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哲学の「普遍的思考」と思想の「普遍主義」

世界が唯一絶対の秩序をもち、したがってこれを正しく捉える唯一絶対の観点が存在するはずだ、と考えること、これをあえて思考の「普遍主義」と呼ぶことはできる。(中略)哲学の普遍的思考とは、さまざまな共同体を越えて共通了解を作り出そうとする思考の不断の努力だが、思想の「普遍主義」とは、唯一絶対の観点が存在するという一つの独断的信念にすぎない。(竹田青嗣「プラトン入門」より)

まあ、これ(上記の引用された言説全体)も竹田青嗣の独断的信念かもしれないが、確かに、「主義」化した思考はすべてドグマ(狂信)になる、あるいはドグマに近いものになる、という用心は世界を認識しようとする者(哲学者)には必要だろう。そして、そのドグマの中でも上に書かれた「普遍主義」は、あらゆる宗教の土台であり、狂信の土台であるわけだ。しかも、それは哲学でもあまりにしばしば生じるのである。その信仰や信念に自らを投企する勇気こそが偉人と凡人を分けることもあるだろう。ただ、竹田の定義による「普遍的思考」は常に自分の思考を疑い確認する作業が絶対的に必要であるのに対し、「普遍主義」は最終的にはその懐疑と確認を打ち切ることで成立することから、前者は哲学の支柱となり、後者は主に宗教となるのだろう。

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「唯物論」とは何か

前に載せた「ふたつの唯物論」の中の紙谷氏の文章である。

(以下引用)


左翼や共産主義者というのはいつもこの世に不平を鳴らしているのだからさぞ世界は灰色にしか見えないだろうと多くの人はおもうだろう。
 さにあらず。
 世界が美しいと底なしに確信しているからこそ、それを抑圧するものへの厳しさは人一倍だといえる。 ピカソネルーダが共産主義者だったことには、それなりにワケがある。




 意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。




「こんなに世界は美しいのに
 こんなに世界は輝いているのに……」




 荒れ狂う王蟲の群れをぼんやりと見ながら、ナウシカは疲れたようにつぶやく。




(引用終わり)

最初に読んだ時から私が違和感を感じたのが

 「意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。」

という紙谷氏のこの「唯物論の定義」である。
まあ、昔の書き飛ばした(失礼)文章の重箱の隅をつつかれても迷惑だろうが、これは哲学的に大きな問題というか、問題のある発言だと思うからここで問題にするわけだ。
一応、手近な辞書で「唯物論」の解説を探してみると、

物質を根本的実在とし、精神や意識をも物質に還元してとらえる考え。(「新明解百科語」三省堂)

とある。まあ、これが常識的な唯物論の定義だろう。
では「愛」はどのように物質に還元されてとらえられるのだろうか。世界を美しいと感じるその感情はどのように物質に還元されるのだろうか。つまり「美しい物質」と「美しくない物質」があるのか、それともそれは見る人の心という「物質」のメカニズムで作られる現象なのだろうか。そもそも、心とは存在するのか。精神はいずれすべて物質に還元されるのか。
他者への畏敬や可愛く思う気持ちもすべて物質的現象なのか。
私には、紙谷氏とはまったく異なり、唯物論とは「すべてただの物質だ」という「世界の軽視」「人間の軽視」「精神の軽視」にしかつながらないように思える。

ナウシカははたして「唯物論者」なのだろうか。


















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「レーニンの笑い」の謎

「レーニンの笑い」についての中沢新一の解釈を「行き過ぎた解釈」だと私は書いたが、その確認をしておく。
その前に、私自身の「笑いの機序」についての所説を書いておく。

笑いとは、「驚き」と「安心」(場合により、それに続けて「自己反省」と「自己防御意識」)の連続が身体症状(表情や笑い声)となったものである。ベルグソンが言っているらしい「緊張と緩和」もそれに近いが「驚きと安心」の方が現実に近いと思う。驚きが現実の危機となると、それは「恐怖」になり、驚きが安全な種類のものだと分かると安心して笑いとなるわけだ。たとえば、道で転んだ人間を見ると我々は驚く。だが、その相手が安全だと分かるとその「転んで威厳を無くした相手」への「笑い」が生まれる。ところが、転んだ相手が動かないとなると、笑いどころではなくなるのである。


