『ザ・フェデラリスト』は合衆国憲法制定直前に、世論を連邦派に導くためにジョン・ジェイ、ジェイムズ・マディソン、アレグザンダー・ハミルトンの三人によって書かれた。直接の理由はジェイの記すところによれば、「一つの連邦の中にわれわれの安全と幸福を求めるかわりに、各邦をいくつかの連合に、あるいはいくつかの国家に分割することにこそ、われわれの安全と幸福を求めるべきであると主張する政治屋たちが現われだした」 からである。(『ザ・フェデラリスト』、斎藤真訳、『世界の名著33』、317頁) アメリカは一体でなければならない。「この国土を、非友好的で嫉妬反目するいくつかの独立国に分割すべきではない」(同書、318頁) というのがフェデラリストたちの立場であった。 さて、このとき連邦に統合されることに反対した人々が掲げたのが「自由」の原理だったのである。連邦政府に強大な権限を付与することは、州政府の自由を損ない、さらには市民の自由を損なうことだ、と。だから、まことにわかりにくい話になるが、このとき「自由」の対立概念は「連邦」だったのである。明らかなカテゴリーミステイクのように思われるが、「自由」と「連邦」はゼロサムの関係にあるという考え方がその時点ではリアリティを持っていたのである。そのことは次のジェイの文章から知れる。 「同じ祖先より生まれ、同じ言葉を語り、同じ宗教を信じ、同じ政治原理を奉じ、(...)一体となって協議し、武装し、努力し、長期にわたる血なまぐさい戦争を肩を並べて戦い抜」いたアメリカ人は独立戦争のあと「13州連合(the Confederation)」を形成した。しかし、この政体は戦火の下で急ごしらえされたものであったので、「大きな欠陥」があった。 「自由を熱愛すると同様、また連邦にも愛着をもちつづけていた彼らは、直接には連邦(ユニオン)を、間接には自由を危殆ならしめるような危険性があることを認めたのである。そして、連邦と自由とを二つながら十分に保障するものとしては、もっとも賢明に構成された全国的(ナショナル)政府(ガバメント)しかないことを悟り(...)憲法会議を召集したのである。」(318-9頁) よく注意して読まないと読み飛ばしそうなところだが、ここでジェイは連邦と自由を両立させるのは簡単な仕事ではないということを認めているのである。自由だけを追求すれば、連邦は存立できない。連邦が存立できなければ、自由は失われる。だから、自由と連邦を「二つながら十分に保障する」工夫が必要なのだ。そのとき、連邦がなければ自由が危機に瀕することの論拠にジェイが選んだのは、「侵略者があったときに誰が戦争をするのか?」という仮定だった。 独立直後の合衆国は英国、スペイン、フランス、さらには国内のネイティヴ・アメリカンとの軍事的衝突のリスクを抱えていた。仮にある邦がこれらの国と戦闘状態に入ったときに、戦闘の主体は誰になるのか? 邦政府が軍事的独立を望むのなら、邦政府はとりあえずは単独で外敵に対処しなければならない。 「もし、一政府が攻撃された場合、他の政府はその救援に馳せ参じ、その防衛のためにみずからの血を流しみずからの金を投ずるであろうか?」(329頁)。 ずいぶんと生々しい話である。私たちはいまのアメリカしか知らないから、例えばヴァージニア州が外国軍に攻撃されたときにコネチカット州が「隣邦の地位が低下するのをむしろよしとして」傍観するというような事態を想像することができない。あるいは「アメリカが三ないし四の独立した、おそらくは相互に対立する共和国ないし連合体に分裂し、一つはイギリスに、他はフランスに、第三のものはスペインに傾くということになり」(330頁)、大陸で代理戦争が始まったらどうするというようなことを想像することができない。しかし、ものごとを根源的に考えるというのは、その生成状態にまで立ち戻って考えるということである。いまのようなアメリカになる前の、これから先何が起きるかまだ見通せないでいる時点に立ち戻って、そこで自由と連邦の歴史的意味を吟味しなければならない。 外敵の侵略リスクを想定して、その場合に自由を守るためには、邦政府に軍事的フリーハンドを与えるべきか、それとも連邦政府に軍事を委ねるべきか、いずれが適切なのか。それがジェイの提示した問いであった。 連邦政府に軍事を委ねるというのは常備軍を置くということである。だが、地方分権派は常備軍というアイディアそのものにはげしいアレルギーを示した。世界最大の軍事力を持ついまのアメリカを知っている私たちにはにわかには信じにくいことだが、合衆国憲法をめぐる最大の論争は実は「常備軍を置くか、置かないか」をめぐるものだったのである。 地方分権派が常備軍にはげしいアレルギーを示したのは、常備軍は簡単に権力者の私兵となって市民に銃口を向けるという歴史的経験があったからである。