「混沌堂主人雑記(旧題)」の中の混沌堂主人自身の感想や意見の中でよく出て来る「通俗道徳」という言葉が前々から気になっているのだが、その「通俗道徳」がどういうものを指すかの説明を見たことが無いので、勝手に考察してみる。
明らかに混沌堂主人の筆致は「通俗道徳」を唾棄すべきものと見ていると私には思えるのだが、それは「通俗」でない道徳との対比なのだろうか。それとも「道徳」全体の否定なのか。まあ、後者とは考えにくいので「通俗」の否定なのだろう。
では、通俗とはどういうことかと言えば、それは人々の間に浸透しているということだ。つまり、国民の間で大きな効果を持っている道徳が「通俗道徳」だろう。しかし、「通俗」という言葉は「高尚なものではない」という否定的ニュアンスがある。では、その「高尚な道徳」はどういうものか。そしてそれが「通俗道徳」より人々の間で浸透していないなら、どういう意義があるのか。
まあ、語義的な穿鑿(詮索、と言うべきか)はほどほどにして、一般的に「否定的な意味で通俗と見られる道徳」とはどのようなものかと想像してみる。
すぐに思いつくのは明治期以降の「立身出世」と結びついた功利主義的「人生訓」である。「身を立て、名を上げ、やよ励めや」である。こうした人生訓は「道徳」とされがちだ。しかし、これは「競争主義」の肯定であり、他者を蹴落とすことで勝者になれ、ということを、その負の面を隠して立言しているわけである。そうした立身出世主義の空しさを今の若者の多くは言わず語らずのうちに知っているのではないか。
では、それ以外の「通俗道徳」が社会にもたらす害悪は何か、と考えてみると、なかなか想起できない。たとえば、封建道徳の柱である「仁・義・礼・智・信」のどれも人間として身に付け、他に及ぼすべき立派な道徳であり、それが身に付いた人間は社会の宝だろう。特に「仁」すなわち「仁慈」の欠如が社会をいかに冷酷無残なものにするかは言うまでもない。ほとんどすべての国の悲惨は社会と政治の「仁慈」の欠如によるのである。
つまり「通俗道徳」を否定するなら、その何が問題なのかを明確にしないと、それは「道徳」全体の否定となり、社会をこれまで以上に悪化させかねない、ということをここで提言しておく。
(追記)「ネットゲリラ」コメント欄で、新常連の「猫トイレ清掃係」氏のコメントの一部にこういう記述があって、「宗教と道徳」ということについての考察を少し追加しておく。先に、そのコメントを引用するが、猫トイレ清掃係氏が本当にアメリカ(長期)滞在経験があるかどうかは知らない。
人種を問わずアメリカ人っておとなしくて控え目で真面目なヒトが多いと思う。ちょっとこれは日本にいるだけでは分らないと思う。自由競争は多数の敗者を生むわけだが、アメリカの負け組はこのような感じである。まープロテスタンティズムという奴隷道徳の賜物であるなw
ということで、何を私が問題にしているかというと、この中の「プロテスタンティズムという奴隷道徳」という部分である。ニーチェはキリスト教自体を奴隷の宗教だと言ったと思うが、ここでなぜ清掃係氏が「プロテスタント」と限定したのかが気になるわけである。
言うまでもなくニーチェの言は「キリスト教徒は神の奴隷であることを恥じもしない」ということだろうが、そういうことならすべての宗教は教祖か神か仏の奴隷だろう。ただ、禅宗だけは自己の悟りだけが目的であり、教祖や仏を格別尊びはしないと私は認識している。
ちなみに、カソリックは「宗徒が教会の奴隷」という状態が非常に長い間続き、それが西欧の「中世の暗黒」の根本原因だったと私は見ている。そして、新興宗教の多くも、宗徒が教団の精神的奴隷である、というように外部の人間からは見えるのである。これは統一教会を見れば歴然としている。
で、道徳の面から言えば、宗教をバックにした道徳のほうがはるかに有効性が高い。当たり前の話で、宗教はその指示する道徳を守ることや違反することに対する賞罰があるが、普通の道徳には個人の内面的反省や後悔以外に賞罰は無いからである。もちろん、他人の目に触れた善行には賞賛もあるだろうが、賞賛目当ての善行は偽善的で気持ち悪いというのが普通の感覚だろう。という事は、逆に我々の心には「正しい人間はかくあるべし」という道徳律が自然に、あるいは社会的影響で存在しているということだろう。果たして、これは排除すべき「通俗道徳」なのだろうか。
