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時間を「ムダに」使うという贅沢

まあ、正論だろう。ファスト視聴で小津安二郎の映画を見たら、1秒しかかからないというか、タイトルだけ映して終わりだろうwww そして、小津安二郎の映画は世界の評論家が絶賛するものだ。世界の名作映画の第一位と長く評価されていた「市民ケーン」だと、最初の「薔薇のつぼみ」という、ケーンの臨終のつぶやきと、ケーンが両親から引き離されるシーンの遠景の橇のアップと、最後の橇が燃えるシーンで3分程度か。
私が朝の散歩が好きなのは、朝空、特に日の出前後の空の姿が好きだからだが、散歩の間に頭に浮かぶよしなし事(由無し事)を妄想するのが楽しいからで、健康のためというのは二義的三義的だ。これは、部屋の中での妄想とはまた別種のものになる。あるいは、テレビゲームをするのも読書も「時間の無駄遣い」という贅沢であり、別にコマンドを達成したり敵を倒すだけ、本の筋を追う事だけが楽しいのではない。要するに、「自分が自由である」という感覚は、そういう「時間の無駄遣い」にこそ、あるいは主に頭脳生活の中にあるのではないか。

まあ、頭の中の生活こそが本当の生活だ、という私の思想は世捨て人の思想だろうが、その世捨て人も世界の人類の遺産である歴史と伝統と文化の中で頭脳生活は送っているのである。本を読まず映画も漫画も見ない王侯や富豪がいるなら、その誰よりも贅沢だろう。彼らは50年か60年の人生、それも自分の手に入る限界の中でしか生きていないのに、本を読み映画や漫画を見れば、人類3000年(文字で記録された限り)の歴史と伝統と、偉大な人々の思想や天才たちの空想と共に生きることも、頭脳生活の中では可能なのだ。
ファスト視聴をやっている人は、たけしの「あの夏、いちばん静かな海」を見てみるといい。これは、まったく何も起こらない映画である(聾啞者、あるいは聾者か唖者の映画なので、台詞すらない)が、淀川長治も激賞した傑作である。毒舌家として売り出したたけしという人間の根底にヒューマニズムと抒情性があることがよく分かる。

(以下引用)

ビートたけし「『時間をムダに使う贅沢』を知らない若者は可哀想」「映画の見どころはシーンの『間』」


転載元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1703126659/


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1: ネギうどん ★ 2023/12/21(木) 11:44:19.67 ID:xJuovG/99
 国語辞典などを手がける出版社・三省堂が発表する、「今年の新語 2022」で大賞に選ばれた「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉。近年、ネットやスマホの普及とともに情報が流れる速度は急速に上がっている。だが、一度立ち止まって時間の使い方や生き方に余裕を持つべきではないか──そう主張するのが、映画監督・タレントのビートたけし氏(76)だ。

 新刊『ニッポンが壊れる』を上梓したたけし氏は、『週刊ポスト』の取材のなかで「ファスト映画」への見解や、11月24日に亡くなった友人・伊集院静さんの生き様について明かした。【前後編の後編。前編から読む】

 オイラはこの前、久しぶりに『首』という時代劇の映画を作った。映画の話で言えば、映画を「早送り」で観る若者が増えているんだって?

 それどころか起承転結の要所だけをつまんで繋げて、10分や15分にまとめた「ファスト映画」というのを配信する違法業者が増えているらしい。「タイパ(タイムパフォーマンス)」が何より大事で、1本の映画をじっくり観るより「早送りしてさっさと結末を知りたい」というニーズが増えたんだろう。

 こういう若者を「教養がない」「我慢ができない」と問題視してるみたいだけど、それは作品が面白くないことの言い訳だよ。そもそも映画は、ある人物の人生やらを何十倍も早回しして、「たった2時間」にまとめたものだからね。それすら「観ていられない」というのは、単純に面白くないってことでしかない。

 ただ、オイラからすると「時間をムダに使う贅沢」を知らない若者を可哀想だと思ってしまう。良い作品を観て、思考を巡らせながら時間をゆっくり浪費することは最高にリッチなことだからね。

 今は情報が溢れすぎて、「早くて効率的」であることが美徳とされるようになった。でも、“贅沢”というのは効率とは対極のところにある。

 映画で言えば「見どころ」は、大ドンデン返しや衝撃的なラストじゃない。何気ないシーンの情景やセリフのないシーンの「間」が魅力なんだよ。それはファスト映画じゃきっと飛ばされている部分だろう。そこを楽しめなければ、作品のあらすじをなぞったところでピンと来るはずがない。

 これは食事にも同じことが言えるよ。「ファストフード」なんて言葉が定着して、どこにでもハンバーガー屋や牛丼屋ができたことで、「安くて早い」ことが美徳だと考える人が増えた。浅草の旨いうなぎ屋に行けば、注文を受けてから捌き始めるから30〜40分は平気でかかる。だけど、タレの香りをアテにチビチビ酒を飲んだり、そういう「待つ時間」も含めて贅沢なんだよ。

続きはソースで
https://news.infoseek.co.jp/article/postseven_1928656/

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なぜ資本主義社会の最底辺層の人間が社会主義・共産主義を憎悪するのか