これは独立戦争を戦った人々にとっては、恐怖と苦痛をともなって回想されるトラウマ的記憶であった。たしかに英国軍は国王の意を体して、植民地人民に銃を向けた。それに対して、自らの意志で銃を執って立ち上がった「武装した市民(militia)」たちが最終的に独立戦争を勝利に導いた。だから、戦争をするのは職業軍人ではなく、武装した市民でなければならない。これはアメリカ建国の正統性と神話性を維持し続けるためには譲ることのできない要件だった。現に、独立宣言にははっきりとこう明記してあった。 「われわれは万人は平等に創造され、創造主によっていくつかの譲渡不能の権利、すなわち生命、自由、幸福追求の権利を付与されていることを自明の真理とみなす。(...)いかなる形態の政府であろうと、この目的を害するときには、これを改変あるいは廃絶し、新しい政府を創建することは人民の権利である(it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government)」 独立宣言は人民の武装権・抵抗権・革命権を認めている。独立戦争を正当化するためにはそれを認めることが論理的に必須だったからである。だから、独立戦争直後に制定されたペンシルヴェニアとノース・カロライナの邦憲法には「平時における常備軍は、自由にとって危険であるので、維持されるべきではない」と明記されている。ニュー・ハンプシャー、マサチューセッツ、デラウェア、メリーランドの邦憲法はいくぶん控えめに「常備軍は自由にとって危険であるので、議会の承認なしに募集され、あるいは維持されるべきではない」としている。 「常備軍は自由にとって危険である」というのは建国時のアメリカ市民の「気分」ではなく、「成文法」だったのである。そのことを忘れてはならない。 それに対して、フェデラリストたちは外敵の侵入リスクをより重く見た。ことは「国家存亡の危機」にかかわるのである。ハミルトンは「国防軍の創設、統帥、意地に必要ないっさいのことがらに関しては、制約があってはならない」 と主張した。(346頁) 強大な国防軍を創設すべきか、常備軍は最低限のもの、暫定的なものにとどめておくべきか。この原理的な対立は結局、憲法制定までには解決を見なかった。合衆国憲法は常備軍反対論に配慮して、常備軍の保持は憲法違反であると読めるような条項を持つことになったからである。連邦議会の権限を定めた憲法8条12項にはこうある。 「連邦議会は陸軍を召集し、支援する権限を有する。ただし、このための歳出は二年を越えてはならない。」 常備軍はどの国でもふつう行政府に属する。しかし、合衆国憲法は陸軍の召集と維持を立法府に委ねた。さらも二年以上にわたって軍隊の維持費として継続的な支出をすることを禁じた。「これは、よくみると、明らかな必要性がないかぎり軍隊を維持することに反対する重要にして現実的な保障とも思われる配慮なのである」 とハミルトンは8条12項について書いている。(351頁) アメリカが常備軍を禁じた憲法を持っていることを知っている日本人は少ない。改憲派は、憲法第九条二項と自衛隊の「矛盾」を指摘して、「憲法と現実の間に齟齬があるときは、現実に合わせて改憲すべきである」と主張するが、彼らが常備軍規定について合衆国憲法と現実の間には深刻な齟齬があるので改憲すべきであると米国政府に献策したという話を私は寡聞にして知らない。私はむしろ憲法条項と現実の間に齟齬があることがアメリカの民主制に活力と豊穣性を吹き込んでいると理解している。アメリカ市民は憲法8条12項を読むたびに、「建国者たちは何のためにこのような条項を書き入れたのか?」という建国時における統治理念の根源的な対立について思量することを余儀なくされるからである。正解のない問いにまっすぐ向き合うことは、教えられた単一の正解を暗誦してみせるよりは、市民の政治的成熟にとってはるかに有用である。
常備軍についての原理的対立は憲法修正第二条の武装権をめぐる対立において再演される。1789年、憲法制定の二年後に採択された憲法修正第二条にはこう書かれている。 「よく訓練されたミリシアは自由な邦の安全のために必要であるので、人民が武器を保持し携行する権利は侵されてはならない。」 修正第二条の文言を確定するときにどのような議論があったのかはつまびらかにしないが、これが邦の手元に軍事力を残したい地方分権派と軍事力を連邦政府の統制下に置きたい中央集権派の妥協の産物であったことはわかる。というのも、憲法制定時点でフェデラリストたちが最も懸念していたのは、外敵の侵攻と並んで邦政府と連邦政府との軍事的対立だったからである。