忍者ブログ

DSは実は追い詰められている?

副島隆彦の「学問道場」記事のほんの一部で、全体は非常に長文だが非常に散漫な内容で、話があちこちに飛ぶ。で、下の部分はかなり重要性が高い「今後の予測」であるので、転載する。ただし、副島の予測は単なる願望でしかないかもしれないので、「徽宗皇帝のブログ」ではなく、こちらの「趣味ブログ」「妄想ブログ」に載せる。www

(以下引用)私が強調のために赤字にした部分が、この引用部分のキモで、楽観的な予測だが、ネットで「世界の真実」がどんどんバレているのは事実だから、この予測も当たる可能性は案外高いかもしれない。


 だから今のイスラエル国民の中にもパレスチナ人の中にも、双方が停戦( cease-fire シース・ファイア)して、戦争をやめて、2国家共存で仲良くする、という考えの人々が多数派として存在するのである。私たちは、この勢力を応援しなければいけない。このことの説明が日本国でまったくされない。


だから、前述したこの3月10日の大きな動きである、中国が仲裁したイランとサウジアラビアの国交回復(仲直り)が、これからも何があろうが、中東アラブ(イスラム教)世界全体で、進んでいくのである。だから、私、副島隆彦があえて言います。


あんまり心配するな。もうアラブ人も、ユダヤ人も、戦争や戦乱を望んでいない。だからあえて、この中東地域(region  リージョン)に、歴史的に、戦争を持ち込もうとする英と米が非難されるべきだ。 英と米の超(ちょう)財界人と軍需産業からなるディープステイト the Deep State の邪悪な連中の動きをこそ、私たちは注視し睨(にら)みつけるすべきだ。


 このことを(1)中国の習近平も、(2)ロシアのプーチンも、そして(3)アメリカのトランプ大統領を支持する勢力も、よーく 分かっている。だから私たち日本からも、この大きな動きを支持し、賛同しなければいけない。今、追い詰められているのは、いつも世界中で戦争を起こさせようと、画策する、英米のディープステイトである。もう、世界中で、こいつらの悪だくみはバレて露見してしまっている。この今の世界歴史の大きな動きを、私たちは、見誤ってはならない


 他のアラブ諸国の指導者たちもこの大きな動きをよくよく分かっている。だから、ガザ戦争と、まったく同じ時期に、北京で開かれた「一帯一路(いったいいちろ。One Belt, One Road Initiative, OBOR ワン・ベルト・ワン・ロード・イニシアチブ )の国際フォーラム」(10月18日)に、150カ国の政府の代表団(デレゲイツ)が集まった。


 


ロシアのプーチン大統領も参加した。「各国首脳は、今年の一帯一路に、23人しか集まらなかった。去年は37人が来たのに」と、西側(the West =G7 =ディープテイト)は、すぐに悪口を言う。だが、150カ国の政府の外交部の代表(デレゲイツ)が集まったのだ。日本からの、鳩山由紀夫(はとやまゆきお)元首相が出席した。だが、日本政府は、G7の西側(デープステイトの惨めな子分)だから代表を送らなかった。
 このように世界は、どんどん中国を中心に動き出している。


ということは、今の国連(The UN ザ・ユーエヌ。正しくは連合諸国=ユナイテッド・ステイツ。加盟国は193カ国)をいいように動かしている英米の白人指導者たちに対して、一体、どっちが本当の国際機関か、と問えるのである。世界中の民衆と、世界の大勢は、もう大戦争(ラージ・ウオーlarge war )を望んでいない。 世界から戦争と地域紛争を無くしたい、


 だが追い詰められた英米の超財界人たち(ディープステイト)は、これからも、まだ、何をするか分からない。核戦争の可能性にまで私たちは注意を続けなければいけない。このことは、日本でも行われた、2020年の1月からの、コロナウイルスと、それに続く、危険なワクチンの強制(2021年の3月から始まった。まず医療関係者、それから老人たちに接種した)による、日本国民殺しの動きとも関連する。


 それから、大国である、フランスとドイツの動きでである。フランスは、つい最近、200年間に渡って、アフリカの赤道地帯を植民地にしていた。だが、遂(つい)に、この地域(リージョン、region レジオン)から、撤退した。 ニジェールという国にいたフランス大使と400人のフランス外人部隊 が、9月に撤退した。これが象徴的だ。


フランスはアフリカ諸国54カ国(AU。African Union アフリカ連合)への関与をあきらめて、投げ捨てて、今後は、自分の利益としてのアフリカの天然資源を奪い取る(搾取する)ことを諦めた。マクロン大統領が〇月〇日に宣言を出した。

拍手

PR

日本の農業はどうするべきか

「紙屋研究所」最新記事の冒頭部分である。
私は「紙屋研究所」のそれほど熱心な読者ではないし、日本共産党支持者でもない(好意的ではあるが、マルキシズム以前の社会主義こそ本当の社会主義という私から見れば、そもそもマルキシズムが「社会主義として異端」という考えである。)が、ここに書かれた内容には同感する。日本の農業について私がこれまで書いてきた内容にも通じると思う。

