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アインシュタイン理論の嘘

「ものセラ」から転載。私の苦手な理系記事なので、唯一理解できた(気がする)部分だけ転載する。
ついでに言えば、光を超える速さはない、という相対性理論の原則も嘘であるようだ。例えば、重力などは、「今、その場で相互干渉している」のである。つまり、光速を越える「今」「即時」という速さがあるわけだ。重力が「即時」以下の伝達速度なら、太陽と地球の位置関係は必ず変化してくるので、地球などとっくの昔に太陽からはるか離れた距離に消えているか、太陽に飲み込まれていたわけだ。
先に、同ブログから、上記の部分に関係する部分を引用する。「8分後」は重力が(仮に)光速で太陽と地球をつなぐ(往復する? たぶん、重力は往復はしない。)場合の時間だろう。

観測によれば、地球は太陽の瞬間的な位置に引き寄せられるのであって、8分後に空に見える位置に引き寄せられるのではありません。イギリスの著名な天体物理学者であるアーサー・エディントン卿は『空間、時間、重力』という本の中で、この問題について論じています。彼は、もし重力が有限の速度で伝播するならば、太陽の周りの惑星の運動は、惑星に働くトルクのために不安定になると指摘しています。


トルク英語torque)とは、力学において、ある固定された回転軸を中心にはたらく、回転軸の周りの力のモーメントである。一般的には「ねじりの強さ」として表される。力矩ねじりモーメントとも言う。

(以下引用)


彼は、光は光子と呼ばれる質量のない小さな粒子(量子)から構成され、光の周波数に比例したエネルギーを持つことを提唱しました。







光電効果◆物質が光を吸収して自由電子を発生する現象
光電効果(物質が光を吸収して自由電子を発生する現象)

ここでもまた、E=mc²に反して、エネルギーを運ぶ質量ゼロの粒子を導入するという、物理的に不可能な神秘主義にふけってしまったのです。これによって、電磁気学に不条理な波動・粒子の二重性が導入されました。

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「頑張れ」は呪いの言葉

先ほど、ぼんやりとあれこれ考えているうちに、かなり大事なことを思いついた気がする。
それは「頑張れ」が呪いの言葉である理由だ。

精神を病んでいる人間に「頑張れ」が禁句であることはよく知られている。
しかし、それがなぜか、ということを明確に言語化した人はいないのではないか。
それを簡潔に説明する。それは、英語との対比によって説明できる。

「頑張れ」を英語に訳するなら、ほぼ100%の人が「Do your best」と訳すだろう。
しかし、この両者には断崖のような差があるのである。

それは、「Do your best」には限界が示されているのに対し、「頑張れ」には示されていないということだ。「Do your best」は、自分ができる最善を尽くせば、そこが努力の終点だ。それ以上を求めるのは、酷だ、という了解が存在する。しかし、「頑張れ」には、その限界が示されていない。

つまり、どこまでやれば頑張ったことになるのか、分からないということである。当人がいくら頑張ったつもりでも、上の人間や周囲の人間には「頑張った」と認められない可能性が常にあるのである。これで心を病まないでいるのは、よほど図々しい人間だろう。大多数の人間は、この「無限の叱咤」に耐えられない。

以上が「頑張れ」が呪いの言葉である所以である。まあ、たいていの人は深く考えもせず、善意から「頑張れ」と他者を励ますのだが、その結果、相手を自殺に追い込んだりする。

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「左右完全対立思想」の愚かしさ

「東海アマ」ブログ記事の一節で、冒頭の「子供たち」は、ポルポト時代の子供たちのこと。
先にアマ氏の文章を載せてから批判的に考察する。

(以下引用)

子供達は、自分の両親でさえ平然と殺害するほど洗脳されてしまった。だから、若者たちを利権のために操作しようとするとき、どうやって洗脳するのか? がわかれば、世の中を自分たちの思い通りに操作できることになる。

 人情味豊かな思いやりのある人間にするためには、子供のうちに宮沢賢治の詩を暗誦させておけばよく、結果として犯罪の少ない素晴らしい社会になる。
 陰謀によって世界を支配するような人間性を育てるには、旧約聖書を暗誦させればよい。こんなことに気づいた日本の支配者たちがいた。
 それが岸信介・正力松太郎・笹川良一・中曽根康弘といった戦後日本を影から支配しようとした人たちで、彼らは国際勝共連合という組織を、韓国の文鮮明と協力して作った。
 それは、やがて「日本会議」という右翼思想統一組織に発展した。