東海アマ氏の最新記事

2023年12月19日

は、思想的ゴミ溜めと評価するしかない、汚物のような記事だが、まあ、それは私の判断だから、自分で読んでみればいい。
問題は、資本主義社会の最底辺にいる、そしてネットをよく利用しているアマ氏のような人間がなぜ社会主義、あるいは共産主義をこれほど激しく憎悪するのか、ということだ。もちろん、それは氏の依拠する情報源が西側マスコミ発の(中国発と自称する「大紀元」なども含め)「加工され、捏造された情報」がほとんどだからだろうが、それだけではない、「精神分析学」的な理由がありそうだ。

実は、資本主義社会の最底辺にいる人間で、共産主義(あるいは社会主義)を激しく憎悪する人間はかなりいるようで、私の周辺でも、長い間の友人がそれであることをこの前初めて知った。
つまり、「奪われる物は鎖しかないプロレタリアート」そのものが、共産主義や社会主義を憎悪する、という例はかなり多いというか、むしろそれが普通であるようだ。それがマルキシズムの「悪影響」だというのが私の意見だが、それは置いておく。

で、その原因を私なりに考えてみると、それは「共産主義(社会主義)」は自由の無い社会だ、という思想、あるいは思い込みによるのではないだろうか。つまり、社会の最底辺の乞食であっても、自由なほうがいい、という思想である。(乞食が自由だとは私は思わないが)
「自由絶対論」は、それはそれで思想としては自然というか、人間性の本能に基づくというか、社会にはびこる思想ではあるが、果たしてロシアや中国が「奴隷社会」なのかどうか、資本主義国家の人間がどうしてわかるだろうか。西側マスコミも資本主義擁護前提の記事しか書かないし、それに反する論は「陰謀論」扱いされるのに。
ちなみに、中国もロシアも「資本主義」国家であり、社会主義でも共産主義でもない。中国の場合は共産党の一党支配という特殊な政治体制だが、経済的には資本主義であり、ただし、行き過ぎた「経済的犯罪行為」には政府からの指導や抑制がかかるというところが「社会主義的」であるだけだ。

結論を書いておく。精神分析的に言えば、「資本主義社会の最底辺層が共産主義や社会主義を憎悪する理由」は、一種のダンディズム、あるいは「酸っぱいブドウ」的な発想だろう。つまり、「俺が敗残者であるのは俺自身の責任であり、それを社会のせいにするほど俺は女々しくない。」「社会主義というブドウは酸っぱいに決まっている。それを知っている俺は賢い」というわけだ。つまり、何が何でも自分を肯定したいという自己愛のなせる業(わざ)だ。まあ、マチズモ(マッチョ主義・筋肉主義)と言ってもいい。だが、そういう虚勢が、社会の腐敗を延々と続け、あるいはほぼ永遠に腐敗社会を存続させるのではないか。





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日本人とロシア人の精神性の類似

「混沌堂主人雑記(旧題)」に転載されていた「ジェーニャブログ」(筆者は在日ロシア人女性だろう)の記事の一部で、強固な反天皇主義者の混沌堂主人氏には珍しい、「天皇肯定」思想を含んだ文章である。
混沌堂氏の「天皇否定論」は、対象となる天皇が、実は明治維新後に明治政府(薩長政府、主に長州)に利用されてきた「神格化天皇」であり、長い歴史の中の天皇としては異常な在り方だということ、そして敗戦後の「人間宣言」し、「政治的行動が不可能になった」、つまり政治権力とは無縁な後期昭和天皇以降の天皇にはまったく当てはまらない理屈だのに、執拗に、あるいは異常なまでに「天皇権力を打倒しろ」「天皇一族を殺し尽くせ」というのは、親か祖父母の恨みでもあるのだろうか。
そのブログに引用する記事と無関係に「すべて天皇に責任がある」と結論する、その異常性にはかなり呆れるが、まあ、いろいろなブログを渉猟し、有益な記事もたくさん引用するので、私はかなり恩恵を蒙ってはいる。何しろ、「ネットゲリラ」氏が亡くなった今は、まともな政治ブログ、政治サイトは少ないのである。

(以下引用)個々人も神の一部である、という思想は私も前に書いたような気がする。神とは「上(かみ)」つまり、すべての存在の上質な部分だ、と屁理屈を書いておくwww ただし、「お上」や富裕層のような社会上層部が上質部分なのではない。農民でもエタ非人でも、精神性が高ければ、「カミ」である。精神性だけでなく、美的な、あるいは魅力におけるカミもある。幼児や小動物の可愛さの類だ。

さて今日は
『日本人とロシア人の精神性』について話したいと思います。
 
ご存知の通り少し前のロシアは
ソビエト連邦、共産主義国家でした。
信仰の自由がなかったのです。
 
これは私の勝手な解釈と妄想ですが
人の本質とは神なるもの
私はそう思っています。
 
信仰を禁じたソビエトは、だから滅びた
と言っていた近所のオジサンの言葉を思い出しました。
 
日本の言葉でもありますよね?
「お天道様がみている、だから悪い事はできないよ」
 
私たちは生まれながらにして
霊性と言いますが、一人ひとりに
自分の内なる神がいると思います。
 
キリスト教などは、神は対外的なものとし
イエスを神の子として偶像崇拝をしますが
私は幼いころから、その考え方がしっくりこず
宗教の本を読んでいた時
日本の神道の考え方が、
いちばんしっくりと来ています
 
神は分け御霊
あなたも神の一部であり私も神の一部である
 
集合意識という言葉があるように
魂の次元では皆が繋がってますから
他人の悪口を言えば、
そのまま自分の悪口となって返ってしまい
同様に自分で自分を拒否すれば
周囲からも拒否されることになります。
 