(以下引用)




『最新版 図解 知識ゼロからの現代農業入門』


 日本の農業をどうしたらいいんだろうか。


 福岡市でもちょうど高齢化した農家が世代交代の時期となり、田んぼがどんどん消えて宅地に変わっていっている。自分の近く、目の前でそうした現実を見せつけられる。素朴な素人感覚で申し訳ないが、そういう事態が進行していってこのまま日本の食料は大丈夫なのかという思いに駆られるのだ。


 




福岡市内を流れる川と田んぼと宅地

 知り合いの農学者が2050年にむけた日本農業の政策提言を考えていて、それを見せられる機会があった。食料が足りなくなるという危機意識をもとにいろんな方策が書いてあるのだが、水田は畑と違っていったん宅地にすると元に戻すのが難しいということや、ひこばえを使った収量の増加などは興味を惹かれた。


www.agrinews.co.jp


 他方で、物価高騰である。日々ぼくらが買う食べ物は、輸入にモロに影響を受ける構造なんだとなあという現実を嫌というほど示してくれた。


 ぼくが今のところ考えているのは、結局食料の生産+国土保全機能をあわせた死活的な役割を農業が担っていることを公に認めて、そこに税金を支出して支えるということである。


 ビジネスを支えるのではなく、農業+国土保全機能(田んぼ・水路・里山などを維持する)をやってくれる多様な担い手の生活を支えるために、お金を払うということだ。一種の公務員とみなすつもりで。


 共産党の提言を見ると、農業所得に占める政府補助金の割合は、スイス92.5%、ドイツ77%、フランス64%にに対し、日本が30.2%にすぎないという。


 「農業なら生活ができる」という見通しを持ってくれれば、担い手は増やしやすい。大きな法人や組織体だけでは限界があるし、農業は日本(の国土)のごく一部しか占めないものになってしまうだろう。



拍手

欧米の没落の根底にはモラルの喪失がある

「隠居爺の世迷言」から記事後半を転載。前半も面白いし、その方がむしろ「酔生夢人ブログ」向きかもしれないが、後半の記事の中にはなかなかの卓見があるというか、表現しにくいものを見事に表現していると思うので転載する。


強盗だけをして身を立てていくことはできない



というのは、実に至言である。世間の馬鹿が勘違いをしやすいのもそこである。犯罪行為は、一生を犯罪者(前科者)として生きることが必然的に起こる重大な決断なのである。アメリカはまさにそうなっている。(ただし、経済犯罪は、その刑罰が異常に軽く設定されているため、経済犯罪を重ねて大物になることも可能なようだ。まあ、犯罪とまではいかなくても不道義がかなり伴うものである。だから、儒教的な人間序列が「士農工商」なのである。商取引は、常に不道義と利益の相克だ。)


(以下引用)


 そうやって改めて眺めてみると、欧米は、政治でも、経済でも、軍事力でも、技術力でも、文化でも、豊かさでも、道徳でも、すっかり劣化してしまった。いや劣化したというよりも、他国と比較して相対的に優位性を失ったのだろう。

 欧米が地盤沈下してきたのは、欧米以外の国が発展してきたことが原因になる。欧米の製品でほしいと思うものはもうさしてないだろうなあ。日本で最後に売れた欧米製品はiPhoneだろうけれど、そのあまりの価格の高さに私などにとってはもはや非現実的なものになった。つまり、現段階で欧米は世界から必要とされる存在ではなくなったといえる。

 ところが、それでは困るというのが欧米の立場になる。特にアメリカは世界の覇権を握っていると思いこんでいる国であるために始末が悪い。自分たちが支配的な存在でなくなったことを受け入れられない。実力もないくせに格好をつけて空威張りをしようとする。

 欧米の一番欲しがっているものは昔から一貫して"金(カネ)"になる。世界の覇権を握っている証として、自分たちは世界一の裕福で贅沢な暮らしをするべきと考えており、そのためには金が必要になる。しかし、現在の欧米は真面目に働くことで人並み以上の金を稼げる能力を失っている。

 ならばどうするか。3つの選択肢がある。1つ目は、新たな発明なり発見なりによって、他国以上に儲けられる産業を創設すること。2つ目は、犯罪的な手段を用いて、強引に他人の富を略奪すること。3つ目は、そのままズルズルと貧困に落ちていくことになる。

 1960年代を中心としてアメリカが順調に成長していた頃は、第1の方法で国を維持していた。例えば自動車産業、鉄鋼産業、住宅産業、宇宙産業など。このようなときのアメリカは鷹揚で付き合いやすい魅力的な国だった。

 しかし、近年コンピュータ産業の成長が一段落してしまうと、アメリカには売るものがなくなってしまった。そして、それをカバーしようとして犯罪に手を染めるようになり、今のアメリカに至る。人間苦しくなってくると、自殺する者、路上生活者になる者、精神異常になる者などが現れてくるが、中には犯罪者になる者も生じる。アメリカの場合は国そのものが犯罪者になった。