(引用終わり)

この後に文鮮明のことなども出て来るが、それは置いておく。
「陰謀によって世界を支配するような人間性」の子供を育てる、という言葉自体が大きく的を外れているとも思うが(洗脳対象は、ただのロボットや奴隷的存在であり、「世界を支配するような」存在ではない)、それも置いておく。
問題は、右翼という存在を十把ひとからげにしていることだ。
私の認識では、笹川良一は一種の「国士」であり、「愛国者」であって、単なる「戦後日本を影から支配しようとした」人間ではない。日本の「左傾化」を憂えたという意味では右翼だが、右翼イコール悪党という認識は大間違いだろう。右翼にも左翼にもチンピラもいれば偉人もおり、悪人もおれば善人もいるわけだ。ただ、その行動の結果が「権力の集中」を呼び、それが日本に好結果をもたらすか、悪結果をもたらすかの違いだけだろう。
つまり、政治を「右左だけで単純に分ける」という思考そのものがアホなのである。
実際、戦後日本はアメリカ輸入の民主主義と自由主義で発展し、その結果、精神的に堕落して、社会は上級国民と下級国民に分裂した。前半は左翼的思考(社会主義的思考)による成功だし、後半は左翼的思考(自由主義)の暴走による倫理的破綻と「社会主義の放棄と社会の階級化」である。そのどこにも「右翼思想」は関係していない。当然、天皇とは何の関係もない。
ついでに言えば、社会主義と共産主義を混同すると、すべてが混乱する。つまり、「共産主義=悪」だから「左翼=悪」となってしまうのである。これもついでに言えば「左翼=リベラル」ではない。共産主義はリベラルの対極物である。つまり、全員が「共産(財産を共有する)」というルールに絶対的に従う意味では、桎梏の世界(非リベラル)なのである。一部の人間が世界の財産を独占するNWOは共産主義でも何でもない。強いて言えば広域奴隷制度思想だ。それに対して社会主義とは社会資本の一部を社会全体の福祉に使う(極端な資産の偏りの是正をする)という「自由性の高い」ルールなのだ。世間の大半の人が、この区別がついていない。まあ、初期社会主義の歴史を少し読めばいい。マルクスが否定した「空想的社会主義」こそが社会主義の本質なのであって、共産主義など害悪である以前に、まったく実現不可能な御伽噺なのである。一部の保守主義者による「リベラル=共産主義」というレッテル貼りが、すべてを混乱させている。(私自身は共産主義も「今の」リベラルも大嫌いである。)
右翼の話に戻る。笹川良一は、果たして「戦後日本を影から支配する」ことを望んだのか。では、彼の行なったあらゆる社会福祉事業は単なる宣伝で、その行為自体が悪辣で無価値だったと言うのか。そして、アニメ「一休さん」で子供に道徳や善行の大切さを教えたことも、「邪悪な洗脳行為」だったとでも言うのだろうか。競艇で金儲けしたのが悪い、と言うほど我々はギャンブル行為を完全に否定して生活を清らかに送っているのか。台風の夜に家族を集めて花札をした私の母は、子供を洗脳し、子供から金集めをしたかったのかwww








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忠と義が相克する時、どうするか(足利尊氏小論)

よく、「忠義」と簡単に言うが、忠が必ずしも義と一致しないことはよくあることである。簡単な話、自分の主人や上役が悪人で、悪行を部下に命じる時、その命令に従うのは、絶対に「義」であるはずがない。しかし、組織論的には忠と義は常に一致すると部下や下級国民に教えておくのが、上の人間には大きなメリットがあるわけだ。そう教え込まれた下の人間は「忠=義」というドグマに精神が侵されることになる。

