忍者ブログ

哲学の宗教化

「梟通信」というブログから、記事の一部を転載。
ハイネによるカント批判である。まあ、カント批判というよりカントの文体批判で、これについては異議は無いと思う人が多いのではないか。しかし、日本でも西洋でも、「その文体だからこそいい」と考える人も多いとも思われる。中には「何事のおわしますかは知らねども有難さ(かたじけなさ)に涙こぼるる」と感動して読んでいる哲学の使徒もいるのではないかww

(以下引用)

カントの「純粋理性批判」が味気なく、ひからびた包装紙のような文体であることについて。
もしも軽快な、やさしい明るい文体で述べられたら、哲学はその威厳をいく分損ずるだろうと考えたのだろう。だからカントは哲学にしゃちこばった、抽象的な形式をあたえた。それは思想の低い階級には、とうていしたしめない冷たい形式である。カントは、きわめて下世話な、はっきりした表現をねらっていた当時の通俗哲学者とは自分をいばって区別しようとして、自分の思想を宮廷くさい、冷えきったお役所言葉でよそおった。この点にカントの俗物根性が、はっきりあらわれている。けれどもまた一面から見れば、カントは自分の丹念にきめられた精確な考え方をあらわすためには、やはり丹念にきめられた精確な言葉が必要だったろう。
しかし、カントはそのために紋切り型のお役所言葉よりもすぐれた言葉はつくり出せなかった。
天才だけがあたらしい思想に、あたらしい言葉をあたえる。ところが、イマヌエル・カントはけっして天才ではなかった。カントはあのまじめなロベスピエールとおなじように、自分は天才ではないと感じたからこそ、天才にたいしては一そううたがいぶかかった。カントは「判断力批判」という著書で、こういいきっている。
「天才は学問には用がない。天才の活動は芸術の領域にかぎられている。」
カントによってドイツの哲学革命が引き起こされたのは、その著作の内容によるよりも、むしろその著作を支配している批判精神によってであるとハイネはいう。
容易なことではうごかないドイツ国民は、いったん何かの道をとってすすむとなると、きわめてしつこく辛抱づよくその道を、とことんまでつきすすんでいく。
宗教革命も、哲学革命も、政治運動も。

拍手

PR

精神病の病因としての「自由」

別ブログに書いた記事だが、ここにも載せておく。
追記すると、三島由紀夫が自衛隊生活を体験したことについて、「すべて決められたように行動すればいいので、心理的に非常に爽快だった」という趣旨のことを書いている。つまり、下に書いている「精神病の原因としての自由」からの解放は、監獄や病院だけでなく、軍隊でも同様だ、ということである。
自分自身を考えても、高校まではすべてが不自由だったが、精神はさほど問題はなかったと思う。精神的に不安定になり、陰鬱化の傾向が出てきたのは、浪人時代と大学の初期のころであり、すべて自分の判断で行動する必要が出てきてからだった。
大資本家がほとんどキチガイになる(悪魔化する)のは、その巨大なカネ(権力)が彼らに与える自由のためだろうww これは王侯の類も同じである。

(以下引用)
「壺斎閑話」記事の末尾で、中村某という者が、ドストエフスキーは生涯にわたって精神病者だったという説を出していることについての文章である。まあ、その当否は別として、下の部分は面白い。

四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいた

という部分である。「したいた」は「していた」のタイプミスだろう。
これは、精神病を考えるうえで、面白い話である。つまり、「自由こそが精神を病ませる」という仮説だ。監獄や病院にいる時は拘束状態だから、「自由をあきらめる」。それが精神の安定をもたらすのではないか。あるいは、「自由」の代わりに「夢」や「希望」を置いてもいいかもしれない。夢や希望を失った状態こそが精神が一番健全に働くのではないだろうか。
そこで想起するのが、「冬の散歩道」の中の

when I look about my possibility
I was so hard to please

という一節だ。この「気難しさ」が、精神の不健康さの徴候だろう。青年期が精神の危機の時であるのも、まさに夢や希望や可能性の中で迷いに迷うからではないか。つまり、カフカ的迷宮の中にいるのである。


(以下引用)