 最近のアメリカの犯罪は、まず4年近く前に新型コロナ騒動を起こし、不良品のワクチンを売りつけるところから始まった。不良品を売りつけるのだから、その儲けは大きい。大昔、イギリスが中国にアヘンを売りつけたのと同じようなものだ。

 次いでアメリカが始めたのが戦争ビジネスになる。アメリカは以前から戦争ビジネスに熱心な残虐な国だったけれども、騙しも騙し、ペテンもペテン、詐欺も詐欺というロシア・ウクライナ紛争を始めた。もちろん詐欺だけで終わらせるつもりはなく、ロシアという国ごと強奪することが最終目標だった。

 しかし、アメリカにとっては残念なことに、他の国にとっては幸いなことに、計画はものの見事に失敗に終わった。アメリカは振り上げた拳の行き場に困り、急遽イスラエルでの戦争に変更した。そんなやっつけ仕事をしていては、成功することは難しいだろう。

 それにしても、こうやって整理してみると、文化というものが実に大切なものであることが分かる。人々を支配したり、コントロールするためには飴と鞭が必要になってくるが、その飴が文化になる。その魅力で人々を引きつけ、納得させ、引っ張っていく。大航海時代においては、宣教師がその役割をになった。キリスト教は先進文化そのものだったから。

 そして、人間社会をまとめるためには、残念なことに鞭も必要になるらしい。つまり"軍事力"になる。そのことは戦争嫌いの私も渋々認めざるを得ない。どうも人間というものは、そこにお宝の山があった時に、一番強い奴がそれを独り占めし、残りの者はおこぼれにしかありつけないというあり方が好きらしい。

 それでは、軍事力が世の中を決めていく全てかと、逆の問いを発するとそうではないことが分かる。軍事力だけが強くても何の役にも立たない。その理由を考えると、お宝を奪うためには軍事力が必要であっても、強盗だけをして身を立てていくことはできないからだ。この点に関しては日本人も誤解してしている人が多い。

 富を運用して増やす、自分でも生産をする、より効率的な生産手段を開発する、他国と交易をするなどのことによって、はじめて国全体を豊かにすることができる。現在のアメリカはそこで失敗している。あまりにも軍事力や、詐欺などの犯罪的手法に頼りすぎるようになった結果、国が傾いてきてしまった。

 額に汗して働くということは、現代の世の中にあっても、最も基本であり正統派の考え方であるといえる。それを忘れてしまうと、アメリカのように世界中に出かけていって不要な戦争を仕掛け、詐欺で騙し、それでありながら自国が沈んでいくことになってしまう。


 


 以上常識的なことを書いたつもりでいる。常識の欠点に、常識ばかりに囚われていると飛躍ができない、発展性に乏しいということがある。どこまで常識に沿うか、どこで常識から外れるかの判断は、結果が出るまでその成否が分からない。

 ただし、アメリカは明らかに常識から外れすぎて失敗しており、また、日本の総理大臣も逐一挙げるのが面倒なほどの非常識ぶりを発揮している。欧米と一緒に沈んでいく気満々といったところだろうか。

拍手

「素晴らしい新世界」への道

「陛下、わたしがこの島をまかされるとすれば
「その国家では、万事この世の中とは逆にしたいと思います。
まず、取引はいっさい認めません。
官職は廃し、学問はひろめず、
裕福と貧乏の差をなくし、
したがって奉公というものもなくなるわけです。
契約、相続、境界、領地、田畑などなくし、
所有権をめぐる相続問題も起こらなくなります。
金属、穀物、酒、油などの使用を禁じ、
職業はなにもなくなります。
男はみんな遊んで暮らします。女もです。
ひたすら無心に、清純に生きるのです。
君主権もなくしますーーー
「暮らしに必要なものは、自然が産み出してくれます。
人間が汗水流して働くことはありません。
そうなれば、反乱も犯罪もなく、
剣、槍、短刀、銃砲などの武器も、無用の長物となります
大自然は、ひとりでに、ゆたかに限りなく五穀を実らせ、
幼子のように無心に遊ぶ人々を養ってくれるでしょう」

(シェークスピア「テンペスト」より。小田島雄志による小説化)