ハミルトンははっきりと「内戦」のリスクに言及している。 「各州政府が、権力欲にもとづいて、連邦政府と競争関係に立つことはきわめて当然の傾向であり、連邦政府と州政府が何らかのかたちで争うとなると、人々は(...)州政府に必ず加担する傾向があると考えてしかるべきであることは、すでに述べた。各州政府が(...)独立の軍隊を所有することによって、その野心を増長せしめられることにでもなれば、その軍事力は、各州政府にとって、憲法の認める連邦の権威に対して、あえて挑戦し、ついにはこれをくつがえそうという、あまりにも強力な誘惑となり、あまりにも大きな便宜を与えるものになろう。」(356頁) ミリシアを邦が自己裁量で運用できる軍事力として手元にとどめたい地方分権派と、できるだけ軍事力を連邦政府で独占したいフェデラリストとのきびしい緊張関係のなかで憲法は起草され、憲法修正が書き加えられた。原則として常備軍を持たないとしたこと、軍隊の召集・維持の権限を立法府に与えたこと、市民の武装権を認めたこと、これらは連邦派の側からすれば不本意な譲歩だっただろう。連邦派の抵抗の跡はかろうじて「よく訓練された(well regulated)」と「自由な邦の安全のため(the security of a free state)」という二重の条件に残されている。 ミリシアはのちにNational Guard に改称された。日本語では「州兵」と訳されるが、これは独立戦争の英雄だったラファイエット将軍が母国でフランス革命の時に率いたGarde Nationaleに敬意を表して改称されたのであって、原義は「国民警備兵」である。一方で武装した市民たち自身はいまも「ミリシア」を名乗り続けている。2021年1月20日のバイデン大統領の就任式では、「武装したトランプ支持者」の乱入に備えて「州兵」15000人が配備されたと日本のメディアは報じたけれど、彼らは「暴徒と兵士」でも「デモ隊と警官」でもなく、いずれも主観的には「ミリシア」だったのである。
そこからアメリカにおける自由の特殊な含意が導かれる。絶対自由主義者は「リバタリアン(libertarian)」を名乗る。彼らは公権力が私権・私有財産に介入することを認めない。だから、徴兵に応じない(自分の命をどう使うかは自分が決める)、納税もしない(自分の資産をどう使うかは自分が決める)。ドナルド・トランプはリバタリアンだったので、四度にわたって徴兵を逃れ、大統領選のときも税金を納めていないことを公言してはばからなかった。そういう人物が大統領になって、公権力のトップに君臨することができるのは、公権力が市民的自由に介入することへの強い拒否がアメリカの政治文化の一つの伝統だからである。 トランプ統治下のアメリカでCOVID-19の感染拡大が止まらず、世界最高レベルの医療技術を持った国であるにもかかわらず、感染者数でも死者数でも世界最多を記録したのは、医療についても、公権力の介入を嫌う人がそれだけ多かったからである。 『トランピストはマスクをしない』というのは町山智浩のアメリカ観察記のタイトルだが、このタイトルは疾病のリスクをどう評価し、どう予防し、どう治療するかという、本来なら科学的に決定されるはずのことがらが「自由か統制か」という政治理念の選択問題にずれこんでしまうアメリカの特異な風土を言い当てている。 感染症は、全住民が等しく良質な医療を受ける医療システムを構築しないかぎり終息させることができない。だが、そのためには公権力が患者の治療やワクチン接種といった医療サービスを無償で提供する必要がある。医療を商品と考え、金がある者は医療が受けられるが,金がない者は受けられないという市場原理を信じる人たちの眼には、これは医療資源を公権力が恣意的に再分配する社会主義的「統制」に映る。 だから、自由と平等は実は両立させることがきわめて難しい政治理念なのである。私たちはフランス革命の標語に慣れ親しんでいるせいで、「自由・平等・博愛」がワンセットのものだと考えているけれど、それは違う。平等は、公権力が強力な介入を行って、富める者の私財の一部を奪い、力ある者の私権の一部を制限して、それを貧しい者、弱い者に再分配することなしには、絶対に成就しないからである。平等を実現しようとすれば、必ずある人たちの自由は損なわれる。それも、その集団において相対的に豊かで、力があって、より活動的な人たちの自由が損なわれる。 ミルの論点を思い出そう。平等は「民衆の中でもっとも活動的な部分」の私権を制限し、私財を没収することによってしか実現されない。そして、この「活動的な部分」はミルによればまさに「自分たちを多数者として認めさせることに成功」したがゆえに「活動的」たりえた人々なのである。