4 心術の2「ユーモア」
ユーモアには、①「自分自身がユーモアをもって外部世界を眺めること」と、②「他人を笑わせる能力」の二つの面がある。
前者はある意味では後者より大事だが、社会生活で重視されるのは後者である。前者は内面的ユーモア、後者は外部化されたユーモアである。前者は精神的な生きる支えだし、後者は社会生活を容易にする。
まず、ユーモアとは何かというと、物事の不調和を機嫌よく、好意的に眺め、それを楽しむ姿勢だと言っていいだろう。これが厳しい批判の目で眺めた笑いだと、サタイアなどの冷笑となる。
いずれにせよ、物事の不調和が、ユーモアの対象、つまり「笑われる存在」である。失敗、失策、破綻、異常などがそれだが、簡単な例を挙げると、我々は人が転ぶのを見ると、思わず笑う。それはなぜか。それは、転ぶことによって人間が社会生活で維持している威厳を喪失するからである。こうした何らかの「地位低下」が笑いの対象となる。もちろん、何の地位低下とも無関係に、赤ちゃんが笑うのを見ると、我々も嬉しくなって微笑むが、その笑いはユーモアとは別である。これはただの笑いの伝染だ。だが、「笑いの伝染」は、後の「他人を笑わせる技術」と大きく関係するので、覚えておこう。
相手の地位が低下したのを見て我々は自分が心理的に上位に立ったことを知り、機嫌が良くなる。それが笑いである。つまり、笑いとは、優越感と劣等感の力関係から生じてくる。自分が相手に優越していることを確認して気分がよくなるのだから、笑いとはもともとはあまり上等な心理ではないのである。たとえば、知恵遅れや精神病者を笑い物にするのは、昔は当たり前のことであったようだ。また、ピエロや宮廷道化師の奇妙な化粧や扮装は、周囲の人間より自分が下であることを示すためのものだったはずだ。
ただ、笑いの対象が、社会的な上位者である場合もある。つまり、金力や権力では上位だが、人間としては劣った存在であるなら、それは笑いの対象になるのである。この種の笑いは社会的な武器にもなる。いわゆる風刺文学などがそれだ。
さて、論文的な記述が続いたが、こうした笑いの本質の考察から何が生まれてくるか。それは、まず、笑いは相手の弱点や欠点の観察から生まれるということである。だから、すべてを好意的に見る、善良な性格の人間は笑いのための発見はできない。むしろ性格の悪い人間のほうが笑いの造り手には向いているのだ。ただし、また、笑いの作り手は、自分自身を笑いの対象にするということもある。むしろ、職業的なコメディアンは、そのほうが普通だ。ただし、この場合でも、やはり自分を笑うべき存在とするためには鋭利な考察が不可欠だろう。それもなく、ただ奇妙な扮装や顔面の変形、意味不明の奇声で笑いを取ろうとする低レベルの芸人もいるが、そうした幼児レベルの笑いも確かに一定の需要はあるので、無価値だとは言えない。昔のジェリー・ルイスや一時期の桂枝雀などの笑いにもそういうところがあった。それらは幼児的な笑いではあるが、しかし、「笑いの本質は不調和にある」という本質から外れてはいないのである。チャップリンだって、あのルンペン紳士の服装やペンギン歩きという分かりやすい笑いから出発したのだ。
では、笑いの対象としたい相手に欠点や不調和が見つからない場合、どうするか。ここで登場するのが「誇張」である。相手の些細な特徴を大袈裟に表現して笑い物にするのである。子供の世界でも、相手の言葉や仕草や表情をわざと歪めた形で真似して笑い物にするということがよく行われる。
そういうふうに笑い物にされるということは、自分の価値を下げられたことだから、笑い物にされた人間は屈辱と不快感を覚えるわけで、それがもちろん相手の狙いである。柳田国男が「笑いはもともと武器であった」というのは、こうした心理攻撃のことを言っているのである。
さて、社会に出て人と交わる際に必要な能力が、他人を笑わせる能力である。特に、人前で話す商売の人間にはジョークを言う能力は大事だ。しかし、笑いを生む能力は、必ずしも優れたジョークを案出したり、話したりする能力だけから生まれるものではない。
ここで、ずっと前に書いた「笑いの伝染」について書こう。これはNHKのある番組で放送されていたことだが、人間は無意識に自分が対面している相手の表情を真似ているという。真似ているというよりは、自然と同じ表情になる性質があるらしい。これは、長い間夫婦をやっていると表情が似ることや、親子や兄弟同士は表情も仕草も似てくることなどからも事実であることが分かる。私も、自分が何かの仕草や表情をした時に、相手が少し後で同じ表情や仕草をするのを目撃した体験が何度かある。
