平沢進の歌の歌詞は面白いが、その感想の一部である「2+2は4だと言えることが自由だ」という意見には私は反対する。それは「2+2は4以外でもありうる」と主張する自由を圧殺する危険な思考だと思うからである。ドストエフスキーが常に「2+2=4」の思考への嫌悪を書いていたように、それはすべての「科学以外の自由」を殺すからである。実際、我々に許容されているのはただ「2+2は4だ」と主張するだけの自由ではないだろうか。そんな自由にどれほどの価値があるのだろうか。そして、科学というのが一種の宗教化したからこそ、「地球温暖化」や「新型コロナ」という地球規模の詐欺が可能になったのではないか。
もちろん、「1984年」の中では非合理的な決まりが強制され、合理的思考が圧殺される全体主義の恐怖を描くために「2+2は4だ」と言える自由を賛美しているわけで、一般化できる話などではないわけだ。
(以下引用)
が……それにしても、最近「ほぼ毎日、音楽家が亡くなる」という状況を鑑みている中で「昔聞いていた曲」というようなものを思い出して聞きます。
その中で、音楽家の平沢進さんが P-Model というバンドで 1979年に発表したアルバムの中の「子どもたちどうも」という曲の歌詞を思い出します。
聴いたのは、私が高校生の時でしたかね。
P-Model 『子供たちどうも』 (1979年) 歌詞
YouTubeどうもどうも 子供たち
パパやママやセンセイやトモダチが
よってたかって 知らん顔で
お前を襲って 踏んづけるもろもろの暴力が
無関心と二重思考が
未来を絞め殺そうとするよってたかって 知らん顔で
おかげで遺伝子ばらばらもろもろのウソが
無関心と二重思考が
今日を明日につなげないうたわなくとも 叫ばなくとも
ただ生きのびて 子供たち
路上をとりもどせ
この「二重思考」というのは、もともとジョージ・オーウェルの小説『1984年』に出てくるもので、
「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」
です。
わかりやすいのは、小説の中で、主人公が「2+2は、4といえることこそ自由だ」と述べているのですけれど、拷問の中で、
「2+2は、5にも4にも3にも、なり得る…」
というようになっていくというようなことが説明されています。
マスク、ワクチン、ロックダウンはすべてこのような二重思考の押しつけの中でおこなわれました。
人を助けるという大義名分の中で、それ以上の人が死んでいくという二重思考ですね。
これだけで十分に今の社会は「ディストピア」だということがわかります。
パンデミックの最初の頃は、ロックダウン(もちろん緊急事態宣言を含みます)の弊害について書くことが最も多かったです。
[記事] 「ロックダウンという名の虐殺」 :英国で新型コロナ「ではない原因」による死者が封鎖の日より急激に増加し、統計開始以来最大の死者数に。私たちは今、国家による大量殺人という現実を世界に見ている
In Deep 2020年4月22日
その後、ワクチンです。
今は完全な 1984年型の社会です。
そんな世の中で謝罪を認めるわけにはいきません。