モノ・金・情報の奴隷となり
「今だけ金だけ自分だけ」の力づくの生活ばかりしてると
自分も含め周りもそうなります。
自分だけ、力づくの心を持った人間が減らない限り
誰一人、幸にはなりません。
 
私の読者の方がコメントで教えて下さいました。
 
世の中は鏡の法則
カガミからガ(我)を取れば
カミ(神)だから
神社には鏡を置いてある
 
このような国民と精神性だからこそ
和を以て貴しとなす
争いがなく自然と調和の文化が生まれたと
 
私はロシアがここまで復活できたのは
プーチンがこの精神を学んだのだと思っている。
柔道の黒帯のプーチンだが
当然、武術を通して
『柔よく剛を制す』また、
この考え方を学んで来たのだと思っている
この考え方の根本には神道かた来てると聞いたことがる
 
欧米列強の伝統的な考え方だが
その基本的な構造は
王がいて民がいる
王が権力をもって民衆を支配するやり方
王様と奴隷と言ってもいい
 
いっぽう日本の統治の在り方は面白く
天皇=王ではなく
国民の象徴として
 
武力や権力で「力の支配」を行うのではなく、
国を"家"・国民を"家族"と捉え、
天皇が国と民に深い関心を持って広く知り、
国民一丸となって稲(富)を利することで
幸せな国を作るようにと
天皇が「臣に権力を与える」
そういう形を取っています。
 
実はロシアでプーチンが支持されているのも
プーチンがロシア正教を上にして
政治を行ってきたことにあると思っています
プーチン大統領が哲学的支柱にするアレクサンドル・ソルジェニーツィンの言葉。
ロシア人文化は帝国の強大さではなく⛪️正教への信仰により形作られており、ロシア人団結の源は『人種』では無く『精神』であり、心や慣習、行動の中に自然に生きている正教である。
その為、領土、国家#山鹿素行 pic.twitter.com/i6bg4PXDPc
— taka (@0_fighter_taka) November 3, 2022
 
プーチンの私利私欲の為であれば
ロシア人は従わない。
あれだけの強大な国家、所々で反乱して分裂してるだろう。
・・・・・中略・・・・・
ロシア人もペレストロイカで貧しかった経験もあるが
物の豊かさを羨む時期もあったが
人々との繋がり助け合い
信念にはウクライナがとかロシアがといった
人種としてではなく
信仰としての『精神』がある
 
残念なことにロシアにはもう皇帝という
体制の喪失があるが
『正教の信仰と、そこから生まれる崇高な感情』
それはロシア人から失われる事は無いと思う。
ロシア正教はロシア人の精神的支柱になっていますが
その精神性が、今のロシア国家を作り直したと思っています。
 
人の精神は生まれ育った環境・風土で自然に形作られます。
 
それを理念・思想・イデオロギーだけで無理やり形作ろうとするのが、
欧米左派・進歩主義者達です。
 
そして私はその流れに対してこう思います。
 
自分の為(私利私欲の為)だけに生きる人間は
いずれ狂ってくると思います
 
他人の為、世の為人の為に生きる人間は狂う事なく
次の時代へ進める人達だとも思います。
 
かつてロシアは東のヨーロッパとして
ヨーロッパの一員として
ヨーロッパの枠になりたがっていた時期があった
 
しかし
 
現在ではロシア人のDNAにはアジア系が多いことで
ロシア人はアジア人との混血民族=ユーロエイジアンと規定し呼び、
 
欧米の経済制裁は、
ロシア人がユーロエイジアンと自覚する
良い機会になったと言います。
 
また、経済的に衰退していく
欧米よりも、経済成長がめざましい
インドや中東、アジアをメインとして動いています
 
日本もかつてのスローガンは脱亜入欧と
読んでいた時期があったそうですが
これからは、脱欧入亜
これをスローガンに掲げると良いかも知れません(笑)
 

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旧版「イエスは何を教えたか」

私は、「イエスは何を教えたか」、つまり、聖書の中でのキリストの言葉だけを頼りに、「キリスト教の本質は何か」を論じたいと思って、書きかけてはやめているが、古いフラッシュメモリーの中のものが、わりといい内容だと思うので、載せておく。もちろん、中断したものだが、書かれた内容だけでもキリスト教やキリストや旧約聖書や新約聖書の「神」の本質に迫っていると思う。
まあ、こんなのは杉田玄白がキリスト教宣教師との問答の中で喝破したもの(ユダヤ・キリスト教の矛盾)と同じだろうとは思うが、私はそれを読んでいないので、一応私の考えだけを書いておく。

(以下自己引用)


イエスは何を教えたか


 


序論


 


ここで扱う問題は、表題の通り、「イエスは何を教えたか」である。つまり、新約聖書の中の、イエスの教えを分析し、解釈してみようということだ。そんなことは、2000年にもわたって無数の人がやってきたことだと思われるだろうが、イエスの言葉には比喩が多く、また新約聖書にはイエスを荘厳するための粉飾が多くて、イエスの教えのエッセンスが何か、私にはわからないのである。そこで、もう一度、イエスの言葉を分析的に読んでみようということだ。そこから、イエス理解のための新しい地平が開けないとも限らない。


 


本論


 


ここでテキストとするのは「日本国際ギデオン教会」版の新約聖書である。その中の「マタイ福音書」を出典とするものを1グループ、「マルコ福音書」を出典とするものを2グループ、「ルカ福音書」を出典とするものを3グループ、「ヨハネ福音書」を出典とするものを4グループとする。


