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労農派対講座派という「コップの中の嵐」「蝸牛角上の争い」

私はマルキシズム自体を否定する古典的社会主義者なので、日本におけるマルキシズムの「労農派対講座派」論争についての知識すらないが、改めて調べてみて、その論争のくだらなさにあきれた。まさに「コップの中の嵐」であり、学生運動などが様々なセクトに分かれてマルキストの内部的闘争に明け暮れ、大衆から完全に遊離した原点がここにあるという思いすらある。
日本の社会主義思想の未成熟と沈滞(それは社会の不平等をそのまま維持する原因になった。)の原因は彼らマルキストたちの精神的幼稚さにある、と言っていい。
ちなみに、「文芸春秋8月号」の特集「日本左翼100年の総括」の一部である池上彰と佐藤優の対談の中で、佐藤優の発言によると、社会党の土井たか子は、「憲法で一番大事なのは(象徴)天皇を規定した第一条から第八条だ」と言っていたらしい。佐藤は彼女を「尊皇主義者」(ちゃんと「尊王」ではなく「尊皇」と表記)と言っている。つまり、社会主義と尊皇主義は矛盾しない、ということである。


(以下引用)




経済、景気・1,373閲覧・50


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阿蘇地☆曳人(あそち☆えいと)


2012/4/30 12:47


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「利他主義」とは何か

「東海アマ」ブログの一節だが、「利他主義」というものについて考察してみたい。

東海アマ氏の定義では

人が自分よりも他人を大切にする思想を「利他主義」と呼ぶ

ということになっているが、これは「自己犠牲」というものであって、「主義」にはなり得ないだろう、と私は思う。つまり、愛する人や愛する我が子のために自分の命を犠牲にするという行為はしばしば見られるが、それは「主義」でも何でもなく、普段の感情の習慣の結果だと思う。毎度言うが、感情は理性とは別の中心を持つのであり、理性(言い換えれば「主義」)によって我が身を他人の犠牲にする人間はほとんどいないだろう。キリストでさえ、自分の処刑の前に「神よ、この盃(死の苦難)を私より去らせたまえ」と祈り、槍に刺されて死ぬ間際には「我が神、我が神、何ぞ我を捨て給いし」と言ったのである。これらは感情の言葉であり、理性の言葉ではない。世界に、キリスト以上の高貴な精神を持った人間がたくさんいるなら「利他主義」という言葉も意味があるだろうが、そうでなければ無意味な言葉だろう。
私の思想では人間は「自己愛の動物」であり、その点ではすべての動物の「自己保存の本能」とまったく同じである。人間はそれを言葉で装飾するだけであり、また社会生活を営むうちに、他者を自分と等しく愛する経験をし、あるいは自分以上に他者の命を大事に思うこともあるが、それは基本的に他者を「自分の自我の拡大」とするからだろう。たとえば、子供が、拾った石ころを大事にして、それを母親が捨てると怒ったりするが、それはその石ころがその子供の「自我の拡大」であり、子供の一部だからである。
だから、他人の愛する物を捨てることは、その人を捨てるに等しい行為である。よく、夫が趣味で集めた品物を夫の留守中に妻が勝手に捨てて喧嘩になることがあるが、それは、「相手の愛する物は、その相手の一部である」ということを理解していないからである。
そうすると、東海アマ氏の言う「利他主義」つまり「他者を自分よりも大切にする」ことが本当に可能かどうか、非常に怪しいものだ。悟り切った坊さん(宗教者)でも、まったくの他人のために自分の命を捨てた事例はほとんど無いのではないか。

(以下引用)

 人が自分よりも他人を大切にする思想を「利他主義」と呼ぶが、2050年以降は、きっと「利他主義」を掲げた「極楽浄土」になるのだろうと私は思う。
 ただし、そのためには、第二次世界大戦を超える残酷、残虐な戦争と破壊を経験しなければならない。

 ネット上には、二極化の分析が溢れているが、「目覚め」だとか「愛=許し」だとか「ゲートが閉じる」だとか、抽象的な表現ばかりで、現実の人生にフィードバックできる論理、概念は甚だ少ない。
 そもそも「本当にアンタ、自分の言葉を理解できてるのか?」と突っ込みたくなるようなキレイゴトの抽象的概念の羅列が多すぎるのだ。
 まるで観念の言葉遊びとしか思えない。

 「人を許す」なんて言ったって、私の近所に住んでる泥棒は、私の道具類を片っ端から盗み出して、それを警察に告発しても、「おまえがウソをついている」と決めつけられて、精神病院に連れて行かれるような私の体験をしてみれば、泥棒に対して「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」なんてキラキラした目で「愛の世界」を語ることが、どれほど空しく愚かなことか思い知ることになるだろう。

 私は、近所の泥棒に対して強烈な殺意を抱いた。だが、やってしまえば、もうブログも書けないし、刑務所暮らしに快適さも感じられないから仕方なしに我慢しているだけだ。そのストレスは筆舌に尽くしがたい。
 しかし、私は、この得がたい体験から、いろいろ学ぶものがあった。
 それは、自分が、どれほど背伸びをした自己撞着に陥っていたかを思い知らされたことだ。

 こうした、個人の悪意による迫害、権力による迫害に遭ったとき、絶対にやってはいけないことを私は激しく学ばされた。
 それは、自分の限界を知り、決して感情に支配されてはならないということ、犯人と直接対決してはならない。そして、決して背伸びしてはならない。
 自分の限界、小ささ、愚かさを正しく理解し、無理をせず、決してスマートに解決しようとせず、泥臭く、小さな対策を確実に積み重ねることだ。

 私の相手Aは、ただ者ではなかった。正真正銘のプロの泥棒であり、監視カメラの赤外線の到達距離さえ見切って死角から侵入してくる。そして恐るべき卑劣な性格で、あらゆるウソをついて人を平然と騙す人物だった。
 この男と立ち向かうには、「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」を肝に銘じて、素朴で泥臭い対策を積み重ねて、じっくり構えて釣り上げるしかない。
 そして、まだそれは成功していない。すでに被害を受け始めて三年も経つのに。唯一の希望は、Aが、この土地から逃げられないことだ。

 結局、このようなプロの迫害者と対峙するには、自分の弱点を知り、泥臭い小さな努力を重ねて網にかかるのを待つしかないのだ。
 この経験は、私の人生でも初めての深刻なものであり、自分がどれほど実力もないのに背伸びした思い上がりに浸っていたか、強烈に思い知らされるものであり、人生のうちに一度は、こんな経験をさせられるのだと心に刻むしかなかった。