なぜ、こういう話をするかというと、市民図書館から借りてきた「太平記」を読んでいて、もしかしたら、世間の人々の足利尊氏に対するイメージは、まったく間違っているのではないか、と思うようになってきたからだ。まだ、全体の3分の2くらいしか読んでいないのだが、ここまで、足利尊氏という人間がどういう人物だったのか、まったく顔が見えてこない。彼の個人的な言動がひとつも書かれておらず、誰と戦って、負けたとか勝ったとかいう話しか出て来ないのである。
で、世間のイメージはおそらく、「楠木正成=忠義の代表的人物」したがって、正成と敵対した「足利尊氏=悪人」、というものではないか。で、尊氏は、最初鎌倉幕府を「裏切って」後鳥羽天皇(後醍醐天皇)方につき、後鳥羽天皇(後醍醐天皇)が天下を取った後、反旗を翻して、楠木正成や新田義貞らを擁する天皇方に勝利して室町幕府を建てることになる。つまり、「二度も主君を裏切った」大悪党だ、というのが世間のイメージではないだろうか。だが、問題は、実は、彼が裏切った相手(主君)は、けっして正義の存在ではなかったことだ。これが、この文章の冒頭で言った「忠=義」とは限らない、ということだ。仕える相手が悪(人間性の話ではなく、たとえば後鳥羽天皇なら、建武の新政という無能極まる悪政、愚行のこと)なら、それに「従わない」こと、つまり「不忠」こそが「義」なのである。
もちろん、ここまで「太平記」を読んできて、まだ「顔が見えない」足利尊氏を「正義の人」と断定するつもりはまったくないが、実は、私が尊氏はその可能性があると思ったのは、図書館から借りてきた「太平記」の最初の方に載っていた尊氏の清水寺への願文の毛筆の筆致と、その内容からである。
私はもちろん書の素人であり、書を見る目もあるとは言えないが、書を見るのは好きである。
で、尊氏の書は、実に「品がいい」書だと思ったわけだ。書家の石川九楊は、「実用本位の武家の書」とけなして(?)いるが、私には、実に品のいい書に思える。
そして、内容が素晴らしい。私流に訳してみると、こういう内容だ。
「この世は夢のようなものでございます。尊氏に道心をお与えくださって、後生をお助けください。私は早く遁世いたしたく存じます。道心をお与えください。ただ今生の果報に換えて、後生をお助けください。ただ今生の果報は直義にお与えなさって、直義を安穏にお守りください」
直義は、尊氏が政治の実務を預けた弟で、この建武2年に足利幕府が始まるのである。
で、私がこの願文から読み取るのは、これがまったく本気であり、尊氏は現世の果報はまったく要らないと思っていた、無欲の人であり、無私の人でもあったのではないか、ということだ。歴史的な人物で言えば、実在しないという説が最近はかまびすしいが、聖徳太子、あるいは明治維新の大久保利通に近い人間性だと感じる。
そういう人物が歴史上の悪党ナンバーワンとされてきたのは、もちろん、太平記での楠木正成神格化のためであり、その思想の明治政府による拡大のためだろう。


(追記)今読み直して「あれ、後鳥羽天皇ではなく後醍醐天皇かな?」と思って確認したら、やはり後鳥羽は間違いだった。天皇の名前は混同しやすい。というか、私は暗記が非常に苦手なのである。覚えるのが嫌いで、考える方が好きだ。「建武の親政」も、「建武の新政」が正しいようで、先に漢字変換で出て来た「親政」をうっかり書いてしまった。もっとも、「建武の新政」は、ある意味では「天皇親政」だったのではないか。「親政」とは「自ら政治を執る」意味。だが、実際は、周囲の狡猾な公卿や僧侶たちの意見に動かされて、倒幕に貢献した武士たちの利益をまったく無視したので、武士たちに造反されたのである。そこが「親政」の難しさであり、私は「天皇は象徴的存在であるべきで、政治に関与するべきではない」という考えである。ある意味「天皇親政」だった明治から昭和は、巨大な発展も生んだが、最終的にはあの戦争を招いてしまった。まあ、帝国主義の時代に流された運命だったとも言える。

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「頭の良さ」と学歴

私の別ブログの過去記事から転載。学歴でしか頭の良さを測れない人間はかなり馬鹿だと思う。
ついでに言えば、「理屈の言える人間」の理屈は、その場の人間の大半に理解できないから「頭がいい」と錯覚されるのだと思うwww


(以下引用)


これは冗談抜きで、「頭が良いとはどういうことか」という大きなテーマを示唆している。日常的な言動では頭がいいのに、学校の勉強はまったくできないという人もいるし、その逆もいるのではないか。少なくとも、学校秀才が頭がいいと思った経験は私にはあまり無い。(まあ、あまり接触したこともないが。)その逆に、日常生活の上では頭がいいなあ、と思う人間が多いのだが、彼らはたいてい学校の勉強は苦手だった。
これは、考察する価値がある問題だと思う。
学校の成績の悪い人は、本当は頭が悪くはない。ただ、「理詰めで考える能力が低い」だけで、瞬間の判断や身近なことを記憶する能力は高いのではないか。で、理詰めで考える能力というのは頭の良さのひとつでしかないと思うわけだ。つまり、直感的に正解が出せる問題なら、理屈は不要であるわけで、そちらのほうがむしろ高度な頭の良さだと見ることもできる。ただ、不特定多数の人に「説明する」段になると、理屈抜きでは説明が説得力を持たないから、理屈の言える人間が「頭がいい」と多くの人に思われるのだろう。