ということは、相手を笑わせたい場合は、まず自分が笑顔になればいいということである。あまりにも単純な話であるが、実はこれが人間関係の一番の知恵なのである。
加えて言うなら、我々は笑顔であると愉快な気分になり、苦虫を潰した顔をしていると不愉快な気分になってくる。笑顔を作りながら怒るという器用なふるまいはできないのである。人間とはそのように単純な機械的存在なのである。誰かと一緒にいるときに気分が良ければ、我々はその相手に好意をもつものである。だから、笑いのある人間関係は、当然ながら円満な人間関係である。そしてそういう関係を作る大前提は、「こちらから笑顔を作る」ことなのである。いや、何も面白いことを言わなくても、常に笑顔であるというだけでも、良好な人間関係は作れると極論してもいい。あまりにも単純な理論なので、信じて貰えないかもしれないが。
確かに、一流の芸人の中には、バスター・キートンのように、悲しげな顔で他人を笑わせるという人間もいるし、一流の落語家は、自分から笑うということはしない。とぼけた顔で面白いことを言うものである。しかし、それは、我々がそれを「あらかじめ承知している」から笑えるのである。
初対面の、あるいはお互いに深く知らない間柄の人間同士の対面で、相手がむっつりと不愉快そうな顔をしていれば「こいつは俺に(私に)敵意を持っている」という判断をするのが当然なのである。だから、アメリカ人は、初対面の相手にはまずジョークを言うという。借り物のユーモアだろうが何だろうが、笑いは大事だと彼らは思っているということだ。だが、笑顔にまさる武器は無い。私は、普段の顔そのものが笑顔である人間を数名知っているが、彼らを嫌う人間はほとんどいなかった。その反対に、笑顔の少ない人間(私もその一人であるのだが)は、たいていが嫌われていたものである。
笑顔だけで十分だ、ということが信じられないなら、ジョーク集でも暗記して「面白い奴」になるのを目指せばいい。しかし、そういう作り物の笑いというのは、案外と長持ちしないものである。
もしも、ジョークの使い手を目指すなら、笑いの基本は「誇張」「ナンセンス」「卑小化」にあると覚えておけばいい。
「卑小化」とは、要するに、自分より下の存在を見ることで、人間は安心して笑うということだ。我々が自分の飼っている犬や猫を可愛く思うのも、結局は彼らの幼児並みの知能を愛するからではないか。相手への畏敬の念からは、けっして笑いは生じない。我々が傲慢な人間を嫌い、謙遜な人間を愛するのも、自分との相対的な位置関係の上下によるものである。つまり、わざと自分を低く見せることで、自分を笑いの対象とすることができるのだ。自分を格好よく見せたい気持ちが捨てられなければ、笑いは作れない。「誇張」にしても、何を誇張するのかと言えば、対象の欠点の誇張なのである。つまり、対象を強引に「低める」のである。どんな美男美女でもオナラもすれば排便もする。価値低下が不可能な存在など無いのである。フランス革命の際には、マリー・アントワネットの情事を題材とした猥褻図画が出回り、王家の威信低下の材料となったのだが、これも「卑小化」による心理的攻撃なのである。
笑いの対極にあるのが、儀式や贅沢品による「荘厳化」である。王家や貴族の威厳のためには、庶民には絶対に不可能な豪華な服装が必要だったのである。そうした飾りを取り除けば、社会の上層部にいるのは、庶民と同じ人間たちにすぎない。(こうした「普通の人間である王族」を見事に描いたのがスタンダールの『パルムの僧院』である。)
笑いの中で「ナンセンス」とは、「意味」への攻撃である。ここでは笑いの対象となるのは、個人ではなく、人間世界の意味の体系なのだ。我々は理性的に生きる限り、常に意味の体系に支配されている。そして、そのことに無意識の圧迫を感じているのだが、ナンセンスはそうした意味の体系を破壊することで、我々に精神の自由の快感を与えてくれるのである。したがって、ナンセンスの笑いは、笑いの中でも高級なものであると同時に、世の中にはナンセンスの面白さが理解できない人間も多数存在しているのである。
「誇張」は、いわば「火の無いところに煙を立てる」類の笑いである。勘の鈍い人間でも理解できるように大袈裟に表現するのが誇張なのだから、笑いの手法としては低レベルではあるが、また、小児でも分かる、つまり伝達対象範囲が広いという利点もある。