私はロックミュージック、あるいはロックンロールはどちらかと言えば嫌いで、ほとんど聞いたこともなく、知識も無いが、「ロック」とは何かについて考察する。
最初に「ロックンロール」と「ロックである生き方」とは区別したい。ロックンロールは、「揺さぶり、転げ回る」ことだ、とここでは解釈しておく。つまり、聞く者を揺さぶり、その心が転げ回るような音楽、ということだ。だが、「ロックな生き方」とはそれとは別である。ロックンロールをやる人間がロックな生き方をしているとは限らない。ステージでギターを壊したり、ピアノの上に飛び乗ったり、舌を出したり、ステージから観客にダイブしたり、というのはあれは「演技」であり、生き方とは別のものだ。その証拠に、誰かが始めると誰かがその真似をする。それ自体、商売ロックである証拠だ。麻薬をやったり警察に逮捕されたりするのも、ロックミュージシャンには付き物だが、それも酒を飲み、立小便をするのと大差はないだろう。
では、ロックな生き方とは何か、と言えば、「既成の社会秩序に全身で反抗すること」である。
その意味で、私が最高にロックな生き方をした人間だと思うのはマルキ・ド・サドである。
ただし、その生き方を私が肯定しているわけではない。まあ、社会主義者である以上、当然倫理主義者としての私は「敵ながらアッパレ」と思うわけである。なお、アナーキストは「ロックな生き方」をすることが多いが、あれは社会主義とは別のものだ。
(以下引用)
マルキ・ド・サド(Marquis de Sade, 1740年6月2日 - 1814年12月2日)は、フランス革命期の貴族、小説家。マルキはフランス語で侯爵の意であり、正式な名は、ドナスイェン・アルフォーンス・フランソワ・ド・サド (Donatien Alphonse François de Sade [dɔnaˈsjɛ̃ alˈfɔ̃ːs fʀɑ̃ˈswa dəˈsad])。
サドの作品は暴力的なポルノグラフィーを含み、道徳的に、宗教的に、そして法律的に制約を受けず、哲学者の究極の自由(あるいは放逸)と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としている。サドは虐待と放蕩の廉で、パリの刑務所と精神病院に入れられた。バスティーユ牢獄に11年、コンシェルジュリーに1か月、ビセートル病院(刑務所でもあった)に3年、要塞に2年、サン・ラザール監獄(英語版)に1年、そしてシャラントン精神病院(英語版)に13年入れられた。サドの作品のほとんどは獄中で書かれたものであり、しばらくは正当に評価されることがなかったが、現在その書籍は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。
生い立ちと教育[編集]
マルキ・ド・サドは、パリのオテル・ド・コンデ(フランス語版)、かつてのコンデ公の邸宅。現在のパリ6区コンデ通り(フランス語版)とヴォージラール通り(フランス語版)付近)にて、サド伯爵ジャン・バティスト・フランソワ・ジョセフと、マリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマン(コンデ公爵夫人の女官。宰相リシュリューの親族)の間に生まれた。彼は伯父のジャック・ド・サド修道士による教育を受けた。サドは後にイエズス会のリセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐となって闘った。
1763年に戦争から帰還すると同時に、サドは金持ちの治安判事の娘に求婚する。しかし、彼女の父はサドの請願を拒絶した。その代わりとして、彼女の姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚を取り決めた。結婚後、サドは息子2人と娘を1人もうけた[1]。
1766年、サドはプロヴァンスのラコストの自分の城に、私用の劇場を建設した。サドの父は1767年1月に亡くなった。
牢獄と病院[編集]
サド家は伯爵から侯爵となった。祖父ギャスパー・フランスワ・ド・サドは最初の侯爵であった[2]。時折、資料では「マルキ・ド・マザン」と表記される。
サドは「復活祭の日に、物乞いをしていた未亡人を騙し暴行(アルクイユ事件)」「マルセイユの娼館で乱交し、娼婦に危険な媚薬を飲ます」などの犯罪行為を犯し、マルセイユの娼館の件では「毒殺未遂と肛門性交の罪」で死刑判決が出ている。1778年にシャトー・ド・ヴァンセンヌ(英語版)に収監され、1784年にはバスティーユ牢獄にうつされた。
獄中にて精力的に長大な小説をいくつか執筆した。それらは、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論、キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもある。だが、『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥にして残酷な描写が描かれた作品が多いため、19世紀には禁書扱いされており、ごく限られた人しか読むことはなかった。
サドは革命直前の1789年7月2日、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。間もなくシャラントン精神病院にうつされたが、1790年に解放された。当初共和政を支持したが、彼の財産への侵害が行われると次第に反共和政的になった。1793年12月5日から1年間は投獄されている。1801年、ナポレオン・ボナパルトは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』を書いた人物を投獄するよう命じた。サドは裁判無しに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられ、1814年に没するまでそこで暮らした。