日本人の同調圧力の強さについては、これまでもたくさんブログを書いてきた。
「生きるということは、みんなと、いっしょでいることだ」
この同調的発想が、良くも悪くも日本人の特性を定めてきた。
日本という国は、四方を海に囲まれた島国なので、ちょうど孤島に暮らす民族と同じ本質がある。
小さな孤島に数百名の人々が生き抜いていれば、自ずと生きるための知恵が整ってくる。その最大の知恵は、みんなが協力することであり、自分勝手を許さないことだ。
「共通するルール」を守って生きる……ことが孤島に軋轢を生まずに、一致団結して困難にあたり、生き抜くための最大の知恵になるのは当然のことだ。
だから、孤島の共同生活には強い同調圧力が作用する。掟を守らないと「村八分」の制裁を受けるのだ。日本列島という単位も、この延長にある。
日本社会は、孤島に生きる住民たちに似た強い同調圧力と集団行動の社会である。
海によって閉鎖された孤島とは逆に、縦横無尽に開放された大陸の土地では、自分のやりたいことをやれる条件がある。どんなに人とかけ離れた奇矯な生活をしても、文句を言う人もいない。何か問題があれば、自由に逃げ出せるのだ。
だから、そんなところでは、同調圧力が成立しない。思想の幅が広くなると同時に、孤島の共同体では起こりえない、残虐な戦争、強奪、大虐殺が起きて、人々の格差も極端に拡大してゆく。
こんな条件が、たぶん大陸の中国人と孤島の日本人との思想性の違いを作ったと考えて良いと思う。
孤島の日本では、同調圧力によって大きな格差は許されなかった。そして、みんなを思いやり、いたわる人間性が育まれた。
だが、開放された大陸では、強盗や殺戮が常習化し、みんなをいたわる気持ちが育つ前に、自分を大きく強くし、都合が悪くなれば、どこかに逃げ出すという発想が育つ。
中国では、械闘という歴史的な武闘習慣があり、無法集団による集落ジェノサイドが珍しくなかった。ある日突然、集落が襲われて皆殺しにされるのだ。
だから客家の集落は、械闘襲撃に備えて円楼という要塞になっている。
また、人の近寄れないような凄まじい断崖絶壁の上に集落が作られていることも少なくない。
いつ襲撃されて皆殺しにされるか分からないという中国社会の恐怖が、このような超孤立の要塞村を出現させたのだ。
日本には、襲撃を恐れた要塞村は少ない。ただ、2600年前に蘇州呉国民がボートピープルとして北九州に移住し、弥生人国家を形成した。これが瀬戸内海を東進し、大阪湾に至り、紀伊半島を回って静岡県付近まで弥生人集落を形成したことが分かっている。
呉国には械闘習慣があり、弥生人にも引き継がれた。だから、瀬戸内沿いの弥生人集落には吉野ヶ里のような戦争に備えた環濠集落がたくさん発見されている。
日本の武家社会における山城や城塞も、その延長と考えられる。
しかし、おおむね、日本社会には武家以外で、要塞村を作り出す人は少なかった。
なぜ武家が、争いを好んだかというと、AD300年前後に、百済から弓月氏(秦氏)が120県(20万人)という規模で日本列島に移住してきたことが大きい。
まだ日本全土で100万人程度しかいなかった頃だ。もちろん彼らは一大勢力となった。
秦氏の正体は、「秦の始皇帝の子孫」を名乗る軍事集団だった。馬を使った戦闘集団で、「騎馬民族」として、それまで馬を知らなかったヤマト社会を武力で乗っ取ってしまっった。これが江上波夫の騎馬民族征服王朝説である。
ちなみに、私は、あらゆる民俗学的状況証拠から、この学説を完璧に支持しているが、万世一系説を信奉する極右系の人々は、未だに反対しているようだ。
弓月氏が来てからというもの、それまでの弥生人文化は一変することになった。
円墳は方墳に変わり、騎馬民俗文化として、乗馬ズボンや鬟結い、直剣が登場したのだ。それまでは稲作に適した呉服と、刈り取りに適した曲剣だった。
彼らのなかから天皇家が生まれたことがはっきりしている。たぶん継体天皇が最初の騎馬民族天皇ではなかったか? ズボンを履いた聖徳太子も子孫である。
彼らは基本的に軍事集団だったので、日本の武家の大半が彼らから始まっている。