まあ、ネガティブに対抗するポジティブ側が、これからどのように生きていったらいいのか? という視点でも、この体験は、大きな教訓を与えてくれた。
 最大の教訓は、「絶対に自分の実力以上の背伸びをするな」ということだ。
 ポジティブ側の力は小さい。「調和」を求めて、いろいろな試行錯誤をやるのは当然だが、多くの場合は、自然の摂理を無視した強引なビジョンを実行し、行き詰まることになる。それは自分への過信が生み出すものだ。

 ネガティブ側は、これから憲法改悪、9条破棄、原発再稼働、新設、核兵器保有と、すでに数年前から予告してきたように「カラスの勝手でしょ」と、国民の反戦平和ポジティブ勢力の意思を完全に無視して、決して反対勢力と邂逅しようとせず、ネガティブ国家主義に突っ走るだろう。
 そうしてホンモノの戦争がやってくる。原発事故も再発するだろう。

 こんなとき、反対運動を計画してみても、それが盛り上がり勝てるような条件は存在しない。
 ポジティブ側も「カラスの勝手でしょ」と、持続可能な未来に向けて、小さな歩みを続けるしかないのだ。
 それは、何度も書いているように、過疎の深い田舎に、共同体農地を確保し、自給自足のダーチャ農園を作り出すことだ。

 まずは、山奥に自分たちの共同農地を確保し、一歩でも二歩でも自給自足ライフスタイルを獲得することだ。
 これがネガティブ勢力が滅んだあとに、ポジティブ勢力が生き残る唯一の道であると私は考えている。
 少しずつ、一歩ずつ遅遅として、利他主義思想を共有した共同体を建設することだけが、持続可能な唯一の道であると思う。

実力以上のことは決してできない…… これが教訓だ。

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性的自由と資本主義

別ブログに書いた記事だが、ここでも考えてみたい。
「女性の性的自由のパラドックス」
とは、女性が自分の体をカネで売ることで「自分は(相手がカネを出す)価値のある存在だ」という自信を持つという、引用文中の援交少女の心理に反して、援助交際を重ねるごとに彼女の「総体的な人格的価値」が低下していく、ということを私は考えていたようだ。この思想はまさに父権主義的というか、封建主義的思想かもしれないが、男の多くは、自分が恋愛したいと思う相手の男性経験が多いことをけっして喜ばないのではないか。もちろん、昔の男性の中には芸者や女郎と結婚した男も多かっただろうが、現代の男性のほうが、性的にはむしろ寛容さは少ない気がする。性的経験の豊富な素人女性を昔は「公衆便所」と言ったものである。誰でも使用可だから、あまり価値は高くないわけだ。無料だから価値が高くないわけではない。「椿姫」の昔から高級娼婦との恋愛はドラマにもなったが、それはそういう恋愛が希少だったからではないか。
まあ、この点に関しては、私も内田樹に同意して「身体の道具化」は、危険だ、と見る。性交そのものが危険だからこそ、昔は従軍慰安婦は性病検査を徹底したのである。だが、今では素人女性の間で梅毒が拡大しているらしい。カネを払えば殺人鬼でもお客さんだ、ということもある。まあ売春以外に職業能力が無い精神薄弱女性以外は、やらないほうがいい仕事だろう。


(以下自己引用)

精神の資本主義とセックスワーク



或る種のフェミニズム運動における「セックスワーク擁護論」に関する内田樹の論考の一部である。長いので、面白く感じた部分だけ転載する。論理的には他の部分のほうが明晰だが、この部分に女性の「性的自由」のパラドックス(それは「肉体の道具化」から生じている)が指摘されていて面白いからだ。内田の論自体には、まだ不十分な印象があるが、それがなぜかは「現代倫理学」の一部としていずれ考察したい。
売春を実行中の女性が客を軽蔑している、という視点は非常に重要だと思う。これは、女を買う男自身も自己軽蔑をしているのである。つまり、「欲望の動物」としての猿のような自分のどこにも、売春の場では高貴性が無いからだ。しかし、それは売春をする女性が客を見下げる資格があるというわけではない。性欲があるのは男も女も同じであり、性交の場ではどちらも動物なのである。つまり、「カネを払う」ことで、男は自分が相手より下の存在であるとされるわけだ。まさに、資本主義化された精神の一面だろう。

(以下引用)


4・
 上野千鶴子は小倉千加子との対談で、売春は女性にとって貴重な自己決定機会であるという議論を展開している。


「小倉:そしたら上野さんは、援助交際する女の子の気持ちも分かりませんか?
上野:わからないことはない。ただではやらせないという点で立派な自己決定だと思います。しかも個人的に交渉能力を持っていて、第三者の管理がないわけだから。(・・・) 援交を実際にやっていた女の子の話を聞いたことがあるんですが、みごとな発言をしていました。男から金をとるのはなぜか。『金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ』ということをはっきりさせるためだ、と。(・・・)『私はあなたの所有物でない』ことを思い知らせるために金を取るんだ、と彼女は言うんです。」 (上野千鶴子、小倉千加子、『ザ・フェミニズム』、筑摩書房、2002年、231頁)


