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「魂」「脳」「心」とは何か

以前に引用した生チョコぽん酢さんの記事の一節であるが、これを読んで、その前に寝床の中で読んでいたさくらももこのエッセイの一節を思い出したので、ふたつを載せておく。後者は私が書き起こした文章になる。「意識(魂)・脳・心」の相違についてのほぼ完ぺきな解答だと思う。
中略した部分に「意識とは自分の根本のピュアなエネルギーの波動なのだ」などの論もあるが、スピリチュアル臭く感じる人も多いだろうから削除した。もちろん、そういう部分がこの論の「キモ」なのだ、と思う人は原書を読めばいい。「そういうふうにできている」というエッセイ集で、全体が非常に面白い。特に男性には女性の妊娠出産がどういうものか学べる。
蛇足を言うが、意識とは「自分が自分である感覚」だから、その感覚を失った人間はもはやそれ以前の人間とは別である。これが(引用1)での精神疾患だ。脳があっても、それを支配する本来の自我との結びつきが失われたわけだ。これは老衰でも起こることである。

(引用1)

精神疾患というのも、結局は意識の問題なのだと私は思っています。

意識が自殺願望に向く人もいれば、他害に向く人もいる。

意識によって幻覚や幻聴が生まれるし、人の意識の深さにはとても考えさせられると同時に、神秘的な一面を感じさせられます。

意識とは宇宙だなと。


(引用2)作者さくらももこが帝王切開で出産した時の思念の描写である。赤字や下線は夢人による強調。

手術が始まったようだ。私の腹は裂かれているらしいがその件については何も抵抗が無い。私は自分が今、これまでの人生の中で最も死に近い状態にいる事を感じていた。たまたま手術だから腹がパックリ割られていても誰もあわてていないだけで、普段の状態と比べたら明らかに死に近づいている。
私は意識が実に生々しくクリアになってゆくのを感じていた。自分自身が明らかになってゆく奇妙な感覚である。それと同時に、心のほうはどんどん静かになっていった。この世における未練が遠ざかってゆき、仕事のことも、大切な人々のことも、何もかもが本来の自分とは無関係であり、地球で生活していたすべての出来事は地球にいた時のみ関わっていた雑事である事を感じていた。

(中略)

脳と心と魂とは、全部別々のものであるというのが私なりの結論である。三つとも別々なのだが、非常に密接につながっているので混同してしまったり、何が何だかわからなくなってしまいがちだったのだ。
まず、魂と呼ぶものだが、これは「意識」と言い換えた方がこの場での説明がしやすい。(中略)この「意識」こそ、私は本来の自分そのものだと思う。ここで言う「意識」とは(中略)自分が自分であるという「感覚」なのである

(中略)

肉体全体が「意識」の乗り物としてうまくシステム化されて作られている機械であり、その中でも脳という部品は「感情表現」「情報を交換する際の言語駆使」「肉体の様々な器官への命令」等をとり行うコンピューターシステムなのだ。

(中略)

では「心」とは何か。「脳」は単なる肉体の一部のコンピューターシステムにすぎず、「心」と呼ばれるものに付随する愛や温かさのような曖昧なものを生産しない。一方、「意識」は感覚のみのエネルギーの波動であり、「心」のように言語を駆使するシステムを持たない。「心」は「脳」でも「意識」でもないとすると何なのか? 今回の発見で一番面白いところがここである。
「心」に実体はなかったのだ。「脳」は肉体の一部であり、「意識」はエネルギーだ。だが、「心」は実存するものではない。「心」とは状態のことだったのである。
「意識」が、肉体の一部である「脳」を使い言語で思考したり感情や情報を伝達したりしてこの世で生活してゆくという、その「意識が脳を使用している状態」が「心」なのである
だから、この手術で麻酔が効いて「脳」のコンピューターシステムが休止した際に言語が止み、「意識」だけがあからさまになったのだ。局部麻酔ですら私の場合は「脳」の機能も少しは止まったが、全身麻酔でなかったからこそ「意識」のみになった状態を把握できるくらいには半覚醒していられたのだ。


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オオナムチ(オオナムジ)という神名について

本居宣長の「古事記伝」を現代語訳した「雲の筏」というサイトから転載。
つまり、この「注釈」の書き手は本居宣長である。文中の「師」は契沖か。(訂正:賀茂真淵のようだ。日本史で習ったが忘れていたwww)
「オオナムチ」という神の名前に疑問があって調べて出会ったサイトだ。

