要するに、人々は自由(と責任)という重荷に堪えかねて、自ら「大審問官」(政治執行者)に自分の自由を委ねるのだ、ということである。
もちろん、自由と責任は原理的には二律背反だが、現実世界は見事にその二律背反の同居(一身二面性)が強制されることで社会が成立しているのである。まあ、「自由とは特権階級だけのものだ」と言い換えてもいい。下級国民は自由を捨てることで責任も「少し」軽くなる。その少しの軽減(奴隷の手錠と足縄と首輪のうちひとつを許す程度の軽減)が貴重なのである。
(以下「大審問官的民主議論」)なお、文中の「徽宗」は酔生夢人のこと。
「自由」と聞くと、私たちは手放しでそれを肯定しそうになってしまいますが、そこには大きな責任や苦悩が付き纏うということが語られます。
「自由」は高尚であれど、そもそも人間にとって重すぎるものなのではないか。
自分で全てを選択するということが、必ずしも人々にとって最善とは限らない。
何事も自分で考え、決断をするという労力が生じてしまうからだ。
と大審問官は言います。
もともと人間はキリストの教えに応えられるほど高尚な存在ではなく、むしろ弱く卑しい存在であるとも語られます。
人から言われたことをやっているだけの方が、あれこれ考える必要が無くて、結果的に楽ということはよくありますよね。
自由にはすべからく「不安」と「孤独」がつきものです。
自らに関する一切のことを自分で決定するという重荷に耐えられなかった人々たちは、その後自由を自らの意思で教皇(徽宗:「支配者」「政府」に読み替える)に差し出すようになり、その支配下に入ることで「自由」を獲得し、幸福を得た。
というのが大審問官の主張です。
ではなぜ人々はこのような一見不合理な選択をしたのかということについては、さらに詳細に語られます。
「自由」と「支配」
(以下、民主主義論には少し縁遠い話が長いので見え消しにする)
相反するこの二つが両立することを可能にする論理を、大審問官はこう述べます。
人々はただ無理解のまま自らの自由を教皇に差し出したというのではなく、本当の「自由」とは離れていくことを知った上で、なおキリストのために教皇の支配下に入ることを決めたのだと。
自由が辛く厳しいものであることを人々は理解しているからこそ、罪に堪えながらもその自由を取りまとめてくれる教皇たちへの尊敬の念を禁じ得なくなる。
この事実を踏まえた上で、人々のために「嘘」をつき続ける自分たちに愛が無いとは言えないだろう。
というのが大審問官の主張です。
ただここに教会側の中にはキリストへの「欺瞞」が残るとも言います。
教会や教皇などの支配する側は、真の意味でキリスト教の教えに準じていないことに、心のどこかで気づいているということですね。
そしていずれ人々はキリストの掲げた崇高な理想よりも、目の前の食糧や生きていくための「安定」を優先してしまうようになります。
今で言うと政治を政府に任せきりになることや自らの労働力を会社に委ねるようなことでしょうか。
ここに関しては、いつの時代も変わらない人間の性質を感じることができます。