そんなドストエフスキーだが、不思議なことに、四年間の監獄生活の時期が、精神的にもっとも安定したいたと中村は言う。じっさいドストエフスキー自身も、「懲役のほうが気持ちが穏やかだった」と口癖のように言っていたそうである。なぜ彼がそんなふうに思ったのか、それについては詳しく立ち入って考えていない。監獄のなかでは、他人との関係が単純化されるので、精神的なストレスも緩和され、異常な精神状態に陥ることが少なくなった、あるいはなくなってしまった、ということだろうか。もっとも、この懲役中に癲癇の発作が始まったわけで、それをどう考えるかは、また別の問題である。
いずれにしても、ドストエフスキーが統合失調をほぼ生涯にわたって患っており、その症状を直接描写することで、かれの作品世界が形成されたとする中村の推論は、その有効性はともかく、面白い試みである。

拍手

宗教の価値と文学(漫画を含む)の価値

「神戸だいすき」記事の一部で、まあ、自分の属する宗教教団の宣伝臭いが、実際に神様仏様のような人間も存在はするだろう。そして、そういう人の一部は名が歴史に残ることもある。
ただ、私はそういう人間(宗教家)よりも、文学のほうがはるかに人類の知的向上をもたらし、人間の徳性(あるいは品性)を高めてきたと思っている。特に児童文学である。子供のころに読んだ本から得た「人間の品性」についての印象が、その人の品性を高めるわけだ。(ちなみに、今朝の起き抜けに読んだ本が、市民図書館から借りてきたJ・M・バリーの「ピーター・パンとウェンディ」である。)トルストイの大長編は読まなくても、子供のころに「イワンの馬鹿」を読むだけでも、「頭で稼ぐ」詐欺的労働と、「手に汗して物を作り出す」本当の労働の違いは一生記憶に残るわけだ。(品性のある知的労働は社会全体に貢献するものなので、金儲けには向かない。)
作者の品性と作品の品性はイコールではない。たとえばオスカー・ワイルド本人は男色の罪(これは時代の風潮の問題だ)で社会的に破滅したが、彼が子供のために書いた童話は永遠の価値を持つだろう。「作品の永遠の価値」は宮沢賢治や小川未明、新見南吉、浜田ひろすけも同様だ。
童話だけでなく漫画も子どもの精神発達に与える影響は大きいと思う。手塚治虫が日本に存在したことの意味は、あまりにも大きい。その後の子供向け漫画やアニメはすべてそこから派生したと言える。特に「可愛さ」(kawaii)は、手塚キャラが源流だと思う。だから、手塚治虫の存在しなかったアメリカのアニメのキャラはまったく可愛くないのである。(もっとも、手塚治虫自身がウォルト・ディズニーの影響が大きいが、ディズニーの死後、デイズニープロ作品ではそのキャラの可愛さは失われた。)


(以下引用)

キリスト教だって、仏教だって、教えることは同じです。

ただし、究極は同じということで、この世の宗教が、汚れはて、罪深くなってしまったのも、本当。

今や、なかなか真の宗教者には会えません。

私は、その「まこと」に出会いました。

最初は、そんな一点の濁りもない人なんかいるはずがないと、思いました。

けど、調べれば調べるほど、信じられるようになりました。

かすかな濁り、人であるからには避けられない罪ケガレと、最後の最後まで戦い続けた人に出会いました。おのれを、磨いて磨いて磨きぬいた人です。

信者たちは、生き仏様のように、崇拝しました。

ところが、その生きた仏の生涯は、苦難に満ちていました。ひとつひとつの苦難が、その人を磨きぬいたのです。

最初から、完璧な人なんかいません。最初はただの人です。

それにしても、なんで、これほどの人が、ここまでつらい目に遭わねばならないの?神も仏もないものかと、思うことばかりでした。

あのころは、神と仏の「極愛」とは、人として越えられるギリギリの修行を与えて磨きぬくことだと、知らなかった。

磨きぬかなければ輝き渡る玉にはならない。

仏道修行の道は、険しくて、貧困、誹謗、妨害の連続でした。
なぜ、ここまで?

神も仏もないものかあるなら、こんな高い志の人を、なぜ、守ってくれないのか?

近づくにしたがって、その理由がわかりました。

その人が、苦難を前にして、くじけず、挑戦と研鑽を重ね、一歩一歩のぼっていく生涯、その真剣さに打たれた弟子は、

その人の志を受け継ごうと真剣になります。
あの、苦労を無駄にしてはならない。灯を私が継ぐ!