(以下引用)

○大穴牟遲神(おおなむじのかみ)。この名の読みは、万葉巻三【三十三丁】(355)、同巻六【二十三丁】(963)に「大汝(おおなむじ)」と書き、同巻十八【二十五丁】(4106)にも「於保奈牟知(おおなむじ)」とあって、古語拾遺では大己貴と書きながら【この字は書紀の表記である。】「古語於保那武智(おおなむじ)の神」とあり、新撰姓氏録では「大奈牟智(おおなむじ)神」、文徳実録八に「大奈母智(おおなもじ)」、三代実録には「大名持(おおなもち)」、延喜式に「大名持」、また「於保奈牟智」などとあるので理解すべきである。「遅」は濁音だ。【それなのに書紀には「大己貴は『おおあなむち』と読む」とあるので、現在まで世人がそう読んでいるらしいのはどうだろう。この訓注は師も疑っていたが、実に疑わしい。この名に「おおあな」などと「あ」を挿入した例は、古い書物には全く見られない、それに「大己貴」と書いたのも納得できない。「己」という字は「おの」を「あな」に当てたのだろうか。「汝」と言うときに「おのれ」と言う場合もあるから、「汝(な)」の仮名として使ったのだろうか。何にせよ紛らわしく、腑に落ちない用字法である。それを後世の人は、元の意味を深く探ることもせず、単に「大己貴」の字についてその名の意味を議論しているのはどうしたことか。とかく書紀は、こういう場合に変わった文字使いを好む書き方なので、気を付けるべきである。】「大穴」と書いたのは、この記をはじめ、万葉巻七【二十三丁】(1247)に「大穴道」、出雲国造の神賀詞、延喜式神名帳、出雲国風土記などに「大穴持」、新撰姓氏録には「大穴牟遲命」などがある。これらもみな「おおな」と読む証拠は、和名抄で信濃国埴科郡の郷名「大穴」を「おおな」と記してあることだ。「牟遲」と「母智」は通音で、いにしえから二通りに伝えているが、間違いなく「母智」と書かれたのは上記の文徳実録のみで、他はすべて「牟智」であるから、「持」と書いてある場合でも「むち」と読んでいいだろう。【「智(ち)」は、この記では「遅(ヂ=じ)」とあるから濁音に違いないのだが、「持」と書いた例も多いので、清音で呼んでいたこともあるのだろうか。この清濁は疑わしいところがある。】この名の意味は、師の説によると「『穴(あな)』は『那(な)』の仮名であり、『牟(む)』は『母(も)』の転訛であって、『大名持』が正しい書き方である。一般にいにしえには、名が広く長く聞こえることを誉れとしていたらしく、天皇が宮所を遷したり、子のない皇后、あるいは御子たちは名代の氏を定め、名背(なせ)、名根(なね)、名妹(なにも)などと言い、万葉巻二(110)に『大名兒』などとあるのも、すべて名高いという意味の美称で、人に『なんじ』というのも本来『名持ち』から出た賞め言葉である。だからこの命(みこと)は、天下を造り治めた名が特に秀でていることを『大名持ち』と称したのだ」ということだ。○葦原色許男神(あしはらシコオのカミ)。【「あしはらの」と「の」を補って読むのは誤りである。これは「出雲建(いずもたける)」、「難波根子(なにわねこ)」などと同じ類の名なので、「の」は決して入れずに読む。】「色許」は「醜」と書き、前に「志許米・志許米伎」とあった箇所【伝六の三十九葉、四十葉】で述べたように、普通は憎み罵って言う言葉だが、ここでは勇猛さを賞めて言っている。それも人が畏れるという意味で、あの黄泉の醜女なども、煎じ詰めれば同じ意味になる。【後世に、非常に勇猛な人を「鬼神のようだ」と言うのと同じである。また考えると、今の世で、堅く盛り上がったようなのを「しこり」、「しっかり」などと言う。「色許」はその意味かも知れない。「しこぶつ」という言葉<訳者註:この言葉は意味不明>もある。】頭に「葦原」と付いているのは、天下を支配したからである。【前に述べたように、この世を「葦原の中つ国」と言うのは、天上から見て呼ぶ名だから、この神の名も、もとは天神たちが呼んだ名だろう。】