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マルキシズムという悪質な宗教

「紙屋研究所」から転載。一部省略。私は「風たちぬ」も「君たちはどう生きるか」も見ていない。要するに、「理想主義」と「現実主義」の相克という永遠の問題が宮崎駿の強迫観念なのだな、という感じであるが、紙屋氏のようなマルキストがマルキシズムを理想主義としているのか現実主義としているのかよく分からない。私は、理想主義ですらなく、人類のかなりな割合(特に、善良で誠実な人間たち)に不幸な人生を送らせた悪質な御伽噺であり、一種の宗教だと見ている。
資本主義は単なる現実主義で、思想ですらない。だが、現実だから強い。その悪質さ、悪への傾斜にも関わらず、強いのである。まあ、無数の人々を足元に踏みにじる怪物である。

(以下引用)冒頭の「これ」は「風たちぬ」のこと。


 これに比べて、「君たちはどう生きるか」はある意味、シンプルな作品である。


 戦火——空襲の炎で死んだ母親。*1


 少年はまだそのような母親の死を社会や歴史の文脈に乗せてとらえることさえしていない。しかし作品全体には「戦争によって母親を失った」ことが主人公の少年に重くのしかかり続ける。そのような戦争がない社会…という直接的な比喩は一切用いていないが、そのことが念頭にあるに違いない。もちろん、そこをもっと緩く捉えて、気候危機による人類の破滅などといった人類の存続に関わる様々な問題だと感じてもいいだろう。


 大叔父は、石を積んで危ういこの世界の均衡をどうにか成り立たせてきた。


 しかし、その努力ももはや限界である。


 大叔父は、この世界をどう構築するかを、少年に託そうとした。


 しかし、大叔父が少年に託そうとした石は「悪意に染められていない石」であった。「石」は「意思」のようにも思えてくる。


 「悪意に染められていない石」を積んで世界を再構築しようとする試みを、少年は断固拒否して、「奪い合い、殺しあう世界」、争いや矛盾、悪意に満ちた世界と格闘することで、世界の再構築をする決意をし、現実の世界=歴史へと戻っていく。


 ぼくには「悪意に染められていない石」というのは、徹底した理想論を想起させる。


 例えば武力に一切頼らない日本国憲法の前文、および第9条のように思える。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法前文


 あるいは、勢力均衡の世界が戦争を招いた反省から、集団安全保障の理想を掲げた国際連盟国際連合の比喩のようにも見える。


 


 戦火のない世界を「悪意に染められていない石」によって構築しようとする試みは、失敗したかに見える。「悪意に染められていない石」を粗雑に積み上げて、それをぶち壊してしまうインコ大王の振る舞いは、「憲法9条など空論だ」「国連など無力だ」と理想主義を嗤い、悪しき「現実主義」に身を委ねた人々のようにも見える。


 インコ大王は、理想の中に侵入してくる現実である。現実は理想に侵食し、理想に妥協を迫る。理想は「時間が欲しい」といってその侵食と折り合いをつけるのである。


 大叔父は、もはや老境に達した宮崎自身のようにも見えるし、宮崎だけでなく、戦争の中で積み重ねられてきた理想の知恵、例えば日本国憲法であるとか、戦後民主主義の姿のようにも見える。


 吉野源三郎が『君たちはどう生きるか』で主人公のコペル君を導いた「叔父さん」をも重ねているかのようだ。「叔父さん」という知恵は、日中戦争が勃発し、戦争の暗い時代が始まるさなかに、自分だけ・自国だけの視点ではなく、世界の中の自分、社会の中の自分という視点を持つように訴えた。


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 


 宮崎駿はかつて、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、浄化された理想論としての共産主義マルクス主義を批判した。


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 


 当時の宮崎の雑誌インタビューだ。同様の表明を当時ぼくは読売新聞などでも読んだ。


いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろうと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわかって、自分の考えの甘さを教えられました。(「よむ」1994年6月号、岩波書店



ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたから。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でもときどき思います。……労働者だから正しいなんて嘘だ、大衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない。(同前)


 


 下図は、漫画版『ナウシカ』のラストで、ナウシカ墓所の主と対決するシーンである。墓所の主が、理性に基づく清潔な理想を語り、ナウシカは大ゴマでその理想を力強く否定する。この拒絶に、今回の主人公・真人の拒絶と同じ力強さを感じないだろうか?