で、中沢新一の文章(紙谷氏による要約を含む)を再引用してみる。元の文章では二か所になっていたのを連続させて把握を容易にしておく。

(以下引用)

 レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
 そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
 海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。




 「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」




 これはトロツキーレーニン伝に出てくる一節である。
 中沢はこう記す。




レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」




 これぞ唯物論である。
 レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。




 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。




 しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)



「実践する人間の意識は、自分の外にむかって踏み出していく。なじみのない不気味な異和の感覚が、意識の尖端に接触し、そこをあらっていく。意識は意識ならざるものに触れながら、自分の形態を、たえず変化させていく。この実践は無限につづく。しかし、実践の波頭では、意識は客観に変容し、客観の中から、新しい意識の形態が、たえまなく発生している。そのとき、レーニンのあの笑いがよみがえってくるのだ。ドリン・ドリン!……だから、レーニン唯物論は、笑いとしての哲学なのだ。彼がマッハ主義を攻撃するのは、それが笑わないからだ。観念論は、子供の頭をなでることができない。それは、犬の腹をなでるとき、意識のなかに、絶対的自然が優しい侵入をはたしていることが、わからない。そのとき、レーニンの手のひらに触れているものを、経験の要素だと言うならば、彼のからだにあの笑いの波は、おこらない。ニーチェの言う『神的な笑い』を知ることができない。意識の外にある客観的実在だけが、人間を心の底から、笑わせることができる」(中沢)



(引用終わり)

最初の部分には(いや、中沢の文章の引用全体に)どこにも「レーニンの笑い」そのものの描写が無いのである。紙谷氏が省略したのか、中沢の本にその記述が無かったのかは不明である。だが、「ああ、ドリン、ドリン! これだ、これだ」がなぜ「レーニンの笑い」となるのかを書かないと、紙谷氏の文章全体が破綻するのではないか。

次の文章が中沢氏による「レーニンによる『笑い』の定義」かと思われるが、それが行き過ぎた解釈であるのは明白だろう。もし彼が言う通りなら、新しい事物に出会った人間は四六時中笑いっぱなしとなるのではないか? そんな人間(もしいたら多幸症というキチガイだろうが)などどこで誰が見たことがあるだろうか。

(以下引用)

 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。

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「ふたつの唯物論」の考察

「ふたつの『唯物論』」というか、紙谷高雪氏の文章について、あるいはその文章で論じられている草草についての考察をするが、まあ、原文との細かい照合は面倒だし、私はここでは「印象」で論じるつもりなので、以下の文章に原文との不適合がある可能性は高いだろう。
最初に、「解釈」についてのS・ソンタグの言葉を引用する。と言うのは、紙谷氏の文章そのものが「レーニンについての中沢新一の解釈についての紙谷氏の解釈」であるからだ。とすると、それは「誰の思想」なのだろうか。それを「正確に論じる」ことがどれほどの意味を持つのか、ということになる。「レーニンの笑い」の意味(解釈)など、明らかに中沢新一の「度を越した解釈」だとしか私には思えない。

(以下引用)

「解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)」(ソンタグ『反解釈』)

(引用終わり)

