忍者ブログ

自由への欲望(リベラリズム)とその集団化

遍照飛竜氏(混沌堂主人)がよく引用する「戦闘教師ケン」氏のブログ記事の一部で、面白い指摘があるので転載する。なお、ケン氏と私は政治的意見が異なることが多いが、氏の頭脳の明晰さと知識の深さは尊重している。で、氏が言う「華東」とはどこを指すのか、気になる。中華(中国)の東部なのか、中国の東に位置する日本のことなのか。大学か高校の教師と思われるが、正体不明なので気になるのである。

(以下引用)赤字部分は夢人による強調。ただし、全面肯定する意味ではなく、興味深い意見だということである。リベラリズム=個人主義ではないだろうし、たとえばテロリスト集団なども集団的リベラリズムの一種と見ることも可能だろうwww 自分の自由(法で縛られるもの)を守るためなら邪魔な連中を殺戮するわけだ。アメリカなどは、そういう「テロリスト的リベラリズム」の国家版、つまり集団化だと言えるのではないか。要するに「リベラリズム=個人主義」ではない。個人を組織と重ね合わせる「集団(共同)幻想」はどの集団でもあるものだ。国家もそのひとつだろう。

ところが、本来のリベラリズムは個人が個人であることを保つために、強大なパワーを抑止あるいは誕生させないことを旨とするもので、本質的にはナショナリズムやデモクラシーとは相性が悪いはずなのだ。
例えば、アメリカで個人武装が認められているのは、本来的には常備軍を持たないことを前提としたもので、同時に「国家の軍隊」に対する先天的な不信感に基づいている。国家の武装は個人の自由に対する脅威でしかないからだ。それは、現在の日本の(デモの武装鎮圧を前提とした)自衛隊を見ればわかるだろう。

21世紀に生きる我々は、むしろ19世紀の原点に帰って、ナショナリズム、デモクラシー、リベラリズムなどを疑ってかかる時代に生きていると見るべきだ。
これらを盲信する連中は、「共産主義以外など考えられない」というソ連人と同じ過誤に陥っていることを自覚すべきなのである。

拍手

PR

女性と恋愛と冒険性

別ブログに書いた過去の文章を幾つか読んでいるうちに、これは我ながらいい考察だな、と思う記事があったので、自己引用しておく。

(以下引用)

女性と恋愛と冒険性

小谷野敦の「聖母のいない国」の中に、女性は「男女関係のどろどろ」を書いた小説が好きだ、という趣旨の言葉があるのだが、これは示唆的である。単に「男女関係を描いた小説」が好きなのではなく、それが「どろどろ」の関係であるのが好きなのである。こういう指摘はこれまであまりなされなかったのではないか。どこで誰が言った言葉か忘れたが「自分(男)にとって少女漫画とはめんどくさい少女たちのめんどくさい関係を描いた漫画だ」という趣旨の言葉があって、至言だな、と思うのだが、一般に女性というのはめんどくさい人間関係の話を好むと言えるのではないか。それが頭の単純な男にとっては謎なのである。で、そのめんどくさい関係とは基本的に男女の恋愛とそれに当然付随する性的関係であり、先に書いた「男女関係のドロドロ」なのである。それを少し表面をきれいに見せたのが少女漫画だったのだが、最近は少女漫画の中でも性行為を露骨に描いているらしい。
問題は「なぜドロドロでなければならないのか」「なぜめんどくさい関係でなければならないのか」である。そうでなければ物語にならないということもあるだろうが、ここには「女性にとっての冒険」というのは恋愛と結婚(現在は結婚はもはや若者にとって魅力のある制度ではないかもしれないが)である、というのが大前提としてあるのではないだろうか。もちろん、現実には女性の冒険家もいるし豪傑もいるだろうが、一般的には女性は恋愛と性関係に冒険性を求めると考えていいのではないか。そこで、「いい人」がなぜ恋人として女性から好まれないのかも分かる。「いい人」は「事件を起こさない」のである。つまり、人生にスリルを作り出さない。
女性が恋愛に求めるのは一種の冒険性である、という仮説をとりあえず提起しておく。
ちなみに、夏目漱石が「文学評論」の中で書いているスゥイフトの「ガリヴァー旅行記」の中に出て来るエピソードだが、ラピュタ島のある高官の妻が地上に逃げて、その優しい夫が連れ戻しに来たが、すべてを許すと夫が言っても帰らない。で、彼女が地上で一緒になっている男は貧しく汚らしい老人で、毎日のように妻を殴ったり蹴ったりするような男なのである。このラピュタの高官は人格者で人間の鑑のような人物なのである。この話の結語として「女には茶人が多い」と言ったか「女にも茶人がいる」と書いてあったか忘れたが、茶人とは普通人には分からない奇妙な嗜好を持つ連中のことである。