拍手

「隠居爺」氏の明治維新否定論への反論

「隠居爺の世迷言」(毎度言うが、この「よまいごと」という言葉の響きはいい。「迷子」を「まよいご」とは言わないで「まいご」と言うのと同じである。)記事の一部で、長文なので話の枕部分は省略した。
ただし、ここに引用したすべての意見に同意するわけではない。私は司馬遼太郎というのは日本には稀な論理的思考を持った人間で、明治維新肯定論も大東亜戦争否定論も両者の合理性の有無に根拠があると思う。隠居爺氏は「薩長政府」が嫌いなあまり、偏見もあるようだ。「薩長の芋侍」などという言い方にその感情的なところが出ている。
私は江戸時代は好きだが、江戸幕府(徳川家維持だけを目的とした政治体制)は大嫌いである。そして、鎖国政策は200年近く(余り?)の国家の安泰をもたらしたという点では評価し、そのために身分制度が固定され、下民が貧しい生活を送り、上級国民が堕落したという点で批判する。
私は日本人が馬鹿だとはまったく思わない。単に平和主義で争いごとが嫌いなだけだろう。つまり、「競争主義」というのは向いていないのである。明治時代の「身を立て名を上げ」も、他者を蹴落とすことではなく、同郷人全体を代表して、郷里を発展させたいという願いが強かったことは、明治時代を描いた文章を読めばよく分かる。(たとえば小川未明の「小さな針の音」など、明治から大正にかけての若者の「立身出世」の高邁な精神を描いている。)それを「通俗道徳」として否定するのは浅慮だろう。
「戦わない人間は負け犬である」という発想こそが西洋文化ではないか。日本人は「和をもって尊しとなす」のが本来なのである。

(以下引用)


 その司馬史観とはどのようなものだろうか。ウィキペディア(Wikipedia)には「その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。」との記載がある。

 まあ、私の司馬史観に対する認識とそれほど違わない。司馬史観の出発点は大東亜戦争に対する疑問であるように思う。「実にくだらない戦争につきあわされた」という被害感が強かったようだ。というのも、日本軍の戦い方にあまりにも合理性がなかったからで、それで命を捨てろと言われたところでバカバカしいとしか感じなかったのだろうと思う。

 それは特攻隊のことを考えるだけでも、凝り固まっている人でなければ了解可能だ。特攻隊員一人ひとりはお国のためにと信じ込んで命を捨てたのだと思うから、大変に立派な精神を持っていた。問題は特攻をさせた上層部になる。

 特攻をさせることが少しでも戦況に影響するというのであれば意味があるが、特攻隊など戦争の勝ち負けには何の影響もなかった。要するに無駄死にをさせただけのことになる。むしろ、貴重なパイロットを次々に死なせてしまったことで日本の戦闘力を弱体化させた。あるいは戦後の復興の力を削いだ。日本人にはそんなことも理解できない人がかなりいる。

 実は私の父親が司馬遼太郎と年齢が近く、短期間だったが軍隊経験があったものだから、私は司馬遼太郎の気分がよく分かるような気がする。というのも、私の父親も、バカバカしいことをさせられたという思いが強かったからだ。

 毎日砂浜に穴を掘って、号令一下荷物を抱えて走り出し、その穴に飛び込む訓練をさせられたらしい。何のためかというと、上陸してきたアメリカ軍の戦車が穴の上を通った時に、穴の中から磁石付きの爆弾をくっつけるための訓練だったという。戦車は腹の部分の装甲が薄いのだそうだ。

 何という原始的というか、非効率的というか、これではまるで「アメリカ軍対未開の原住民」の戦いだ。大東亜戦争がいいとか悪いとか、アメリカを騙したとか騙されたとか、目的は何だったとかいろいろな言われ方をするけれども、誰にでも分かる圧倒的な日本の欠点は、末端の者に行わせるこのような一つ一つの具体的な戦闘というか、戦法というかの稚拙さ、愚かさであるように思う。これについて行けるのは本物の馬鹿だけだ。

 「一所懸命竹槍の訓練をしてB29を撃墜する」というのが最も極端な例になるけれども、本当に日本人というのは未開民族であると思う。その非常識さは想像を絶する。そして残念なことに現在でも、日本人は未開の原住民レベルを脱していないのであって、それは今回の新型コロナ騒動や対策、マスクやワクチンなどを見てもよく分かる。マスクをしながら食事を食えとか、ソーシャルディスタンスとか、パーティションとか、深夜は宴会をするなとか、感染防止効果のないワクチンを打てとか、本物の馬鹿しかついていけないような指示がいろいろ出された。大東亜戦争時とちっとも変わっていない。


 


 話がそれた。そんなわけで司馬史観の出発点は、大東亜戦争に兵隊として参加して、こんなバカバカしいことをさせられるのは御免被りたいという実感だったと想像がつく。そこで司馬遼太郎は考える。「日本は一体いつからこんな愚かな国になったのだろうか」と。

 その結果、「どうも、日露戦争までの日本はきちんとした国だったのではないか」というのが司馬史観になる。そこで、自分の書く歴史小説も日露戦争までを美化して創作し、世に出した。それは歴史的な事実を問うというよりも、「明治までの日本は賢かったのだから、それを見習い、大東亜戦争のような馬鹿みたいな戦争をするのはやめよう」という呼びかけだったように思う。

 私の極めて主観的な見方からとすると、実際には司馬遼太郎は明治の日本がそんなに素晴らしい国だったとは評価していなかったのではないかと思う。つまり、あえて嘘を書いて明治の日本は素晴らしかったことにしたのではないかと私は疑っている。