まず、「ふたつの唯物論」の間の論争だが、驚かされるのは、こういう議論が初期ソ連の指導層内で大真面目で論争されていたことだ。それが革命や政治とどういう関係があるのか。どれだけの重要性があったのか。私には単に「どんな知的論争であれ相手に負けたくない」というインテリたちのプライドのぶつかり合いにしか見えない。つまり「哲学において相手より上だと証明できたら、それは自分のすべての知的優位を立証する」という思考が存在したのではないか。それは当然、政治的闘争でも「こちらのほうが知的に優れているのだからこちらの言い分に全員が従うべきだ」となるわけである。私はスターリンなどがこういう論争に積極的に参加したとは思わない。それだけの教養は彼には無かっただろう。しかし、政治力や実行力(テロを含む)では彼は他の指導者たちより勝っていたわけだ。
で、「ふたつの唯物論」については私はレーニンの考えに近いが、それが「共産主義」と関わるとはまったく思わない。紙谷氏とは正反対であるわけだ。共産主義化することで、人間はこの世界とより密接に関わり幸福になるとはまったく思わない。ソ連は「本物の共産主義」ではなかったとしても、それに近い政治体制だったことは事実だろう。で、人々はそこで幸福だったか? 世界とより関わり、その幸福さを芸術などに表現したか? まったく、ゼロである。
当たり前の話だ。たとえば小説などは「主に現実の不幸や矛盾を題材にする」ものだ。プロレタリア作家にとって「現実の幸福を描く」小説などブルジョワ芸術視され軽蔑されるだろう。では、プロレタリア小説家は、革命が成功したら何を描くのか。「共産主義体制下の不幸や矛盾」を描けるか。描けるはずがない。描いたら国家反逆罪で投獄されるだろう。現にソ連ではそうなった。では、共産主義政府の下での「幸福を描く」か? そんなのは見たことが無い。あっても、北朝鮮のマスゲームのような愚劣な仮装にしかならないだろう。
とりあえず、唯物主義社会は別に共産主義だけではない。むしろ資本主義社会こそ唯物主義の極致だろう。しかし、そこでは宗教もビジネス(生活の資)として堂々と存在できる。つまりビジネス最優先社会とは、下劣極まりないものもビジネスとして存在できるし、高尚なものも存在できるわけだ。それを「自由主義」と言ってもいい。もちろん、上級国民の自由は最大限で下級国民の自由は最小限であるが、共産主義国家よりはマシだろう。(ここで言う「共産主義国家」は理想としてのそれではなく、「現実に近い」共産主義国家である。)


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ふたつの「唯物論」(続き)


 ぼくは、S.ソンタグの次の一節を思い出さざるをえない。


「解釈とは世界に対する知性の復讐である。解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである。そしてその目的は、さまざまな『意味』によって成り立つ影の世界を打ちたてることだ。世界そのものをこの世界に変ずることだ。(『この世界』だと! あたかもほかにも世界があるかのように。)」(ソンタグ『反解釈』)


 


 

反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

 

 


 


 レーニンは、ヘーゲルを学びながら、このドイツ観念論哲学の泰斗が形式論理学をのりこえ、この客観世界の矛盾に満ちた、複雑で豊かな面白さを記述しようとしたことにびっくりした。「これは観念論なのか?」と。レーニンはノートにこう書きつける。


「客観的観念論は(そして絶対的唯物論はいっそうそうだが)まがりくねり(そしてとんぼがえりをうって)唯物論のすぐ近くへ近づき、部分的には唯物論に転化している」


 しかし、さらに「はじまりの哲学」であるギリシアの原初的な自然哲学を学んだレーニンは、ヘーゲルにすら「近代知」の小賢しさを見てしまう、と中沢は言う。このあたりは“中沢節”とでもいうべきものであるが、ヘラクレイトスが世界をみて、「永遠に生きる火」だと表現したことは、とりもなおさず、世界のこの豊かさ、底なしの深さを、ざっくりと表現したものだと中沢は見た。それをレーニンは感じ取ったというのである。


ヘラクレイトスにおいては、みずみずしい複雑な運動をはらんでいた『永遠に生きる火』が、ヘーゲル風には、たんなる『不断の生成』という、学校風の概念につくりかえられてしまう。古代哲学者の語る『火』には、闇の中から立ち現れるもの、存在(有)にむかって立ち上がってくるもの、というような新鮮な運動が感じられた。それが『有』とか『非有』という概念をもって語られてしまうと、その『立ち現れ』という言葉にこめられていた、深い意味が消失してしまっているように(レーニンには)思われた」(中沢)



「何かが見えなくなっているのだ。ヘラクレイトスには見えていたものが、近代の思考には見えなくなっている」(中沢)


 


 「闇」「永遠に生きる火」といった宗教学者・中沢らしい、神秘めいた言葉で彩られてはいるが、中沢自身がそこに意識とは独立した客観世界の底なしの豊かさを見るのである。
 神秘の観念がうまれるのは、客観的物質世界がどこまでいってもくみつくせないからである。
 ところが、近代知は、それを経験や感覚のなかにおしこめ「解釈可能」なものに変換してしまおうとする。その底なしの闇の不安から、一刻も早く逃れるために。その粗雑な不良品が主観的観念論である。


