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関わるものをすべて汚染する世界の病原菌アメリカ

孔徳秋水氏は物の見方に偏りが多く、その文章も無意味な罵倒が多くて読者を選ぶ書き手だが、たまに鋭いことを言う。下のように、アメリカ批判をするときは、その言論のすべてが正しい。これは、他の書き手でも共通している気がする。つまり、アメリカというのは悪の帝国だから、その批判はすべて正当になる傾向があるわけかwww

(以下「バカ国民帝国日本の滅亡」から引用)
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駐車違反の罰金は?…9000円でしたっけ?


 


前回、タバコの健康被害訴訟で州政府が勝ち取った賠償金が2000億ドルで、


 


州政府の赤字補填に使われたという一例を話しました。


 


2000億ドル、1ドル146円とすれば29.2兆円ですね。


 


 


イラク戦争のときにサダムからふんだくった分が300~400億ドル。


 


但し、非公開で、いくらふんだくったのかさえわからない。


 


 


日本企業も「贈賄だ」と訴えられて丸紅が5460万ドル(約42億円)とられ、


 


これが2012年1月である。


 


ブリジストンも石油輸送ホース販売で便宜を図ったとして2800万ドル(約22億円)


 


これは、2011年9月である。


 


プラント大手日揮もナイジェリアの液化天然ガス関係で2億1880万ドル(182億円)


 


これは、2011年4月である。


 


米国企業もドイツやフランスの企業もやられている。


 


 


罰金のなかで「最大」とされるものは、89億7360億ドルで、


 


タバコの賠償金よりも、サダムの蓄財よりも少額ではあるが、


 


それでも9422億2800万円の額になる。


 


 


標的は欧州最大の銀行であるフランスBNPパリパで、


 


スーダン、キューバ、イランのために行ったドル送金業務について、


 


米国制裁法違反だとされたのだった。


 


支払わないと、米国での銀行業務の免許が取り消されると警告された。


 


 


ノルマンジー上陸作戦70年の記念式典の日(2014年6月6日)、


 


ホスト役のフランス大統領フランソワ・オランドがオバマ相手に抗議していた。


 


法外な金額にフランス国民も激怒。


 


オバマは「法の支配」を気取って、この抗議を無視した。


 


大統領は司法の捜査にクチを挟まないのだと…


 


 


フランスが、今回のBRICSに興味を示しているのも「なるほど」である。


 


 


オランドは米司法省捜査と聞いた直後の2014年4月に


 


オバマに親書を出し、米国の捜査の不当性を訴えるキャンペーンを張っていた。


 


 


国内法の国外適用は認めがたい国際慣習違反だった。


 


しかし、一か月もたたぬうちにパリパは全面屈服した。


 


 


結局、そうした送金業務は必ずニューヨーク銀行を経由する。


 


その時点で、米国法が発動してしまうのである。


 


 


くわしく本に書いてあるが、ブログにするにはちょっと長すぎる。


 


当ブログが、ここで警告したいのは、


 


金融も通信も同じリスクがあるという点である。


 


 


金融で米国経由のネットワークにつながれば米国法に金融が支配され


 


通信で米国経由のネットワークにつながれば、やはり米国法に支配される


 


…ということである。


 


 


そもそもインターネットは、米軍のシステムであった。


 


それを「民間用に開放」したという。


 


 


つまり、


 


インターネットの主権自体が米軍に握られているのである。


 


 


我々がネットにつながればつながるほど、衛星を打ち上げれば打ち上げるほど、


 


それは米軍の主権を強化していく。(そこに市民の主権はない)


 


 


それで「平和」になるならいいが?


 


目の前に展開している事実は、すべてその正反対である。


 


 


日本は、核やバイオ兵器の実験場にされている。


 


25年から30年に一回くらい事故があってくれると都合がいいのだろう。


 


データが取れるから。


 


 


2011+25=2036年…


 


「震度6以上の揺れに耐えた日本の原子炉はひとつもない」と武田教授。


 


次の東南海地震で西日本の原発がすべてやられる…


 


すると、日本人はみな「移民」となって海外へ逃れていく。


 


 


それはかつて、


 


「自国」を失って奴隷の日々を送ったイスラエルの民の運命そのものである。


 


 


米国は中南米といい、中東やアフリカといい、


 


国家元首を「独裁者」呼ばわりしては戦争を仕掛け、国家を破壊してきた。


 


 


そうやってできた移民が、アメリカや欧州に流れて行っていった。


 


 


昔の彼らは、奴隷を捕まえて売買していたが、いまは国を潰せばよいだけだ。


 


そうすれば、いくらでも移民を供給できる。仕事するチンピラにも事欠かない。


 