中巻には内色許男(うつしこお)命、内色許賣(うつしこめ)命、伊賀迦色許男(いがかしこお)命、伊賀迦色許賣(いがかしこめ)命などといった名前もある。【どれも「色(し)」の前に「の」は入れない。】孝徳紀にも高田醜(たかたのしこ)【「醜」は「しこ」と読む】という人名がある。○八千矛神(やちほこのかみ)。万葉巻六【四十六丁】(1065)に「八千桙之神乃御世自(やちほこのカミのミヨより)云々」、同巻十(2002?)にも同じように歌っている。これも武威を讃えて、限りなく多くの矛を持っているように言ったわけだ。「千」の意味には、もう一つの考えもある。それは「國號考」の「細戈(くわしぼこ)千足(ちだる)國」の解釈のところで述べてある。○宇都志國玉神(ウツシクニタマのカミ)。「玉」は【借字】御魂である。だから「国御魂」とも言う。この「御魂」は、前述の「宇迦之御魂神」のところで言った通り、国造りに功績があった神を国玉・国御魂と言うのである。【その理由は後に見える。】そのためこの神名は、この神だけでなく、倭大国魂の神【これも大穴牟遲だというのは間違いだ。】高市郡に吉野大國栖御魂(ヨシノのオオクズのミタマ)神社、山城国久世郡に水主坐山背大國魂(ミズシにいますヤマシロのオオクニタマ)神社、和泉国日根郡に國玉神社、摂津国東生(ひがしなり)郡に生國魂(いくたま)神社、兎原郡に河内國魂神社、伊勢国度会(わたらい)郡に大國玉比賣神社、度會乃大國玉比賣神社、尾張国中嶋郡に尾張大國霊神社、遠江国磐田郡に淡海國玉神社、能登国能登郡に能登生國玉比古(のとのいくくにたまひこ)神社、対馬上縣郡に嶋大國魂神社など、それぞれの地方で国造りに功績があった神をこう名付けて祀っている。これらの他にも、国々に国玉神社、大国玉神社というところが多い。どれも同じである。その中には、この大穴牟遲神を祀ったところもあるだろう。「宇都志(うつし)」というのは、この名はもともと須佐之男命が「お前は宇都志國玉の神となれ」と言ったことから来ているからだ。それは根の国にいて言った言葉なので、この世を指して「顕見国(うつしくに:現世)」と言ったのだろう。書紀にも「顯」と書かれている。【あるいは、前に宇都志日金拆命(うつしヒガナサクのミコト)という名もあるから、特別な意味でなく、単に「うつくし」の意味としたのでもあろうかと思ったこともあるが、やはりそうではないだろう。】○「并有2五名1(あわせてみないつつあり)」。五名は、師が「名いつつ」と読んだのこそわが国の言葉遣いである。【ある説に、大和国城上郡の狹井坐大神荒魂(サイにいますオオミワあらたま)神社の五座は、この五名を祀るという。神祇令の令義解(りょうのぎげ)には、「狹井は大神(おおみわ:大物主神のこと)の荒魂である」とある。】書紀では「大國主神、またの名は大物主神、また國作大己貴命と名付け、また葦原醜男とも言い、また八千戈神、あるいは大國玉神と言い、または顯國玉神とも言う。」と七つの名を挙げ、古語拾遺では「大己貴命、一名大物主神、一名大國主神、一名大國魂神」と四つの名を挙げている。この神は、書紀本文では須佐之男命が櫛名田比賣を娶って生んだ子とある。いにしえには、遠祖までを含めて「おや」とい、子々孫々までを「こ」と言ったので、【このことは前述したし、後でも述べる。】これも須佐之男命の子孫の意味であって、それを「御子」と言い伝えたことから紛れたのだろう。【それをこの文にこだわって、八嶋士奴美(やしまじぬみ)命から大國主神まで、すべて同一の神だと説くのは、はなはだしい強弁である。】というのは、この記に各世代の世継ぎははっきり書いてあり、六世の孫であることは明らかだからだ。書紀にも一書には「八嶋篠の五世の孫は大國主神である」と書いてあり、他の一書に「素戔嗚尊の六世の孫が大己貴命である」【これは「子の六世の孫」とあるので、七世のようにも見えるがそうではない。この六世は素戔嗚尊から六世である。】とあり、新撰姓氏録にも「素佐能雄命の六世の孫、大國主」とあって、どの伝えも合致している。

