(以下引用)
先日の衆議院選挙で自民党や維新が多数の議席を獲得したあとには、リベラルな学者やジャーナリストの多くはショックを受けて、「日本人はいつになったら人権という考え方を理解できるのか」「差別的な政策を疑問にも思わない人たちに囲まれて暮らしているなんて苦痛だ」といった種類の嘆きや愚痴をTwitterに投稿して、それを保守派の論客やツイッタラーがあげつらってやいのやいのと騒ぎ立ててバカにする、という光景が繰り広げられていた。これは今回に限らず、選挙のたびに繰り返される事態ではある。そして、選挙結果について嘆くリベラルが、自分とは違う投票行動をした人たちは「人権に配慮しない」「ジェンダー平等や環境問題を気にしない」などと自分たちよりも狭い見方に基づいて投票した、と決めつけがちであることはたしかに問題だ。
よく指摘されるように、人が投票する際には差別や平等などの道徳に関わる事柄だけでなく、経済をはじめとした自己利益に関する様々な事柄を総合的に考慮して判断しているはずだ。むしろ、選挙というシステムでは、他者に対する道徳的な配慮よりも自己の利益に基づいた投票をおこなうことのほうが一般的であり、それは民主主義の前提ともなっているだろう。
その一方で、道徳は人権や平等だけではない、という見方も重要だ。ハイトによれば、少数派や弱者が被る苦痛に対する配慮(ケア)や平等と公正を求める気持ちと同じように、権威に対する尊重や愛国心も、「労働者が収める税金に寄生しながら楽して暮らす公務員や生活保護受給者」に対する怒りや制裁願望も、道徳感情であることには変わりない。だとすれば、ケアも平等も愛国心も制裁願望も、どれかが優れていてどれかが劣っているわけではなく、いずれも等価なものと見なせるのだ。
……とはいえ、ハイトの議論を批判するジョシュア・グリーンやジョセフ・ヒースが論じるように、リベラルが「ケア」や「自由」を重視して他の道徳基盤を軽視しているのは、彼らがたまたま「ケア」や「自由」を好む感性をしているからではなく、理性を行使したり教育を受けたりした結果として「集団に対する忠誠や権威に対する服従、穢れたものに対する嫌悪感は、道徳判断の指標としては不適切である」という意識を身に付けたからであるだろう*3。六つの指標から二つや三つに絞って判断することは不自然で人為的なものであるが、多様な集団がひとつの共同体に存在しており複雑な経済や政治制度やテクノロジーが発展した現代社会というものがそもそもは不自然で人為的な環境であり、「集団主義的な判断や嫌悪感に基づく判断をしないこと」は、現代社会で生きるわたしたちに条件として課せられている。環境がまったく違う狩猟採集民で暮らしているときに身に付いた道徳感情を野放しにしていると、個人間でも集団間でも悲惨なトラブルが生じてしまい、経済も政治もまともに機能しなくなってしまうからだ。また、進化心理学に基づいたグリーンやヒースのみならず、『感情と法』で法律と道徳の感情的な起源を探ったマーサ・ヌスバウムも、嫌悪感に基づいた判断はすべきでないと論じているのである。
すくなくとも高等教育を受けたリベラルであれば、彼や彼女の価値観は、教育や陶冶の結果として身に付いたものである可能性が高い。問題があるとすれば、リベラルの人たち自身が、そのことをすぐに忘れてしまって、自分たちの価値観を「人間として当然持っているはずの価値観」と思い込んでしまうことだろう。人権感覚は身に付いていないことがデフォルトであるが、それと同時に、現代社会で生きる人間には人権感覚を身に付けることが(道義的に)要請されるのだ。
……もっとも、ハイトによると、倫理や政治に関する規範的な主張とは、当人が持っている道徳感覚に、もっともらしく聞こえるための理屈を与えたものに過ぎない。理性という「乗り手」は感情という「象」に振り回される無力な存在であり、理屈とは感情という犬を正当化するために振り回される尻尾のようなものに過ぎない、というのがハイトの主張の根幹にあるものだ。
したがって、客観的な倫理とか、より正当な政治的立場といったものは存在しない、というのが彼の見方である。だから、「(現代社会という環境のことを考慮すれば)人はリベラルな価値観を身に付けなければいけない」という反論にハイトが同意することはまずない。