なお、女性にとって恋愛が冒険である、というのは少し前までは当たり前の話であり、たいていの女性はどういう男とくっつくかによって自分の一生が決まったのである。だが、基本的に男は「恋愛の食い逃げ」ができたから、男にとって恋愛は冒険的な意味合いは少ない。だから恋愛に冒険性など求めないわけだ。むしろ冒険であっては困るというのが正直なところだろう。

(追記)同じ本の中に小谷野敦は「恋愛というエゴの暴走」という表現をしており、これも秀逸な言葉だと思う。恋愛は一見相手のことを思い詰めているように見えるが、実は「恋をしている自分に陶酔しているだけ」という場合が多いのではないか。これは今敏の「千年女優」で示された思想でもあるように思う。
恋愛においては、相手ではなく、相手をネタにして自分が作り上げた妄想が、「恋愛対象の本質」だというのは、スタンダールが「恋愛論」で明示した思想だ。彼はそれを「結晶作用」という美しい表現をしているが、内実は「エゴの暴走」なのである。

ただし、相手のためには自分のすべてを犠牲にしてもいいという恋愛もあり、それはエゴの暴走的な恋愛とは別物だろう。つまり、恋愛にはふたつある、と見るべきだろう。女性より男性の恋愛のほうに、この種の「エゴを消滅させる恋愛」が時に見られるような気がする。愚劣な映画だったと私は思っているが、「タイタニック」で男は死に、女は生き残ったというのが、わりと象徴的な感じはあるwww

(追記2)

これも同じ本の中にある言葉だが、「結婚や性関係によって自分自身が憧憬の対象としての価値低下を引き起こすというメカニズム」は、「結婚や性関係は恋愛の終わりである」、というメカニズムと言ってもいい。だから、すべての恋愛物語は結婚か性関係の締結で終わるのだが、その読者や視聴者は、それが「話の終わり」だとしか思わず、「恋愛の終わり」であることに気づいていない。つまり、そこで恋愛は死んで、結婚生活や性関係という別の相に移行するのであり、相手への幻想もそこで終わるわけだ。
そう考えると、見合い結婚や仲人結婚という昔の習慣、つまり「恋愛抜きで結婚する制度」は案外賢明だったかもしれない。なぜなら、そこには幻想が無く、したがって「失望」も無いからだ。逆に、そこから「夫(妻)への恋愛」が始まる可能性すらある。相手の実態を知った上で愛情が持てるなら、それこそ最高の関係だろう。

拍手

保守主義と自由主義への印象

物事はやはり根本を考えないといくら考えても「多岐亡羊(道が多すぎて逃げた羊が行方不明になる)」かと思う。
我々の日常の思考はわりと単純な問題が多い(ネジを回すのにプラスドライバーを使うかマイナスドライバーを使うかの類)のだが、政治や社会の問題はそうはいかない。それで根本を無視した思考を重ねても、まったく無意味な「下手の考え休むに似たり」となるしかないだろう。

たとえば、アメリカの「共和党」の「共和」とは何か、何度調べても私の頭には入ってこない。これは訳語が悪いと思う。あるいは「寡頭政治」とか「寡頭権力(勢力)」などもあまりピンと来ない言葉だ。特に「寡頭権力」を「ディープステイト」の意味で使うのはどうかと思う。要するに「表の政治の裏側から政治を動かしている、政治の実権を持つ連中」なのだから、やはり「ディープステイト」がベストの言葉だろう。その頭数が単数か複数かが問題なのではないのだから「寡頭」という言葉は無意味だと思う。まあ、本来の意味とは違うが「僭主」というのが「ディープステイト」に近いかと思う。つまり、「本来は君主である資格が無い支配者」である。ただ、「僭主」は表に出るが「ディープステイト」は裏に隠れている。つまり、「僭主」ではなく「潜主」かwww