 


しかも移民の方からカネを払い、「逃がしてくれ」と頼んでくる。


 


まったく「カモがネギをしょってくる」とは、このことである。


 


 


女たちに売春させるのも、このようにすればカンタンというわけだ。


 


表向きは「女性の人権」と繰り返しておけば、だれも怪しまない。


 


 


私のような者たちのクチさえ封じておけばよいのである。


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北一輝による「象徴天皇制」の先取り

壺斎散人氏による北一輝の「日本改造法案大綱」の解説である。
私もウィキペディアにあるそれを読んだことがあると思うが、漠然とした理解にとどまっており、こうした解説は役に立つ。
私が北一輝に一番親和力を感じるのは天皇の位置付けである。あの、天皇神格化の時代に、現在の「象徴天皇制」(下の引用文での「国家の代表」とは、まさにそれである。)に等しい「権力ではなく権威的存在」の位置付けをしたのは慧眼だと思う。これこそまさに歴史的に見た、天皇本来の在り方だからだ。ただし、危機の時には「天皇大権」を持っている、というところが「政治的装置としての天皇」の特色、あるいは強力な可能性なのである。そして、「自分は国家の代表である」という意識が、天皇を天皇らしい人格へと作るのであり、それこそが「天皇という制度」の最大のメリットであるのだ。

大日本帝国憲法と根本的に異なるのは、天皇を国家の主権者として位置づけるのではなく、国家の代表としているところである。つまり天皇は国家の構成員としては国民と同じ位置づけなわけである。

(以下引用)


北一輝「日本改造法案大綱」




北一輝の著作といえば、23歳のときに書いた「国体論及び純正社会主義」と大正八年36歳のときに書いた「日本改造法案大綱(原題は"国家改造案原理大綱"」が双璧である。前者は1000ページに及ぶ大著であり、北の思想を理解するには必読とされるが、なにせ大部の本にありがちな散漫なところが目だち、読了するのが苦痛だとされるのであるが(筆者は未読)、後者は題名から類推できるようにプロパガンダ風の綱領文書なので、読了するのに時間はかからないが、その主張の背景が丁寧に説明されているわけではないので、これを読んだだけでは、北の思想の要諦はかならずしも理解できないかもしれない。にもかかわらずこの著作は非常な反響を呼んだのであって、日本の国家社会主義思想(日本型ファシズム)を論じるには、外すことができない。

北はこの本を大正八年に上海で書き上げた。その折の題名は前述の通り「国家改造案原理大綱」である。北はその原稿を大川周明に託して日本で刊行しようとしたらしいが、官憲による頒布禁止処分を受けて断念した。その後大正12年に、一部を修正し、「日本改造法案大綱」と題して出版した。その本にも検閲の跡が「何行削除」と言う形で及んでいるが、それらは天皇はじめ統治機関にかかわるものが主で、その部分の行間を何等かの形で補えば、北が何を主張しているか、大意は理解できる。なお、初稿を謄写刷りにしたものが一部に出回り、それなりの反響を惹き起こしたといわれる。若き日の岸信介も、その謄写刷りの版を読んで大いに影響された者の一人である。
この本を本当に理解する為には、北一輝の思想の全体像を理解しておく必要があると思うが、ここではとりあえず、この本から読み取れる文意をもとに、彼の言いたかったことを取り上げてみるにとどめたい。

北がこの綱領的文書の中で主張していることの基本的内容は、「緒言」にもあるとおり、「全日本国民の大同団結を以て、終に天皇大権の発動を要請し、天皇を奉じて速やかに国家改造の根基を全う」することである。この考え方を踏まえ、綱領の第一章第一条に相当する部分は、「大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を敷く」とされていた(この部分は検閲によって削除)。

要するにクーデターを通じて現行の統治システムを停止し、あらたな国づくりをしようということである。その国づくりは天皇の大権を奉じることによって実行される。つまり、天皇みずからが国家改造の形式的な主体となるわけである。これを政治学の用語で「自己クーデター」というが、北の場合には、天皇を形式的に奉じてはいても、実質的には自分たちで権力を独占している勢力を駆逐して、新たな政治勢力が名実共に天皇中心の新たな国を作ろうと言っているところが面白い。そのクーデターを担うべき新たな政治勢力の実態はいまひとつあきらかでないのだが、それは今現在権力を握っている勢力を倒すことが出来れば誰でもよいということのようである。北はとりあえず、現役の軍人や在郷軍人会に大きな期待をかけているようであるが、それは、この人々が大資本や大地主のような経済的な利害関係に縛られていないと考えたからだと思われる。