 


第一節   マタイ福音書より


 


1-1 (悪魔の、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」という誘いに対して)「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


マタイ第3章までは、イエスの出自などの話で、第3章末尾になって、成人したイエスが登場する。まず、彼はバプテスマのヨハネ(「洗礼者ヨハネ」とでも言えばいいか。洗礼とは、清めの儀式だ。母の胎内から生まれる時の産湯の比喩で、水を頭から注ぐことで、これまでの汚れた生から、生まれ変わって新しい生を生きることを象徴するものだろう。)に洗礼を受ける。ヨハネは、「私こそあなたから洗礼を受けるべきだ」と言うが、イエスは「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」と言う。イエスのこの言葉が意味するのは、自分の生は預言の実現であるということだ。イエスの最初のこの発言は、自分がキリスト(救世主)であることの婉曲な表明だと言える。そして、新約聖書のすべての記述は、イエスが神の子であることと、イエスがキリストであることを読者に印象付ける意図が含まれている。


だが、現実のイエスの生涯には、当然ながら、神の子だのに、なぜこれができないのかという困った事実が多々あっただろう。フィクションとしての奇跡を幾つかイエスの伝記に挿入するにしても、イエスの生涯の「事実」の中には、福音書の書き手が弁明しようのないイエスの『人間の証明』があるはずだ。そこで、まずここで、福音書の書き手、マタイは予防線を張る。「イエスは奇跡ができないのではない。やらないのだ」と。では、なぜやらないのか。それは、同じ場面に続いて出てくるイエスの言葉の通り、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と聖書にはまた書いてある」からである。


イエスは、このように、常に旧約聖書の言葉を引用して、人々そして悪魔(――イエスを信じない連中の比喩とも言える。そもそも、荒野でのイエスと悪魔の対話を、誰が聞いていたというのだ。)の問いに答えるのである。これがイエスの最大の特徴であり、イエスとは、自分が神の子であるという妄想から聖書オタクになった人物だったと想像できる。


「主なるあなたの神を試みてはならない」これも神の実在を疑う人々に対しての見事な予防線だ。こう言われれば、神に対してその存在証明を要求できなくなる。つまり、理屈や証拠で納得するのではなく、頭から信じるか、信じないかの二つしかなくなるのである。もちろん、これが「信仰」の本質であり、証明されていないからこそ、あるいは理解できないからこそ「信仰」するのである。あなたは、自分の存在を信仰しているのではない。確信しているのである。「仰」とは何か。仰ぐことである。遥かな高みにある存在を仰ぐことである。それは遠く高い存在であるから、信仰するしかないのだ。1+1が2であることをあなたは信仰しているのではない。ただ知っているだけだ。そのような確信は、実は信仰ではないのである。不確かな存在と自分との間の深淵を、あえて飛び越える、その行為が、信仰の本質である。そして、私のような分析的人間には、当然、それはできない。


 


1-2(悪魔の、「あなたが私にひれふして拝むなら、この世の栄華をすべて与えよう」という言葉に対し、)「サタンよ退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


 ここでも、やはり旧約聖書からの引用で、相手の問いに答えている。イエスの言葉のほとんどは、旧約聖書に根拠があることを自らの言葉の権威の根拠としているのである。


 では、ここでの問題は何か。第一の問題は、悪魔とは何かという問題である。そもそも世界のすべてを神が作ったのなら、悪魔もその創造物であることになる。しかし、旧約聖書での「世界」とは全宇宙ではなく、天国と対比される「この世」である、という解釈もできる。それならば、悪魔は神と対等の存在として宇宙に最初から存在していたという解釈もできるのだが、キリスト教ではそこをどう説明するのだろうか。悪魔が神の創造物だとすれば、神の中にすでに悪が存在していることになるし、悪魔を神が作ったのではないとすれば、神が唯一の創造神だという設定が成り立たなくなる。悪魔というものは存在しないとすれば、聖書は信頼するに値しない書物だということになる。


 おそらく、そのすべての矛盾を説明する方法は、聖書に書かれたことはすべて比喩である、とすることである。しかし、そうなると、その解釈は誰が行うのか。誰の解釈に我々は従えばいいのか。


旧約聖書の中で悪魔が活躍する話が、「ヨブ記」である。神は、悪魔との話の行きがかりで、神の忠実な信者であるヨブに試練を与え、その信仰を試すのだが、問題は、繰り返しになるが、聖書が悪魔の存在を認めていることである。つまり、ユダヤ教ないしキリスト教を信じるなら、神の存在と同時に、悪魔の存在を信じることになる。ならば、人間の行為は、彼の心が悪魔に支配されて行ったものでないと、どうして分かろうか。旧約聖書の中には、神がイスラエルの民に敵対する族長の心を操る話がある。ならば、人間の自由意志など無いのであり、善も悪も無意味となる。神の言葉に従うことだけが善ならば、まず神の存在証明が必要だろう。


 もう一つの問題は、神に仕えることと、悪魔に仕えることとに、本質的な違いがあるのかどうかということだ。人間にとって神が絶対であることの根拠は、神が世界全体を創造した点にある。つまり、神の被造物である人間は神に逆らうべきではないという考えだ。(その考えの当否は保留しておこう。)神がすべてを創造したとすれば、悪魔自体も神の被造物なのか。それとも、悪魔は神と対等の存在として、最初から存在しているのか。後者ならば、ユダヤ教やキリスト教は一神教ではないということになる。そして、聖書の中における悪魔の存在は、どうやら後者のようなのである。悪魔を神としないのは、ただ、神とは善なる存在だと定義しているからだけにすぎない。しかし、旧約聖書の中の神は、人間の目からは悪にしか思えない行為をしばしば行っている。イスラエルに敵対する部族を殲滅せよという命令などは、「全人類の神」としては悪の行為だろう。