 しかし、ヘーゲルでさえ、その近代の思考慣習から逃れることはできなかった。
 ヘーゲルは、この豊かで複雑な弁証法を、学校勉強風の概念になんとかおさめようとし、「精緻」な体系をつくってしまった。この体系こそ、ヘーゲル哲学の全体性という大伽藍を構成しており、多くの人をそこに平伏させたのだが、同時に、多くの人がそこから反逆していくことになった。


「…ヘーゲル的『精神』には、底がある。はじまりの哲学におけるピュシス(自然)やゾーエー(生命)には、底がなかった。そのために、存在と生は、たえず不思議な暗さのなかに没していく衝動を潜在させていた。『精神』には、その暗さがない。そのかわり、構築の堅固さへの自信がある。ヘーゲルの場合、その堅固さの感覚は、ブルジョア世界に特有な、明るさと堅固さへの、『その日暮らしの根拠のない自信』(ハイデッガー)によって、ささえられているのだ」(中沢)


 


ブルジョア哲学は、西欧形而上学二千年の歴史を背景にしてつくりだされた、堅固なディスクールの体系をなしている。しかし、それは、存在の底、根拠についての、特有の臆病を特徴としている。そのために、それは、美しい牛の心臓に素手をつっこんで、個体の主観である生の形態を破壊して、その内部から立ち現れる、絶対的な客観であるゾーエーの力強い露呈に、身をさらそうとはしないのだ」(中沢)


 レーニンは、しかし、ヘーゲルを学ぶことによって、のちのソ連流の「弁証法唯物論」、意識が客観の単純な反映であるということに通じるような議論、すなわちフォトコピー論を拒否するのだ、と中沢は言う。


「実践する人間の意識は、自分の外にむかって踏み出していく。なじみのない不気味な異和の感覚が、意識の尖端に接触し、そこをあらっていく。意識は意識ならざるものに触れながら、自分の形態を、たえず変化させていく。この実践は無限につづく。しかし、実践の波頭では、意識は客観に変容し、客観の中から、新しい意識の形態が、たえまなく発生している。そのとき、レーニンのあの笑いがよみがえってくるのだ。ドリン・ドリン!……だから、レーニン唯物論は、笑いとしての哲学なのだ。彼がマッハ主義を攻撃するのは、それが笑わないからだ。観念論は、子供の頭をなでることができない。それは、犬の腹をなでるとき、意識のなかに、絶対的自然が優しい侵入をはたしていることが、わからない。そのとき、レーニンの手のひらに触れているものを、経験の要素だと言うならば、彼のからだにあの笑いの波は、おこらない。ニーチェの言う『神的な笑い』を知ることができない。意識の外にある客観的実在だけが、人間を心の底から、笑わせることができる」(中沢)


 ああ、まことそのとおりである!


 左翼であるぼくらは、方針文書や理論をなぞって現実におそるおそるふみだしてみる。
 その方針と理論とちがった、あまりにも豊かで複雑で、みずみずしい現実が、ぼくらの意識にやさしい侵入をはたしたとき、臆病な左翼はびっくりして引き返してしまう。
 しかし、真の左翼は、なにがおころうがそこから実践へ、客観的世界へとわけいっていく。
 そうやって、客観的世界にわけいったものだけが、「笑う」ことができる。
 そのとき、当初想定していた理論や方針を、まったくみずみずしい、思いもよらない新たな言葉でよみがえらせる場合もあるし、たんにその理論が貧しい抽象であったことを暴露する場合もある。しかし、いずれにせよその人たちは「笑う」だろう。それは本当に唯物論の立場に立って、現実にわけいったものだけが味わうことのできる「笑い」である。


 そのときはじめて左翼は――いや左翼にかぎらず、人は、世界を「美しい」と思うことができるのである。



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ふたつの「唯物論」

考察素材としての転載。長いので2回に分けるかもしれない。

(以下引用)

中沢新一『はじまりのレーニン』

 

 知り合いの左翼の女性に、「もし子どもが生まれたらどんな名前をつけたいか、あるいは、その名前にどんな人生の期待をこめるのか」と聞いたとき、彼女は「この世界が美しいと思ってくれる子になってほしい」と答えた。
 いい答えだ、と感心した。