心底真剣に道を求めた人に出会えたのは、この上ない幸福でした。
その幸福とは、師匠と同じく苦難の道を歩くことで、実際に、自分で味わってこそ知る醍醐味。

拍手

一神教の人間観と仏教の人間観

東西の宗教は大きく仏教と「ユダヤ・キリスト・イスラム」教、つまり世界の創造者・造物主としての神を信仰する一神教に分かれると思うが、その大きな違いは、実は「祈り」の意義や比重にあるのではないか、と思う。
仏教では本質的には「仏に祈る」のは意味不明な行為だと私は思っている。というのは、仏とは「悟った人」のことであり、私やあなたが悟れば、即座に仏の仲間入りだからだ。とすれば、仏に「祈る」という行為の無意味さも自明だろう。祈る(祈願の)対象が存在しない(常に転変し、どんどん増殖する)のだから、仏教徒はいったい何に向かって祈っているのか分からないわけだ。ひどい場合には新興宗教の教祖が神様扱いである。
逆に言えば、「あなたも私も仏になる可能性を持った存在なのだから、他者をあだやおろそかにはできない」というように、他者尊重の姿勢の根本には、仏教があるとも言える。
西洋の一神教の場合には、「正しい神を信じている自分は人間だが、正しい神を信じていない連中は動物と同じなのだから動物扱いしていい」となるわけで、これが中世以降の西洋の世界侵略と略奪行為の基盤にあったのではないか。

拍手

因果応報思想の凶悪性

「神戸だいすき」記事の一部で、途中省略。批判的意味での引用である。
神戸だいすきさんがどういう教団に入っているのか、これまで分からなかったが、もしかしたら、文中にある「桐山靖雄」の教団だろうか。昔、マスコミにかなり登場していた(宣伝が多かった)教団である。まあ、私の目からはかなりいかがわしい人物であるが、その護摩行だとか何だとかには信奉者が多いようで、プロ野球の金本とか新井などがやっていたのではないか。
下の記事内容についてはいちいち書かないが、一番まずいのは、現世での不幸を「自分もしくは先祖の悪行の報い」としていることだ。とすると、病人や精神異常者、あるいは事故の被害者は「お前、もしくはお前の親が悪行をした結果だ」となる。これは最悪の思想だろう。

(以下引用)

神も仏もないものか!というけど、「神」は、「慈悲」ではなく、私情なんかありません。
悪人は悪の報いを受ける。
ひどいことをしたら、ひどい報いを受ける。それは自然の摂理であって、変更してはいけない。

私は、奈良の春日大社の葉室宮司のお話をわざわざ聴きに行ったけど、まあ、切るわ斬るわ、「悪人は死ねばいい。死んでくれ!」と、連呼してた。

仏教をやる私としては「これが神道なのだ」と、思った。

すべて自業自得、すっきりしたもんじゃないか。

正直、悪人が罰に当たって、滅びるのは、そりゃあ、いいことだけど、見てると、正直者ばかりが馬鹿を見てる気がするものね。

正直者とはいえ、何の悪業も起こさない人間はいないから、小さなごみみたいな罪を、小さく償っているんだろうね。
大悪人は、そうはいかない。悪人のくせに栄えると、のちの報いは恐ろしい。
なかなか、短期間では見届けられないけどね。

私みたいに、120年続いた暖簾を降ろした家に生まれると、商売がうまくいかなくなると期を同じくして、子孫の不幸がのきなみ。

まさに桐山靖雄氏の言う通り、まず、家族間の不和がおこり、病気が追い打ちをかけ、最後、精神異常者だらけになる。
でも、まだ、うちは、商売における犯罪とか、大事故を経験しなかっただけでも幸福だったと思う。

(中略)

私なんかは、生きるも死ぬもすべて預けた神仏があるから、

だから、無事だとか、免れるというのではありません.
でも、大難は小難に、小難は無難に、

見えない存在には、不思議なパワーがあります。

あれを、どう説明したらいいのかわからない。
同行二人っていう感じかな。
見えない何かが、そばにいる感じ。

よく「教団には属さないけど、信仰心はあります」という人るでしょう。

では教団に所属すると、どう違うかというとね。
教団には、指導者がいるよね。
この指導者の教義や、行い、徳力に応じて、見えない世界が応援する。つまり、神々は「争わない」(正義かどうかより、争わない方が好きなのよね)「正直」「自分より他を先にする」(そもそも自分と他人は、実はひとつだから)「清浄」「ほほえみ」「明るさ」