 上野は知識人であるから「政治的に正しいこと」を言うことを義務だと感じている。だから、ここで上野は売春を単に「容認する」にとどまらず、それが端的な「父権制批判」の「みごとな」実践であることをほめ称えることになる。自分が容認するものである以上、それは「政治的に正しい」ものでなければならない。それは上野の意思というより、上野が採用した「論理の経済」の要請するところである。
 たしかに売春こそ父権制批判の冒険的実践の一部であるとみなすならば、フェミニスト廃娼論をとらえたピットフォールは回避できる。しかし、「政治的な正しさ」を求めるあまり上野は売春をあまりに「単純な」フレームの中に閉じ込めてしまってはいないか。
ここのわずか数行で上野が売春について用いているキーワードをそのまま書き出すとその「単純さ」の理由が分かる。
「自己決定」「交渉能力」「第三者」「管理」「金」「金」「所有物」「金」。
 これが上野の用いたキーワードである。ご覧の通り、ここで上野はビジネスターム「だけ」を使って売春を論じている。上野にとって、売春はとりあえず「金」の問題なのである。「金」と「商品」の交換に際して、「売り手」が「買い手」や「問屋」に収奪されなければ、 それは父権制的収奪構造への「みごとな」批判的実践となるだろう。
 たしかに話はすっきりしてはいる。だが、すっきり「しすぎて」はいないだろうか。
 ここでは売春について私たちが考慮しなければならない面倒な問題が看過されている。
それは「身体」の問題である。
 売春する人間の「身体」はここでは単なる「商品」とみなされている。だが、身体を換金商品とみなし、そこから最大のベネフィットを引き出すのが賢明な生き方であるとするのは、私たちの時代における「ドミナントなイデオロギー」であり、上野が批判している当の父権制を基礎づけているものであることを忘れてもらっては困る。
 私たちの時代においてさしあたり支配的な身体観は「身体は脳の欲望を実現するための道具である」というものである。
 耳たぶや唇や舌にピアス穴を開けるのも、肌に針でタトゥーを入れるのも、見ず知らずの人間の性器を体内に迎え入れるのも、身体的には不快な経験のはずである。そのような行為が「快感」としてあるいは「政治的に正しい」実践として感知されるのは、脳がそう感じるように命じているからである。身体が先鋭な美意識やラディカルな政治的立場の表象として、あるいは「金」と交換できる商品として利用できると脳が思っているからである。
「金」をほしがるのは脳である。当たり前のことだが、身体は「金」を求めない。
 身体が求めるのはもっとフィジカルなものである。やさしい手で触れられること、響きのよい言葉で語りかけられること、静かに休息すること、美味しいものを食べること、肌触りのよい服を着ること・・・身体は「金」とも「政治的正しさ」とも関係のない水準でそういう望みをひかえめに告げる。だが、脳はたいていの場合それを無視して、「金」や「政治」や「権力」や「情報」や「威信」を優先的に配慮する。
 私は脳による身体のこのような中枢的な支配を「身体の政治的使用」と呼んでいる。
 上野が援交少女において「自己決定」と名づけて賞賛しているのは、この少女の脳がその身体を、彼女の政治的意見を記号的に表象し、経済的欲望を実現する手段として、独占的排他的に使用している事況である。少女はたしかにおのれの性的身体の独占使用権を「男たち」から奪還しただろう。しかし、それは身体に配慮し、そこから発信される微弱な身体信号に耳を傾け、自分の身体がほんとうに欲していることは何かを聴き取るためではなく、身体を「中間搾取ぬきで」100%利己的に搾取するためである。収奪者が代わっただけで、身体が脳に道具的に利用されているというあり方には何の変化も起こっていない。
 セックスワーク論は売春の現場においては、売春婦の生身の身体を具体的でフィジカルな暴力からどうやって保護するかという緊急の課題に応えるべく語りだされたもののはずなのだが、それを「売春は正しい」という理説に接合しようとすると、とたんに「生身の身体」は「道具」の水準に貶められる。
「金を払っていないあいだはあなたのものではないよ」と宣言することは、「金をはらっているあいだはあなたのものだ」ということに他ならない。だが、それは世界娼婦会議の売春婦たちが望んでいる、「金をはらっているあいだも、はらっていないあいだも」、売春が違法であろうと合法であろうと、人間の身体に対しては無条件にそれに固有の尊厳を認められるべきだという考え方とはずいぶん狙っているところが違うような気がする。


5・
 身体を道具視した視座からのセックスワーク論は、上野に限らず、身体を政治的な権力の相克の場とみなすフーコー・クローンの知識人に共通のものだ。次の事例はその適例である。売春容認の立場を鮮明にしている宮台真司のインタビューに対して、東大生にして売春婦でもある女性は売春の「効用」を次のように熱く語っている。


 「いろいろ経験したけど、自分の選択が正しかったと今でも思います。ボロボロになっちゃったから始めたことだったけれど、いろんな男の人が見れたし、今まで信じてきたタテマエの世界とは違う、本音の現実も分かったし。あと、半年も医者とかカウンセラーとかに通って直らなかったのに、売春で直ったんですよ。(・・・)少なくとも私にとって、精神科は魂に悪かったけれど、売春は魂に良かった。(・・・)私は絶対後悔しない。誇りを売っているわけでもないし、自分を貶めているのでもない。むしろ私は誇りを回復したし、ときには優越感さえ持てるようになったんですから。」 (宮台真司編『〈性の自己決定〉原論』、紀伊国屋書店、1998年、279頁)


 彼女の言う「誇り」や「優越感」はやや特殊な含意を持っている。というのは、この大学生売春婦が「優越感を感じた」のは次のようなプロセスを経てのことだからだ。


 「オヤジがすごくほめてくれて。体のパーツとかですけど。それでなんか、いい感じになって。今までずっと『自分はダメじゃん』とか思っていたのが、いろいろほめられて。(・・・) 最近になればなるほど優越感を味わえるようになって、それが得たくて。オヤジが『キミのこと好きになっちゃったんだよ』とか、『キミは会ったことのない素晴らしい女性だ』とか・・・。まあ・・・いい気分になっちゃいました。(・・・) オヤジは内面とか関係なく、私の体しか見てないわけじゃないですか。『気持ち悪いんだよ、このハゲ』とか思っているのも知らずに、『キミは最高だよ』とか言ってる(笑)。」(同書、276-7頁)


 上野が挙げた援交少女とこの学生売春婦に共通するのは、いずれも自分を「買う男」を見下すことによって、「相対的な」誇りや優越感を得ているということである。彼女たちは彼女たちの身体を買うために金を払う男たちが、彼女たち自身よりも卑しく低劣な人間であるという事実から人格的な「浮力」を得ている。
 しかし、これは人格の基礎づけとしてはあまりに脆弱だし退廃的なものだ。私たちが知っている古典的な例はニーチェの「超人」である。ご存知のとおり、ニーチェの「超人」は実定的な概念ではない。それは自分のそばにいる人間が「猿にしか見えない」精神状態のことを指している。だから「超人」は「笑うべき猿」、「奴隷」であるところの「賤民」を手もとに置いて、絶えずそれを嘲罵することを日課としたのである。何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動をニーチェは「距離のパトス」と呼んだ。その嫌悪感だけが人間「自己超克の熱情」を供与する。だから、「超人」へ向かう志向を賦活するためには、醜悪な「サル」がつねに傍らに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが不可欠となる。
 上野の紹介する「みごとな」援交少女と宮台の紹介する「誇り高い」売春婦に共通するのは、買春する男たちが女性の身体を換金可能な「所有物」や観賞用「パーツ」としてのみ眺める「サル」であることから彼女たちが利益を得ているということである。ニーチェの「超人」と同じく、彼女たちもまた男たちが永遠に愚劣な存在のままであり続けることを切望している。それは言い換えれば、父権制社会とその支配的な性イデオロギーの永続を切望するということである。
 この学生売春婦は性を「権力関係」のタームで語り、上野の「援交少女」は「商取引」のタームで性を語る。「権力関係」も「商取引」も短期的には「ゼロサムゲーム」であり、ゲームの相手が自分より弱く愚かな人間であることはゲームの主体にとって好ましいことである。だから、彼女たちが相対的「弱者」をゲームのパートナーとして選び続けるのは合理的なことである。しかし、彼女たちは、長期的に帳面をつけると、「自分とかかわる人間がつねに自分より愚鈍で低劣であること」によって失われるものは、得られるものより多いということに気づいていない。
 宮台によれば、「昨今の日本では、買う男の世代が若くなればなるほど、金を出さない限りセックスの相手を見つけられない性的弱者の割合が増える傾向にある。」 女性が「ただではやらせない」ようになり、そのせいで男性が「金を出さない限りセックスの相手をみつけられない」という状況になれば、たしかに性的身体という「闘技場」における男の権力は相対的に「弱く」なり、性交場面において女性におのれのわびしい性幻想を投射する「オヤジ」の姿はいっそう醜悪なものとなるだろう。当然それによって「今まで信じてきたタテマエの世界」の欺瞞性が暴露される機会が増大することにもなるだろう。だから、性的身体を「権力」の相克の場とみなす知識人たちが、売春機会(に限らず、あらゆる形態での性交機会)の増大に対して好意的であることは論理のしからしむるところなのである。
 しかし、私は依然として、この戦略的見通しにあまり共感することができない。
「自分より卑しい人間」を軽蔑し憎むことで得られる相対的な「浮力」は期待されるほどには当てにできないものだからだ。仮にもし今週一回の売春によってこの学生売春婦の優越感が担保されているとしても、加齢とともに「体のパーツ」の審美的価値が減価し、「オヤジ」の賛辞を得る機会が少なくなると、遠からず彼女は「餌場」を移動しなければならなくなる。他人を軽蔑することで優越感を得ようと望むものは、つねに「自分より卑しい人間が安定的かつ大量に供給されるような場所」への移動を繰り返す他ない。
「東電OL殺人事件」の被害者女性がなぜ最後は円山町の路上で一回2000円に値段を切り下げてまで一日四人の売春ノルマに精勤したのか、その理由はおそらく本人にもうまく説明できなかっただろう。私たちが知っているのはこの女性が「学歴」と「金」に深い固着を有していたということ、つまりその性的身体のすみずみまでがドミナントなイデオロギーで満たされた「身体を持たない」人間だったらしいということだけである。
 