明らかに混沌堂主人の筆致は「通俗道徳」を唾棄すべきものと見ていると私には思えるのだが、それは「通俗」でない道徳との対比なのだろうか。それとも「道徳」全体の否定なのか。まあ、後者とは考えにくいので「通俗」の否定なのだろう。
では、通俗とはどういうことかと言えば、それは人々の間に浸透しているということだ。つまり、国民の間で大きな効果を持っている道徳が「通俗道徳」だろう。しかし、「通俗」という言葉は「高尚なものではない」という否定的ニュアンスがある。では、その「高尚な道徳」はどういうものか。そしてそれが「通俗道徳」より人々の間で浸透していないなら、どういう意義があるのか。
まあ、語義的な穿鑿(詮索、と言うべきか)はほどほどにして、一般的に「否定的な意味で通俗と見られる道徳」とはどのようなものかと想像してみる。
すぐに思いつくのは明治期以降の「立身出世」と結びついた功利主義的「人生訓」である。「身を立て、名を上げ、やよ励めや」である。こうした人生訓は「道徳」とされがちだ。しかし、これは「競争主義」の肯定であり、他者を蹴落とすことで勝者になれ、ということを、その負の面を隠して立言しているわけである。そうした立身出世主義の空しさを今の若者の多くは言わず語らずのうちに知っているのではないか。
では、それ以外の「通俗道徳」が社会にもたらす害悪は何か、と考えてみると、なかなか想起できない。たとえば、封建道徳の柱である「仁・義・礼・智・信」のどれも人間として身に付け、他に及ぼすべき立派な道徳であり、それが身に付いた人間は社会の宝だろう。特に「仁」すなわち「仁慈」の欠如が社会をいかに冷酷無残なものにするかは言うまでもない。ほとんどすべての国の悲惨は社会と政治の「仁慈」の欠如によるのである。
つまり「通俗道徳」を否定するなら、その何が問題なのかを明確にしないと、それは「道徳」全体の否定となり、社会をこれまで以上に悪化させかねない、ということをここで提言しておく。
(追記)「ネットゲリラ」コメント欄で、新常連の「猫トイレ清掃係」氏のコメントの一部にこういう記述があって、「宗教と道徳」ということについての考察を少し追加しておく。先に、そのコメントを引用するが、猫トイレ清掃係氏が本当にアメリカ(長期)滞在経験があるかどうかは知らない。
人種を問わずアメリカ人っておとなしくて控え目で真面目なヒトが多いと思う。ちょっとこれは日本にいるだけでは分らないと思う。自由競争は多数の敗者を生むわけだが、アメリカの負け組はこのような感じである。まープロテスタンティズムという奴隷道徳の賜物であるなw
ということで、何を私が問題にしているかというと、この中の「プロテスタンティズムという奴隷道徳」という部分である。ニーチェはキリスト教自体を奴隷の宗教だと言ったと思うが、ここでなぜ清掃係氏が「プロテスタント」と限定したのかが気になるわけである。
言うまでもなくニーチェの言は「キリスト教徒は神の奴隷であることを恥じもしない」ということだろうが、そういうことならすべての宗教は教祖か神か仏の奴隷だろう。ただ、禅宗だけは自己の悟りだけが目的であり、教祖や仏を格別尊びはしないと私は認識している。
ちなみに、カソリックは「宗徒が教会の奴隷」という状態が非常に長い間続き、それが西欧の「中世の暗黒」の根本原因だったと私は見ている。そして、新興宗教の多くも、宗徒が教団の精神的奴隷である、というように外部の人間からは見えるのである。これは統一教会を見れば歴然としている。
で、道徳の面から言えば、宗教をバックにした道徳のほうがはるかに有効性が高い。当たり前の話で、宗教はその指示する道徳を守ることや違反することに対する賞罰があるが、普通の道徳には個人の内面的反省や後悔以外に賞罰は無いからである。もちろん、他人の目に触れた善行には賞賛もあるだろうが、賞賛目当ての善行は偽善的で気持ち悪いというのが普通の感覚だろう。という事は、逆に我々の心には「正しい人間はかくあるべし」という道徳律が自然に、あるいは社会的影響で存在しているということだろう。果たして、これは排除すべき「通俗道徳」なのだろうか。
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