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恋愛や結婚に必要なのは相互の理解か誤解か

「はてな匿名ダイアリー」記事だが、小説を何百冊読むより人間が、特に女性というもの(もちろん、自分はこれとはまったく違うと主張する女性もいるだろうが)が分かる。これほど赤裸々に自分を語れるのは凄い才能だと思う。で、書いてあることは出来事も感情もすべて本物と言うか事実だと思う。
恋愛は男には片手間仕事だが、女には人生そのもののようだ。
ついでに言えば、「理解のある彼君に振られた」のは、相手が完全にこの人を「理解した」からだと思うwww

どうでもいいが、この投稿者の通った大学は関西の大学のようだ。
(以下引用)


(以下引用)

2023-02-13

続・理解のある彼君に振られた。

お久しぶり匿名はてな2021年10月6日投稿してからあれきりだった。(https://anond.hatelabo.jp/20211006231636)久しぶりに見に行くとコメントが多少増えていたので、それへのリプライも含めて久しぶりに長文を書くことにした。この件以来躁鬱病が酷くなり文章もかなり下手になってしまったが、読んでくれる人が少しでもいたら嬉しいと思う。


まずはおさらいだが、発達障害精神疾患持ちの私が大学1回生の夏に当時の彼氏に振られたというのがことの始まり。ちなみにここから私は精神疾患が更に酷くなってしまい、今は当時の約1.5倍の向精神薬とごく稀に睡眠薬を飲む生活をしている。


とりあえずコメントに対するリプライから始めよう。


>嘘松しか思えない。


これは個人的にかなり意外な反応だった。視野が狭いのもあるがこれはメンヘラ界隈(?)ではよくある話だと思っていた。実際超有名な理解のある彼君漫画の作者は彼氏(旦那?)と別れているらしいし、依存している側がされている側に見切りをつけられるというのは男女やジェンダー関係なく一般的だとも思っていた。案外こうやって理解のあるように見える恋人というのは信じがたい存在なのかもしれない。またそれだけ人が欲している存在であるのかもしれないなとは今感じた。


> もう今頃は新しい彼くん作ってよろしくやってるんだろうな。


これに関しては大正解。今は付き合って1年と少しくらいの歳上男性がいる。つまりあんなに病んでいたのにも関わらず、別れてから約5ヶ月足らずで新しい彼くんを作ったのだ。まあもう皆さん予想は付くだろうが新しい彼くんもちゃんと「理解のある彼くん」である。前のようにこちら側の暴力暴言こそないものの、精神疾患発達障害毒親に関して理解があり全肯定ヨシヨシbotのような存在だ。(余談だが、毒親に関してはかなりマシというか良くなったのでもうほとんどトラブルはなくむしろ超良好にやっている。それに20年間かかるというのもどうかと思うが……。)


> 男って可哀そう こんな無価値どころかマイナス価値の女ですら選ばなきゃいけないほど選択肢がないんだね


これに関してもまあまあそうだなと思う。でもなんだかんだで価値としては似たような人間同士が付き合うのでは。その価値ベクトルは違えども。というかこの一件で気付いたが、男性は見た目で女性に近付き中身で離れていく生き物だ。以前のはてなには書いてなかったが、私は付き合った当時はかなり細くて可愛く、メイドカフェバイトなんかで1番を取れるくらいの容姿があったので、恐らくそれに騙されてしまった……のだと思う。