借金玉
@syakkin_dama
「その学歴でなんでオーダー5つくらい覚えられないの?」という怒られはわりと人生で発生しましたが、「なんで作業しながら雑談しつつオーダー覚えられて、おまえ俺より学歴低いのか完全に意味不明」って返したらマジギレされたことある。





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「生きる」

まあ、簡単に言えば、サラリーマンというのは、会社(仕事)のためにすべての時間が使われるということである。退社後の時間も、翌日の出社のために計画的に使わないと仕事に差し支えるわけだ。食事、入浴、洗濯、睡眠、すべて計画的に使わないといけない。私は、会社勤務していた期間、読書時間がほとんど持てなかった。特に文学関係の本など読む精神的余裕は無かった。サラリーマンを引退してやっと毎日何時間も読書ができるようになったわけである。
そうして改めて思うのが、真の生活は頭の中にある、ということで、読書や外界の事象はその糧である。本を読む余裕も、外界の自然や出来事を静かに眺める余裕も無い生活とは、はたして生活なのだろうか。

(以下引用)

無職ニート状態から就職したけど、社会人時間感覚に驚いた

無職ニート状態から働き始めたのが、その時と比べて時間が過ぎるのが早いのに加えて、自分自由時間がかなり少なくなった。


感覚としては、仕事から帰って日常生活でやらないといけないことをしてたら、もう寝る時間になり起きたら仕事


このような感覚になっている。


まだ就職してから1ヶ月くらいなので、この生活に慣れていないのもあるだろうが、精神、体力共にかなり苦しい。


社会人の人は皆こんな感じで生活をしているのだろうか?


無職ニートの頃の時間感覚生活していくのは難しく、時間の使い方を相当上手くしないと生活を送るのは厳しく感じた。


少なくとも自分就職してから、あの時と同じ感覚生活していたが、かなり苦しかった。


そんな中おなじ社会人でも他の人を見ると、働きながらでもプライベートで、何かしら行動していたり知らない間に何か物事を進めている人がいたりして驚くことがある。


これは自分と違い、他の人は上手く時間を使っているからできるのだろうか?


だとしたら自分時間感覚を一気に変えないといけないように思った。

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戦争(戦場)では倫理は存在しない

「731部隊」の名簿が公表されたというニュースに関する所懐。

私は「731部隊」の鬼畜的行為を憎む者だが、基本的には「戦争犯罪」の個々を糾弾する行為はあまり、いやほとんど評価しない。

第一に、「戦勝国側の犯罪」はけっして糾弾されないし、第二に「犯罪の実行者が主に処罰され、命令者は処罰を免れることが多い」からであり、第三に、これが一番肝心なのだが、「戦争という行為自体が犯罪であり、それは両国民全体が加害者であり被害者である」からだ。子供を除く誰もが、戦争加担という犯罪の犯人なのである。あなたの祖父母や曽祖父母すべてが戦争犯罪人なのだ。

なお、戦場では、「敵国人」すべてが敵として処理されるのであり、捕虜などに対する残虐行為は当然視されるのが昔の常識であり、ジュネーブ協定だとか何かは、偽善にすぎない。つまり、「捕虜になっても大丈夫だから安心して戦え」という兵士慰撫のための偽善なのである。相手兵士を戦闘で殺すのはよくて、捕虜にした敵兵を殺すのはダメ、ということが偽善でなくて何か。

日清戦争での「敵国人(民間人)」への日本兵の残虐行為を描いたのが泉鏡花の「海上海城発電」だが、この作品に言及した批評を私は見たことがない。そこに、戦争に関する日本人の偽善が集約されている。この作品を読んで反戦主義者にならない人間を私は信用しない。(「発電」とは電報を発する意味。「上海海城」はおそらく都市名だろう。「上海」から作った架空の名かもしれない。

(以下引用)と思ったが、引用できない仕様になっているようだ。これは日本ツィッター社による工作だろう。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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