 これらの事例から私たちが言えることは、売春を自己決定の、あるいは自己実現の、あるいは自己救済のための機会であるとみなす人々は、そこで売り買いされている当の身体には発言権を認めていないということである。身体には(その身体の「所有者」でさえ侵すことの許されない)固有の尊厳が備わっており、それは換金されたり、記号化されたり、道具化されたりすることによって繰り返し侵され、汚されるという考え方は、売る彼女たちにも買う男たちにも、そして彼女たちの功利的身体観を支持する知識人たちにもひとしく欠落している。性的身体はこの人々にとってほとんど無感覚的な、神経の通わない「パーツ」として観念されており、すべすべしたプラスチックのような性的身体という「テーブル」の上で、「権力闘争」のカードだけが忙しく飛び交っている。だが、この絵柄は私たちの社会の権力関係と商取引のつつましいミニチュア以外の何ものでもないように私には思われる。権力闘争の場で「権力とは何か?」が問われないように、経済活動の場で「貨幣とは何か?」が問われないように、性的身体が売り買いされる場では「身体とは何か?」という問いだけが誰によっても口にされないのである。


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伝統宗教と新興宗教の違いは何か

私は「神戸だいすき」さんを軽薄で軽信すぎると思っているが、頭はいい人で、行動力があり、情報網も広いとも思っている。で、何かの宗教教団に入っているらしいが、その名前はまだ彼女のブログで見た記憶が無い。仏教系統の新興宗教だと思うが、当人は新興宗教ではない、と言っているようだ。
その宗教論と信仰論が次の引用文のようなものだが、基本的には悪因悪果、善因善果の因果論であるようだ。これは仏教思想の中で、オーソドックスなものかどうか、門外漢の私には分からない。しかし、仏教系の新興宗教ではこの思想が悪用されていないか? つまり、あなたの今の不幸は前世や先祖の悪行が原因だから、教団に喜捨して(あるいは奉仕して)善因を積みなさい、というわけだ。
もしも因果論がそういう悪用をされているなら、新興宗教だけでなく、古来の仏教宗派のほとんどはカルト扱いされても文句は言えないように思う。(もちろん、キリスト教系のカルト宗教は仏教系よりはるかに数が多いが。キリスト教系では「終末思想」が悪用されるようだ。)
因果論と関係ないのは禅宗くらいではないか。禅宗は本質的に、どのような契機であれ、当人が悟れば、それで目的は達したという思想だと私は理解している。つまり、因果論とは結びついていないと私は思う。

(以下引用)批判のためではなく、「宗教とは何か?」の考察のネタとしてのメモである。



  • 12. 因縁因果 
  • 2022年07月16日 23:02
  • 日本国において、統一教会を持ってきたのは、岸信介です。
  • 岸信介は、安倍さんのお爺さんです。岸信介が渋谷の松濤の自宅に統一教会を招き入れたのです。
  • 今でも統一教会本部は、渋谷区松濤の岸信介の自宅の隣にあります。
  • 文鮮明の指示で日本に密入国し、西川勝という日本名で統一協会を発足させ原理運動の「教」を始めたのです日本統一教会の会長が久保木修己です。それまでは、西川勝が布教していたのです。最低です。
  • 何故、こんな宗教を日本に入れたのでしょうか戦後、GHQは日本を壊すために統一教会を入れたのです。戦争に負け、当時は創価学会が全盛だったのです。そして統一教会を日本に呼んだのです。それにしても、統一教会を日本に入れてはいけなかったのです。
     
  • 孫が統一教会の信者の息子に殺されてしまったのですから、その報いを受けたのです。あんな宗教を日本に入れてはいけなかったのです。
  • 統一教会は、韓国語を信者に教えたり、「はい!」ということを「ネッ!」と教えたり、文鮮明をお父様、救世主、キリストの生まれ変わりだと言わせている宗教です。
  • まだ、我々が知らない統一教会のダミー宗教団体がたくさんあると思います。統一教会は、土地、建物など、全ての財産を神の国である韓国に返しなさいと言うのです。 
  • 統一教会の場合は、韓国は神の国である。神の国の韓国を植民地にして絞り取ったのは日本だ。これは、神の国に対する冒涜である。日本は悪魔の国である。日本人くらい悪い民族はいないのだと教えるのです。
  • 信者に徹底的に朝鮮人を敬うことを教えるのです。こんな教えを岸信介が日本に持ってきたのです。岸信介の孫が安倍さんです。その総罰が当たってしまったのです。
  •  統一教会のやってきた悪事の総罰を安倍さんが受けたのです。だから、横死したのです。
(転載おわり)

先日、東大生時代に統一教会に入信した現在は、金沢あたりの大学教授が、取材を受けていました。

合同結婚式に出て、文鮮明を、なまで見たときに「思っていたのと違う」と、感じたのだそうです。
あれこれ批判はしなかったけど、いろいろ納得できないことが重なり、離れたみたいでした。