 左翼や共産主義者というのはいつもこの世に不平を鳴らしているのだからさぞ世界は灰色にしか見えないだろうと多くの人はおもうだろう。
 さにあらず。
 世界が美しいと底なしに確信しているからこそ、それを抑圧するものへの厳しさは人一倍だといえる。 ピカソネルーダが共産主義者だったことには、それなりにワケがある。


 意識とは独立した客観世界は、まこと底なしで、深く、豊かで、それゆえに美しい。
 そのことを感じる力が唯物論である。


「こんなに世界は美しいのに
 こんなに世界は輝いているのに……」


 荒れ狂う王蟲の群れをぼんやりと見ながら、ナウシカは疲れたようにつぶやく。



 中沢新一『はじまりのレーニン』を単行本で読んだのは学生時代で、そのころはいまひとつよくわからないところがあったのだが、今回本屋で偶然にも同時代ライブラリーとなっているのを手にとって、持っているにもかかわらず、もう一度買って読み直してしまった。そうしたら、面白いことこのうえないではないか!  思わず線を引きまくるぼく。


 

新版 はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

新版 はじまりのレーニン (岩波現代文庫)

 

 



 レーニンは、ゴーリキーの仲介で、政敵と無理矢理ひきあわされ仲直りを強要されるという不本意な旅につきあわされる。
 そのとき、唯一レーニンが「笑い」をみせる瞬間があった。
 海釣りをしていたレーニンが手釣りをすすめられ、魚がかかった瞬間、「ドリン・ドリン」という引きがきたらすぐに引き上げろ、と指示されるのだ。最初のあたりがきて、レーニンは勢いよく釣り糸をひきあげ、熱狂的に叫ぶ。


 「ああ、ドリン・ドリン! これだ、これだ」


 これはトロツキーレーニン伝に出てくる一節である。
 中沢はこう記す。


レーニンという強力な思考機械は、たしかに思考の外にあるもののごく近くで、しばしばそれに直接的に触れながら、作動していたのだ。それは、物質の未知の領域に挿入された、科学的な実験装置のように、人間の言語や思考のなかにまだ組み入れられていない領域に、直接触れている」


 これぞ唯物論である。
 レーニンは物質を存在論的に規定せず「意識から独立した客観的実在」というふうにだけ規定する。中沢はそれを「画期的」と表現する。


 レーニンは、ぼくらの意識の外に、未知の、無限で、底のない、そしてとてつもなく豊かな、きわめつくすことのできぬ「物質」が広がっていたことを知っていた。それがまったく別種のものとしてぼくらの思考に侵入してくる瞬間、「笑い」をひきおこすのだ、と中沢はいう。


 しかし、レーニンはそれをカントのようにたんに「知りえぬもの」とは名付けない。
「それはカントの『物自体』のように、のっぺらぼうの抽象になってしまうからだ。……これにたいして、レーニン唯物論は、その『物自体』、その『知りえぬもの』の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく『実践』の運動の重要性を主張したのだ」(中沢)


 中沢は、ここでレーニンボルシェヴィキ内部でおこなってきた哲学論争を紹介する。
 レーニンに対立する一派は、当時の自然科学者マッハの哲学の影響を深く受けていた。


「人間の外に、なにか『物質』と呼ばれるものが、客観的に実在しているわけではなく、それは感覚の複合がつくりあげる、思想上の記号なのだ、とマッハは語るのだ。……そういう実証科学では、カントの『物自体』について考える必要もないし、また人間の外部に実在する『物質』というものを、考える必要もない。もしも人間の外の『物自体』と経験のあいだに、なんらかの関係があるとしても…おたがいの間には、恣意的なつながりしかない。それにだいたい、経験の『要素』は、ニューロンを通過するパルスにすぎないのだ。重要なのは、それを経験に組織化する『形式』や『構造』をあきらかにすることであって、外の物質的実在について、うんぬんすることではない。マッハ主義はこのように主張する。その現代性はあきらかである」(中沢)