そういうのが好きだから、そういうことをちゃんと、教える人を助ける。徳がおおきければ大きいほど、助ける神々の数が多い。
そして、教団の守護霊団が、所属教徒を助けてくれる。

これは、響きあいだから、なかなか守護霊団とつながるのも簡単じゃないよ。

けど、つながることができるとね、守られる。

日々、守られていることを実感する。

まあ、もう、これ以上、生身の人間としては、できることはないと、私は思っている。

それでも、災いはゼロではないよ。

生きるのは険しい道を行くことで、その険しさは、自分を磨いてくれるから。必要な苦労なのよ。

地図もない道を歩いていると思うだろうけど、みんな何らかの守護神を持っているから、それなりに導かれているよ。

問題は、よくない教団にはいっちゃったときよね。守護霊団そのものが、邪神だったりする。入信して教団施設に入るなり、気が狂った人もいたらしいから。教団は選ばないとね。

でも、それもまた因縁だから。

ま、死んでも命はあるんだから、いいじゃん。

拍手

「愛」と「恋」の違い

別ブログに書いた小論だが、案外悪くないと思うので、ここにも載せる。
最後の段落の「恋のために身を滅ぼす女」というのは実は案外多い。ホストに貢いで犯罪に手を染めたり売春婦になったりする女性の話はよく聞く。だが、ホステスに貢いで破滅した男の話はあまり聞かない。そこが男と女の違いだ。べつにどちらが上という話ではなく、「そういう風にできている」だけだ。
もっと破滅的な恋愛だと「八百屋お七」がいる。自分の恋のために江戸を大火災にして死罪になった娘である。恋とは狂気だというのが良く分かる。だが、当人には至福の狂気なのだろう。

ちなみに、恋の対象の像(姿、イメージ)は恋する側が勝手に妄想で作り上げるというのがスタンダールの「結晶作用」論である。

(以下自己引用)


恋は愛ではない




文庫本で、キューブリックの映画「アイズ・ワイド・シャット」の脚本と、その元になったシュニッツラーの短編小説「夢小説(夢の話)」を合本にしたものがあって、それを連続で読むと非常に面白い。まず、映画が小説の真髄を見事に映画化していること、それにも関わらず、小説が表現したことを映画では省略した部分(妻の第二の夢告白内容の詳細)があることだ。
シュニッツラーの小説を読んだのは初めてだが、これほど人間心理の深みに入ることができた作家だとは知らなかった。むしろ、「輪舞」のような、軽妙なエロ的状況を描くのが得意な単なる才人だと思っていたのである。「夢小説」における心理解剖は、ドストエフスキーを凌いでいるかもしれない。少なくとも、恋愛という現象については、彼と並ぶのは、「クロイツェルソナタ」におけるトルストイくらいだろう。
つまり、恋愛というのは「愛する価値があるから愛する」のではまったくないということだ。そういう「取り引き」ではなく、合理性も理性もそこにはない。嵐のような感情に襲われるのである。愛よりも、むしろ性欲のほうが恋愛には近いとすら言える。相手がどのような下種でも、その相手に性欲を感じるのと同様に、どんな相手でも、交通事故のように恋愛は生じるのである。恋愛は祝福ではなく、むしろ呪いに近い。安全さの中にとどまるかぎり、それは恋ではなく、「損得計算」である。
ちなみに、「夢小説」の妻は、この上なく誠実で優秀な医者である夫を愛していながら、旅先で一目見ただけの男に恋をし、その男に誘われたら夫も幼い娘も捨ててついて行っただろうと夫に告白する。夫はその告白に自分の人生が破壊されたような衝撃を受けるのだが、当然だろう。つまり、この「現実化しなかった不貞の告白」は、現実の不貞とまったく変わらないのである。そこにあるのは、男として、妻の目からは自分は旅先で妻が一目見ただけの男にまったく及ばないという屈辱なのである。長い間の夫婦生活も献身も妻の「恋」の前では無価値だったわけだ。
「愛の嵐」という題名の映画があったが、嵐のたとえがふさわしいのは、愛ではなく恋だろう。そして、そういう嵐のような恋の前には、自分の人生のすべてを投げ出してもいいという女性もかなりいるのではないだろうか。(文学の上では、恋に身を滅ぼす男もしばしば描かれるが、現実には男は「社会生活」との損得勘定が先立つから、そういう「恋愛向きの男」にはなれないのが普通だと思う。せいぜいが、セックスの相手になるだけだ。つまり、女性が「恋」をする相手の男の中身は、まったく愛するに値しない下種であることが多いようだ。当然、その男から見れば相手の女性は「やり捨て」の対象である。もちろん、それでも、女性から見ればそれは「恋の成就」なのである。)

