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気の赴くままにつれづれと。
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伊藤は自分の子どもにもその名前をつけたことからもわかるように、アナキストであるエマ・ゴールドマンの強い影響を受けている。堀はゴールドマンは伊藤にとって「人生の一大転機をもたらす人物」(p.62)だと評している。伊藤はゴールドマンの「結婚と恋愛」に基づいて、結婚による家庭にとらわれない男女関係について構想した。その核心的な概念が「フレンドシップ」である。
『フレンドシップ』には、当然ながら主従関係はない。契約だって必要ない。野枝はここから広がって、人間の集団に対する理想も考える。(p.149)
そして野枝は、「友情とは中心のない機械」であるという。互いの個性を尊重しあえる友情こそが大事なのだ。夫、妻という役割を持つのではなく、互いの力を高めあっていくことこそが大切だという。
ここまできてわかるのは、これが野枝の恋愛論であり、友情論であり、運動論でもある。労働組合の全国組織を作るとしても、そこに支配関係を作らせない。(p.150)
「母性」についても、野枝は固定した伝統的な観念を超えて、より自由なかたちを模索している。そしてエマ・ゴールドマンの「自由母権」という言葉から自身の考えを深めていく。
野枝は母となることは女の自由選択によるものであって、恋愛のよろこびの結果でなければならないとしている。もしその自由な母を貶めるものであれば、結婚は悪であり、女自身を売ることになる。妻という光栄よりも、母という光栄を私はとる、ということを野枝は主張している。(p.151)
伊藤はフレンドシップ=友情を一つの人間関係の自由なモデルと考えたのだろ
「愛を求める」行為は、
相手に「タダでよこせ」とおねだりする行為であり、
「カツアゲ」と大差ないのです。
(以下考察)
ホリエモンが、「何でもカネで買える。愛もカネで買える」と言ったことがあって、それは「愛」ではなく単なる肉体か奉仕作業の購入だろう、と思うのだが、あの臭そうな男に「百万円やるから俺を愛せ」と言われて愛する女性がいるのだろうか。純粋に愛するなら、カネを貰わなくても愛するだろうし、相手を不愉快に思うなら、百万円貰っても(寝ることはしても)愛することはできないだろう。むしろ、「百万円やる」と言われたら侮辱だと思うのではないか。
まあ、何とかいう成金の恋人になって捨てられてタレント生命を失った女性タレントもいたが、あれは「カネで体を売った」のか、それとも本気で愛したのか。後者なら、気の毒な話である。男のほうは相手を単なるブランド物の女体としか見ていなかったわけで、女性の側からは、愛とは奉仕であることを示す話になったようだ。そこで損得勘定をするのがビジネスマン、ビジネスウーマンで、この場合、男はビジネス的に性交、いや成功し、女は完全に失敗したわけである。
さて、「愛を求める」という、不思議な行為について考えてみる。「愛を求める」とは「私を愛しろ」と要求する行為だが、そういうことができるのは、凄い精神だな、と思う。
それは相手に愛されるに足る特質や長所が自分にある、という前提、確信があってのことなのか。それとも、「自分は相手より上だから、それを要求する権利がある」という判断なのか。それとも「自分には何もないけど、愛してほしい」ということなのか。たとえば、自分の価値がゼロで、相手の価値が100の場合、「それでも自分を愛してほしい」と思う精神は、なかなかの勇者の精神だ。
相手の「愛」が、乞食への施しのようなものでも、愛されればいいのだろうか。(まあ、そういうのもあってもまったくおかしくはないのだが。たとえば、三島由紀夫の「綾の鼓」のように、醜く貧しい老人が絶世の美女に恋をしたような状況である。)だが、その「施し」は、本当に愛かと言えば、そうではないだろう。愛される要素がゼロの相手に愛を施す場合、それは慈善行為であって、恋愛ではない。ここまで語ってきた「愛」は恋愛の話なのである。
もっとも、この考察は愛を経済的に捉えすぎているのであり、「愛は盲目である」という昔からの俚諺もあるので、この論考自体が愚論ではあるだろう。まあ、冗談論文である。
なぜ、このようなダークヒーローが残酷に大量殺人をする映画やドラマがアメリカや韓国ばかりでなく、日本でも人気を博しているのか?
ヒントは、『ヴィンチェンツオ』の中で女性弁護士が言う台詞の中にある。「イタリアのマフィアはシシリーにいるだけ。でも韓国は、政府もメディアも警察も裁判所も刑務所も財閥も、みんなマフィア」という台詞の中に。
上が上なんだから、法そのものが恣意的なあてにならないものなのだから、実質的には法治国家じゃないのだから、生き抜くためには下もマフィアになるしかないということだ。
日本社会は、そこまでは腐っていないと思いたいかもしれないが、真実はわからない。
ドラマや映画を製作する側も、それを消費する側も、2021年に生きる人間とならば、以下の8点を共通認識としている(と思う)。
(1)教科書に書いてあることは、真実のほんの一部。歴史のほんの表面。教育は、国民を奴隷にするために機能している洗脳機関。常識を疑え!
(2) 立派なスローガンや主義主張の背後には、残酷冷酷な意図が潜んでいる(ことが多いかもしれない)。地獄への道は善意で敷き詰められている。
(3)TVや映画を含み大手メディアは、それらの立派なスローガンや主義主張の残酷冷酷な意図を隠し、糖衣状にして流通伝搬させる装置。
(4) そういうメディアの策略を読むメディア・リテラシー(media literacy)を身につけることは非常に難しい。せいぜい中途半端な陰謀論者になり、脳と心が一層に混乱するだけだ。
(5)価値観の相対化が進み倫理も美意識も人それぞれになるのは、多様性を認めあう理想の世界に見えて、実際には人々は何を守ればいいのかわからなくなった。表面的にはポリコレぶりっこだが、実際は、無規範(anomy)が世界に蔓延しつつある。
(6)そういう世界の中で、人々は自己防衛のために他人を潜在的脅威とみなし、相互不信が人間関係の基調になる。人間は相互扶助のために集団を形成するはずが、集団形成そのものが難しくなりつつある。たとえば、個人が属する最小集団である家族そのものが個人にとって危険なものとなるように。古代からそうだったのかもしれないが、それが暴露されてきた。
(7)「お上」は庶民から収奪するだけの存在であり、特権的支配層は「お上」と結託して税金の中抜きが自由にできる。ならば、自分たちだって、脱税や課税回避地域への資産逃亡や非合法行為は自己防衛として許されるというアナーキーな心情が、多くの企業人や庶民の心に形成された。
(8)昔の庶民は、良きにつけ悪しきにつけ、メディアの発達もなく、factだろうがfakeだろうが、情報にアクセスする機会も手段もなく、特権層の腐敗も知らず、価値観の混乱や無規範に翻弄されることもなかった。しかし、現代に生きる庶民は、真実もゴミも大量に浴びるので疲弊する。
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