 とりあえず、我々不信仰な人間としては、旧約聖書に書いてあるからと言って、ユダヤの部族の神など、信じる義理は無い、とイエスには答えておこう。


 


 


1-3「私についてきなさい。あなたたちを人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ第4章)


 


分析と解釈:


 これはイエスが、漁師のペテロとアンデレを弟子としてスカウトした時の言葉だ。これだけで弟子になった人間の気が知れないが、イエスにはそれだけの人間的迫力があったのかもしれない。しかし、「人間をとる漁師」とは何か。多分、人間の中から、天国に行ける人間を選び出す係りにしてやろうとことだろう。イエスの言葉という投網を投げて、それに引っ掛かる人間を救ってやろうということか。駅前によくいる「アナタハ神ヲ信ジマースカ?」という、あれだ。投網に掛かった魚は、食われてしまうのが普通の運命だが、キリスト教の投網に掛かった人間どもの運命はどうだろうか。


 


1-4「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである」(マタイ第5章)


 


分析と解釈:


 


 いわゆる「山上の垂訓」の最初の言葉で、ルカによる福音書では、「心の貧しい者」ではなく、「あなたがた貧しい人たちは幸いである。神の国はあなたがたのものである」となっている。この違いは大きい。そもそも、「心の貧しいもの」とは意味不明の言葉である。誰もがこの言葉を何となく「謙虚な者」の意味にとっているが、「貧しい」は「貧しい」でしかない。謙虚などという意味はない。大負けに負けても、「心の貧しさ」とは「貧困な精神」つまり、想像力も何も無い、砂漠のような精神しか意味しないだろう。しかし、案外と、そういう人間のほうが、天国に行けるのかも知れない。精神が貧困だから、神を疑うこともないというわけだ。世の宗教信者たち、特に新興宗教の信者というものには、「精神の貧困な者」が多いことは確かである。


 これ以外の「山上の垂訓」の大半は、神を信じ、それを行為に表すならば、この世では迫害されても、天国で報われるという趣旨のものである。では、その天国が存在しなければ? 親鸞のように、法然師匠に騙されて地獄に落ちても悔いはない、と言うか? 天国という空手形を信じて禁欲的に一生を送り、死ぬときになって、自分の一生は無意味だったと後悔する羽目にはならないか?

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合理化と「断捨離」

漫画家ゆうきまさみのツィートだが、「合理化」という言葉はビジネス世界ではほとんどが「切り捨て」になる。それが、一般社会まで真似するようになると「断捨離」などという下種な思想になる。
本来の「断捨離」が仏教思想なら、それ自体はまともな哲学だが、生活の中で、何が無駄で何が有益かは、簡単に判断はできない。子供は無駄で無益か? 老人は無駄で無益か? 障害者は無駄で無益か? 
もちろん、事例が極端だと言うだろうが、何かを「捨てられない」のは、その対象への愛情があるからだ。それらを「無駄」だと思う(言う)のは、たいていは当人ではなく他人である。無駄なものを捨てて空間を作っても、それは結局新しい何かで埋められ、また断捨離されることになり、つまり企業界隈(大きく言えば資本主義という階級社会の上層部)に有利な思想である。当然、資源の無駄遣いになり、地球そのものの存続に関わる問題になる。

(以下引用)


「無駄を見直す」って、かつては「無駄な部分を削る」ための言葉だったけど、これからは「無駄には無駄なりの存在意義や効用があるのか。見直した!」って意味で使うようになるといいなあ。

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「学校」と「教育」

現在の学校の授業そのものがムダだと私は思う。
予習していない生徒は、授業を聞いても理解できないのが大半だろうし、予習してきた生徒は、授業時間の大半は「既に理解したこと」を教師が話しているので退屈である。
まあ、勉強の基本は自学自習だ、というのが私の考えだ。
一番いいのは「子供同士が教え合う」教育だろう。つまり、それによって、生徒同士の親睦が深まり、また、互いの競争意識から、学ぶことへのモチベーションが出て来る。(教える方も、自分が教えることで、自分の知識や理解の不十分さを知り、より高度な理解に進むことになる。)

問題は、学ぶことと「勉強(勉め、強いる)」は違うということ、そして「勉強」へのモチベーションである。
階級社会では、いくら勉強しても、それが社会のニーズに合わない限り、階級的上昇は見込めない。だから、今の日本のようにユーチューブなどで自己宣伝をして集客効果があると社会に認めさせれば、カネを出す企業が出て来る。現在のように「口先人間」が跋扈している社会は歴史的に稀ではないか。
つまり、これまでの学校教育は学歴(就職への関門となる。)獲得目的以外ではすべて無駄ということになる。実際、高校の授業内容は大学合格以外の意味ではすべて無意味な内容だ。つまり、大学に行く気の無い生徒には高校の「授業」や勉強は地獄である。だから、その反動で、大学に入ると遊び呆ける。もちろん、大学入試に縁の無い底辺高校はヤンキーやDQNの巣窟になる。