かつては、大学構内で「布教活動」が、行われ、統一教会、オウム真理教。創価学会などが、信者獲得に動いていたみたいですね。

現在は、その活動は見られない、と彼は話していました。

どことも「信者の高齢化」が、あり、大学生の信者には、布教をするパワーがないようです。当時のように、人数も多くないし。

わたしの教団は「所依」が、伝統仏教の経典で、文科省に許された「教育機関」を供える団体なので「新興勢力」かもしれないけど「新興宗教」とは、違います。

新興宗教というのは、仏教系と神道系に分かれますが、拝礼の作法、所作など、見える部分、本尊、護符なども、独特のものをもちいています。

伝統の方式を受け継ぐ教団は、開眼供を迎えるにあたり、護摩壇の下に五穀と、宝石を入れた宝瓶を、供えます。
四方の餓鬼霊を供養するためとか。真言宗は、特に決まりごとにうるさいです。

一切の不浄を許しません。

本当の宗教はあるのか?と言われるけど、あります。
全部が全部インチキではないけど、戦後数十年たって、もろもろの新興宗教が「のっとられて」います。始まった時は、純粋でも、今は、そうとは言えないものばかりになりました。

たぶん、天理教は、取られていないと思います。(日航123便で、10人以上の関係者が、遭難されましたね。

生長の家も政治色の強さを非難されるものの一つですが、現在4代目になって「教祖の著作を、読むことを禁止している」らしいので、もう、昔の生長の家とは違います。

そいうのばかりですよ。神道系は、特に初代がなくなると芯になる教義が、祝詞のようなもので「律する」形がないので、すぐに崩れ、「金儲け」に走ります。

さては、すべてを乗っ取りにかけたのは統一教会だったのですね。

うちの教団も、戦後、なんども、壊滅の危機に遭遇しました。常に危機はあります。私たち古い教徒は、つねに警戒しています。
そして、教団がとった方針は「徹底した政治との絶縁」です。
決して選挙にかかわらない。

幹部がやられると全体が狂う。

過去に、何度も、その危険を体験しました。教団が海外に進出する時、責任者が脱法行為をして、追放されることがあり、教団は、そのたびに、それを信者に公表しました。

人の心には天使だけではなく悪魔が眠っているのだから、すきがあれば、「魔は侵入する」。自分は大丈夫だという慢心を恐れよ。

あくまでまっすぐに。決して曲げるな。

高遠なことは理解が難しい。

でも、私の見える範囲では、おかしな行為をする人は、病気になったり、さまざまな不幸を背負って活動できなくなっていきました。
だからといって、病気になる人の信心がまちがっているという単純な方程式はありません。
人は、いろんなものを背負っているので、避けて通れない不幸もあります。

それでも、生涯かけて信じ続けて、本人も、子孫も、みんなが栄えるのでなければ、その宗教が正しいとは言えないと思います。

難しいのは、宗教に限らず「集団には、なにかしらの守護霊とか、背後霊」が、つくことです。それで、カルト化します。

そうなると、人間では考えられないような異常行動が起こったり、入信したことで精神異常になったりするようです。見えない世界に不用意にかかわることは、非常に危険です。

そういう意味では、やすやすと宗教に入るべきではありません。

にもかかわらず、身を亡ぼす集団に、人は、簡単に騙され引き寄せられます。

これは、本人のもつ悪因縁のせいで、不幸の方に引き寄せられ「この一族を不幸に落としてやる」と、執念深く狙っている怨念に倒される。

こういう人たちは、正しい宗教を嫌悪し、とんでもないものに引き寄せられます。

人間には、自分が背負う因縁が、見えないので、わからないのです。

なぜか、不幸への道の方が好ましく感じられてしまう。救われる道には向きたくない・・・それが、因縁というモノです。

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胎児の所有権と人権

「大摩邇」からの引用で、引用記事に賛同してのものではなく、「思考素材」として興味深いから転載したものだ。書かれた記事の論理は「Aには適合する論理をそれと同一とは言えないBにまで拡大する」という論理の誤魔化し(無意識なものかもしれないが)が随所にあり、完全に賛同できるものではないが、ここで問われている問題は重要である。
第一に、レイプなどによる「望まない妊娠」での胎児を堕ろすことは女性の当然の権利だと私は考えている。妊娠中の検査で胎児が障害者だった場合もそれに準じるだろう。しかし、恣意的な堕胎ははたして「当然の権利」なのかどうか。胎児の「所有権」は妊娠している女性にあるのか。胎児は「人間」と認められ、「人権」があるのか。もし人権があるなら堕胎は殺人であり、それを実行、あるいは協力した母親は殺人を行ったのではないか、といういろいろな問題が、すべて「女性の堕胎の権利」というフェミニズムの主張の中で「問題外」扱いされているのではないか。
動画を見ることはできなかったが、「妊娠中絶の権利」を主張する団体がキリスト教の牧師の所有する聖書をばらばらに破いたという事件は、アメリカのLGBT運動が「反キリスト教運動」になっていく前触れに思える。LGBTと聖書の矛盾についてはつい先日書いただけに、暗合的である。
なお、非常に女性に失礼なことを言うが、女性のかなりな割合が、「子供を産んだのは私だから、子供は私の所有物である」という思想がどこか頭の片隅にありそうな気がするwww  それは母性愛と不可分なのかもしれない。「自分の一部だから可愛い」わけで、これは父親とはかなり異なるところではないか。父親は、子供は生まれた時から別人格として見る傾向がある気がする。
私など、子供は別人格でその人権を持っているから「家庭教育」で「洗脳」する権利など親には無いのではないか、という気すらしていたのである。高島何とかというヴァイオリニストの子供に対する暴君的な教育は、あれは人権問題にならないのだろうか。まあ、昔「巨人の星」という暴君的父親が出て来る漫画があったが、あれはフィクションだし。

(以下引用)

ロー判決によって、中絶の子供を生贄にするカルトを動かしているルシフェリアンが信じられないほど明らかになった Mike Adams

さてはてメモ帳さんのサイトより
ロー判決によって、中絶の子供を生贄にするカルトを動かしているルシフェリアンが信じられないほど明らかになった Mike Adams
<転載開始>

Roe decision brings us incredible CLARITY on the LUCIFERIANS running the abortion child sacrifice cult Monday, June 27, 2022 by: Mike Adams


https://www.naturalnews.com/2022-06-27-roe-decision-brings-clarity-luciferians-running-the-abortion-child-sacrifice-cult.html#