あるいは、何度も書いているが「地政学」という言葉も、単に「戦略」とか「軍事的思考」と言うべきだろう。政治や軍事が地理と密接な関係を持つにしても、それがすべてではないし、軍事では地理的要件など長距離兵器や大量破壊兵器があれば簡単に無意味化されるはずだ。「大陸国家」とか「海洋国家」だとかの大別は今はほとんど無意味なのではないか。「ハートランド」「リムランド」という言葉の示すような世界地図全体を大きな視点で見る思考も現代人には常識であり、事々しく言うこと自体が19世紀的(帝国主義時代的)思考だと思う。
ただ、国境が隣接していると揉め事が起こりやすいのは昔も今も変わらないわけで、それを利用しているのがDSである。つまり、「国境があるから紛争が起こる。だから国境を無くし、カネ、物、人の移動を自由にしよう。何なら世界政府を作ろう(その支配者には我々がなるけどねww)」というわけである。EUがその実験室で、その加盟国の間で貧富の格差はむしろ拡大し、固有文化が衰退しているのは言うまでもない。

さて、ここで根本を考えようと最初に考えていたのは「保守」あるいは「保守主義」という言葉と思想である。
その「保守」の対義語は「革新」であるが、たいていの人の頭の中では保守の対義語として「自由」という言葉も連想されるのではないか。特に現在の政治状況では「保守主義」に対立するのは「革新」というより「自由主義」だろう。つまり「規制の撤廃」だ。これは近年の日本の政治では野党よりもむしろ自民党がやってきたものである。特に小泉政権以降の自民党が、(と後に維新も加わって)さまざまな自由化(規制緩和。たとえば契約社員の職種の拡大)を行い、それによって庶民生活が圧迫され貧困の一途をたどったことは言うまでもない。
まあ、それらの自由化を「革新」と言ってもいい。問題はその「革新」が誰のため、何のために行われたのか、国民はずっとつんぼ桟敷に置かれていたことである。中には「革新」だから良いのだろう、「自由化」なのだから良いことなのだろうと呑気に考えていた国民も多かったのではないか。私が非常に危険視するのが、そういう「言葉の魔術」なのである。

なぜ「保守」はダメで、「革新」や「自由」はいいことだ、という印象を人々は持つのか、というのが私がここで問題としていることだ。
だが、文章が長くなりすぎたので、稿を改めて考察したい。


拍手

善行と「取り引き」

マルクス・アウレーリウスの「自省録」は、あまりに道徳的すぎて私のような皮肉屋には合わない部分が多いのだが、時々、目を引く言葉がある。

「君が善事を為し、他人が君のおかげで良い思いをした時に、なぜ君はそれだけで済まさず、善いことをしたという評判やその報酬を受けたいと考えるのか」(日本語訳から私が意訳した)

これはなかなか痛烈な言葉で、自分が他人に何かをしてあげた時に相手の感謝を求めるのは下品だよなあ、と思う。その下品な気持ちだけでもその善行の精神的価値はダダ下がりである感じだ。
つまり、それは無私の善行ではなく「取り引き」になってしまっているからである。

拍手

泥棒と殺人の「罪の重さ」

昨日、ネットフリックスで「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を部分的に見たのだが、ラスト近くの死刑執行のあたりはなかなかリアルな描写で興味深かった。全体としては周知の通り「史上もっとも陰鬱なミュージカル映画」で、これをなぜ「夢の象徴」であるミュージカル映画にしたのか、製作者側の悪意すら感じる映画に思えるのだが、私が飛ばした部分は、息子の高額治療のために主人公のセルマが必死で貯めていたカネを「ふだんは親切だが」金欠の隣人かつ大家である男に泥棒され、その男を殺害するまでのシーンである。まあ、その出来事の陰惨さに比べたら、死刑執行の場面などファンタジーである。社会の底辺の貧乏人が必死で貯めたカネを盗むという行為(他者を絶望のどん底に落とす行為)の悪質さ陰惨さに比べたら、復讐としての殺人もその殺人に対する死刑執行も「当たり前」の出来事だ。
人間など生まれた時から死刑囚であり、いつかは死ぬが、自分ではその時を知らないだけだ。知っているほうがかえって「この世の束縛」から自由な気持ちになるということもある。これは絵本作家の佐野洋子が癌で「死刑宣告」を受けた時の事例だ。彼女はその宣告の後で「すべてから解放された気分」で車のディーラーの所に行き、ジャガーを現金で買ったと言う。
なお、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」では重要な脇役としてカトリーヌ・ドヌーブがでているが、実に見事な演技で、彼女を俳優として見直した。(昔は単なる「お人形さん」的美貌で、それとルィス・ブニュエル映画でのエロ演技との乖離が実にエロだった印象しかなかった。)


