昔読んだ、コリン・ウィルソンの「至高体験」という本の中に、ウィルソンは「至高体験」の事例を幾つか挙げているのだが、それらは要するに「幸福感」であり、その幸福感は、特に何かを達成した、というよりも、ふとした瞬間に突然、「生きること自体の快感を感じる」というもの、と言っていいかと思う。たとえば、ある平凡な家庭の主婦が、夫を会社に、子供を学校に送り出した後、洗濯物を庭のロープに干しながら、青空と白い雲を見た瞬間に、「途方もない幸福感に襲われた」というようなものだ。これはまさに「至高体験」という言葉にふさわしいと私も思う。そして、それに近い感覚は私もしばしば感じる。いつも、独りでいる時で、いつも、「特に何もしていない時」だ。だいたいは何か自然の風景を見ているか、体に風を感じているときで、あるいは、道を歩いて、歩くこと自体が嬉しい、というような感じである。足が地面を踏む感触、その感触が体の筋肉に伝わる感触の楽しさである。
昨日、市民図書館から借りてきた、ジュブナイル小説の「キリエル」の主人公は悪魔だが、彼が死ぬ運命だった若者ショーン(高校生くらいか)の体を借りて、この世に「生きる」ようになった、その最初のころの「人間の体の感覚を楽しむ」描写が、私のそれに近い。
おれは自分のものになった体を早く確かめようと、ショーンの家に向かった。途中、広々とした空をずっと見上げていた。ああ、あの青。それに、あの雲。同じ方向に動いているだけでなく、流れたり、うねったり、波打ったり、刻々と形を変えている。ショーンの口が広がっている感じがしたから、両手を顔にもっていった。指に当たったのは、角張っている小さな固いものだった。歯だ。おれは笑っているんだ! またすばらしいものを見つけたぞ。存在するのに形というものをまったくもたない感情。その感情を映し出す筋肉。なんて精巧な世界なんだ。もっと早く来るんだった。(A・M・ジェンキンス「キリエル」より)
(以下「大摩邇」所載の「in deep」記事の一部を転載)「幸福の概念」を知らないと、人は「幸福感」を知らないものなのだろうか? 私は甘さの概念も辛さの概念も知らないが、甘さや辛さの感覚は分かるつもりである。
私自身は、実は、
「生まれて一度も幸福というものを感じたことがない」
のです。
なぜかというと、理由は簡単で、
「幸福というものの概念や基準を知らない」
からです。
充実していると感じることはありますし、満足したりやり遂げたりといったことも人生ではありましたけれど、たとえば、暑いとか寒いとか、かゆいとか、そういうものの基準はわかることですが、「どういう状態を幸福というんだ?」ということが、幼児の時代からわからなく、そのまま今に至ります。つまり、意味がわからないから感じたことがないということになります。
場合によっては、私は「楽しい」とかを感じたこともないのかもしれません。「楽しい」というのも、やや曖昧な観念です。
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