 レーニンに対立する一派は、そのような主観の組織化がどのように客観性を獲得するかといえば、それは集団の場で社会性を獲得するからだ、と主張する。つまり、最初は自分の経験の、感覚の束にすぎないのだが、「みんながそういうから」という理由で、それは「客観性」を獲得するのだというわけである。


記号論とは、なんとまあ、ブルジョワ教養小説のようなつくりをしているではないか、とレーニンはあざける。そうではない。客観は、人間の意識の絶対的な外部にあるのだ、とレーニンは考える。社会性がなくても、経験の組織化などがなくても、それは実在する」(中沢)



 まことにそのとおりである。
 中沢は、この本のなかで、マッハをはじめとする主観的観念論を「現代的」だと規定する。そうだ。現代的な哲学潮流の大勢はこの流れをくむものである。


 しかし、客観世界とは、そのように、ぼくらの経験や感覚にしばられた底の浅い、(ぼくらにとって)「整然」としたものであろうか? せいぜいぼくらの感覚で「組織化」できる程度のものであれば、世界とはなんと貧しいことか。
 世界とはそんな浅薄なものではない、もっと豊かで深い。



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ハイデッガーの「『彼ら』と『私』」論

ハイデッガーの認識論(いかにして世界を正しく認識するか)にはまったく興味が無いが、彼の「現代社会論」は面白い。つまり哲学者ではなく社会学者として面白い。

(以下引用)

共同存在[編集]

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

彼ら[編集]

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである[412]


現存在は他者たちによる乗っ取り要求に従属する。現存在は「私である」というあり方で存在すると同時に、「他者と共に私である」という形でも存在する。 「私である」という形だけで存在できることはめったになく、「我々である」と同時に「彼らと共に」存在しなければならないのである[413]。 ハイデガーの言葉によれば次のようになる。

現実の公共的環境において、輸送機関などの公共手段を使用したり新聞などの情報サービスを利用したりするとき、ある一人の他者は隣にいるもう一人の他者と何ら変わりがない。自己の現存在が『他者たち』のあり方に完全に溶け込むのである。

現存在は他者たちのなかに没入するが、それらは特定の誰でもなく『ダス・マン(Das Man)』としてあり、没個性的で顔の見えない集団である[414]

Landesarchiv Baden-Wuerttemberg Staatsarchiv Freiburg W 134 Nr. 001683 Bild 1 (5-95041-1).jpg

日常生活のなかでは現存在が他者たちに溶け込み、他者たちと化す。同時に、他者たちも溶解し現存在の一部となる。このようなものとしての『彼ら』を識別することは極めて難しく、ここに『彼ら』の力の源がある。

目立たず、確認し難い故に「彼ら」の真の独裁性が発揮される。「彼ら」が楽しむ通りに私たちは楽しむ。「彼ら」が見て評価する通りに私たちは鑑賞し、評価する。「彼ら」がこれは酷いと思うその同じものについて私たちもこれは酷いと思う。「彼ら」は私たち全てであり、その「彼ら」が日常性におけるあり方を規定する。[415]

大衆性[編集]

ハイデガーが提示したのは「大衆社会」理論に対する哲学者からの一風変わった答えだった。ハイデガーは当時、カール・ヤスパースの著作に親しんでおり、彼の主著『現代の精神的状況』は、機械時代に突入した現代文明における「精神の生」と「人を奴隷化する諸力」の闘争を描く。 「人を奴隷化する諸力」とは、現代と現代文化が持つ様々な力であり、工業力の飽くなき機械化、製品の標準化、大都市、新しい文化、商業化された娯楽、大規模なスポーツ競技会、映画ラジオ、通俗ジャーナリズム、「世論」の操作、等々[416]。 これらの力から生まれるのが「大衆効果」即ち、心を伴わない均一性と危険極まりない順応性を良しとする文化が「独自の判断」を行う可能性を圧し潰し「行動の自由」を雲散霧消させる。則ち現代社会は「個」の抹消という恐るべき現象を生み出すこととなる[417]


『大衆文化』についてのこれらの理論は、全てを商品化する資本主義と『ポップカルチャー』の攻勢に対する保守的なエリート知識人からの悲鳴にも似た反論と解釈することもできる。 ハイデガーのいう『彼ら』は単なる「大衆」とは異なり、現存在も「個人」と単純に同一視することはできない。唯一無二の現存在が「彼ら」に吸収され、無力な状況に置かれる。ハイデガーの哲学的に冷静な文章の端々にヒステリックな否定の声がみられる。