(以下引用)

執行までの長い年月

一之瀬さんはなぜ死刑について取材するに至ったのか、こう語る。


「もともと警察ものや犯罪ものの作品に興味があり、その手のドラマを見たり小説を読んだりしていました。そのような中、刑務官の方と知り合いお話をしていく中で、刑務官の仕事は塀の中の業務ということもあり、それまで深く知る機会がありませんでしたが、刑務所の中の治安を守ることはもちろんのこと、罪を犯した受刑者の矯正、そして死刑の立ち会いと、重い責任を背負って日々業務をこなしているのだということを知り、刑務官という職業のリアルな姿を伝えられればと思ったことがきっかけです」


一之瀬さんが取材したのは、実際に死刑に立ち会った経験のあるM刑務官。大学卒業後、刑務官試験に合格。地方刑務所、拘置支所勤務を経て、現在は某拘置所に勤務している。

「刑務官が明かす死刑の話」より

死刑は死刑判決を受けてからすぐに執行されるものではない。刑法に則れば本当は半年以内に執行しなければならないが、現在は判決から執行まで平均7~10年と言われている。なかには確定から20年以上経過している死刑囚もいる。死刑囚は執行のその日まで、どのような暮らしを送っているのだろうか。


「被告」から「死刑囚」に

■判決からの移送


数回の裁判を経て死刑が確定すると、呼び名が「被告」から「死刑囚」と変わる。確定後はその身柄はバスや飛行機などによて死刑施設のある拘置所へ移送される。そこで一般の受刑者と一緒に暮らすのかというと、そのようなことはない。


「死刑囚は隔離されたエリアで生活します。それは、死んで初めて『受刑した』ことになるため死刑囚は『未決囚』であることと、死刑のストレスを減らすためなのです」(M刑務官)

「刑務官が明かす死刑の話」より

Mさんは隔離することが重要なのだと話す。


「基本的に死刑囚のいるエリアの場所は外部に一切公表されていません。大きい施設だと、刑務官すら場所を知らないこともあります。これは刑場同様、過去に死刑囚奪還未遂事件があったことを受けて未然に防ぐための措置となっています」


その「死刑囚しかいないエリア」で死刑囚はいつ来るか分からない執行の時を待ちながら生活していくのだ。


記事後編【死刑に立ち会った刑務官が明かす…死刑囚を絶対に「名前」で呼んではいけない理由】では、死刑囚が送る生活が実際はどのようなものなのかについて記します。

自殺防止が徹底されている

■死刑囚の部屋


死刑囚は拘置所内で隔離され、「死刑囚しかいないエリア」で生活する。その部屋は、1人1室。4畳ほどで窓、洗面台、トイレ、畳のスペース…と刑務所の独居と一見してそう変わらない。


「決定的に違うのは自殺防止に特化されているということです」(取材したM刑務官)

「刑務官が明かす死刑の話」より

窓は航空機にも使用される割れない特殊ガラスで、遮蔽版で外が見えないようになっている。洗面台の鏡はフィルムが貼られ割れにくい工夫がされていて、蛇口は首吊りのヒモをかけられないようボタン式だ。


「極めつけは24時間監視カメラで監視し、そのために夜中も薄明り状態にしていること。結構明るいから最初は寝られない死刑囚も多い」(M刑務官)