(ナチュラルニュース左翼のワクチン押し売り、中絶扇動者、LGBT教化者、児童虐待者、トランスジェンダー性器切除者、小児性愛者、ルシフェリアン・・・今やすべて同じプールです。彼らは、地球上のすべてのキリスト教徒やプロライフを破壊するために働きながら、子どもを餌にする死のカルトの実践者の均質化されたグループになっています。


そして今、米国の最高裁が「ロー対ウェイド」を覆した余波で、彼らの内なる悪魔が全世界に姿を現したのです。



週末、悪魔に感化された中絶支持者たちは、シアトルで肥満した裸の男が子供たちの前で自転車に乗り、「黄金のシャワー」の排尿ディスプレイや、自分の排泄物を食べる人たちがいて、公共の場で汚物とペドフィリアのデモを実施しました。LGBTやトランスジェンダーを擁護する人たちは、薄着で子供たちの前でトワークを披露し、ある妊婦は、その顕著な乳房にブラックマーカーで「まだ人間ではない」と書き、それを公衆の面前に晒したのです。


青い街の警察が何もせずに見ている間にも、悪魔崇拝が全面に押し出されていたのです。あとは、LGBTルシフェリアンが、見物人が歓声をあげ、レインボーフラッグを振りながら、公衆の面前で小さな子供を性交し始めるだけです。(それもそう遠くはないでしょう・・・)


このすべてにおける贈り物?明瞭さです。


 


まともな人々は、中絶推進派の過激な左派が狂気、悪魔、純粋な悪であることがわかるようになった


今、まともなアメリカ人の間では、この戦いのどちらの側が悪に染まっているかは疑いようがありません。。なぜなら、中絶擁護派は、望まない妊娠に対する最後の選択肢とされる「まれな」あるいは「厳粛な」中絶にとどまることができなかったからです。いや、彼らは中絶を祝い、その定義を満期産の赤ん坊だけでなく、生まれてから28日目までの赤ん坊を殺すことにまで拡大しなければならなかったのです。


政治的左派にとって、中絶はもはや消極的で恥ずべき処置ではなく、むしろ賞賛されるべきものであり、何度でも繰り返されるべきものなのです。ディズニー、リーバイス、アップル、ネットフリックスなど、アメリカの25以上の有名企業が、従業員がニューヨークやロサンゼルスなどの場所で中絶手術を受けられるように、「中絶休暇」の費用を全額負担すると約束したほどです。悪魔のような左翼が妊娠し、休暇をとって生まれてくる子どもを殺すためにお金をもらえるようになったわけです。中絶ツーリズムのための企業の「利益」には限度がないため、これは際限なく繰り返されることになり得ます。


私たちは明日、これらの企業の完全なリストを公表する予定です。


 


憲法修正第14条は以前は奴隷を保護し、今は胎児を保護している


左翼の本音である大量殺人、暴力、苦しみ、死、破壊といった悪の本性は、今や全世界に公開されています。そして、理性的な人はもう・・・胎児を殺すことが「生殖に関する健康」や「人権」のために必要であると主張する左翼の嘘を信じません。本物の人権には、まだ生まれていない人間の権利も含まれなければなりません。彼らは、いかなる国家も正当な手続きなしに、人間の生命、自由、財産を奪ってはならないという、修正第14条第1項の平等保護条項によって保護されているのだから。


中絶は、ユニークで、意識があり、自覚があり、生きている人間の命を終わらせますが、その人間は一度も告訴されたことがなく、起訴され、有罪と宣告されたこともありません。その人間から生きる権利を奪うことは、アメリカにおける奴隷制度をめぐる凶悪な人権侵害を受けて合衆国憲法に追加された修正14条に違反することになります。


憲法修正第14条の人権保護を拒否することによって、中絶擁護者はこの国を、ある集団が他の集団に対して「所有権」(および支配権)を主張できる奴隷制の時代へと引き戻そうとしているのです。奴隷が完全な人間であるとみなされなかったとき、彼らは身体切除され、レイプされ、虐待され、売買され、時には殺されることさえありました。これらの行為は、人間の尊厳と人権の名の下にロー対ウェイド裁判が覆されたように、最終的には覆された恐ろしい悪事でした。しかし今日、中絶狂信者たちは、まさに同じ人権侵害を復活させようとしています。医師や母親になる者は、単にその赤ちゃんの存在が「不都合」であるという理由で、人間全体(生まれていない人間の赤ちゃん)を切断し殺害する権利があると主張しているのです。


左翼のこの定義によれば、アメリカで他のグループを「不都合」だと思う人たちは、彼らのねじれた論理では、したがって、彼らが軽蔑する人たちを殺害する権利を持っているに違いありません。これは中絶賛成派の主張を端的に表しています。ある集団のアメリカ人は別の集団のアメリカ人を殺害することができ、連邦政府はこの「殺害する権利」を、たとえそれが個人の権利を著しく侵害するとしても守らなければならないというのです。


従って、ロー対ウェイド裁判を覆すことは、米国最高裁が下した可能性のある判決の中で、実は最も進歩的なものの一つでした。アメリカにおける普遍的な人権を確立し、すべての人間を他者の暴力や殺人から保護する。さらに重要なことは、社会的弱者、つまりそのような暴力から自らを守ることが全くできない乳幼児を保護することです。


このように、ロー対ウェイド裁判を覆すことは、究極の少数派、つまり1人の少数派を守ることになるのです。


 


左翼ルシフェリアンは、自分たちが殺したいと思っている人たちを含むように人権が拡大されることに反対している


ルシフェリアン左派は、「包括性」と「寛容性」という哲学的枠組みから活動していると主張していますが、彼らの慈悲と人権の宣言は、自分たちの胎児には決して及ばないことを決して忘れてはなりません。従って、彼らは差別的であり、包括的ではありません。


彼らの「寛容」は、自分たちが望まない別の意識ある人間の生命を許容するほど強くはありません。だから、彼らはその個人を自由に殺す権利を要求するのです。つまり、「オンデマンド」です。


これらは、思いやりや共感、包括的な人々の哲学的支柱ではなく、キリストと神を拒絶しながらルシファーと同盟を結ぶ、殺人的な死のカルトの欲望なのです。


LGBT推進派や中絶擁護派は善の側にいるのではなく、純粋な悪と完全に手を組んでいるのです。


そして今、SCOTUSのおかげで、中絶/LGBT/グルーミング/小児性愛者の左派が実際に何を目指しているのかが、驚くほど明確になったのです。彼らは殺人者であり、強姦者であり、小児性愛者であり、グルーミングを行う者であり、悪魔なのです。彼らの目標は、キリスト教と神の匂いのするものを完全に破壊することであり、そのために聖書を破砕することも楽しんでいるのです。