宮崎駿風の谷のナウシカ』7、徳間書店、p.196

 


 漫画版『ナウシカ』で宮崎はユーゴスラビア内戦に直接のきっかけを得て、マルクス主義放棄を宣言した。それを聞いたときぼくは、まあマルクスを救い出すためにムキになって反論したという側面はあるのだが、宮崎が言いたかったことは、絶望するほどの現実と泥まみれで格闘することなしに、主義や理想だけで世界が変わるなどということは金輪際ありえないというその覚悟を問うことだったのだろう。今となってみれば、宮崎の言いたい気持ちは痛いほどわかる。


 基本的にはこのような理想主義批判と現実主義を、宮崎は本作でも繰り返した。


 しかし、かつてのマルクス主義の放棄とは違って、宮崎にとって、この1、2年の世界情勢の推移はより切迫し切実したものになったに違いない。*2


 「『風立ちぬ』を批判する」でも紹介したが、宮崎自身は、名うての反改憲論者であり、日本国憲法が掲げる理想の規範を高く評価する人物である。


 だが、ウクライナ戦争をはじめとする国際情勢は、そうした理想主義が果たして次の時代も通用するかどうかを激しく問うている。主人公から母親を奪った、そのような戦火をどうしたらなくせるかという問いをたてたとき、「悪意に染まっていない石」を積んで理想世界を実現させるたくなるのが、戦後民主主義世代だろう。


 ただそこをあえて、「殺し合い、奪い合う」現実世界と格闘することで、新たな世代は作り出せと言おうとしているのではないか。他方で「悪意ある石」を主人公(真人)は拒否しており、それは現実への屈服や虚無主義のようなものだと言える。


 宮崎自身は「大叔父」に重ねられているのだから、今さらその立ち位置は変えられまい。彼らの世代の努力で石=世界の均衡はどうにか保たれてきた。しかし、それを引き継ぐ世代は、もはやその「悪意に染まっていない石」を積み上げた理想主義だけでは対処できず、現実そのものと格闘しなければならないのだと言いたいように思われる。


 ぼくも宮崎の後の世代にはなるのだが、ではこれまでの理想主義は全く無駄かといえば、そうは思わない。アメリカに従属してその戦争に動員される危険を抑止する強力な武器として憲法9条は引き続き機能するであろうから、リアルな現実と格闘する武器として理想主義を活用すべきだというのが、ぼく流の「どう生きるか」である。


 


 下図で、墓所の主が語る理路整然とした美しい理想主義に対して、ナウシカが「清浄と汚濁こそ生命」だと切り返しているのは、他方で薄っぺらな現実主義には拝跪せず、しかしあくまで「清浄」=理想は捨てないというその難しい均衡を示している。


 理想主義への徹底した批判を加えつつも、その理想そのものは決して捨てないところに、戦後の進歩的知識人であった宮崎の面目躍如がある。今回はそれを一層現実主義にスライドさせたが、それでも理想は捨てていないのが宮崎であろう。




宮崎前掲書p.200

 このテーマ性こそ、宮崎の「最後の作品」にふさわしい。彼が生涯問いかけたものであり、引き続き後続世代に考えてほしいと願ったテーマだろう。もちろん、この後ひょっとしてまた作るかもしれないし、もっといいものができるかもしれないが、この時点で宮崎が放つべき作品のように思える。

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努力と才能

これは、米山隆一が正しいだろう。世のブラック企業経営者や教育ママは武井派がほとんどだと思う。そして多くの人、多くの子供を不幸にする。
米山の言うことは非常に大切で、努力するにしても才能のある方向に努力することが大事で、才能の無い方向に努力すると一生をフイにする。だから、多くの事に触れて、自分は何が好きか、何に向いているかを知ることが一番大切なので、私のように怠ける(ボケッとしている)ことが好きという人間でも何かを考察したり文章を書いたりすることはまったく苦にならない。もちろん、それが娯楽だから苦にならないのである。
もっとも、たとえばパチンコが好きだから、それを一生やろうというのは間違いで、娯楽でも、あるいは純粋な娯楽だからこそ仕事にはならないことがある。女が好きだから、ホストを一生の仕事にしようというのも大間違いで、60歳70歳のホストにあまり需要は無いだろう。女を食い物にする覚悟と冷酷さ、下劣さがあってこそ成り立つ商売でもある。
ただ、武井の言うのは、スポーツだけに関して言えば、「正しい努力をせずに我武者羅にやってもダメだ」というのが彼の主張の本質で、多くの人は単に走るだけでも「正しい走り方をしていないから成績が伸びない」のだ、ということだ。これは正しいと思う。世の9割の子供は正しい走り方を知らない。教えられもしていない。もっとも、それで記録を数秒伸ばしても、才能のある人間には太刀打ちできない、というのが米山の言い分で、それも正しい。