「それ」が私であるはずかない![418]

しかし「彼ら」のどこがそれ程までに恐ろしいのか。ハイデガーは次のように指摘する。 『公共性(Öffent lichkeit)』は顔の見えない「世間」と同一化するというのは、自分自身のあり方を手放すことになる。

かくして、この特定の現存在は、その日常性において『彼ら』に責任を免除される。

そして『平均性(durchschnittlichkeit)』をハイデガーは罵倒する。

『彼ら』は何を試みることができるか、試みてよいかを予め決め、例外的なあらゆることに監視の目を向ける。平均より「優れた」ことは全て、密やかに抑えつけられる。「独創的」なものは全て一夜のうちにならされて、とうによく知られたものに変えられる。「闘争」によって得られるものは全て単なる操作の対象になる。あらゆる「謎」が力を失う。この「平均性」は、現存在の基本的傾向の一つを露呈する。すなわち、存在のあらゆる可能性を「平坦化」する傾向である。

ハイデガーの語彙はニーチェを思わせる[419]

頽落[編集]

現存在は日常生活において『頽落(Verfallenheit)』した状況にある。すなわち「彼らと共に」世界・内・存在に没入している。手元にあるものに配慮することまでが「彼ら」の影響にさらされる。哲学用語として用いられても「頽落」はどこか神学の匂いがする。神のまえにある罪深い人間と同様に現存在も頽落する。では、ハイデガーのいう頽落はなにから構成されているのだろうか。 『頽落』は現存在にとって基本的なあり方の一つである。

(1)『世間話(Gerede)』

公共世界における日常会話。「平均的理解が可能」な話し方。「おしゃべり」といってもいい。


(2)『好奇心(Nengier)』

好奇心を持つのは良いことではないのか。ハイデガーによると、好奇心は新しい流行(『彼ら』は目下何をしているのか)と代理経験を欲することである。


(3)『誘惑(Versuchung)』

世界・内に没入、彼らに服従しようとする誘惑。


(4)『鎮静(Beruhigung)』

現存在の落ち着かない気分を日常生活における様々な満足によって洗い流される。現存在の複雑なあり方が我と我が手で世俗的御祓を受ける。


(5)『疎外(Endfremdung)』
存在論的に真である統一された自己から自らを切り離すことをいう。[420]

被投性と投企可能性[編集]

この日常世界を避けることは可能だろうか。現存在はそのなかに投げ込まれている。『被投(Geworfenheit)』は現存在にとってコントロールのきかない世界のなかにあるということで「絶望の淵に投げ込まれる」というにも等しい。この状態は『選択された』ものではない。この世界は現存在が責任を負えず、選んだ訳でもない事物に満ちている。にも拘らず、現存在は行動し、選択し、責任を負う余地が残されている。

投企(Entwurf)』とは、現存在が自らにとってあれこれの可能性に向かい、自らを投げかけることである。潜在的可能性は現存在の一部になっている。 現存在にとって、存在することの潜在的可能性が「ある」ことに他ならない。

しかし、被投性が可能性の足をひっぱる。現存在は単に何でも好きなものに投企できるわけではない。「投企」の周辺状況、現存在の技能や知能、等々が投企を制約する。したがって現存在は、被投性と可能性の曖昧な闘争に制約されて存在することになる。現存在は「底の底まで投げ込まれた可能性」である[421]

気遣い[編集]

内・存在と共存在、手元と目前にあるものに対処すること、「彼ら」の世界と頽落、被投性と投企可能性、ハイデガーはこれらは統一されたものとし、統一概念として『気遣い(Sorge)』を提示する。 現存在は「気遣い」を通じて次のものを統一する。

(1)『可能性』(現存在の投企)
(2)『被投性』(現存在の可能性を制約する)
(3)『頽落』(「彼ら」の世界に現存在を縛り付ける)

これら全てが「気遣い」という言葉の示す通り、現存在にとって重要である。「気遣い」を向ける事によって現存在は統一される。ハイデガーによれば、現存在は「関心(気遣い)」という構造のなかに存在する[422]

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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