次のビデオ(冒涜的な警告)を見てください。左翼の中絶支持者/ルシフェリアンが、言葉巧みに牧師をあざけりながら、牧師の聖書を細断している様子を描いています:



シアトルの有名な説教師が中絶推進派の反ファの集団に襲われ、聖書を破壊された・・・この人たちは邪悪だ!! 2Aが必要な理由の別の例!!! pic.twitter.com/GQYB6Z5wHY


— ShotGunBonnie (@ShotGun_Bonnie) June 25, 2022


 


そして、子どもたちを自由に大量殺戮できる能力を失ったことで、極度の怒りをあらわにする悪魔の一人のビデオです:



この人たち大丈夫? pic.twitter.com/BTBvR9BtZc


— Ian Miles Cheong (@stillgray) June 25, 2022


 


最後に、中絶支持者がいかに赤ん坊を殺すのが好きかについて叫んでいるビデオを紹介しましょう。(冒涜的な警告)「そうだ、私は赤ん坊を殺すのが大好きなんだ!」と、彼は叫んでいます:


https://www.brighteon.com/embed/aeb1d409-494a-4339-884e-09a4b0c8417d 


今日のパワフルな状況更新ポッドキャストで、ルシファー左翼、中絶、トランスジェンダー、児童切除、悪魔憑きなどについて詳細とビデオを入手してください:


Brighteon.com/aae88741-152e-4ee8-aebb-d3884dbcbde0


Discover more information-packaged podcasts, raw intel reports and interviews each day:


https://www.brighteon.com/channels/HRreport


以下略



<転載終了> 


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自我と認識

或る皮肉な作家が「我思う、ゆえに我あり」は、正しくは「我思うと我思う、ゆえに我ありと我思う」と言うべきだ、と書いていたが、まあ、自分という存在を自分が意識するのは、その意識そのものによってであるから、意識が無ければ自分という存在は「無いも同然」であることは誰でも認めるだろう。つまり、それが「我思う、ゆえに我あり」であって、眠っているときや失神している時でも自分という存在が存在しないなどとはデカルトも思ったはずがない。端的な言葉は警句として人口に膾炙するが、「言わなくても分かることは言わない」から、こういう揚げ足取りにも遭うわけである。
そして、「我思う」の中には実は「無意識的思考」がある、と喝破したのがフロイドである。我々の思考は無意識の大海の中に浮かぶ小舟のようなものだ。単純な話、我々は自分の視野に入っているもののすべてを「視て」いるわけではない。その中で注意を引いた部分を「見て」いるだけだ。
宮本武蔵の「五輪の書」の中には「観」と「見」のふたつの見方のことが書いてあるが一流の武芸者は、「広く全体を見る」見方である「観」の細部にも注意を怠らないわけである。だが、我々凡人は実はほとんどの場合「見れども見ず、聞けども聞かず」なのである。「見えず」や「聞こえず」ではなく「見ず」や「聞かず」であるのは、実はそこには「見よう」「聞こう」という意思が存在していないからだ。何となく眺め、何となく音を聞いているのである。おそらく一流の指揮者がオーケストラの演奏を聞(聴)いている聞(聴)き方と、素人が聞いている聞き方には雲泥の相違があると思う。
まあ、これは生まれつき聴力の弱い自分だからより切実に感じるのだろうが、他人が話すことなど、その論理の流れを追っていたら、まったく聞き取れるはずがない、と私には思えるのである。少しでも疑問を持ったら、その疑問が意識の中心となり、その後の話の部分など意識の外になるのだから、聞き取れるはずがない。つまり、思考と会話を同時に行うのは私などにはほとんど不可能なのである。
読書は、疑問を持った箇所でいくらでも読むのを停止して思考できるから安心なものだ。つまり、紙の書物が消滅した社会では、私のような人間は精神薄弱者施設に入れられることになるだろう。まあ、その前に「ボケ老人」扱いか。



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「戦争」というもののホッブズ的定義

「副島隆彦の学問道場」で知った「めい」という人の個人ブログ記事の一部だが、ホッブズの「リヴァイアサン」の中に、これほど痛烈な、そして真実を射抜いた言葉があることを初めて知って、この人のブログもとりあえず「お気に入り」に入れたが、それは「リヴァイアサン」を読んだ人を尊敬するというだけのことで、めい氏の思想や思考の在り方にはさほど共感していない。
特に私はデカルトを、尊敬する思想家のベスト3に入れている人間なので「デカルト的呪縛」という失礼な言い方には反発せざるを得ない。
「自我」というものを「存在しない」と見る「めい」氏から見れば、デカルトは思想的敵なのだろう。だが、自我の存在しない人間とは人間ですらない。単に、我々の精神や「自己認識」は相互関係で変動するだけで、それは自我が存在しないなどという馬鹿な結論にはなるはずがない。つまり「デカルト的呪縛」とは、勝手に自分で自分を呪縛するだけの話である。デカルトとは何の関係もないことだ。
だが、下に引用した中で、ホッブズの言葉(赤字にする)は熟読玩味する価値がある。
「力と欺瞞は戦争状態における二つの主要な美徳である」とすれば、資本主義とは「資本家の消費者への恒常的戦争状態」でもあるわけだ。DSが全人類の99%の敵である所以だ。

以下引用)

「デカルト的呪縛」からの解放 [思想]


4年前、平成14年2月21日に正気煥発板に書いたものを転載しておきます。
私が大好きな川喜田二郎氏の一文も入っていますので。


(転載はじめ)


「構造改革」とセットで語られる「努力したものが報われる社会」という言葉に違和感を感じます。いま「努力」というとき、朝から晩まで働く勤勉さを意味しない。そうやっていても首を切られるときには切られてしまう。夫婦、家族、さらに親族まで巻き込んで身を粉にして働いてきたのに、今いよいよ厳しい状態に追い込まれている自営の友人も身近にいます。まっとうさが取り柄の友人です。時代の波といえばそうかもしれないが、結局、声を荒げて人を押しのけて進むことのできる人間が幅を利かすような世の中になりつつあるのではないか。祖父の代からの選挙地盤を受け継ぎ、「努力」とはあまり縁のなかったような小泉首相の口から出るその言葉は、いかにも白々しく聞こえます。


戦後、経済発展による基本的欲求の一応の充足は、「貧しさ」からの脱却と抱き合わせだった「上昇志向」からかなりの日本人を解放したように思えます。「一億総中流」となった時点で、「上昇志向」は、全体からすればごく限られた「野心家」に限られるようになった。「努力したものが報われる社会」の掛け声は、「野心家たれ」との叱咤激励とも聞こえます。果たしてそういう社会が「いい社会」なのかどうか。



