と居住も認める日米修好通商条約を結ぶことなど論外だった。
第1回:徳川慶喜の後ろ盾「孝明天皇」なぜか知られぬ実像

日米和親条約のときには反対しなかった

幕府が勅許を得ることなく、日米修好通商条約をアメリカと締結したことに、孝明天皇は激怒する。異国嫌いの孝明天皇は、それ以前のペリー来航時から、異国の傍若無人な態度に腹を立てていた。


とはいえ、直接見聞きしたわけではない。孝明天皇の怒りをあおったのは、水戸藩の第9代藩主、徳川斉昭(徳川慶喜の父)である。孝明天皇は、関白の鷹司政通(たかつかさ・まさみち)を通じ、斉昭の書いたこんな批判的な文書を目にしている。


「ペリーの態度は失礼極まりなく、日本を侮辱している」


ペリーに感情をかき乱されたのは、斉昭や、それを聞かされた孝明天皇だけではない。朝廷の公家たちも不安に襲われ、ペリーが日本からの返答を聞くために再度来訪するころには、朝廷は京都所司代に京都の警護強化を要望している。


それにしても、なぜ、孝明天皇はペリーとの日米和親条約のときは、反対しなかったのだろうか。


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思考手段としての「空」

仏教には膨大な経典があるらしいが、そのうち釈迦自身の教えだけを書いた経典は何があるのだろうか。それとも、仏教において釈迦はキリスト教の「預言者(言葉を預かった者:神の教えを伝えた人)」に相当するだけなのだろうか。そういう根本への疑問を仏教徒は持たないのか、不思議である。創価学会など、釈迦より日蓮を上位に置いているというのだから、これはもはや仏教ではないのではないか。
私は仏教の経典は「般若心経」以外は読んだことはないが、これは素晴らしい「哲学」だと思っている。仏教の経典がこれだけでも仏教は素晴らしい。しかし、「宗教」としての仏教はまったく信じていない。まあ、教えを知らないのだから信じようがない。宗派がありすぎてどの宗派が「正統的仏教」なのかの判断すら素人には無理である。

で、ここで書こうと思っているのは「思考手段としての空」というもので、これは前にも似たようなことを書いてはいる。つまり、西洋の学者の中には「仏教とはニヒリズムではないか」と考える人間がいると聞いたことがあるが、それは「般若心経」の「空観」を指しているのだろう。で、「空観」はニヒリズムか、というのが私がここで論じることだが、もちろん、「そうではない」という主張だ。その主張は「空という観念は悟りに至る手段としての観念だ」というものであって、「この世界はすべて空しい」というニヒリズムとはまったく別だ、ということである。


「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」

つまり、「色即是空」は即座に「空即是色」になるのであり、この世界のあらゆる現象(色)は「見方によって空となり、また見方によって色(現実存在)になる」というだけのことだ。
この世界に自分という者が存在しなかった場合、その世界はあなたにとって意味があるか、と考えれば、世界は即座に灰色の虚無的な世界になるだろう。その視点を経由して改めて「自分が今存在する、その世界」を眺めると、すべては色彩と輝きと生命に満ちているのが分かるわけだ。その世界に「価値がない」などとはとうてい考えられないはずである。とすれば、あらゆる人あらゆる生命にとって、この世界がかけがえのないものであることも分かるだろう。ここにはニヒリズムのかけらも無い。これが「思考手段としての空観」である。

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性的還元論

「還元論」というのは、物事を「元(要素)」に帰して考察する考え方だが、「性的還元論」という言葉を(たぶん誰も言っていないので)提言する。つまり、すべてを性に還元する思考法だ。古くはフロイドなどがそれだが、現代では、日常的に物事(主に人間関係だが、マスコミ報道やフィクションやその受容者の思考などにも関係する。)が性的に還元されすぎている、というのが私の言う「性的還元論」だ。
たとえば、現代では同性間の友情はすべて「同性愛」と見做される、というようなことである。性的要素がまったく無い友情ですら「深層心理では同性愛なのだ」とされれば抗弁の余地もなくなるわけである。
ルパン三世と次元大介は同性愛か? 単なる仲間であり、同志的友情であって、この二人に性的な関係性はゼロだろう。しかし、このふたりが同じアパートに住めば、世間は、「あのふたりは同性愛だ」と見做すのは確実だと思われる。
このように、すべてを性的視点に還元するのが「性的還元論」である。これは一般人の脳まで侵食している悪疾だと思う。「性の多様性」も性的還元論のひとつだ。