さて、リプライも終わったところであれからの話をしようと思う。かなり長くなると思うので、興味のない人はこのあたりでブラウザバックをお勧めする。


まず当時の彼氏と別れて何を始めたか。それは流行りのマッチングアプリである。え?なんであんなに大好きだった人がいたのにマッチングアプリ?そう思う人もいるだろう。答えは簡単だ。「彼氏がいなくなったから」である。それでも理解できない人もいるだろうが、これの理由簡単だ。まず、彼氏がいなくなったとは私みたいな女にとってどういう状況を指すのかというと「仲間も敵も一人もいない、本物の孤独である友達ともまるで疎遠になってしまい、家族彼氏より下の扱いになってしまっていたので本当に誰も周りにいなかった。物理的にはいもの精神的にはかなり孤独だ。その状況を脱却するにはマジで恋愛以外思い浮かばなかった。友達を作るとか新しいバイト先に勤めるとか家族もっと話をするとか、そんなのはまるで思い浮かばない。ていうか、3年弱恋愛に明け暮れた毎日を送ってしまうと恋愛以外まるで無意味にすら感じてしまうのだ。話を戻すが、マッチングアプリは割と楽勝だった。少し声を明るくして笑顔を振りまき、男ウケしそうな可愛い洋服を着て、かつ女慣れしてなさそうな理系学生だったり男子校育ちだったりする男性相手にするのなんてメイドカフェバイトで散々してきたことだった。そこでまた釣られてしまったのが、今の彼氏通称新・理解のある彼君である。彼もまた進学校育ちの理系国公立大学生で、よくも悪くも育ちが良く差別意識のない好青年だった。身長や顔にも特に見劣りしない。


ここで疑問が生じる人もいるだろう。なぜ、そんな好条件らしい男性が無価値発達精神疾患女と付き合うのか?それは私が「セックスをさせてくれる可愛い女」だからである。実は、マッチングアプリなんかで遊び相手を探そうとか飲み会で隣に座った女を持ち帰ってやろうとか、そういう邪な考えがまるでない男性が極々ごく稀にいるのだ。で、そういう男性は周りのモテ女と付き合えるポテンシャル勇気もないので、私みたいな残念女(のガワ)を可愛がることになってしまう。そしてもっと残念なことに私みたいな「もう優しい男なら誰でも良い」みたいな女も少なからずいてしまうのだ。男はセックスをさせてもらえるし、女は自分を可愛がられることに成功できてしまうし、案外一石二鳥みたいなことになる。結局恋愛セックス依存性が高くビョーキになりやすいということだ。


実際今もメンヘラは治ってないので、新しい彼氏元カノのインスタを監視しまくったり大学出身高校バイト先などの特定に勤しんだりしているが、暴言暴力を振るわないだけかなりマシになった。そういう正常(に見える)恋愛の仕方を教えてくれたのは紛れもない元カレであると思う。ただ別れて1年半経った今でも、それを教えてくれる相手元カレじゃなかったら今日まで元カレと続いていたのかなあとは思ってしまうことがある。私のせいで難関大学に落ちて中堅大学に行ったと書いたが、結局その中堅大学で新しい彼女を見つけてインスタのストーリーにずっと新しい彼女を載せているのを見るとかなり気持ちが沈む。ちなみに私は元カレに全てのSNSから出禁を食らっているので本来は見ることができないはずなのだが、まあこの話は別件になってしまうので話さないでおくことにしよう。


実際、元カレを今でも好きなのか、ただ初めての経験を忘れられてないだけなのかは今でも良くわかっていない。新しい彼氏が出来た後でも、何度か思い出の曲を聴いては泣いた。新しい彼女との投稿を見て吐いたこともあった。ある人にはトラウマになっているだけと言われたが(書いてないがかなり酷い振られ方だった、まあそうなってしまったのは紛れもなく自分のせいなのだけれど)、本当にそうなのかとは正直思う。元カレSNSアイコンが私と行った公園写真のままということだけが、私と彼とを繋ぐ唯一の記憶のような気がして何度も何度も何度も見に行ってしまう。もう向こうは私のことなんて何も思い出さないだろうし……。


あれから知人に聞いた話によると、私は最後浮気未遂をされていたらしい。事実は本人にしかからない。何度も夢の中で談笑したが、いまだにその事実確認だけは出来ない。傷付くのが怖いのだ。傷付くのが怖いから、新しい彼氏をまた見つけて傷付かないようにする。でも多分これはずっと、一生、永遠に繰り返すと思う。恋愛幸せになる手段として使い、そしてその手段のために自分の性を売る。やっていることはまるで売春婦と変わらない。


本当に自分幸せか?と問う日がたまにある。今の彼氏のことは好きだ。あれから友達もできた。バイトもうまくいっている。学業の成績も悪くはない。家族だって良好だ。それでもあの日々に勝るほどの幸福を感じた瞬間はまだない。もしかしてこのまま一生終わるんじゃないか毎日考える。


以上で私の悲しい話は終わり。今読み返すとかなり飛躍した非建設的な話になってしまったが、ずっと思っていたことを吐き出せた分かなりスッキリした。どこの誰が読んでくれたのかは分からないが、ここまで読んでくれた人、本当にありがとう。君と、君を愛する人を大切にね。