ホッブズは言います。
戦争状態とは戦闘行為が行われている状態のみをいうのではない。争おうとする意志が示されていれば、それは戦争状態といえる。すなわち、戦争の本質は、《平和》へと向かう意志のない状態にある。それは、悪天候とは一度や二度の土砂降りを指すのではなく、雨の降りそうな日が幾日も続く状態をいうのと同じである。≫
≪各人の各人に対する戦争状態においては、正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。共通の権力が存在しないところには法はなく、法が存在しないところには不正はない。力と欺瞞は戦争状態における二つの主要な美徳である。
≪戦争状態においては、各人が自分で獲得し得る物だけがその人の物であり、しかもそれは、それを保持しうる間だけに限られる。≫(「リヴァイアサン」第13章)


ホッブズによればそうならないための歯止めとして持ち出されたはずの「権力(国家意志)」が、今の日本では、経済のグローバル化にあわせて、むしろその歯止めを取り払う方向に動き出している。ホッブズが「観念」として想定していた社会を「現実」化しようと躍起になっている。「いい社会」とは、こうした方向とは対極にあるのではないでしょうか。


以前も引いたような気がしますが、「あー、この感覚なんだ」と気づかせてくれた文章があります。川喜田二郎著『「野生の復興」デカルト的合理主義から全人的創造へ』(祥伝社 平成七年)の終章です。


  *   *   *   *   *


・・・・・管理社会の中で育った個人主義者は、他人を押しのけてでも自分が上に立ちたいという権力欲の虜になりがちである。親子・夫婦・友人たちとの、もともと持ち合わせた素直な人間らしさよりも、この権力欲を最優先する。そうして、それがもともとの偽らない人間性だと信じ込みたがる。
・・・・・文明の毒気に当てられてもけっして崩れない、鍛えられて逞しい素朴人を、いかにして育て、保護するか・・・
・・・・・(自分にとって未知なひと仕事を、白覚的に達成することによって、人の心は)この世が瑞々しく見えてくる。青春が甦る。
 馥郁たる香りがどこかから匂い、万物に愛と不思議を感ずる。利己心も利他心も、それぞれが大切な大自然からの授かりものと感ずる。どんなに状況が変わっても、その状況の中で主人公でいられる。しかも「私は山川草木のひとつである」という、言いしれぬ謙虚さを覚える。
 自分のことを、ごく当たり前の人間だと感ずる。たとえば、死ぬことはひじょうに怖い。なぜなら、もともとそう怖れるようにこの世に送り出されたからである。ただ、死ぬのは怖くても、そのくせあまり生命に執着していない。   
 それはどうやら、自分が死んでも、私を包んでいた大きな伝統体は、まだまだ生き続けていてくれるからである。
 なんと、これが安心立命というものに近いのかもしれない。
 ただ、私が今ハッキリ言えることは、誰もがあのヘゲモニズム(常に他より上を目指してやまない覇権主義)の地獄から抜け出し、それぞれに安心立命を得た方がよいということである。
 このような内面体験の一つの大きな特色は、もはや「自我」という固い観念の穀を内側から叩き破って、広い世界の自由で新鮮な空気を深々と呼吸していることなのである。
 「自我」ではなく、知・情・意いずれをも備え、肉体そのものである「己れ」として生きている。
 しかもその「己れ」は、そう自覚した方がよい場面でだけ存在するのであって、それが必要でなくなったら、いつでも「己れ」を退場させてしまう。つまり「己れ」は実体ではないのであって、方便として存在するだけなのである。     
 眠くなったら、「己れ」などなくなってしまう。仕事に打ち込んだら無我の境地になる。彼女に首ったけになったら、我を忘れる。何かの使命を感じたら、献身をも恐れない。こういったことは、誰でもよく知っているではないか。
 ならば、それを正直に受け容れたほうがよいのではないか。        
 文明は不幸なことに、方便としてしか存在しない「自我」という観念を、何か固定した実体のように錯覚させてしまった。そうして、それによって、一方では「自我」の消滅におぴえつつ、他方では留まることをしらぬヘゲモニズムという奇形児を生んでしまったのではないか。


   *   *   *   *   *


私は、「戦後教育の見直し」の最終の射程を、「方便としてしか存在しない『自我』という観念を、何か固定した実体のように錯覚」してしまうこと、すなわち「デカルト的呪縛」からの解放まで考えたいと思っています。「デカルト的呪縛」に囚われて上の文章を読むと「宗教的」と言われる事になりそうです。


「大東亜戦争肯定論」に対して厳しい評価を下す「諸君!」の長尾龍一氏の文章読みました。
「長尾龍一」で検索して下の文章を見つけました。


   *   *   *   *   *


長尾龍一「リヴァイアサン」講談社学術文庫 1999.5.3
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 読書のよろこびの一つには、日頃漠然といだいている思いに明確な言葉を与えてくれることがあります。この「近代国家の思想と歴史」の副題を有する「リヴァイアサン」はまさしく、そうした一冊です。
 著者の立場は「はじめに」において次のように宣言されます。


≪世界の部分秩序である国家を「主権」という、唯一神の「全能」の類比概念によって性格づける国家論は、基本的に誤った思想であり、また帝国の「主権国家」への分裂は、世界秩序に責任をもつ政治主体の消去をもたらした、人類史上最大のあやまりではないか≫(p6-7)


 著者はこの立場をホッブス、ケルゼン、シュミットの三思想家によりながら、明らかにしてくれます。とくに、著者の最も共感できるケルゼンの思想は興味深く、かつ分かりやすく説いてくれます。
 著書は二部に分れ、第一部の「国家の概念と歴史」を読むと、「主権」や「民族」といった考えが、近代の国際政治の中で登場してきた新しい考えであることに、今更ながら驚きます。
 著者が引用するケルゼンの次の言葉は最近の愛国者、民族主義者、狂信者に聞かせたやりたいですね。たぶん無駄でしょうけれど。


≪未開人は特定の時期に、祖先の霊の化体したものであるトーテムの聖獣の面をつけて、ふだんは厳しく禁じられている行為を許される。これと同様に文明人も、神や民族や国家の仮面をつければ、私人としては小心翼々として抑制しなければならない衝動を大っぴらに満たすことができる。個人が自慢すれば軽蔑されるが、自分の神や民族や国家は公然と賛美することができる。ところが、これも自己の慢心を満足させているにすぎない。また私人としては他人を強制し、支配し、さらに殺すことはけっして正当化されないが、神や民族や国家の名のもとでなら、至上の権利としてこれらをなすことができる。神が彼にとって「我が」神であり、民族が「我が」民族であり、国家が「我が」国家である理由はまさしくここにある。彼は神・民族・国家を愛し、それと自己とを同一化しているのである。≫(p233)
http://www.iscb.net/mikio/9905/03/index.htm




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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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