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マイクロアグレッション

差別問題における「境界的概念」と言えそうな「マイクロアグレッション」という概念だが、この言葉自体が問題を含んでいる、つまり言葉が概念と一致していないと思う。問題のポイントはその「アグレッション(攻撃)」が「マイクロ(微細な)」であることではなく、当人自身がその言行の「他者侵害性」(「攻撃」ではないのだから、日本語でならこう言うべきだろう。それに相当する英語は知らない。)に「無意識」であることにあるのだから、「アンコンシャスアグレッション」とでも言うべきだと思う。
下の記事だと、色字にしたようにそのアグレッションが意識的か無意識的かで記述自体が分裂している。


今調べたら、「侵害」はinfringementと言うらしい。


(以下引用)

マイクロアグレッションとは?

マイクロアグレッションは、別名「小さな(マイクロ)攻撃性(アグレッション)」。人と関わるとき、相手を差別したり、傷つけたりする意図はないのに、相手の心にちょっとした影をおとすような言動や行動をしてしまうことだ。「微細な攻撃」とも訳されるマイクロアグレッションがなぜ相手を傷つけるかというと、その言葉や行動には人種や文化背景、性別、障害、価値観など、自分と異なる人に対する無意識の偏見や無理解、差別心が含まれているからだ。


具体的には、このようなものがマイクロアグレッションと呼ばれる。わかりやすいように、海外で起こることと日本で起こることを分けていくつかの例をあげてみよう。


海外

  • 「アジア人だから数学が得意」「黒人はダンスが上手い」という特定の人種へのステレオタイプ的言動
  • 西洋人からの、「君は日本人っぽくなくて大胆な考え方をしていいね!」といった発言
  • 英語圏に長く住んでいるのに、何年経っても「英語が上手だね」と伝える
  • 「日本人の女の子が好き。大人しくて可愛いから」というアジアンハンター
  • アジア人の真似!といって無邪気に両目をつりあげる行動
  • LGBTQなの?見えない!意外!すごくまともに見える、といった発言

日本

  • 白人系の見た目がかっこいいと、初対面で褒めたたえる
  • 「〇〇さんはブラジル人だから、サッカーとかやります?」「〇〇さんは韓国人だからキムチ常備してるんでしょ?(笑)」といった文化的ステレオタイプ
  • 日本に住んでいる外国人(に見える人)に「日本語上手ですね」「お箸使えるのすごい」等と褒める
  • 会議室に入ってきた男性スタッフと女性スタッフのうち、女性スタッフをアシスタントだと思って飲み物を注文する
  • 女の子はオシャレとスイーツが好きだし喜ぶと思う、といった発言

もちろんこれ以外にも事例はあるが、これらは無意識の攻撃性をはらんでいる。中には、自分もやってしまっていた!と思うものがあるかもしれないし、何が悪いの?と思うこともあるだろう。


たとえば「君は日本人っぽくなくて大胆な考え方をしていいね!」という発言の裏には、日本人は典型的に保守的であまり大胆な行動をしない、という先入観がある。一見褒められているようだが、このような発言は時間が経つと「ひょっとして馬鹿にされてる……?」とじわじわ効いてくるものだ。


一見外国から来たような人でも、もう長く日本に住んでいるかもしれないし、外国語よりも日本語の方が得意かもしれない。見た目で判断し、話せないだろうという偏見を持って接することが問題なのだ。