 そして、この作戦は大成功だった。なぜなら明治維新が素晴らしいものだったとするフィクションは、日本人にとって大変に受け入れやすいものだったからだ。というのも歴史的な距離感が適切だったのだと思う。司馬遼太郎にとって大東亜戦争当時の日本を褒めることは不可能だ。自分に嘘をつくことになるし、それが嘘だということを知っている人も大勢いる。

 また、江戸時代のことになると、距離が遠くなりすぎて他人事になってしまい、どのように書いたところで感動を呼んだり、教訓を得たりすることが難しくなってしまう。

 ところが、明治維新くらいの適度な過去であれば、日本人にはなじみがある。「ああ、そういう人がいたな」とイメージが湧く。その一方で、司馬遼太郎が何を書こうが、褒めるにしろけなすにしろ、自信を持ってそれを否定できる人もいないくらいの過去にはなる。だから、あることないこと書いて、大東亜戦争の対極、つまり日本の理想的なあるべき姿を示そうとしたのだと思う。

 そんな司馬遼太郎の嘘に物の見事に騙されたうちの一人が私になる。本来の日本人は大変に思慮深く、文化的でもあるのだけれど、大東亜戦争に限っては狂ってしまったという司馬史観を漠然と受け入れるようになっていた。

 そのまま死んでいければ何のことはない、平和な人生だったと思うけれども、この年齢になって突然新型コロナ騒動、ロシア・ウクライナ紛争の馬鹿騒ぎ。いやいや、驚いたのなんのって。今まで見たどんな映画よりも、今まで読んだどんな小説よりも、奇妙奇天烈なことが現実として目の前で展開された。

 何にそんなに驚いたかといえば、日本人の愚かさに対してだ。いまだに夢ではないかと思うくらいに。ごく普通の人だと思って接してきた人が、マスクを外さない、ワクチンを何回も打つ、どういうこと? 何も知らないくせに悪いのはロシアだと騒ぎ始める。どういうこと?

 政治家に至っては、総理大臣を筆頭にしてマスクをかけること、ワクチンを打つことを推奨する。どういうこと? 自国民を殺してどうしたいわけ? シャモジまで持ってウクライナに応援に出かける。どういうこと? 負けることがはっきりしている悪を支援して、日本国民の税金をばらまいて、どうしたいわけ?

 私も現在は大分理解が進んだせいか、人間というものは"お化け"を信じて行動するものであること、また、"お化け"を利用して人を操ろうとするものであることが分かってきたけれども、それにしても日本人たちよ、騙されすぎ、騙しすぎじゃありませんか?

 ウィキペディアによれば、司馬遼太郎は「庶民的合理主義」を好んだというけれども、最近の日本にそのようなものはかけらもない。一から十まで不合理で覆い尽くされている。なおかつ、そのことに疑問を持つ人はごくわずかだ。

 結局のところ、司馬史観は誤りであると私は考えるようになった。ここまで愚かな日本人というのは一朝一夕でできるものではない。つまり、100年や200年でできるものではない。大東亜戦争当時だけが狂っていたのではなく、400年も500年も前から日本人は遅れていたと思い始めた。

 そもそも、こんな東の最果ての島国に誰が好んで住もうと思うものか。移り住んできたのは犯罪者、奴隷、その他大陸では満足に生きていけない欠陥人間ばかりだったに違いない。そして、飛鳥、奈良の昔から中国の猿真似をすることで社会を維持してきた。

 唯一日本が輝いていたのは、戦国時代(1500年代)だったのではないだろうか。日本人が主体的に考え、主体的に行動して、日本を作ろうとした。そこにはリアリズムに基づいた合理性があった。今も残っている日本人の知恵というのは、その多くが戦国時代に作られたといってもいいように感じられる。戦国時代は、世界的に見たって日本は指折りの国だったはずだ。

 それをダメにしたのは、鎖国だったろうと私は考える。浅学非才の私が思うことだから当てにはならないが、日本をダメにしたのは鎖国以外に考えられない。鎖国によって日本の進歩は、日本人の思考は停止してしまった。とはいっても、鎖国をした(できた)のは、地政学的な条件が大きいのだろうから、ある意味日本の宿命だったのかもしれない。

 そして、明治維新のときにはすでに欧米列強に大きく水を開けられた状態であり、明治維新以後、日本は欧米の属国にされたまま現在に至る。単に軍事力で太刀打ちできなくなったばかりではなく、国民の精神発達も遠くに置かれたままの状態だった。大東亜戦争で欧米に牙を向けたものの、それは反抗期、あるいは中2病にかかったくらいの出来事であると考えた方がいい。

 しかし、時代は確実に動いている。日本の宗主国である欧米が衰退してきているのはもはや隠しようもない。新型コロナ騒動にしろ、ロシア・ウクライナ紛争にしろ、そのことの表れといってもいい出来事に見える。日本が欧米の属国をしていれば安泰という時代ではなくなったことを示している。

