12時(深夜0時)ごろ目を覚まし、寝床で、読みかけの「三四郎」を最後まで読んだ後、寝直そうと思ったが、目が冴えてしまったので起きてこれを書いている。
私は漱石の作品を全部読んだわけではないが、「吾輩は猫である」と「三四郎」は漱石のベストの作品ではないか、と思う。前者はカリカチュア性が強いので、真面目に読む人は少ないと思うが、漱石は真面目に文明批評や社会批評をしている。「三四郎」も同様で、青春小説の反面、ここにも優れた文明批評がある。その一部を抜き出す。漱石の漢字の使い方は独特なので、一部、こちらで変更する。引用部分は「広田先生」の言葉である。これは漱石自身の意見でもあると思う。
(以下引用)
「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事ひとつとして他(ひと)を離れた事はなかった。すべてが、君(夢人注:主君)とか、親とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それをひとくちに言うと教育を受ける者がことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸漸(ぜんぜん:次第に)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」(夢人注:「露悪家」は漱石がこの時作った造語らしいが、今は普通の言葉だろう。少なくとも「露悪的」は普通の語だ。)
「昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自(めいめい)同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でも何でもない。臭いものの蓋をとれば肥桶(こえたご)で、美事(みごと)な形式を剥ぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。」
「形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(生地)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。(夢人注:このあたりは広田先生=漱石の皮肉だろう。もちろん、「天真爛漫」が本来の熟語)ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義(夢人注:これは現代で流行語の「他人軸」と考えたほうがいい。広田先生は、これを「偽善」とも言っている。)がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らしていくものと思えば差支えない。そうして行くうちに進歩する」
「英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって化石しかかっているーーー」
(以上引用)
「三四郎」が書かれたのは20世紀初頭で、正確には明治41年(西暦だと1908年か)のようだ。つまり、英国が帝国主義の覇者として世界を睥睨していた時代である。そのころに英国の衰退を予見していた漱石は慧眼どころか、予言者だろう。そして、日本が露悪家(「正直」な利己主義者)だらけになりつつあることも指摘している。現代の日本がまさに悪人天国であるのは言うまでもない。みな、「正直」な露悪家だ。これは「偽善」の衰退の結果とも言える。
まえから書いているが、「偽善」とは、天然自然の善性の顕れではなく、「人為的に行う善」であり、これこそが社会を良化するのである。少し前の流行語で言えば「やらぬ善よりやる偽善」である。さて、今や、テレビでホリエモンやひろゆきや漫才師たちなど「自分の本音を言う」と思われている連中(元犯罪者たち。あるいは蓋を取った肥桶)が、日本の言論を支配し、若い人々や子供たちに影響を与えている。
こうした状況では、広田先生でなくとも日本は「亡びるね」と思うのが当然だろう。
ちなみに、私は英国の衰退の原因は「植民地時代が終わった」という時代の趨勢と、英国が階級社会であることにある(階級社会は必然的に衰退する。日本も同様。インドの発展は単なる人口ボーナスである。)と思っているが、その考察はまたの機会にする。
私は漱石の作品を全部読んだわけではないが、「吾輩は猫である」と「三四郎」は漱石のベストの作品ではないか、と思う。前者はカリカチュア性が強いので、真面目に読む人は少ないと思うが、漱石は真面目に文明批評や社会批評をしている。「三四郎」も同様で、青春小説の反面、ここにも優れた文明批評がある。その一部を抜き出す。漱石の漢字の使い方は独特なので、一部、こちらで変更する。引用部分は「広田先生」の言葉である。これは漱石自身の意見でもあると思う。
(以下引用)
「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強過ぎていけない。我々の書生をしている頃には、する事為す事ひとつとして他(ひと)を離れた事はなかった。すべてが、君(夢人注:主君)とか、親とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それをひとくちに言うと教育を受ける者がことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸漸(ぜんぜん:次第に)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」(夢人注:「露悪家」は漱石がこの時作った造語らしいが、今は普通の言葉だろう。少なくとも「露悪的」は普通の語だ。)
「昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自(めいめい)同等の権利で露悪家になりたがる。もっとも悪い事でも何でもない。臭いものの蓋をとれば肥桶(こえたご)で、美事(みごと)な形式を剥ぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている。」
「形式だけ美事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地(生地)だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。(夢人注:このあたりは広田先生=漱石の皮肉だろう。もちろん、「天真爛漫」が本来の熟語)ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義(夢人注:これは現代で流行語の「他人軸」と考えたほうがいい。広田先生は、これを「偽善」とも言っている。)がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういう風にして暮らしていくものと思えば差支えない。そうして行くうちに進歩する」
「英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、傍から見れば堅くなって化石しかかっているーーー」
(以上引用)
「三四郎」が書かれたのは20世紀初頭で、正確には明治41年(西暦だと1908年か)のようだ。つまり、英国が帝国主義の覇者として世界を睥睨していた時代である。そのころに英国の衰退を予見していた漱石は慧眼どころか、予言者だろう。そして、日本が露悪家(「正直」な利己主義者)だらけになりつつあることも指摘している。現代の日本がまさに悪人天国であるのは言うまでもない。みな、「正直」な露悪家だ。これは「偽善」の衰退の結果とも言える。
まえから書いているが、「偽善」とは、天然自然の善性の顕れではなく、「人為的に行う善」であり、これこそが社会を良化するのである。少し前の流行語で言えば「やらぬ善よりやる偽善」である。さて、今や、テレビでホリエモンやひろゆきや漫才師たちなど「自分の本音を言う」と思われている連中(元犯罪者たち。あるいは蓋を取った肥桶)が、日本の言論を支配し、若い人々や子供たちに影響を与えている。
こうした状況では、広田先生でなくとも日本は「亡びるね」と思うのが当然だろう。
ちなみに、私は英国の衰退の原因は「植民地時代が終わった」という時代の趨勢と、英国が階級社会であることにある(階級社会は必然的に衰退する。日本も同様。インドの発展は単なる人口ボーナスである。)と思っているが、その考察はまたの機会にする。
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