マイクロアグレッションの歴史

マイクロアグレッション(Microaggression)という言葉自体は、1970年代にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアス氏が提唱したものだ。もともとアメリカでアフリカ系でない人々が、アフリカ系の人々を苦しめているようすを見て同氏が「侮辱だ」と捉えたときにできた言葉で、マイノリティに対してちょっとした悪意や偏見を持って行う行動、言動を指す。


また、2000年代にコロンビア大学教授のデラルド・ウィング・スー氏がこの言葉を再定義した。同氏は人が無意識の差別攻撃を受けたときの精神的悪影響に関する研究のなかで、マイクロアグレッションを「特定のコミュニティに属しているというだけで否定的なメッセージを向けられる、日常的なやり取り」としている。


日本では、在日コリアン青年連合(KEY)が2013年前後に行ったヘイトスピーチに関する調査の中で「差別未満」というカテゴリーを設けていた。差別とまではいかないが、聞いた人々が不快な思いをするような発言のことを指すものである。

マイクロアグレッションと「差別」の違い

マイクロアグレッションは、差別の一種である。しかしやっかいなのは、発言をした相手が「差別している」という意識がないことも多いということだ。些細な日常の会話であり、むしろ本人なりに褒めたつもりなのかもしれない。


こうした隠れた攻撃性に気付き、声をあげた人が「考えすぎだ」「スルーすればいい」「そんなに気に入らないなら出ていけ」などと非難を浴びることさえある。特定の人々が嫌い!というわかりやすい差別ではなく、見る人によっては差別に見えない細かなやりとりだからこそ、多数派である人々は無視できる、という不公平な構造があるのがマイクロアグレッションである。何年たっても無意識な差別を受けて、「自分はアウトサイダーである」と思わされることは、自尊心が喪失し、うつ、気力の低下、仕事の生産性などさまざまな悪影響につながる。


その一方で、マイクロアグレッションという概念に批判的な声もある。アメリカで社会学を研究するブラッドリー・キャンベル氏とジェイソン・マニング氏は、2018年に共同で出版した著書『Rise of Victimhood Culture(被害者文化の台頭)』の中で、マイクロアグレッションは「被害者意識(Victim mentality、何か問題が起こったときに即座に自分はその被害者・犠牲者だと思うこと)」を助長させ、当人同士で問題解決する力を低下させ、被害者・加害者といった二者の道徳的な対立を生み出すとしている。

マイクロアグレッションを行わないための対策とは

とはいえ、マイクロアグレッションを誰かに行うのは本意ではない。その対策としては、シンプルだが発言をする前に一度振り返ることだ。この発言は相手に対して失礼にあたらないだろうか、無知やちょっとした関心から質問していないだろうか、相手の返答に自分は何を期待しているのだろうか?


一番大切なことは、コミュニケーションを取る相手を尊重することである。相手は自分と同じ人であり、自分の関心を満たすコンテンツではない。どのような人間関係にも言えることだが、これを徹底することでマイクロアグレッションを防ぐことが可能になる。


レン
【参照サイト】マイクロアグレッション概念の射程

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表現の自由とは何か

鳥山仁という人のツィートを某漫画家がリツィートしたものだが、つまりその漫画家も同意見ということだろう。これが表現規制反対派の論理なのだろうか。キチガイの論理である。
キリスト教を信仰していない人間はすべて異端者だから火あぶりにするべきだ、という思想みたいなものだ。
下のツィートの場合、最初から「なぜ二択だと断定できるのか」という疑問が当然生じるし、その比喩がキチガイ的である。表現規制の問題と民族絶滅の問題がなぜ「一緒」なのか。
表現規制の問題は、「表現規制」と「公表規制」がきちんと分別されていないというのが最大の問題であって、あらゆる表現は公表される自由がある、とすれば、「ある人物を殺すのは私にとっては芸術表現だ」ということも許されることになる。部屋の中で全裸だろうが勝手だが、そのまま表に出たら逮捕されて当然だろう。


(以下引用)

表現規制はするか・しないかの二択なので、論理的に中間派は存在しない。たとえば、全ての特定民族を虐殺しろと主張する政治団体があったとして、自称中立派が「2割なら殺して良いし、それが政治的な妥協ではないか?」と反対派に対して折衷案を提示したとしたら、そいつも虐殺肯定派なのと一緒です。