 アメリカの忠犬である岸田政権が国民の支持を全く得られないことも、時代の変化を表しているように私には感じられる。もはやアメリカには日本の面倒を見るだけの国力などなく、落ちぶれ、傾いた帝国と化している。アメリカを当てにできなくなった日本には、この先明治維新以上の混乱が待ち受けているのかもしれない。100年、200年、300年先を見据えながら舵取りをしていくことが必要な時代になってきている。

 「アメリカの属国ができないのであれば、中国の属国になればいいや」というのは、日本人の考えそうなことだと思うが、私としては世界情勢が大きく変わるのであれば、それを利用して自主独立を目指す国になってほしいと願う
(核兵器を持てという意味ではないので念のため)。しかし、今の日本人の民度の低さを見ている限り、1000年早いかもしれない。

拍手

一億総貧乏人国家の「国富」とは何か

「徽宗皇帝のブログ」に載せてある「新国富論」の後半である。これは鳩山小沢民主党が自民党を倒して政権を握った直後に書かれたものだというのが最後の一節から分かる。だが、その後に起こった「官僚の裏切り」と「マスコミのデマ作戦」と「民主党内部の裏切り」で民主党は倒れ、それ以降は「悪夢の民主党政権」というレッテル貼りで民主党は徹底的に葬られたわけだ。

(以下引用)


7 欲望というエンジン




 




 「起きて半畳、寝て一畳」という言葉がある。人間が生きるにはそれだけのスペースがあればよい、ということだ。それは勿論、他の生活物資でも同じことで、人間がいくら頑張っても、一度に飯を10杯も食うのは難しいし、できてもそれは快楽ではなく拷問にしかならないだろう。いくらきれいな衣服が好きでも、一度に服を10枚も着る馬鹿はいない。高級なホテルが好きな人間でも、ベッドで寝ている間は自分がどこにいるのかという意識さえもない。つまり、一日三食喰えて、夜寝るための住居があれば、人間、本当はそれ以上の金はほとんどいらないということだ。だが、それでは資本主義は成り立たない。Aの商品よりはBの方が高級で、Cはそれよりも高級だ、という序列を消費者にマスコミと宣伝を通して「教育」し、彼らに常に消費の欲望を掻き立てる。物を得るには金がいる。金が欲しいから他人と競争して、その競争に打ち勝って出世する。そして高給を得て高級な商品を購入する。これが資本主義社会の庶民の姿である。もちろん、出世競争に敗れた人間は「下流社会」行きだし、能力があっても不運な人間も同じことだ。




 「象箸」という言葉がある。ある王様が象牙の箸を作らせたのを見て、その臣下が暇を願って他国に行ったという話だ。なぜ、と聞いた知人に、その男は「象牙の箸を使いだしたら、他の器もそれにふさわしい器にしないと気が済まなくなるものだ。当然、それに入れる食物も、それにふさわしい美味珍味になるだろう。それは食事だけにはとどまるはずがない。やがて生活のすべてが贅沢品で満たされ、その費用をまかなうために国民から苛酷な税を徴収することになり、国民から恨まれて、他国のつけいる隙をつくり、この国は滅びるはずである」と答えたという。まるで、「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話だが、象牙の箸一つから国が滅びるというのは面白い。だが、ここでの意図は、実はこの象箸の話の中に、資本主義社会の欲望の原理があるからだ。それは、欲望は無限連鎖であり、かつエスカレートしていくという原理である。




 我々は、かつてはクーラーの無い社会に生きていた。夏は暑いのが当たり前で、時々涼しい風でも吹けば、それでよかった。だが今、我々はクーラーの安楽さに慣れて、それ無しでは生活もできないような気分である。身の回りのあらゆる品々はそうである。我々の年代では、電化製品など無いのが当たり前で、テレビも冷蔵庫も無かったのである。せいぜいがラジオくらいか。しかし、ラジオしか無かった時代の我々には、未知の世界への畏怖と憧れと夢があった。要するに、贅沢品など、無ければ無いで、実はやっていけるのである。ところが恐ろしいことに、贅沢には薬物中毒と同じ禁断症状がある。いや、薬物依存症よりもたちが悪い。なぜなら、麻薬なら、次から次へと新製品やら一段上の高級品が出てくるわけではないが、贅沢品は常に「ワンランク上」の商品を餌に我々を生存競争の渦の中に投げ込むからである。それこそ、「死して後已む」というか、「馬鹿は死ななきゃ治らない」というか、死ぬまでこのレースは続くのである。そうした下等動物の生存競争のエネルギーを利用して金持ちは一層金を稼ぎ、またこの奴隷たちが購入する商品によって一層懐を豊かにする。