学校とは「同年代の人間が集まる」遊び場で、そこでいろいろな「疑似社会体験ができる」というのが一番の機能だろう。つまり、「勉強以外の体験」をたくさんさせるのがいい学校である。そういう意味ではある種の「最底辺高校」も、いい「社会勉強」の場にはなるかもしれないwww もちろん、それは現実社会の雛型であるが、その「社会」とは、卑屈・卑劣な徒党の巣窟であり、暴力と威嚇と、詐欺的行為と不法行為の横行する社会だ。

ただし、「勉強」ではなく、「教養」は、その人の人生そのものを豊かにする最高の資源である。culture(文化)という言葉の元になっているcultivateとは「耕す」意味で、自分の心や精神を耕すことが教養を身に付けることだ。つまり、それを通じて精神的に豊かな人間になるわけだ。
したがって、ひろゆきの言うような、「古文漢文はムダ」論は、愚論である。(古文や漢文は日本や中国の過去の文化の精髄である。)学校でその片鱗に触れることで、より高度で深い教養への入り口になる。それを「勉強」という辛い行為にするのが悪い「教育」である。

ちなみに、先ほど読んで、まだ読みかけの「in deep」の岡氏の文章の一節である。岡氏の頭脳は(その思想には反発する部分もあるが)私の尊敬するところだ。本を「楽しんでいた」。これこそが教養である。漫画もアニメも哲学も、誰もが忘れた古い歌も娯楽であり教養だ。

幼稚園のほぼ全部と、小学校低学年の大半を病気で休んでいた私も(自宅学習など一度もしたこともなく)、誰にも教わらずとも、本を楽しんでいました。



【ひろゆき】西村博之 学校の宿題はムダだと主張「学習効果の低い行為」


転載元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1702446731/


hiro

1: Ailuropoda melanoleuca ★ 2023/12/13(水) 14:52:11.09 ID:dI055hdY9
2023年12月13日 14:46

 2ちゃんねるの元管理人で実業家のひろゆき氏(47)が13日、「X」(旧ツイッター)を更新。学校の宿題がムダであると主張した。

 ひろゆき氏は「宿題は、理解出来てる子には無駄な作業。わからない子は宿題も出来ないままという学習効果の低い行為です」と持論を展開。

 さらに「教育方法も状況に合わせて変えていくべきで、宿題や漢字の書き取りや古文・漢文などの昭和のやり方を続けることが正解だと大人が信じ込むのは良く無いと思います」と、昔ながらの詰め込み教育を続けていることを疑問視している。

 また「古文、漢文がなくなると昔の文書を読めなくなる」という投稿に対しては「義務教育では微分・積分をやりません。でも、日本人で微分、積分出来る人が居なくなる事態にはなってません。古文漢文は大学の専門課程で、やりたい人がやれば十分かと」と古文、漢文も微分・積分のような高等教育で学ぶべきと主張している。

東スポWEB
https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/285777


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ガザで盲いて

「福音の史的展開」というサイトから転載。
パウロ(サウロ)が「ガザで盲(めし)いた」状況である。
で、私は、これはパウロの作り話で、パウロは自らキリスト教の内部に入って、それを変質させようとした「思想スパイ」だったと思っている。
その後のパウロが土台を作ったカソリック教会の「キリスト教」が本来のイエスの教えとはかけ離れた、「人民支配の道具」になっていくのは誰でも知っているだろう。
さて、ガザはカソリックにとって聖地だと思うのだが、今のガザでの「ユダヤによる他民族虐殺」について、ローマ法王やカソリック関係者、あるいはキリスト教関係者は何か発言しているだろうか。



(以下引用)

  第二節  パウロの回心とアンティオキア共同体の成立


はじめに

 前節で、エルサレムに成立したユダヤ人たちのキリスト信仰の共同体が、使用言語の違いからアラム語系ユダヤ人の共同体とギリシア語系ユダヤ人の共同体に別れたことを見ました。エルサレム共同体はもともと、ガリラヤでイエスの弟子であった「十二人」の使徒たちの福音告知によって成立した共同体であり、「十二人」が代表するアラム語を用いるパレスチナ・ユダヤ人の信仰共同体でした。その共同体にエルサレム在住のギリシア語系ユダヤ人が加わったことによって、エルサレム共同体の福音活動に重大な変化が生じます。ギリシア語系ユダヤ人のグループは、「十二人」の承認の下に「七人」の代表者を立て、周囲のギリシア語系ユダヤ人の間で活発な福音告知の活動を始めます。そのとき、彼らのディアスポラ・ユダヤ人としての体質から、神殿での祭儀や伝統的な律法順守に対して批判的な言動がなされ、それに反発する周囲の律法熱心なギリシア語系ユダヤ人との間に激しい論争が起こり、彼らの代表者であるステファノが石打で殺されるという事件が起こります。今回は、この事件から引き起こされた結果をたどることになります。


  Ⅰ パウロの回心

迫害者サウロ

 ギリシア語系ユダヤ人の間に起こった激しい論争で、ステファノグループを迫害する側の先頭に立ったのは、同じくギリシア語系ユダヤ人の会堂で指導的な立場にいた年若い新進気鋭のファリサイ派律法学者サウロでした。サウロは、ステファノが会堂の衆議所に引き立てられたとき、彼の石打の処刑に賛成し(八・一)、石打が行われたときには、最初に石を投げる証人の上着を預かるなど立会人を務め、積極的にステファノの石打に参加しています(七・五八)。それだけでなく、彼はその後もイエスをメシアと言い表す信者を探索し、見つけ出せば会堂の衆議所に送り、審問にかけるという活動を続けます。ルカは彼の弾圧活動を、「サウロは家から家へと押し入って《エクレーシア》を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」と記述しています(八・三)。