綱領(法案)の構成が天皇についての規定から始まっているのは、大日本帝国憲法と同じである。大日本帝国憲法と根本的に異なるのは、天皇を国家の主権者として位置づけるのではなく、国家の代表としているところである。つまり天皇は国家の構成員としては国民と同じ位置づけなわけである。この書物の中で一番伏字が多いのは天皇に関する部分であるが、それも無理はない。北の主張は、天皇制権力に対する重大な挑戦と受け取られてしかるべきところがある。

国民は天皇に対して、ある意味平等に近い立場に立つわけだが。国民相互の間では、平等はもっと徹底される。華族制の廃止や普通選挙の規程がそれをあらわしている。また北は、私有財産の制約についてかなりマニアックに記述しているが、これも国民の間での平等を担保する為の方策と考えられる。しかし、財産の全面的な国有とか共有とか言うことは幼稚な社会主義的思想として拒絶している。人は一定の財産が保証されてこそ、自立的な国民たりうると考えるからだ。その辺は自身が中産階層の出自であった北の皮膚感覚ともいうべきものが働いているところだろう。

国家と国民との関係は、国家による国民の庇護というイメージで貫かれている。国家は自ら大資本・大地主となり、その収益を財源にして国民を庇護すべき財政的な裏づけとする。また国家は労使関係に介入し、資本が労働者を抑圧することのないよう目を配る。同じようにして借地農業者(小作人)の権利も保護される。婦人や児童もまたそれぞれの局面において国家によって丁寧に庇護される。国民にして他の国民の権利自由を侵害したものには厳罰が課せられる。

一方国民は国家に対して様々な義務を負うわけであるが、北の面白いところは、国民の義務を強調することで国権を反射的に強化するにとどまらず、国家の国民に対する権利を積極的に主張するところである。徴兵制の権利および開戦の積極的権利がその中心であるが、これらは何も国家の権利として規定しなくとも成り立つはずのものである。それをわざわざ国家の権利として規定するところが北の国家主義者としての面目に属するのだろう。

内政にかかわる部分と並んで対外政策の要諦についても、わざわざ一章を割いて言及している。北の対外政策の特徴は、積極的膨張主義ともいうべきもので、日本が膨張して行く先として、朝鮮半島はもとより、満州、東シベリアにも及ぶ。さすがに中国大陸を領有しようとまでは言わないが、オーストラリアは日本の領土とすべきだと主張する。対外膨張は20世紀のファシズムに共通する特徴だと言われるが、北にもその特徴がよく現れているわけである。

日本の対外膨張は国際的な緊張をもたらすことになる。そこで北は、対英米戦争の可能性を論じたり、それにロシアが付け込んで日本の大陸権益を掠め取ろうとするかもしれぬと心配してみたりした挙句、日本は米英露支の四カ国とゆくゆく対決する運命にあるというようなことを言う。結局そうなってしまったことは、歴史の物語るとおりである。

こんな風に整理してみると、北は内政面で国家中心主義的な政策を主張する一方、対外的には積極的膨張主義を主張したということになる。この二つの特徴は、20世紀のファシズムに共通するものであるから、我々が北を日本型ファシムズの思想家と呼ぶには十分な理由があるということになろう。

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「民主主義」がタイラント(僭主)を作る

「知の快楽」から転載。
私自身はアリストテレスの著作を自分で読んだことはないので、ここに書かれたことの真偽は判断できないし、使われている言葉自体が意味不明なものもある。たとえば、下の記述では「君主」と「僭主」の違いが「内面的なもの」でしかなく、他者からは判断が不可能である。
実際には「僭主」というのは「偽りの君主、資格無しに君主の座を奪い取った者」というのが多くの人の想像するものだろう。つまり、その人間が「美徳を目的としている」か「富を目的としているか」など、その言辞からはまったく判断不可能であり、その秘密の行為の暴露(露呈)によってたまに正体が 分かるだけだ。ということは、その人間の「君主の資格」など、美徳の有無では判断しようがないわけである。
手持ちの辞書(新明解百科語辞典)では僭主を「帝王の名を僭称する者」と文字通り明快に説明している。さらに、「古代ギリシアの諸ポリスにみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握。(タイラント)」とある。実に痒いところに手が届く説明である。そして、その僭主の多くが暴君となったため、「タイラント=暴君」のイメージがついたのだろうが、では「合法的手段で支配者になる」とは、どういうことかというと、「血統による」か「議会の議決による」かのどちらかだろう。そして問題は、タイラントが出るのは「平民に政治への不満がある時」であり、タイラントは平民の支持を得て政権を掌握するわけだ。これはまさしく、「民主主義の発露」ではないかwww

(以下引用)