 いや、私は金持ちの存在自体を否定しようというわけではない。自分が彼らの立場なら、同じようにする可能性も十分にある。だが、悲しいことに、彼らは自分が稼いだ金の使い方を知らない。彼らが、世界中の文化や芸術や科学の発展のために、あるいは人間全体の幸福度を増すために金を使ったことなどない。慈善事業への寄付行為も、節税対策か、別種の金儲けの布石でしかないのである。つまりは、彼らもまた一種の依存症なのだ。金の魔物に取り付かれた精神異常者でしかないのである。私が金持ちを批判するのは、その一点においてである。そう、彼ら自身も不幸な人間なのである。本当は、彼らは不幸なのだが、自分たちを幸福だと信じている。それは、より幸福な状態を知らず、物質的な幸福こそが幸福だと信じているからである。他人の不幸の上に成り立つ幸福など、本当は幸福などではないのだが。




「起きて半畳、寝て一畳」という言葉を彼らは馬鹿にするだろう。王侯貴族の生活も知らない貧乏人が何をほざく、と。




 しかし、たとえば日本なら、毎年3万人から4万人の自殺者が出るが、その死体の上に自分の豪華な生活があると知りながら、平然としていられる、そうした神経は、600万人のユダヤ人を虐殺したとされているヒトラーよりも病的だと私は思う。あるいは、平和なイラクに戦争を仕掛け、その国を破壊しつくして、国民のそれまでの生活のすべてを奪って平然としているその神経も、同じである。つまり、日本であれ米国であれ、「自分の金儲けのためなら世界中の人間が死んでも平気だ」という連中が世界を動かしているという、この事態が私には不愉快でならないのである。だから、せめてはできるだけ多くの人々が、そうした世界の裏の姿を知って欲しいと思う。




 




 




8 自由主義とは何か 




 




 さて、政府の仕事とは何だろうか。それは、放っておけば放埓な「自由」のはびこる社会に、「正義による秩序」を与えることである。言葉を変えれば、弱肉強食の世界に法的な規制を加えて人間らしい生活秩序を与えることである。放任状態での「自由」とは、「力ある者にとっての自由」でしかない。そこに「道義に基づく規律ある自由」を打ち立てるのが政府の役目だと言ってよい。




 昔の西部劇でよくあったシチュエーションだが、まだ法の支配が及ばない西部の町では、地方ボスがその町を支配するという状況が生じる。そこで、町の大多数の合意で保安官を雇うことにして、その保安官によって町に秩序が確立するのである。これが「法の支配」の原型である。こうした状況で、「それは自由への干渉だ」と言う批判が成り立つだろうか。




 最近は露骨な欲望肯定の発言が幅を利かせており、「正義」という言葉は偽善扱いであまり評判が良くないが、社会的な意味での「正義」とは、「公正」のことである。政府の役目は、社会を公正なものにすることだと言っていい。では、「公正」とは何か。




 よく、「機会の平等」と「結果の平等」という区別が論じられる。社会主義や共産主義は「結果の平等」であり、「悪平等」だ、というのが右側の論者によくある発言だが、そのような発言は、資本主義社会あるいは自由主義社会において本当に「機会の平等」があるかどうかという部分を見てから言うべきだろう。もちろん、機会の平等など存在しないのである。機会の平等を言うなら、あらゆる青年は義務教育を終了した時点で同額の金を与えられ、そこから人生にスタートするべきだろう。その原資となるのは、もちろん、全国民に対する100%の相続税である。死ぬ時点で親が子供に金を残すまでもなく、子供には政府から均等な金が与えられるのだから、遺産はすべて国庫に納入すればよいのである。




 もちろん、そんな政策など永遠に実施されることはないだろう。人間というものは、自分の「稼いだ」金を子孫に残したがるものなのである。つまり、金持ちは永遠に金持ちで、貧乏人は永遠に貧乏人であるというのが、金持ちの理想とする社会なのである。これがつまり「保守主義」という思想を経済的に見た時の実体だ。もちろん、保守主義とは文化的伝統を守ることだ、という考えもあるだろうが、現状を維持するとは、実際には身分と財産の固定化のことなのである。




 そして、本題の「自由主義」だが、自由とは誰にとっての自由なのかが問題だ。貧乏人や下層階級の人間に、どのような自由があるというのか。はたして「やりたいことができる」のは誰なのか。言うまでもなく、権力を持つ者である。かくして、カール・マルクスの名言「自由とは、何よりも権力である」という言葉が妥当するわけだ。それも知らずに、下層階級の連中が、「自由主義」を擁護するという喜劇が行われているのである。その自由は、「君たちの自由」ではないよ、と誰かが言ってあげるべきだろう。




 つまり、自由は確かに理想ではあるが、「(経済的)自由主義」とは実は、強者(富者)のための自由を法的・政治的に保障させるための口実なのである。言い換えれば、「俺たちがどんな悪事をやっても、政府はそれに対して口を出すな」というのが経済的自由主義の意味だ。皆さんは、そういう意味の自由をお望みだろうか?