 この迫害の急先鋒となったサウロこそ、後にイエスの僕となり、イエスをキリストとして世界の諸民族に告げ知らせる偉大な使徒となったパウロに他なりません。どうしてこのようなことが起こったのか、それは何を意味するのかを理解するために、ここで迫害者として現れたサウロとはどういう人物であったのかを見ておきましょう。


 サウロは、キリキア州の州都タルソス出身のディアスポラ・ユダヤ人です。サウロの両親は、タルソス在住の敬虔なユダヤ教徒であり、サウロが生まれたとき、八日目に割礼を施し、自分たちが所属するベニヤミン族の英雄サウル王にちなんで「サウロ」と名付けました(フィリピ三・五)。ヘレニズム都市に住むディアスポラ・ユダヤ人の通例として、「サウロ」というユダヤ名の他に、「パウロ」というギリシア語の名前も用いていました。このように二つの名前を持ち、ギリシア文化の中でギリシア語を母語として育ちながら、ユダヤ教の伝統に従って教育を受けるという二重性が、後のパウロを形成することになります。


 サウロの父親は、キリキア特産の天幕布織りを職業としていました。父親はサウロをラビ(ユダヤ教の教師、律法学者)にしようと願ったのでしょう、幼いときからその職業を教え込みました。当時ラビは、無報酬で教えることができるために手仕事を習得することが求められていました。後にこの技術がパウロの独立伝道活動を支えることになります(一八・三)。


 サウロが生まれ育ったタルソスは、当時のヘレニズム世界で有数の文化都市であり、ギリシア文化の学芸が盛んな都市でした。ギリシア語を母語として育ち、ギリシア語を用いる初等の学校で教育を受けたサウロは、当時のギリシア思想文化を深く身に染みこませていたと考えられます。しかし、厳格なユダヤ教徒の家庭に育ったからでしょうか、ギリシア哲学とか文学・演劇などに深入りした形跡はないようです。


 サウロは青年期にエルサレムに行って、そこで律法を学びます。何歳の時にエルサレムに渡ったのかは確認できません。パウロは後に自分がファリサイ派であることを明言していますが(フィリピ三・五)、当時のエルサレムで指導的なファリサイ派のラビはガマリエルでしたから、自分はガマリエルの門下で律法の研鑽に励んだという、ルカが伝えるパウロの証言(二二・三)は十分信頼できます。七〇年以前のユダヤ教で、ファリサイ派ラビの律法教育がエルサレム以外の地で行われることはありませんでした。ガマリエルはヒレルの弟子で、二〇年から五〇年の頃活躍したファリサイ派を代表するラビです。従って、三三年頃に舞台に登場するサウロが、それまでガマリエル門下で学んでいたことは十分ありうることです。


 ガマリエルの下で律法(ユダヤ教)の研鑽に励み、その実践に精進した時代のことを、後にパウロは「わたしは先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」と語っています(ガラテヤ一・一四)。このガマリエル門下での律法の研鑽によって、聖書の言語であるヘブライ語を十分に習得し、また、長年のエルサレム在住によりその日常語であるアラム語も使えるようになっていたことは、十分に推察できます。


 しかし、ギリシア語を母語とするギリシア語系ユダヤ人として、ギリシア語系ユダヤ人の会堂に所属し、そこで律法(聖書)の教師として働き、聖都に巡礼したり在住するようになったディアスポラ・ユダヤ人に聖書を教え、また、ユダヤ教にひかれて聖書を学ぼうとする異邦人に律法(ユダヤ教)を講じ、彼らが割礼を受けてユダヤ教に改宗するように導く働きをしたと考えられます。後にパウロはこの活動を「割礼を宣べ伝える」と表現しています(ガラテヤ五・一一)。


 このようにギリシア語系ユダヤ人会堂で責任ある立場にいたサウロは、イエスをメシアと言い表すギリシア語系ユダヤ人たちが、モーセ律法や神殿祭儀に批判的な言動をするのを見過ごすことはできませんでした。サウロは、イエスと同時代のエルサレム在住のユダヤ人として、イエスがエルサレムの最高法院で裁判を受け、ローマ総督に引き渡されて十字架刑により処刑された事実はよく知っていたはずです。それを目撃したり、その過程にかかわった可能性も十分あります。その後、数人のガリラヤ人によりイエスをメシアと宣べ伝える運動が始まったとき、それがユダヤ教の枠内で行われている限りは、師のガマリエルと同じく、ことの成り行きに委ねることができました。しかし、一部のギリシア語系ユダヤ人がその信仰のゆえに律法(ユダヤ教)そのものをないがしろにするような言動を示したとき、黙って見過ごすことはできませんでした。先にステファノの殉教のところで見たように、サウロは迫害者として舞台に登場します。

  •   迫害者として舞台に登場するまでのサウロと彼の迫害活動について詳しくは、拙著『パウロによるキリストの福音Ⅰ』43頁以下の「ユダヤ教時代のパウロ」と「迫害者パウロ」の両節を参照してください。なお、そこでステファノの殉教を「リンチ事件」としていることは訂正しなければなりません。先に見たように、ステファノの石打は、民衆の激高によるリンチ事件としての様相も見せていますが、やはり(最高法院ではありませんが)会堂の衆議所の審問と判決を経た処刑と見なければなりません。