(以下引用)

米山隆一さん、武井壮にレスバトルを申し込む。「才能によって努力に要するエネルギーは段違いです」

 

引用元: https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/

1: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:46:09.53 ID:qwT/S/sbM
うおおお
no title

no title
2: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:47:24.81 ID:PkICYVFQM
たまにまともになるよなこいつ

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寒冷の国でなぜ幸福でいられるのか

「大摩邇」所載の「地球の記録」記事の一部だが、私が面白く感じたのは記事の主内容ではなく、「世界で最も幸福な国」のランキングであるので、そこだけ先に載せる。

1位フィンランド
2位デンマーク
3位アイスランド

この3つの国に共通するのは何か。三つとも北欧の国であるのは誰でも分かる。だが、北欧の国であることが幸福につながるだろうか。特にアイスランドなど、名前からしても「氷の国」である。網走番外地か。いや、それより緯度が高いからもっと寒いだろう。
まあ、北欧の国であることは別として、私が思ったのは、この三つとも

特に著名な産業がなく(アイスランドは金融で有名らしいが、金融は「何も生産しない」。つまり、本来の意味での「産業」ではない。)
特に著名な企業がなく
特に著名な文化がなく
特に著名な偉人が(フィンランドのシベリウスを除いて)なく
特に世界の話題になる出来事や歴史がない

ということだ。映画や演劇では有名人も過去に数人出ているが、数は非常に少ない。で、「人生との戦い」を描いた哲学的で深刻な、あまり幸福とは思えない作風のようだ。
いや、無名こそ幸福の源という考えも可能だろうが、しかし、この三つの国は「どのようにして(食物や生活用品を手に入れて)生きているのだ?」という疑問を私は持つのである。デンマークは畜産業では少しは有名だった気がするが、畜産をしているから幸福、とはならないだろう。国民全員が畜産業者であるわけもない。
とすると、この三つの国は「なぜ幸福なのか?」
まあ、考えられるのは「寒いので基本的に何もやらない」だから無事平穏であり、何もない現状に満足する哲学がある、くらいか。時々キチガイが銃の乱射で大量殺害をしたりするが、それも「何もない」ことへの突発的な反動だろう。


(以下引用)

世界で最も幸せな国のひとつであるデンマークの生涯での精神科受診率が「82%」であり、精神薬の処方経験が「70%の人たちにある」ことを知る

地球の記録 - アース・カタストロフ・レビューさんのサイトより
https://earthreview.net/rate-of-mental-health-disorders-in-denmark/
<転載開始>


ベンゾジアゼピン等によりもたらされている幸福…

最近、米エポックタイムズ経由で、デンマークの「国民のメンタルヘルス」に関する研究の存在を知りました。それは、以下のような調査で、150万人を対象にした大調査でした。


「一生涯で、デンマーク人のどの程度が、精神科医からの治療を受けたことがあるか、あるいは精神薬を処方されたことがあるか」


 


デンマークで初めてとなるこの調査の結果、


「デンマーク人の 82.6%が、生涯で、精神科医からの治療を受けたことがある」


ということがわかったのでした。


驚異的な数値だと思います。



コペンハーゲン感情障害研究センターやコペンハーゲン大学の研究者たちによる調査の結果は、こちらにあり、その冒頭は、以下のように書かれていました。


デンマークの研究より


調査結果 このコホート研究では、精神的健康障害および/または向精神薬の処方の生涯累積発生率は以前の報告よりも高く、人口の約 80%が病院内または一般開業医または民間の精神科医から精神的健康障害の治療を受けていた。


