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正しい尻の拭き方は習ったか

そのうち、「正しいガッツポーズはこうだ!」「正しい鼻の孔のほじりかたはこうだ」とか言われるようになるのではないかwww
なお、私は尻の拭き方は誰にも習っていないが、前から後ろに拭かないと不衛生だろう、と常識的に判断している。



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戦後すぐの国会解散時の万歳はこう。「万歳のとき手のひらは内向きに」というのは1990年以降に始まった、新しい作られた(偽の)伝統なので「正しい万歳の作法は内向き」とか言ってる奴は偽書にまんまと騙されたアホなのでアホとして見守ってやりましょう








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「存在の意味は時間である」の意味

筒井康隆の「誰にもわかるハイデガー」を読了したが、思考素材として面白い。まあ、「存在と時間」というハイデガーの代表的著書の解説だが、確かにかなり分かりやすく解説している。
ただ、巻末付録の大澤真幸による補足的解説によると、「存在と時間」はハイデガーが書く予定だった内容の半分も書いていないらしく、本題の「存在と時間」そのものについてはほとんど触れていないようだ。そして、その根本的な狙いは「存在の意味は時間である」というテーゼを証明するところにあったらしい。だが、それに触れる前にこの著書は未完のまま終わったという。
この、大澤真幸の解説もかなり興味深いもので、私の印象で言えば、結局は「存在と時間」という書物はキリスト教的な意識がその根底にある、「キリスト教哲学」ではないか、と思われる。つまり、終末論的な見地から人生の意義や倫理の根拠を探そう、というものではないか。簡単に言えば、「死を見つめることで生の意味を考える」ということで、要するにキリスト教世界で昔から言われてきた「メメントモリ(死を忘るな)」を土台にした哲学だろう。要するに、キリスト教倫理学だ。

まあ、死を土台に置いて人生の意義を考えるというのはべつにキリスト教の専売ではないと思うし、たとえば「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」など、まさに死を前提とした人生哲学で、ただそれが武士だけに限定されているだけだ。
しかし、死を直視することで生きることの苦難を克服するというのは武士ではなくとも可能だろうし、仏教の偉大な僧なども、始祖の仏陀をはじめ、「生病老死」の四苦の精神的克服が人生の課題だったわけだ。武士などは、まさに「いつどこで死ぬことになるか分からない」という、死の本質に向かい合うこと自体が生きる覚悟であったわけだ。
現代の人間でも、たとえば癌などで余命宣告された人間が実に穏やかにその運命を受け入れて死んでいったという事例は多いはずである。それこそ、偽宗教家には真似のできないことである。

いろいろと考察したいことはあるが、「存在の意味は時間である」というテーゼについてだけ考えてみる。では、空間はどうなるのだ、と誰でもすぐに疑問を持つだろうが、このテーゼ自体は正しいと思うし、むしろ空間を排除したところに私は面白さを感じる。
もちろん、一般的な存在というのは空間的存在だ。だが、すべての存在が空間的というわけではない。つまり、非空間的な存在を含めるなら、むしろ「存在とは時間的かつ空間的なものだ」と言うほうが誤りだろう。たとえば、我々の想念というのはまったく非空間的なものだ。では、それは存在しないか、といえば、立派に存在しているのである。しかも、ひとつの想念は次々に新たな想念を生んでいく。我々の頭はまさに無数の想念が生起し存在しているのだ。
或る想念が生じたために、別の想念が生まれるというのは、まさに我々の頭脳、あるいは心の中で想念の「縁起」がほとんど無限に続いているということであり、その中には我々を善に向かわせる想念もあれば悪に向かわせる想念もある。まさしく、我々は自分で自分の心の中に善の種や悪の種を植えているのである。
では、「存在の意味は時間である」というテーゼそのものはどういうことか。
まあ、単純に、「或るものが生じて、それが消滅するまでを存在と言う」という解釈でいいのではないか。それは、時間の経過を必然的に伴い、また変化を特性とする。
そこからまた何かの哲学が導き出せそうだが、ここで筆を止めておく。


















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追悼吾妻ひでお

なかなか貴重なコラボなので転載しておく。合掌。
ひばりくんの絵が、江口オリジナルのタッチを残した吾妻ひでおの絵であるのがいい。

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4年前のトークショーの時に吾妻先生と合作した絵。

















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昔は金持ちが葉巻を吸い、今は貧乏人が葉巻を吸うwww

「ネットゲリラ」からの転載だが、紙巻きたばこというのは実は巻いてある紙が燃えることで有害物質が出るという話も聞いたことがあるような無いような、ぼんやりとした記憶があるのだが、まあ、煙草そのものがニコチンやタールを出しているのは間違いない。美味さという点では紙巻きたばこよりもむしろシガリロのほうが美味いのではないか、と、吸った経験は無いのだが想像する。私は気管というか、喉が弱いので煙草をあまり吸えないが、好きなだけ吸えたらいいな、といつも思っている。煙草を吸う時の、あの悠然とした平和な気分は、「簡便な禅」だといつも思っている。




安煙草は葉巻に

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相次ぐタバコの値上げで、このところ急に出て来たのがミニシガーの煙草で、紙の代わりに煙草の葉で巻いてあるわけです。ミニシガーというと高級品みたいだが、紙巻たばこより安いのが取柄で、だからエコーやわかばまでもがコレになった。何で安いのかと言うと、税制の違いからです。紙巻きは一本幾らで税金がかかるのに対して、葉巻はグラム単位の課税です。結果として、一本あたりでは葉巻にした方が安くなる。葉巻といっても、葉を加工して巻きやすくしているので、紙巻きと変わらない。むしろ紙臭さがなくて、味は向上しているようだ。北海道限定だが、ゴールデンバットも出ているらしい。