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神道とは何か

とある俗流歴史書を読んで古代史の「蘇我・物部戦争」の項のところで、「そもそも日本神道とは何だ?」という根本的疑問が起こったので、調べてみた。
要は、


教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話八百万の神自然自然現象などにもとづくアニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である[5]


自然とは一体として認識され、人間を結ぶ具体的作法祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた[6]



ということのようだ。日本人の自然尊重と、西洋人の自然破壊(収奪)の姿勢の違いの基点はこの辺にありそうだ。その自然破壊は、DNA改変として人体そのものにまで至ろうとしているわけだ。



(以下引用)


神道(しんとう、しんどう[4])は、日本宗教惟神道(かんながらのみち)ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話八百万の神自然自然現象などにもとづくアニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である[5]


自然とは一体として認識され、人間を結ぶ具体的作法祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた[6]

概要[編集]

国産みを描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』(小林永濯画、ボストン美術館所蔵)

神道は古代日本に起源をたどることができるとされる宗教である。宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である[注 1]。伝統的な民俗信仰自然信仰祖霊信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[7][8]。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である[9]


神道には確定した教祖、創始者がおらず[9]キリスト教聖書イスラム教コーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが[5]、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『先代旧事本紀』『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている[10]森羅万象が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神などの祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[11]。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神とともにあるの意)」であるといわれる[12]。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる[要出典]


神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆してきた(神仏習合)。一方で、日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されていた側面もあり[13]、宮中祭祀や伊勢神宮の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた[14]。明治時代には神道国教化を実現するために、神仏分離が行われた[15]


神道と仏教の違いについては、神道地縁血縁などで結ばれた共同体部族など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や救済国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[7]


神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが[16]、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札などの呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[17]

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新たな実存主義の時代

私の子供時代から青年時代は「実存主義」とやらいう思想が流行していたが、それがどういう思想か、私にはまったく理解できなかった。「不条理」とか何とかいうキーワードは耳にしたが、それが人生や社会とどういう関係があるのか、まったく理解の外だったわけだ。
で、今にして思うが、「不条理」とは「理性や合理性の敗北」の意味であり、世界は暴力が支配している、という意味だったと思う。それは、実存主義が第二次世界大戦という、理不尽な暴力が世界を支配した時代に生まれた思想だからだ。しかし、それは暴力の支配が一見終わったかのように見える時代に起こった思想だったから、一般人には「知識人の思想のお遊び」にしか見えなかったのである。
そして今、新たな「暴力の支配」「合理性の敗北」の時代が来ている。新型コロナがそうであり地球温暖化詐欺がそうであり、ウクライナ戦争の拡大がそれである。そのどこにも合理性は無い。理性が無い。暴力の前に理性は無力であり、それこそがかつて言われた「不条理」なのだろう。

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「2+2は4」と言える自由?

「in deep」記事から一部転載。
平沢進の歌の歌詞は面白いが、その感想の一部である「2+2は4だと言えることが自由だ」という意見には私は反対する。それは「2+2は4以外でもありうる」と主張する自由を圧殺する危険な思考だと思うからである。ドストエフスキーが常に「2+2=4」の思考への嫌悪を書いていたように、それはすべての「科学以外の自由」を殺すからである。実際、我々に許容されているのはただ「2+2は4だ」と主張するだけの自由ではないだろうか。そんな自由にどれほどの価値があるのだろうか。そして、科学というのが一種の宗教化したからこそ、「地球温暖化」や「新型コロナ」という地球規模の詐欺が可能になったのではないか。
もちろん、「1984年」の中では非合理的な決まりが強制され、合理的思考が圧殺される全体主義の恐怖を描くために「2+2は4だ」と言える自由を賛美しているわけで、一般化できる話などではないわけだ。


(以下引用)



が……それにしても、最近「ほぼ毎日、音楽家が亡くなる」という状況を鑑みている中で「昔聞いていた曲」というようなものを思い出して聞きます。


その中で、音楽家の平沢進さんが P-Model というバンドで 1979年に発表したアルバムの中の「子どもたちどうも」という曲の歌詞を思い出します。


聴いたのは、私が高校生の時でしたかね。


P-Model 『子供たちどうも』 (1979年) 歌詞
YouTube


どうもどうも 子供たち


パパやママやセンセイやトモダチが
よってたかって 知らん顔で
お前を襲って 踏んづける


もろもろの暴力が
無関心と二重思考が
未来を絞め殺そうとする


よってたかって 知らん顔で
おかげで遺伝子ばらばら


もろもろのウソが
無関心と二重思考が
今日を明日につなげない


うたわなくとも 叫ばなくとも
ただ生きのびて 子供たち
路上をとりもどせ


 


