資本主義は単なる現実主義で、思想ですらない。だが、現実だから強い。その悪質さ、悪への傾斜にも関わらず、強いのである。まあ、無数の人々を足元に踏みにじる怪物である。
(以下引用)冒頭の「これ」は「風たちぬ」のこと。
これに比べて、「君たちはどう生きるか」はある意味、シンプルな作品である。
戦火——空襲の炎で死んだ母親。*1
少年はまだそのような母親の死を社会や歴史の文脈に乗せてとらえることさえしていない。しかし作品全体には「戦争によって母親を失った」ことが主人公の少年に重くのしかかり続ける。そのような戦争がない社会…という直接的な比喩は一切用いていないが、そのことが念頭にあるに違いない。もちろん、そこをもっと緩く捉えて、気候危機による人類の破滅などといった人類の存続に関わる様々な問題だと感じてもいいだろう。
大叔父は、石を積んで危ういこの世界の均衡をどうにか成り立たせてきた。
しかし、その努力ももはや限界である。
大叔父は、この世界をどう構築するかを、少年に託そうとした。
しかし、大叔父が少年に託そうとした石は「悪意に染められていない石」であった。「石」は「意思」のようにも思えてくる。
「悪意に染められていない石」を積んで世界を再構築しようとする試みを、少年は断固拒否して、「奪い合い、殺しあう世界」、争いや矛盾、悪意に満ちた世界と格闘することで、世界の再構築をする決意をし、現実の世界=歴史へと戻っていく。
ぼくには「悪意に染められていない石」というのは、徹底した理想論を想起させる。
例えば武力に一切頼らない日本国憲法の前文、および第9条のように思える。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法前文)
あるいは、勢力均衡の世界が戦争を招いた反省から、集団安全保障の理想を掲げた国際連盟・国際連合の比喩のようにも見える。
戦火のない世界を「悪意に染められていない石」によって構築しようとする試みは、失敗したかに見える。「悪意に染められていない石」を粗雑に積み上げて、それをぶち壊してしまうインコ大王の振る舞いは、「憲法9条など空論だ」「国連など無力だ」と理想主義を嗤い、悪しき「現実主義」に身を委ねた人々のようにも見える。
インコ大王は、理想の中に侵入してくる現実である。現実は理想に侵食し、理想に妥協を迫る。理想は「時間が欲しい」といってその侵食と折り合いをつけるのである。
大叔父は、もはや老境に達した宮崎自身のようにも見えるし、宮崎だけでなく、戦争の中で積み重ねられてきた理想の知恵、例えば日本国憲法であるとか、戦後民主主義の姿のようにも見える。
吉野源三郎が『君たちはどう生きるか』で主人公のコペル君を導いた「叔父さん」をも重ねているかのようだ。「叔父さん」という知恵は、日中戦争が勃発し、戦争の暗い時代が始まるさなかに、自分だけ・自国だけの視点ではなく、世界の中の自分、社会の中の自分という視点を持つように訴えた。
宮崎駿はかつて、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、浄化された理想論としての共産主義=マルクス主義を批判した。
当時の宮崎の雑誌インタビューだ。同様の表明を当時ぼくは読売新聞などでも読んだ。
いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろうと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわかって、自分の考えの甘さを教えられました。(「よむ」1994年6月号、岩波書店)
『ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたからね。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でもときどき思います。……労働者だから正しいなんて嘘だ、大衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない。(同前)
下図は、漫画版『ナウシカ』のラストで、ナウシカが墓所の主と対決するシーンである。墓所の主が、理性に基づく清潔な理想を語り、ナウシカは大ゴマでその理想を力強く否定する。この拒絶に、今回の主人公・真人の拒絶と同じ力強さを感じないだろうか?
漫画版『ナウシカ』で宮崎はユーゴスラビア内戦に直接のきっかけを得て、マルクス主義放棄を宣言した。それを聞いたときぼくは、まあマルクスを救い出すためにムキになって反論したという側面はあるのだが、宮崎が言いたかったことは、絶望するほどの現実と泥まみれで格闘することなしに、主義や理想だけで世界が変わるなどということは金輪際ありえないというその覚悟を問うことだったのだろう。今となってみれば、宮崎の言いたい気持ちは痛いほどわかる。
基本的にはこのような理想主義批判と現実主義を、宮崎は本作でも繰り返した。
しかし、かつてのマルクス主義の放棄とは違って、宮崎にとって、この1、2年の世界情勢の推移はより切迫し切実したものになったに違いない。*2
「『風立ちぬ』を批判する」でも紹介したが、宮崎自身は、名うての反改憲論者であり、日本国憲法が掲げる理想の規範を高く評価する人物である。
だが、ウクライナ戦争をはじめとする国際情勢は、そうした理想主義が果たして次の時代も通用するかどうかを激しく問うている。主人公から母親を奪った、そのような戦火をどうしたらなくせるかという問いをたてたとき、「悪意に染まっていない石」を積んで理想世界を実現させるたくなるのが、戦後民主主義世代だろう。
ただそこをあえて、「殺し合い、奪い合う」現実世界と格闘することで、新たな世代は作り出せと言おうとしているのではないか。他方で「悪意ある石」を主人公(真人)は拒否しており、それは現実への屈服や虚無主義のようなものだと言える。
宮崎自身は「大叔父」に重ねられているのだから、今さらその立ち位置は変えられまい。彼らの世代の努力で石=世界の均衡はどうにか保たれてきた。しかし、それを引き継ぐ世代は、もはやその「悪意に染まっていない石」を積み上げた理想主義だけでは対処できず、現実そのものと格闘しなければならないのだと言いたいように思われる。
ぼくも宮崎の後の世代にはなるのだが、ではこれまでの理想主義は全く無駄かといえば、そうは思わない。アメリカに従属してその戦争に動員される危険を抑止する強力な武器として憲法9条は引き続き機能するであろうから、リアルな現実と格闘する武器として理想主義を活用すべきだというのが、ぼく流の「どう生きるか」である。
下図で、墓所の主が語る理路整然とした美しい理想主義に対して、ナウシカが「清浄と汚濁こそ生命」だと切り返しているのは、他方で薄っぺらな現実主義には拝跪せず、しかしあくまで「清浄」=理想は捨てないというその難しい均衡を示している。
理想主義への徹底した批判を加えつつも、その理想そのものは決して捨てないところに、戦後の進歩的知識人であった宮崎の面目躍如がある。今回はそれを一層現実主義にスライドさせたが、それでも理想は捨てていないのが宮崎であろう。
このテーマ性こそ、宮崎の「最後の作品」にふさわしい。彼が生涯問いかけたものであり、引き続き後続世代に考えてほしいと願ったテーマだろう。もちろん、この後ひょっとしてまた作るかもしれないし、もっといいものができるかもしれないが、この時点で宮崎が放つべき作品のように思える。