精神的健康障害と向精神薬の処方は、収入の低下、失業、一人暮らしや未婚の可能性の増加など、その後の社会経済的困難の増大と関連していた。


JAMA


これを伝えていた米エポックタイムズの記事をご紹介させていただきます。なお、 2023年度版 世界幸福度ランキングの上位3カ国は以下です。


世界幸福度ランキング 2020-2022


1位 フィンランド
2位 デンマーク
3位 アイスランド


yamatogokoro.jp

世界で2番目に幸福な国デンマークは、精神的健康障害の罹患率が驚くほど高いことが研究で判明した

The World’s 2nd Happiest Country Has a Surprisingly High Rate of Mental Health Disorders: Study
Epoch Times 2023/07/17


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寛容の世界

非寛容というのは狭量とほぼ同義語で、俗な言い方をすれば「尻(ケツ)の穴が小さい奴」となる。
だが、よく考えてみると、非寛容を攻撃する立場は誰の立場かと言えば、「罪を犯した人間」である。そういう人間に、被害者を含む「罪を裁く立場の人間」が「非寛容だ」と非難されるわけだ。
もちろん、罪を犯した人間その人ではなく、罪人を弁護する立場の者、罪人を許せ、とする立場の者が非寛容を攻撃することも多い。だが、それは、「罪人を弁護することで利益を得る者」である。たとえば、罪人の家族や友人、弁護士などだ。
では、世の中が寛容な世になって誰が利益を得るか。当然、罪人、あるいは犯罪を犯す高い可能性を潜在的に持つ人間である。
とすると、非寛容への攻撃というのは、「正義は何の根拠や権利があって不正義(罪)を罰するのか」という奇妙な論理だとなる。つまり、不正義が横行する世の中を望むのか、ということだ。

聖書は法ではなく倫理を説いた書だが、その中に「私は罪を犯した者を何回許せばいいのですか」という質問にキリストか誰かが「7の70倍許せ」と答える場面がある。
さて、現代で法律が寛容の精神で「あらゆる罪を490回まで許せ」としたらどうなるか。当然、あらゆる人が悪の限りを尽くし、489回で打ち止めにするだろう。それまでに何人が殺され、何人が暴行され、何人が財産を奪われ、何人が強姦されるだろうか。
これが論理的に見た「寛容の世界」である。もちろん、ここでは冤罪問題などは考慮していない。

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「八百万の神」思想に見る日本の宗教的寛容性

「大摩邇」所載の井口博士の記事の一部だが、この指摘はちょっと面白い。(記事の他の部分は独断や偏見や誤字が多い。下の短い文の中にも「新仏融合」という誤字がある。合成ゾンビかww)
しかし、日本の「八百万の神」という思想には、「他国や他人の信じる神」も含まれるというのは、少なくとも私は初めて聞いた指摘、あるいは思想である。(おそらくこれは私が日本対世界というパラダイム・思考の枠組みに捕えられていたのに対し、科学という、国籍不要の思考の形式を持つ井口博士の思考が勝っていたのだろう。)
これが日本の神道の古来の思想だと判断していいかどうか知らないが、明治以降にできた「軍神」を祭った新興神社の存在を旧神社が認めているのは、やはり「八百万の神」思想の一端かもしれない。こういう宗教的寛容性は、日本独自のもののように思えるが、それは逆に言うと、「宗教を軽く見る」姿勢でもあり、宗教民族からは唾棄すべきものと見られるだろう。連中は異教の人種や民族や国家は滅ぼし、我が宗教の真実性を証明せよ、という狂気に支配されているのである。殺生戒のあるはずの仏教徒ですら他宗民族殺戮をやるのである。
まあ、上記のことは「神道は宗教ではない」という一言で片付くが、ではそのお偉い「宗教」は社会に害毒を流していないか。社会をむしろ悪化させていないか。統一教会だけが問題だと言えるか。


(以下引用)

我が国の神道は普通の宗教とは違う。
新仏融合の万物崇拝、太陽崇拝の八百万の神々の世界である。
この精神が、他国や他人の信じる神もまた八百万の神々の1つだということになる。

(夢人追記)参考までに、某スレッドより転載。


海外「宗教心がない日本が一番安全だなんて!」日本人の宗教観に外国人も驚き!