平等は「多数の市民」の自由を公権力が制約するという図式においてしか実現しない。そして、当然ながらそのことに「多数の市民」は反対するのである。 いま、世界の最も富裕な8人の資産は、最も貧しい36億人が保有する資産と同額である。それくらいに富は偏在しているわけだけれども、その貧しい36億人のうちにおいてさえ、ジェフ・ベソスやビル・ゲイツとともに自分は「多数者」の側にいると信じて、公権力が私権を統制し、私財を公共財に付け替えることに反対する人たちが大勢いる。それは富豪であるトランプの支持基盤が「ホワイト・トラッシュ」と呼ばれる白人貧困層であったことに通じている。彼らは平等よりも自由の方を重く見る政治的伝統を継承しているのである。 その「自由主義」思想は「独立宣言」に源流を持っている。「独立宣言」の先ほど引いた「抵抗権」を保障した箇所の直前にはこう書いてあるからだ。 「われわれは、以下の真理を自明のものと信じる。すなわち、すべての人間は平等なものとして創造され、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている、と。(We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness)」 すべての人間は平等なものとして、創造主によって創造されたのである。ここでは、平等はすべての人間の初期条件であって、未来において達成すべきものとしては観念されていない。政府は生命、自由、幸福追求の権利を確保するために創建されたものであって、平等の実現は政府の仕事にはカウントされていない。平等はすでに創造主によって実現している。だから、政府が配慮すべきは人民の生命と自由と幸福追求に限定されるのである。「すべての人間は平等なものとして創造されている」と宣言されてから奴隷制が廃絶されるまでに86年かかり、公民権法が成立するまでにさらに101年かかり、それから半世紀以上経って、いまだにBlack Lives Matter が黒人に白人と平等の人権を求めなければならないのは、平等の実現はアメリカの建国時でのアジェンダに含まれていなかったからである。そして、その政治文化はいまも生き続けている。
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| 10時間前非表示・報告なるほど、稚内プレスの社長でしたか。
部下から『この様な記事は、、、』とは言えなかったんですね。言ったら『誰に対して言ってるんだ!生意気だ』と殴られるか叩かれるかはたまた降格か馘になるかだったんですね。社長の記事読んで理解しました。
thu*****
| 8時間前非表示・報告女性を蔑視し身内に対しては暴力で支配したことを、さも時代の当たり前として語ってるけれど
この方まだ60代みたいですね
30代の頃の反省なんて言ってますけど平成に入ってるじゃないですか
かなり少数派だったと思いますよ
特に昭和から平成への変わり目は、雇用機会均等法やセクハラに注目が集まってた頃ですもの
私の実父、舅は戦中生まれですけど妻にも身内にも、男女関係なく暴力なんてふるいません
私だって父に殴られたり怒鳴られたりしてません、勿論夫にも
虐げられてた女性もあの時代は当たり前だったなんて思わないで
非常に罪深いことをされ特殊な環境にいたんです
pip*****
| 10時間前非表示・報告当方女性。
男女平等っていうけれど、女性が『結婚相手の年収は〇〇円以上ないと』『男のくせにそんなこともできないの』『男なんだから泣くな』などと公言しても大した問題にならないのはいいのかな。
セクハラ行為や発言だって女性が男性にするのはあまり問題視されないし。
結構エグいよ。女性からのセクハラは。
私が新卒で入社した時、男性と同じように責任のある仕事をして同額の給与をもらいたいと考える人と、女性なのだからたとえ給与は低くとも残業や責任のある仕事はしたくないと考える人がいた。
まずはここを何とかしないと男女平等なんて夢のまた夢じゃないのかな。
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| 7時間前非表示・報告こやつはまだ全然分かっていない。
>このところ漸く女性の社会的地位が上がるにつれ国際女性デーが根付きつつあるも世界の潮流の中では
「漸く」「世界潮流」だのが出てくる時点で本心から理解しているわけではなく「流行りモノに飛びついているだけ感」が滲み出ている。そうじゃなくて女性の尊重、というより正確には男女問わない尊重は人類の誕生に遡って適用されるべきものであって、最近の風潮だから従うのでは断じてない。この点はメディアも理解していないように見受けられる。