拍手

フェミニズムの倫理学

「紙屋研究所」の記事の一部で、伊藤野枝の評伝についての感想文の一節だ。
伊藤の恋愛観、あるいは結婚観、出産観というのは著しく間違っている気がするのだが、その生き方自体は非凡でもあり、勇敢でもあったとは思う。まあ、当時の「道徳(最近の流行語で言えば通俗道徳)」へのテロリストだったと言える。
当時の道徳が女性を鎖に縛っていたことは現代の目からは明白だろうから、彼女はある意味現代のフェミニズムの魁(さきがけ)的存在でもあるだろう。ただ、問題は、鎖に縛られた存在はすべて不幸か、ということであり、当時の女性のすべてが不幸だったと思う人はあまりいないだろう。そもそも、鎖の存在に気づかないなら、不幸だという意識も無さそうだ。
つまり、「意識の高い」一部の人間が、当時の道徳の破壊活動をし、その遠い影響で現代の「性的自由」の世界になったわけだ。さて、その性的自由の恩恵を受けているのは、男女全員か?いや、そのほんの一部だろう。多くは昔より性的に不自由なのではないか。昔なら「手鍋ひとつ下げても」嫁入りできたが、今では結婚のしきいがあまりに高すぎる。つまり、世の半数以上の男女はけっして性的自由の恩恵は受けていない。
下の記事の中から、あと一点。

野枝は母となることは女の自由選択によるものであって、恋愛のよろこびの結果でなければならないとしている。

とあるが、母となることが「恋愛のよろこびの結果でなければならない」とするなら、人工授精や代理出産で生まれた子供は、「生まれる資格のない」子供なのだろうか?
これも蛇足だが、野枝の組織論も空論だろう。命令服従関係の無い組織は存在しえない。まあ、数人のグループなら可能かもしれないが、それでは力を持てないだろう。


(以下引用)


 伊藤は自分の子どもにもその名前をつけたことからもわかるように、アナキストであるエマ・ゴールドマンの強い影響を受けている。堀はゴールドマンは伊藤にとって「人生の一大転機をもたらす人物」(p.62)だと評している。伊藤はゴールドマンの「結婚と恋愛」に基づいて、結婚による家庭にとらわれない男女関係について構想した。その核心的な概念が「フレンドシップ」である。


『フレンドシップ』には、当然ながら主従関係はない。契約だって必要ない。野枝はここから広がって、人間の集団に対する理想も考える。(p.149)



 そして野枝は、「友情とは中心のない機械」であるという。互いの個性を尊重しあえる友情こそが大事なのだ。夫、妻という役割を持つのではなく、互いの力を高めあっていくことこそが大切だという。


 ここまできてわかるのは、これが野枝の恋愛論であり、友情論であり、運動論でもある。労働組合の全国組織を作るとしても、そこに支配関係を作らせない。(p.150)



 「母性」についても、野枝は固定した伝統的な観念を超えて、より自由なかたちを模索している。そしてエマ・ゴールドマンの「自由母権」という言葉から自身の考えを深めていく。


 野枝は母となることは女の自由選択によるものであって、恋愛のよろこびの結果でなければならないとしている。もしその自由な母を貶めるものであれば、結婚は悪であり、女自身を売ることになる。妻という光栄よりも、母という光栄を私はとる、ということを野枝は主張している。(p.151)


 伊藤はフレンドシップ=友情を一つの人間関係の自由なモデルと考えたのだろ

拍手

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析