日本人の投稿者さんが、東京の若者たちに宗教についてお話を伺っています。


主な意見としては、

-仏教徒だけど信じてない。家に仏壇はあるけど。

-無宗教だが、家自体は仏教。自分とは関係ないし、興味ない。

-信仰心は無い。宗教の事はよくわからない。クリスマスや初詣とかバレンタインとかも祝う。

-鳥居があるかないか?お寺と神社の違いもよく分からない。


-小さい頃に仏像に触れる機会がなかった。辛い時に頼れるものがあるのはいいと思う。日本人は都合よく神頼みする。

-イスラムの過激派とか宗教は怖い印象がある。人を殺してしまうほど忠実なのは違うと思う。神様も望んでないと思う。

-メディアが取り上げるのは悪いことばかり。でも神様は存在すると思うし、大切だと思う。

-信仰は自由だが、それで戦争や対立が起こるのはよくない。

-好きなものを自由に食べたい。宗教に興味はないがあの教会はかっこいい。でも聖書の物語を考えた人は凄いと思う。


などです。

以下、海外の反応
      ・他の国も日本を見習わないと +31



      ・人類が作り出した最悪のものは宗教だ。+621



      ・日本はキリスト教やイスラム教国以上に人を敬う真っ当な社会だ。しかも勤勉で繁栄している。


      日本史上最も賢明だったのは、タチの悪い宣教師どもを締め出したこと。+34



      ・最後の女性が「聖書はよくできたフィクション」だって話してたけど、好ましい姿勢だよ!+13



      ・面白い。これが日本の進歩的な理由かもしれないが、同じく自殺率が高い理由かも。+287



      ↑・
投稿者
      |韓国にキリスト教徒は多いですか、自殺率は日本より高いですよ。+316



      ・イスラム教は誤解されまくってる。平和的な宗教なのに。もっと本を読んで、メディアを信用してはいけない。+297



      ・だがら他のアジア諸国より日本が進んでるんだよ。+87



      ・ほぼスウェーデンの人と同じだね。僕は無宗教で不可知論者だ。


      他人が何を信仰してるかなんてあまり気にしてないけど、そうはいってもイスラム教に対して偏見はある。+222



      ・イスラム教は怖くないですよ。怖い宗教なら世界でイスラム教徒はこんなに増えません。


      本物の正しいイスラムの教えは、理由もなく人を殺しはしません。殺人は2番目に重い罪です。


      イスラムは人だけではなく、動物や植物も愛する宗教です。私達ムスリムは両親を愛します。


      たとえ母親がキリスト教徒や仏教徒でも優しく接し、年老いても愛するという義務があります。+20



      ・これはとても悲しいです... 神のことや生きる理由が分からない人は、死後にどこに行くのか分かりません。


      4:30の女性が神の存在を信じていると話していて嬉しかったです。そうです! キリストは生きています!


      もっと多くの日本人がキリストのことを知り、触れ合い、キリストにどれほど愛されてるかを知って欲しいです。+391



      ・イスラム教について学びたいならイスラム教徒を見るのではなく、コーランとスンナを読みましょう。まずは起源に当たらなければ。+23



      ・宗教には関わらないほうがいい。宗教は史上最悪の代物だ。マジで頭がおかしくなる。+172



      ・信心深い国より、宗教を信じない国の方が成功しているという事実。+40



      ・日本には誰を憎んであやめるべきかを教える本が存在しないから、アイスランドに次いでこの世で最も平和なのです。


      アイスランドにもそんな本がありましたが、拒否することで平和になれました。+14



      ・宗教を受け付けない人でも、仏教は素晴らしい思想ですよ。


      イスラム教徒じゃないけど、とても辛い時にイマームから助言を受けました。


      イスラム教は穏やかで優しいです。テロが起こる理由ではなく、道を見失った人たちが言い訳に利用します。+30



      ・私には日本のやり方は宗教的ではないように思える。でも伝統的だ。


      神社に参拝して幸運を祈る。またはお寺を手伝いに行く。七夕には願い事を書く。


      でも必ずしも一つの神を信じたりするわけではない。+27



      ・日本人の大多数は宗教を信じてません。でも明らかに日本は世界で最も安全な国の一つです。


      他人を傷つける事はよくないことだと心から分かってるから。ただそれだけです。+29



      ・現在日本に住んでるけど、いわゆる宗教的な祖国より平和を感じてる。


    メディアが報じるデタラメな平和じゃない。ただ心から平和を感じてる。+79


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老齢と想像力と創造力

私自身の別ブログに書いた記事だが、若者へのアドバイスとして適切だと思うので、ここにも載せておく。
前置きとしてイエイツの詩「時とともに知恵は来る」をうろ覚えで先に載せておく。