この「二重思考」というのは、もともとジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくるもので、


 


「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」


 


です。


わかりやすいのは、小説の中で、主人公が「2+2は、4といえることこそ自由だ」と述べているのですけれど、拷問の中で、


「2+2は、5にも4にも3にも、なり得る…」


というようになっていくというようなことが説明されています。


マスク、ワクチン、ロックダウンはすべてこのような二重思考の押しつけの中でおこなわれました。


人を助けるという大義名分の中で、それ以上の人が死んでいくという二重思考ですね。


 


これだけで十分に今の社会は「ディストピア」だということがわかります。


パンデミックの最初の頃は、ロックダウン(もちろん緊急事態宣言を含みます)の弊害について書くことが最も多かったです。


 


[記事] 「ロックダウンという名の虐殺」 :英国で新型コロナ「ではない原因」による死者が封鎖の日より急激に増加し、統計開始以来最大の死者数に。私たちは今、国家による大量殺人という現実を世界に見ている
 In Deep 2020年4月22日


 


その後、ワクチンです。


今は完全な 1984年型の社会です。


そんな世の中で謝罪を認めるわけにはいきません。

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聖徳太子の仏教理解

「備忘録として」というブログから転載。
聖徳太子の仏教理解がどのようなものか知りたいので、ネットで調べてみたが、あまり分からない。見つかったのが、この記事である。
私は、物部氏、蘇我氏ら豪族に対抗し、あるいは協力して中央集権を図ったマキャベリストとしての聖徳太子(その子供ではないが、太子の遺志を継いで蘇我氏を滅ぼしたのが中大兄皇子)という話を構想できないか、と思っているのである。物部・蘇我の戦いは仏教伝来と関係するので、太子の仏教理解がどうだったか知りたいわけだ。まあ、読んだことは無いが山岸凉子が「日出ずる国の天子」(「皇子」か「天子」か忘れたが)で描いたのも、そういうマキャベリストとしての聖徳太子だったのではないか。
ついでだが、中大兄皇子が天皇にならず長い間皇太子のまま政治を行ったのは、推古天皇の摂政として政治の中枢にいた聖徳太子の真似だったと思う。つまり、表に立たずにいることで力がむしろ自由にふるえるという政治技法だ。

(以下引用)

法華義疏

2014-11-30 19:36:29 | 仏教

聖徳太子は三経義疏を著わした。三経とは勝曼経、維摩経、法華経であり、義疏とはその注釈書である。法華経を解説した鎌田茂雄の『法華経を読む』も義疏ということになる。日本書紀には、606年に皇太子が推古天皇に勝曼経と法華経を講義したとある。天皇は大いに喜び、(褒美として)播磨国の水田100町を皇太子に施し、因って以て斑鳩寺に納めた。


(推古天皇十四年)秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇大喜之、播磨國水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。


聖徳太子』の中で梅原猛は、三教義疏を読んでそれらが聖徳太子の作品であることを確信したと記す。津田左右吉らの偽書説に対して、三教義疏も読まずにそれらが聖徳太子の作ではないとしていることに痛烈な批判を加えている。梅原猛が依拠するものが花山信勝の訳した『法華義疏』である。先月、神田古書店街で掘り出し物がないかと渉猟していたときに、偶然、彼の本をみつけ衝動買いした。文庫本上下2冊組で、ビニールでカバーされていたため中身も確かめずに買った。家に戻りそそくさとビニールを破り捨て表紙をめくったところ、内容があまりに難解で自分の実力では手に負えず、結局は花山信勝のあとがきだけを読んだ。


本の最初のページに以下の法華義疏冒頭の写真が載っている。”法華義疏第一 此是 大委上宮王私 集非海彼本”とあり、”大和の国の上宮王の私に集まるところ、海の彼(かなた)の本には非ず”と訳される。花山は、”本来、奈良時代の本はほとんどが朝鮮半島か中国大陸からもたらされた。海外の仏教経典の注釈は上宮王である自分のところに集り、その中から自分の意に適した文章を採用し、簡潔にまとめた。”と解し、義疏は聖徳太子自筆とする。