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注文の多い居酒屋

実に気持ち悪い店であり、この貼り紙でそういう店主の店であることが分かったのは良かったのではないか。
自分の店でどんな独自ルールを作ろうが構わないが、一見の客がうっかり入ったら、最悪の体験をすることになる。まあ、この貼り紙を外に出しているならむしろ客への親切だろう。これで店主の理想とする店になり、繁盛もするのかどうか、成り行きに注目だ。
最近、この類の、「お客様は神様じゃねえ」と主張する店が居酒屋などに増えてきたのか、一部の店が目立っているのか知らないが、居丈高な店に文句も言わず通う客も客である。マゾヒストか。





その他

笹塚の居酒屋に貼ってあった。 めんどくせぇもう行かねえよ


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    「存在と時間」

    筒井康隆の「誰にでもわかるハイデガー」という本を市民図書館で見かけて、出来心で借りてきて少し読んだのだが、その中に引用されているハイデガーの文章が面白いので、転載する。
    先に注意しておけば、この中の「現存在」とは人間を意味するらしい。そういう前提で読めば、書かれた内容は汲み取れると思うが、私が面白いと言うのは、事象を厳密に論じようという意志の下で書かれた文章が、なぜこれほど複雑怪奇な文章になるのかということだ。いや、複雑怪奇とは言っても、下の引用文自体は、論じている事柄は単純なのである。仮に、「現存在」という語を「人間」に置き換えたら、それだけで簡単に了解されるのではないか。
    要するに、私は、こういう文章を書こうとする精神の在り方そのものが面白いのだろう。いわば、マルクス兄弟のグルーチョ・マルクスの言動を見るのが面白いのと同様だ。


    (以下引用)強調の傍点は省略。


    「現存在は、他の存在者のあいだで出来するにすぎない一つの存在者ではない。現存在が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、現存在のこうした存在機構には、現存在がおのれの存在においてこの存在へと態度をとる或る存在関係をもっているということ、このことが属している。しかもこのことは、これはこれで、現存在が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解しているということにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身に開示されているということである。存在了解内容はそれ自身現存在の一つの存在規定性なのである。現存在が存在的に際立っているということは、現存在が存在論的に存在しているということによる」。

    (夢人追記)私は、この本をここまでしか読んでいないが、私が浮遊思考のネタにしたいのはこのハイデガーの文章自体なので、この文章を解読してみる。まず、最初に書いたように、「現存在」とは人間のことだ、ということなら、上記文章はおおよそ次のように書き換えられる。


    「人間は、他の存在者とのあいだで出来するにすぎないひとつの存在者ではない。人間が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身(自分自身)へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、人間のこうした存在機構には、人間がおのれの存在においてこの存在(自分自身)へと態度をとる或る存在関係をもっているということ、このことが属している。しかもこのことは、これはこれで、人間が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解していることにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身へと開示されているということである。存在了解内容はそれ自身人間の一つの存在規定性なのである。人間が存在的に際立っているということは、人間が存在論的に存在しているということによる」。

    まあ、これだけでもかなり分かりやすくなり、「成る程」と思うところもあるだろうが、疑問も出てくる。はたして、人間とはそんな高級なものか、という疑問だ。その辺のDQNも精薄もそんな大層なものか、と疑問に思うのは私だけか。
    そこで、「現存在=人間」という解釈は実は間違いであった、という仮説をここで提出しておく。その根拠は、「現存在」と「(他の)存在者」が使い分けられていることだ。
    要するに、現存在とは人間一般ではなく、「知的探求をする人間」要するに「哲学者」だ、というのが私の解釈である。つまり、この「存在と時間」が二十世紀最高の哲学書だとされたのは、これが哲学者の知的虚栄心をくすぐる書物だったからだ、というのが私の説であるwww

    後で、その方向で上記の引用文を書き直してみる予定である。


    (夢人追記2)

    「哲学者は、他の存在者とのあいだで出来するにすぎないひとつの存在者ではない。哲学者が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在において自分自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである。だが、そうだとすれば、哲学者のこうした存在の在り方には、哲学者がおのれの存在において自分自身へと態度をとる或る存在関係をもっているということが含まれる。しかもこのことは、哲学者が、なんらかの仕方で表立っておのれの存在においておのれを了解していることにほかならない。この存在者に固有なのは、おのれの存在とともに、またおのれの存在をつうじて、この存在がおのれ自身へと開示されていることである。存在了解内容はそれ自身哲学者の一つの存在規定性なのである。哲学者が存在的に際立っているということは、哲学者が存在論的に存在しているということによる」。


    念のために言うが、私はここに書かれた内容を馬鹿にしているわけではない。哲学者と書いたのは、要するに、意識的かつ論理的に考えようとする人間の意味であり、子供の中にも哲学者はいる。そして、存在了解内容がそれ自身存在規定性である、というウロボロスの蛇のような命題は魅力的だと思う。
























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    給食からカレーを追放すれば問題は解決?

    藤子不二夫は例の事件を予見していた?





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    ドラえもんのび太の目からカレー







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    空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
    それだけで人生は生きるに値します。

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