葉と花はあまたあれど根はひとつ

なべて我が偽り満ちし若き頃

我 葉と花を風に揺すりぬ

時と共に知恵は来る

今ぞ我真理(まこと)のうちに萎れ往かむ


(以下引用)

十代のころの私は、人間は年を取るほど賢くなる、と思っていた。知識は年々増えるのだから、考えることもどんどん妥当なものになるはずだ、と思っていたのである。もちろん、知識イコール賢さとは思わないが、間違った知識がどんどん正しい知識に置き換わっていくのだから、賢くなって当然だ、と思っていたわけだ。
だが、現在の私は、年を取ることで賢くなる部分より、失われる知的能力の方が大きいと思っている。
年を取れば、俗世間的な問題に関しては正確な知識は増え、判断も適切になることは確かだ。
つまり、事業経営や政治などに関しては、若者より老人のほうが正しい判断をすることが多いだろう。
だが、失われる最大のものは、「想像力と創造力」である。
老人が旺盛な創造性を持っている、という例は少ない。かろうじて、わずかな創造力を保っているだけである。創造力の源泉である想像力も、枯れていることがほとんどだろう。
なぜか。それは、「想像するまでもなく、知っている」からだ。
老人は世界について、ほとんど知っているし、知らないものは
「保留にしておけばいずれ分かる」
ことを知っているから、想像する必要性を感じない。したがって、想像することもない。
こうして、想像力が枯れていった結果、創造力も枯れるのである。
だいいち、自分に残された時間は少ないのだから、無駄な行為をして時間を浪費したくない。
創造に要する膨大な時間と労力を考えれば、そんなことをする気力も失うのが当然である。
かくして、「いちばんくだらない、不毛な遊びをして」老後をすごすことになるのである。


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妖怪や怪物の「人権」について

子供向けのアニメだと私は思っているが、「呪術廻戦」という長寿アニメ(原作漫画も長寿漫画のようだ)があって、延々と続編アニメが作られるところを見ると人気があるのだろう。では、その対象はどういう層なのだろうか。子供なのか大人なのか。相手が妖怪だか怪物だか知らないが、延々と怪物らしき存在と戦っては殺し続けるだけのアニメ(原作漫画は読んだことがない)としか私には思えないのだが、子供はこれを見ているのか。見て楽しんでいるのか。

いや、昔のPTAのように俗悪漫画とか俗悪アニメの弊害を言い立てるつもりはないが、子供にとっての「有害アニメ」や「有害漫画」というのはあると思う。それが、「呪術廻戦」や「チェンソーマン」などのバトルアニメである。あるいは「進撃の巨人」もそのひとつかもしれない。
これらの特徴は「相手は敵だ。敵は殺せ」という、一点にある。戦いの理由とは、「相手の存在が自分たちにとって有害である」ことだと思われるが、それが即座に「相手を殺せ」という結論になるのである。
では、たとえば恋愛アニメや恋愛漫画の場合はどうか。恋敵の存在が自分にとって邪魔だから、「恋敵を殺せ」となるか。まあ、そういう人もいるかもしれないが、稀だろう。
ところが、子供向けの漫画やアニメでは、即座に「あいつは敵だ。敵は殺せ」となるのである。お互いの交渉の余地は最初から無い、とされているわけだ。相手が妖怪や怪物だから仕方が無い、ということだろうか。では、相手が人間ならどうか。いくらかは交渉らしきもの(政治的演技)はあっても、ここでもやはり、「あいつは敵だ。敵は殺せ」となるのである。それが人類の歴史である。
要するに私が言っているのは、「何者かを、無条件で殺すべき存在と見做す」その心性の問題なのである。これが、子供向けの漫画やアニメに蔓延していないか。フィクションだから問題ない、と言えるだろうか。
子供のころから無意識のうちに培われた心性が、成人しても心に根を張っていないか。我々は他の人種や民族を無意識に恐怖し、無理に軽蔑し、機会があれば抹殺したいと無意識に願望していないか。まあ、私自身そういう意識があるからこそ、「呪術廻戦」で妖怪だか何かが殺されるシーンを見て不愉快な気持ちにしかならないのである。(まだ、1,2回しか見ていないが、たぶん、それ以上は見ないだろう。)

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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