法華義疏については偽書説が盛んであるが、花山は訳本のあとがきで、”法華義疏を読めば読むほど、義疏を書いたのは聖徳太子以外の何人でもありえないと思うようになった”と述べている。花山の示す理由は以下のとおりであるが、法華義疏の著者に習い、一部私意を付け加える。


1.全四巻にわたって行間や余白に細字で加筆、貼り紙、文字の上下入れ替え、返り点、消字など、本書の著者でなければ不可能と考えられる前後連絡のある統一的加筆修正がなされている。字体は欧陽詢(おうようじゅん=557-641年唐の書家)の筆法が加わっているので奈良中期の文字とみられる。貼り紙があるような草稿本が偽書である可能性は低い。


2.法華義疏など三教義疏は、聖徳太子の死後すぐから太子御製として久しく伝承されていた。


8世紀中旬の鑑真は南岳の恵思禅師が上宮聖徳王として生まれ変わり法華経を弘通されたという信念のもと渡海を決意する。鑑真に同伴した弟子の思託(したく)は、『上宮皇太子菩薩伝』を著して、太子が三教義疏を作ったと記し、772年に入唐した日本僧は揚州竜興寺にいた鑑真の遺弟の霊祐大師に上宮王の撰号のある『法華義疏』四巻と『勝曼経義疏』一巻をもたらした。そして唐僧の明空が『勝曼経義疏』に私抄一巻を書き”上宮王 非海彼本”の注釈をした。9世紀に入唐した円仁がそれを写して我が国にもたらした。 (恵思禅師=6世紀に活動した天台宗の二祖。龍樹が開祖)


708年生まれの智光は自著で三教義疏から多くの引用をしているが、その引用文は現存の三教義疏と相違がない。


天平19年(747年)の法隆寺伽藍縁起並流記資材帳に、法華義疏四巻、維摩経疏三巻、勝曼経疏壱巻が記録されている。


3.法華義疏では光宅寺法雲(467-529年)の書いた注釈書である『法華義記』を直接引挙し、また是非するものが多い。その大胆な批判精神と、経文や先人の解釈にとらわれない独自の解釈の発表、簡潔明晰な特徴など、太子のような大人物であって初めて私集できるものである。


「ただし、私に懐(おも)うには」、「ただし疑うらくは---」、「然れども、これはこれ私の意なり」、「しかれども、私意及ばず。ゆえに、記さざるなり」、「しかれども、私意は少しく安らかならず」、「今、私に釈すれば」、「論ぜざるも明らかなり」、「これに例して推すべし」など、自身のことばで解釈を行っている。特筆すべきは、「実に就いて論ずることを成さば(実例に沿って論ずるとすれば)」ということばの多さで、論議が常に実際的立場からなされているのである。


4.法華義疏の中には、少乗の誤字(正は小乗)、身子と真子の混用、舎利弗と舎利仏の混用など他にも誤字や異字があり、漢字が使用され始めた時期の専門僧でない上宮太子こそその著者としてふさわしい。


5.606年の法華経講義の翌年、太子は小野妹子を隋に遣わし、沙門数十人を同伴させ仏法を学ばせ仏典を請来させている。


6.一大乗という法華義疏独自の用語がある。小乗に対する大乗、三乗に対する一乗を合体させた一大乗は、著者の造語であり、他の義疏にない独自の解釈をしている。一大乗は誰もが仏性を持てるという平等思想であり、これはまさに十七条の憲法の10条に通ずる。


7.法華義疏は他の2義疏に言及しているので同一人物が書いた可能性が高く、解釈は勝曼、維摩、法華の順に要を得てくることから、成立年もこの順番だと考えられる。これは日本書紀の年代順に一致する。


8.著者は安楽行品で”山の中で常に坐することを好む小乗の禅師には親近せざれ”と解釈し、そんなことをしていては仏の教えを世間に弘められないではないかと疑問を呈する。これは先人の天台智や法雲の解釈とは真逆であり、著者の解釈が間違っているのだが、僧侶でない仏教で日本の政治を変えようと考える為政者、すなわち聖徳太子のことばであることを証明している。


またまた、聖徳太子の人間性に惚れ込んでしまった。


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