 

復活者イエスとの遭遇

 さらにルカは、「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった」と報告しています(九・一~二)。サウロは、エルサレムだけでなくダマスコの諸会堂にも探索の手を伸ばします。ダマスコにも「この道に従う者」、すなわちイエスをメシアと言い表すユダヤ教徒がいることが報告されてきたからです。この時ダマスコにいたエスを信じる者たちとは、エルサレムでの迫害を逃れてダマスコに行った人たちを指すのか、その時までにダマスコにも信じる者たちの共同体が成立していたのか、確認は困難です。しかし、サウロを迎え入れた後のアナニアを中心とする彼らの活動を見ますと、この時までにかなりの規模の信者の共同体が存在していたと見る方が順当でしょう。


 そうすると、ダマスコの共同体《エクレーシア》はどのような経過で成立したのかが問題になります。まだエルサレムのギリシア語系ユダヤ人の福音活動はダマスコには及んでいません。エルサレムの会堂との密接な交流によって、メシア・イエスの信仰が伝えられたのか、地理的に近いガリラヤからの伝道活動で信じる者の共同体が形成されたのか、詳しいことは分かりません。ガリラヤからの影響の可能性が高いと考えられますが、ガリラヤでの信仰運動の実態が分からないので、確定的なことは言えません。


 とにかく、ダマスコの諸会堂がこの新しい信仰によって動揺することを恐れたエルサレムのギリシア語系の諸会堂は、迫害の先鋒を担うサウロをダマスコに派遣します。サウロは大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての添書を求めます。他の地域の諸会堂で逮捕連行のような検察官の任務を行うのですから、ユダヤ教の最高機関の承認と任命によることを示す必要があります。おそらく、逮捕連行するための神殿警察隊も同行したと考えられます。ルカは、サウロの迫害行為が大祭司や祭司長たちの承認による行動であることを、繰り返し強調しています(九・一四、二二・五、二六・一〇と一二)。こうして、エルサレムのギリシア語系ユダヤ人の会堂で始まった迫害は、最高法院の権限による広い地域での迫害に拡大します。
 「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らし」ます(九・三)。それは真昼ごろであり、その昼の光よりも強い光が天から一行を照らします(二二・六参照)。この光は神の栄光の光であり、真昼の太陽の光をもしのぐ強烈な明るさで一行を(照らすというより)打ちます。


 「サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞」きます(九・四)。その光は自然の光ではなく、人格から発する光であることが、その光がサウロの名を呼んで語りかけることから分かります。この語りかけは、「サウロ」というヘブライ名を使っていることから、ヘブライ語(またはアラム語)でなされたことが分かります(二六・一四参照)。

  •  新共同訳はこの呼びかけを「サウル」としています。これはギリシア語で、《サウロス》(日本語表記ではサウロ)という人に呼びかけるときの形(呼格)が《サウル》だからです。呼格がない日本語への訳では、「サウロ」のままでよいのではないかと考えられます。

 サウロはこの光に打たれて地に倒れたとき、自分の前に一人の人格が迫っていることを感じます。しかし、それが誰であるか分かりません。サウロに強烈な光として現れた人格は、「なぜ、わたしを迫害するのか」と迫り、サウロがまさに迫害してきた相手であることを告げます。サウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねます。すると答えが来ます、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。(九・五)
 この強烈な光として現れた人格は、復活されたイエスだったのです。復活者イエスが、神の栄光の強烈な輝きをまとってサウロに現れたのです。復活されたイエスが弟子たちに現れるとき、生前のイエスをよく知っている弟子たちでも、それが誰であるか分からないのが普通です。現れた人格が、地上の人間の容相とは違うからです。現れた方が言葉をかけることによってはじめて、それがイエスであることが分かります。この場合も、復活者イエスが顕現されるときの典型的な様相を示しています。


 サウロの場合この体験は、探し求めていた方についにめぐり会ったとか、たまたま出会ったというような性質のものではありません。突然敵将に遭遇したのです。今の今まで敵対し攻撃していた敵軍の将が、突如思いもかけないときに、その強烈な力をもってサウロの前に現れたのです。サウロはその力と威厳に圧倒されて、地に倒れ伏します。


 「主よ、あなたはどなたですか」と訊ねたサウロに、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」という答えが響きます。サウロは地上のイエスを知りません。直接イエスを迫害したことはありません。サウロが迫害したのは、イエスを信じるユダヤ人です。しかし、実は彼らの中にいますイエスを迫害していたのです。復活者イエスは、イエスを信じる者とご自分を一体として、彼らを迫害することは自分を迫害することだとされるのです。
 このようにご自身が誰であるかを示された後、「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」と、降参して倒れ伏しているサウロに、これからなすべきことを指示されます(九・六)。


 「同行していた人たち」とは、ダマスコのイエスの信者を逮捕してエルサレムに連行するために、サウロに同行していた神殿警察の一隊でしょう。彼らも光に照らされ、サウロが発する声は聞こえたのですが、だれの姿も見えないので、あまりの驚きにものも言えず立ちつくしていました。「あなたはどなたですか」という問いに対する答えは、サウロの内面だけに響いた言葉であり、ここで復活者イエスを見たのはサウロだけで、同行者はだれも見ず、イエスの言葉も聞かなかったと考えられます(九・七)。


 「サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」。サウロの目は、あまりにも強烈な光を見たために、見えなくなっていました。それで、「(同行の)人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行」きます(九・八)。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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