拍手

モラルの発生基盤としての「閉鎖社会」

アニメのキャラをなぜ黒人キャラにしないのだ、という黒人からの批判に対する日本人アニメオタクたちの反応が黒人差別どころか黒人憎悪に満ちた地獄のような状態になっているのだが、その中で面白い指摘だな、と思ったのがこれで、これはかなり現実に即しているように思う。もちろん、この範疇に入らない個人もたくさんいるだろうし、アフリカなどは戦乱が多くて文化が未熟のままで教育が普及していないという不運さがあったと思うのだが、このコメントにあるようなメンタリティが一般にあるというのは事実のように思える。
モラルが発達するには、ある程度の「閉鎖性」が必要な気がする。犯罪をやっても即座にどこへでも逃亡できるという世界ではモラルは成立しないだろう。自分で生産するより盗む(あるいは殺して奪う)ほうが楽なら真面目に働くはずがない。ユダヤの非モラル性も、彼らが国家の閉鎖性に縛られていないからではないか。つまり、グローバリズムが彼らの本性なのである。アフリカの黒人との違いは、彼らが知力と学問と商法という武器で完全武装していることだ。

(以下引用)

187名無しのアニゲーさん :2022/05/02(月) 21:56:09 ID:- ▼このコメントに返信
※100
有名なのが井戸・水路・学校と言った日本からの支援の話
あいつらは施しを受けて当然、なぜなら私たちは世界の奴隷制度の被害者なので世界からその罪滅ぼしに施しを受けるべきなのである、と考える
その上で自分さえ儲かればいいという土人の層が一定数いるので部品なんかはすぐ盗まれるか壊される、学校なんか運営が出来なくなる
だからいつまでたっても「エンターテイメントレベルの」支援が何度も何度も何度もテレビなんかで扱われてきた

拍手

愛と正義

前に引用したブログの或る記事タイトルで、記事の内容は忘れたがタイトルが面白いので考察対象にしてみる。

(以下引用)

「愛」は「正義」の代替となるか?(読書メモ:『新版 現代政治理論』)


(引用終わり)

まず、「正義」とは何か、と言えば、「正」は論理的な正しさで、「義」は倫理的な正しさ、そして「正義」は論理的にも倫理的にも正しいということだと定義しておく。
だが、その「正義」と称するものが実にいかがわしいものであり、「自己正当化」の手段にされていることがあまりに多いというのは周知のことだろう。これは子供には「教えてはいけない」、常識ではない「常識」だ。ついでに言えば、「嘘をついてはいけない」と大人は子供に教えるが社会は嘘で成り立っている、というのも常識ではない「常識」だ。それを知らないままに社会に出てひどい目に遭う若者も多いだろう。学校というのは社会とは別のルールの世界で、子供はそこで悪い意味で純粋培養されるから社会に出て苦労するのである。
さて、本題の「愛は正義の代替となるか」だが、この一文だけでは判断不能な問いかけだろう。一般論として「愛は正義の代替になる」と断定できると思う人はあまりいないと思う。つまり、犯罪に対して罰を課したり復讐したりするのではなく、「許す」ことをこれは意味しているかと思う。それどころか、その自分に害を与えた存在である「敵」を愛することを、この命題は意味しており、そんなことができるのはキリストくらいだろう。全人類にそれができるなら、そもそもすべての悪は最初から消滅するわけだ。まあ、事故はあっても犯罪は無い社会になるだろう。
現実社会ではそれが不可能だから法があり警察があり裁判所があり刑罰があるわけだ。
もちろん、特殊な場合として愛が正義の代替になることもあるかもしれない。しかし、それはあくまで「個人的なもの」であって、社会全体にそれを要求することは不可能なはずだ。

ここで、改めて「愛とは何だ?」と考えてみる。古いジャズの歌に「愛とは何でしょう」とあったが、私の考えでは、愛の対象となるものを大事な、大切な存在と思うことである。それが最大に達すると、自分自身の生死より相手を大切に大事に思う場合もあり、それが古来、さまざまな芸術作品のテーマになってきた。ちなみに、世間で誤解されているが、自分の欲望のために相手を支配下に置き、その欲望の対象とすることは愛でなく、ただの我欲であり、性的には獣欲である。愛は対象を大切に思うことが本質だから、それを害する行為はできるはずがない。
さて、愛をそういうものと考えた場合、「愛は正義の代替になるか」という問い自体が無意味化するのではないか。最初から「土俵が違うだろう」という感じだ。たとえで言えば、レスリングや相撲で戦うべき場合に、歌を歌い出すようなものである。正義とは「闘争関係、利害関係の調節指針」であって、「お前に給料をやることはできないが、お前を愛しているから我慢してくれ」という経営者の下で働く労働者はいないだろう。まあ、要するに「愛は正義の代替にはならない」と言えるのではないか。




拍手

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
4
23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析