 「では、お前は、自由の束縛を望むのか?」とお尋ねになる向きもあるだろう。その通り、私は束縛を望む。ただし、それは私への束縛ではなく、「経済的犯罪者」への束縛なのである。つまりは、自由の束縛の中にしか、社会正義は存在しないと私は考えているわけだ。法律にせよ道徳にせよ、束縛以外の何だろうか。束縛を拒否する人間とは、つまりあらゆる法律と道徳を自分に適用することの拒否を主張しているのである。もちろん、だいたいの「自由主義者」は、そこまでも考えず、ただ幼児的な欲望のままに自由をくれ、自由をくれと叫んでいるだけなのだが。




 もちろん、ここでは経済論としての自由を論じているのであり、たとえば冤罪で投獄された人間や独裁国家で自由の束縛に苦しむ人々の場合は、話がまったく別である。




 要するに、「経済的自由主義」とは資本家や大実業家が、自らの犯罪的収奪の隠れ蓑としている思想だという、私にとっては常識にすぎないことを改めて主張しているだけである。




 




9 国富とは何か。




 




 ある中国の古典の中に、「政府がいくら金があっても、国民が貧しいなら、それは豊かな国ではない」という趣旨の言葉があったが、私がここまで論じてきたのも、結局はそれに近いことだ。ただし、それに加えて、「国民のわずかな一部だけがいくら金を持っていても、国民が全体として貧しいなら、それは豊かな国ではない」という言葉も入れよう。




 たとえばアメリカは世界一の貧乏国とは言えないまでも、相当な貧乏国なのである。かつてのアメリカの繁栄を知る者は、なぜアメリカが今のような状態になったのか、信じられない思いがするだろう。だが、1960年代の繁栄の前に、1930年代の大不況と貧困の時代がアメリカにもあったのである。その大不況の反省から、アメリカは投資銀行と貯蓄銀行の分離を行い、金持ちのマネーゲームが庶民生活に影響を及ぼさないようにした。その結果、金持ちは他の金持ちから奪う以外に資産を増やす手段がなくなり、金融が庶民生活を破壊することはなくなったのである。そして、高い累進課税と高い労働分配率によって、庶民の資産はどんどん上昇した。これが1960年代までのアメリカの繁栄の原因である。だが、レーガン以降の(民主党大統領も含め)ほぼ全大統領による金持ち優遇政策により、労働分配率はどんどん低下し、庶民の税金は上昇し、その一方で金持ちの資産は数倍に膨れ上がった。これが現在のアメリカの貧困の姿である。




 要するに、国富の総量は決まっているのである。したがって、政治と経済の課題は、その分配をいかにすれば、国民が全体として幸福になるかということなのである。これはべつに共産主義の勧めではない。ほとんどの企業人は強欲という病に犯されている。それが政府や法律まで味方につけたなら、国民の大半が貧困のどん底に陥るのは当然だということなのである。




 幸いなことに、世の中には金持ちより貧乏人が圧倒的に多い。これは何を意味するかと言えば、彼らが選挙での投票の権利を正しく使えば、今の状態を変えることは簡単にできるということなのである。口先だけではなく、実効性のある庶民のための政策を主張する政治家に投票することで、今の状態は変えられるのだ。




 そういう、投票の威力を前回の衆議院選挙で国民はやっと分かったはずだ。後は、現在の世の中の不合理や不平等、不公平がどこに起因しているかについての理解を国民一人一人がすることである。




 この一文も、そのための一助になれば幸いだ。




                            2010年1月9日

拍手

哲人統治の「独裁政治」か、アメーバ的人民の「民主制(笑)」か

「混沌堂主人雑記(旧題)」に載っていた「王小人」なる人のツィートだが、私がずっと前から書いてきた考えとほぼ同じである。私の別名ではないwww
ちなみに、同氏は「民主主義」を否定し、「権威主義(哲人統治)」を支持する点でも私と同様である。つまり、民主主義は闇の権力(大資本家)に操られるだけの虚妄の制度だということだ。
無数のアメーバの集まりにしかすぎない、知能も意見もまちまちな無力な「人民」が、いかにして政治的決定を下せるのだ? 代議士は公約すら守らないのに「代議制民主主義」は本当に民主主義の制度なのか?

(以下引用)

返信先: @NJuK5nlOu7xvYvBさん
今回の一番の問題点は資本主義という「経済体制」にある 勝ち組の資本家が権力持って暴れ回ってるわけですから、それを生んだ資本主義を問題提起に挙げるのは当然でしょう 資本主義という怪物にどういう「政治体制(イデオロギー)」で対処したか?が明暗を分けた
王小人
@NJuK5nlOu7xvYvB
結果的に「資本主義&民主主義」の組み合わせが最悪で一番正解に近いのは「社会主義市場経済&中国特色社会主義」でした(私見ではもう結果は出てる) ※ただ中国のやり方は資本家の問題に対して満点解答ですが、安定した継続統治、後継者の資質などは今後の別問題 彼らは「手本を見せる」と言ってます

拍手

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析