代表的なものが藤原氏だ。藤原氏に代表される武家は、東山道を通って奥州にまで達した。源平藤橘も、藤原氏の子孫である。
彼らは、とても戦争が好きで、日本社会を戦乱の世に変えたのは彼らだ。
元々、孤島の日本人は、戦争を好まなかった。しかし、大陸からやってきた弓月氏→藤原氏=源平藤橘は習慣的に戦争社会を目指したと考えてよいと思う。
ここで、日本社会には戦争の大好きな、大陸系の騎馬民族の末裔と、農耕に生きる平和主義者の人々に二分化されたと私は考えている。
ちなみに弓月氏(秦氏)は、元々弓月国(キルギスタン)から来たのでツングースの慣習どおり先祖地を名乗ったのだが、キルギスは、実は「失われたユダヤ十氏族」の地である。
つまり、イスラエルから逃げ出した十氏族の一部が逃げ出して日本列島にたどり着いたことになる。だから旧約聖書を、そのまま日本社会にも導入した。
その思想は「神道」にそっくり引き継がれている。諏訪神社や伊勢神宮、平安神宮などでは、旧約聖書に描かれた創世記のイベントが、そのまま現代にまで残っている。
例えば、イサク祭や木落、祇園祭などで、藤原氏(秦氏)が欧州まで移動した東山道沿いには、私の住む中津川市を含めて、大半の神社が「ユダヤ神社」と称された八坂神社(ヤーサカ=祇園社=牛頭社)の末社ばかりになっている。
弓月氏=秦氏が日本列島に移住してから、弥生人による円墳は方墳になったのだが、その方墳は、誰も理由が分からない「前方後円墳」である。
ところが、この奇っ怪な形の謎は、秦氏がユダヤ人の末裔であり旧約聖書を信奉していたという前提がつくと、瞬時に解決する。
それは、旧約聖書における、モーゼの十戒と三種の神器を見れば分かる。
①十戒を刻んだ石板 ②アロンの杖 ③マナの壺
を形象化した宗教的祭器と考えるなら、十戒石板と銅鏡に関係がありそうだし、アロンの杖は、最近発掘された蛇行剣、草薙の剣、そしてマナの壺こそ、前方後円墳の姿そのものである。
上から見た仁徳陵は、巨大なマナの壺であり、民衆に永遠の食を約束する神器なのだ。民のかまどの煙を見た仁徳にふさわしい、永遠に民を飢えから解放するための神に与えられた形象なのである。
日本の民衆は、戦争大好きな騎馬民族から、平和と安定を尊び、八百万の神を信奉する神道の民へと変わっていった。
安定平和を実現するために、もっとも大切だった思想は、同じ神を信奉し、その規律を守る同調圧力だったかもしれない。
そして全国津々浦々に残されている祭りが、共同体の連帯意識を支えた。
つまり、全国の集落は、同じ神を祀る連帯感と同調圧力によって生き延びてきた。
ただし、それは武家ではない人々のことだ。
秦氏=藤原氏の末裔たちは、全国の武家階級となり特権階級となった。
ここには、騎馬民族特有の権勢争奪戦の習慣が残っている。
明治維新における四民平等は、武家を消してしまったが、その末裔の多くが、特権的地位と資産を利用して、明治資本主義下にあっても、特権階級のまま移行した。
つまり、新興資本家の多くも武家階級出身だった。平民百姓出身の資本家は、あまり聞いたことがない。
彼らにとって、資本主義は、あらたな戦場であり、騎馬民族の本能を呼び覚ます戦いの場だった。
彼らが金儲け戦争のために利用した一般大衆は、同調圧力に訓練された、「みなと同じでいたい」という実に使いやすい人々だった。
日本社会には二種類の人々がいる。つまり、元武家出身で本能に戦争がすり込まれている争い大好きの人々。これは秦氏末裔であり、天皇家もそうで、第二次世界大戦における軍人たちの多くもそうだった。
かれらは明治維新後、武家の身分を剥奪された後も、資本家として君臨することが多かった。
もう一つは、孤島にあって平和な同調生活を好んできた、心優しい人々だ。彼らは、人の上に立って、人を利用することを好まず、同じ仲間の幸せを願う穏やかな人々であった。
彼らは、資本主義勃興期から現在に至るまで、大人しい同調圧力の強い労働者として底辺社会を支えてきたのだ。
彼らは「みんなといっしょでいたい」のである。
騎馬民族末裔のように、自分だけ特権を得て、自分だけ大金持ちになりたいなどと考えない。ただ、人々の笑顔を糧として、穏やかに生きていきたいのである。