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「キリスト教」=「パウロ教」

前に書いたように、パウロの「ローマ人への手紙」の、下に引用した部分には現在の「キリスト教」の、あるいはローマ・カトリックにおける「キリスト教」のエッセンスがすべて入っていると思う。それを考察してみる。

(以下引用)

「だが、いまや、律法とは無関係に、人間が神から正しい者と認めていただくための新しい道が示されている。それは律法と預言者たちによって証言されてきた道である。それは、だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる、という神のご意思であって、この新しい道は信じる者すべてに、いかなる差別もなく与えられる。人はみな罪を犯したので、神の栄光にあずかれなくなってしまった。ところが神はご慈愛を示し、キリスト・イエスの救いのお働きによって、罪を犯した人が神との正しい関係に入れるようにしてくださった。つまり神はキリストを〈なだめの供え物〉にし、もし私たちがキリストを信じるなら、いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す、という新しい救いの道を開いてくださったのである。いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった。というのも、神は人々の罪に目をつぶり、罪の代価を要求することもなく、あまりにも長くこれを忍んでこられたからである。いまや、神はご自身の公正さを示すために、キリスト・イエスを信じるすべての人を正しい者として受け入れることを明らかにしてくださった。」

(以上引用)

まず、

1:だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる

というのが、キリスト教の最大のポイントであり、それ以前のユダヤ教との分岐点であるのは明白だろう。なぜ「エホバ教」ではなく「キリスト教」なのかと言えば、「キリストを通じて人間と神がつながる」という一点によるわけだ。そして、それは「神の意思」だとパウロは言う。しかし、それがなぜ神の意思だと言えるのかは言わない。(「律法と預言者たちによって証言されてきた」とパウロは言うが、「律法」の中にイエスの事が出てこないのは当然としても、ナザレのイエスという人物が預言者たちが言ってきたキリスト=救い主であるかどうかは彼らの預言からは分からないはずである。)
ここに大きな詐欺があり、このパウロの言葉を信じてキリスト教に入る者は、実は「キリストを通じて神につながる」のではなく、「パウロを通じて神につながる」のである。そして「神につながる」かどうかは証明されていない。つまり、ただの幻想にすぎない可能性が大なのである。言い換えれば、「キリスト教」とは実は「パウロ教」であり、キリスト(イエス)は単なる「物言わぬ(既に死んでいるから言えない)人形」であるわけだ。あえて言えば、イエスの教えはイエスの言葉にしか存在せず、イエス自身は「自分がキリストである」とも「私を信じれば、神に救われる」とも一言も言っていないはずである。(「したがってヴェルメシュは、ペテロへの答えも大祭司やピラトへの答えも、イエス自身はキリスト(メシア)であることを否定したものと理解すべきだという。」山本七平「聖書の常識」より)
パウロとは、キリストを利用して「宗教の帝国」を作った人間であり、「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」はまさしくその陰画だ、と私は思っている。まあ、ドストエフスキーはローマ教会を嫌っていたが、パウロを嫌っていたかどうかは分からないので、これは私の主観的意見である。しかし、ローマ教会を嫌うなら、その建設者とも言えるパウロを否定するのが当然だろう。

その他の部分について簡単に触れておく。

2:人はみな罪を犯した

というのは、つまり「原罪説」だろう。この「人」というのは文字どおり全人類である。つまり、アダムとイブが神の言いつけに背いたこと(これ自体、非常に奇妙な話で、知恵の木の実を食べたために楽園を追放されたと言うが、無邪気な子供の目の前にケーキを置いて、「食うな」と命令して、それを子供が食べたら家から追放する親がいるだろうか。)だけでなく、その子々孫々に至るまで全人類は永久に罪を負うらしい。あるいは、その「罪」は、イエスを殺した、あるいは見殺しにしたことだとするなら、これは後に出て来るパウロ自身の言葉と矛盾する。その部分を先に書けば、

3:いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す

4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった

である。つまり、キリスト(イエス)の死は神が設定したものである、ということだ。この件に関しては、キリストを死刑にさせた者たちも死刑にした者たちもまったく無実だということになる。
そうなると、2の「
人はみな罪を犯した」の罪とは何なのか、というのが再度問題になるだろう。少なくとも、生まれたばかりの幼児は何ひとつ罪を犯していないはずだ。とすれば、「人はみな罪を犯した」と言うためには、あらゆる人間はその祖先すべての罪を背負っている、というとんでもない論になる。仮にそれがアダムとイブの罪の話なら、全人類はアダムとイブから生まれた、ということが証明されないとならないだろう。白人も黒人も黄色人種もすべて兄弟だ、となる。ならば、なぜ人類はこれほど種族や民族ごとにいがみあうのか。まあ、少なくとも私は、自分がたとえアダムとイブの末裔だとしても、そんな先祖の罪を相続する気はまったく無い。
そして、キリスト教の神についても、


4:いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった

という、とんでもない考え方をする神ならば、まったくくだらない神だとしか思わない。神をこのような存在だとすること自体が最大の涜神だろう。

ということで、私は「キリスト教」、いや「パウロ教」はまったく信じない。イエスという存在自体は、あるいは人類史の奇跡かもしれないと思っている。






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「大審問官」としてのパウロ

私の考えでは、キリストの教えを変質させ、「キリスト教」を作ったのがパウロであり、パウロがローマ教会の土台を作った「イエス・キリストへの最大の反逆者」だと思っているのだが、そのパウロの「ローマ人への手紙」の中に、「キリスト教」の基本思想が書かれていると思う。そして、それこそが、非キリスト教世界の人間がキリスト教を信じられない、最大のポイントであるかと思うので、その重要箇所を「平明訳・新約聖書」(角川文庫)から書き抜いてみる。この文庫本自体は文字通り平明な訳をしていて理解しやすい。

(以下引用)赤字部分は夢人による強調。

「だが、いまや、律法とは無関係に、人間が神から正しい者と認めていただくための新しい道が示されている。それは律法と預言者たちによって証言されてきた道である。それは、だれでもイエス・キリストを信じる信仰によって神から正しい者として認められる、という神のご意思であって、この新しい道は信じる者すべてに、いかなる差別もなく与えられる。人はみな罪を犯したので、神の栄光にあずかれなくなってしまった。ところが神はご慈愛を示し、キリスト・イエスの救いのお働きによって、罪を犯した人が神との正しい関係に入れるようにしてくださった。つまり神はキリストを〈なだめの供え物〉にし、もし私たちがキリストを信じるなら、いけにえとしてのキリストの血のゆえに私たちの罪を許す、という新しい救いの道を開いてくださったのである。いけにえとしてのキリストの死は、神の正しさを示すために必要なものであった。というのも、神は人々の罪に目をつぶり、罪の代価を要求することもなく、あまりにも長くこれを忍んでこられたからである。いまや、神はご自身の公正さを示すために、キリスト・イエスを信じるすべての人を正しい者として受け入れることを明らかにしてくださった。」

赤字にした部分が、私がまったく納得できないところや、理解しがたいところである。特に、「なぜパウロごときに『神の意思』や『神の考え』がわかるのか」というのが納得できない。彼はモーゼのように直接に神の声を聞いたわけではない。つまり、彼が「神の意思」とか「神の考え」としているのはすべて「パウロ自身の意思・考え」にすぎないとしか思えないわけである。そのために、彼は「キリストの死を利用した」わけだ。彼はイエス・キリストとも直接会っていない。だから、キリスト(イエス)の思想を伝聞でうっすらとしか知らないわけで、福音書(おそらく、イエスの死後数年後に膨大に作られた流伝)から想像したにすぎないのである。つまり、「キリスト教」とは、その骨格のほとんどがパウロの創作だ、というのが私の考えだ。

「イスラム教徒はイエス(イサ)をマホメットにつぐ最大の預言者とみるが、パウロはまったく評価していない」(山本七平「聖書の常識」)

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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