アリストテレスが国家の統治形態を論ずる部分は、彼の政治思想のハイライトをなすものである。彼は統治形態を、一人による統治、少数者による統治、多数による統治にわけ、それぞれについて、良い統治と悪い統治とを論じている。

まず良い統治には、君主政治、貴族政治、立憲政治の三つの形態がある。それに対して悪い統治には、僭主制、少数政治、民主性の三つがある。それぞれ良い統治が堕落した形態とすることができる。

アリストテレスは本音では、君主政治は貴族政治よりも優れ、貴族政治は立憲政治よりも優れていると考えていたようだ。だがそれは君主や少数者に優れた人物がいるという条件のもとでの話である。実際としては君主は腐敗して僭主となり、貴族は自分の利害を優先するあまり大衆を搾取して、堕落した少数者による政治に陥る。


民主政治の特徴は、貧窮者の手に権力が握られ、彼らが富裕者の利害を無視するところにあるが、同じく悪い政治のなかでは、少数政治や僭主政治よりも悪の度合いが少ない。こうしてアリストテレスは、実際の政治の経験の中から、民主政治を条件付で擁護する姿勢をもとっている。

アリストテレスがもっとも憎んでいたものは僭主政治であったようだ。僭主が君主と異なるところは、一言で言えば、君主が名誉を欲するのに対して、僭主は冨を求める点だ。君主は国民全体を衛兵とし外国に立ち向かうが、僭主は傭兵を蓄えて自分の利害のために武力を行使する。その対象は国民であったりもするのだ。また僭主はその大多数が煽動政治家であって、国民の支持を得て君主となりながら、一旦君主となるや、国民の利害を無視するものだ。

権力の交代を、アリストテレスは革命という概念で論じている。革命は僭主政治を対象にしてもっとも起こりやすく、民主政治においては起こりにくい。民主政治が腐敗して衆愚政治に陥ったとき、扇動者が現れて僭主となる場合があるが、それも長くは続かないというのが歴史の教えるところである。

このようにアリストテレスの政治を論じる視点は、一方ではギリシャの都市国家の歴史を踏まえ、他方では優れた政治家の資質をにらんで理想的統治をも論じるものとなっている。彼がプラトンと異なる点は、現実を理想に従属させなかったところである。

アルストテレスの統治形態論は、その後のヨーロッパ人の政治思想にとって、知的枠組みの一つとして大いな影響を持ち続けたのである

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学校が「競争社会」であり特殊な権力構造の場であることが学校犯罪の温床

イジメ加害者の親族が虐め犯人をかばうのは下劣だが自然な行為であり、それを批判しても仕方がない話だと私は思う。人間の多くはそういう下劣な精神を持っているし、そういう人たちが他の場面ではまともそうなふるまいをしているのがほとんどだろう。
つまり、いじめ問題は社会構造の問題として抜本的対策を採らないと無くならない。具体的に言うと、「学校という異世界」をきちんと構造改革していくしかないのであり、現在の単なる受験予備校としての本質的性格の改善、学校権力の剥奪、そして「競争主義でない学びの場」あるいは単純に「両親が働いている間、子供を安全に委託できる場」としての学校にしていく必要があるのではないか。(いじめは競争のストレスが原因である、あるいは競争から脱落しそうな上位人間のストレス解消の面が大きいと思う。自分がストレスを受けているから、弱い人間を攻撃してストレス解消をするわけだ。競争が正しいとされるから、弱者を排斥するいじめも正しいことになる。他人を助けること自体が楽しいならいじめは起こらない)
まず、いじめは犯罪であることを徹底するなら、学校内への「警備員」配属とその巡回があってよい。その給与は学校の上部とは無関係に支払われ、学校責任者自体が監視されるわけだ。部活動での「犯罪的行為」「子供への加害行為(精神的加害含む)」の監視も必要だろう。
学校という組織に自浄能力がまったく無いことは明白だ、ということを国民全員が認知すべきだろう。そして学校教育を「生徒がお互いに教え合い助け合う」場にすべきだろう。つまりアニメのお約束の「学園祭」の楽しさが学びにおいても日常となるわけだ。学ぶことは本来は娯楽だからこそ、多くの学者が自ら進んで学んだのである。しかし、今の受験社会では学ぶことは刑罰である。

(以下引用)


《埼玉15歳イジメ自殺》「飛び降りたのは自分の意思ですよね?」15歳少年を追い詰めた、加害生徒の父親と祖母の"強烈発言”とは《録音あり》


配信

文春オンライン

「ぼくに言った、あの言葉は、ぜったいに忘れない」


相手生徒の父親と祖母が「謝罪の会」に出席したが…


「足がそうなったのは、まず君が原因」音声に残るAの父の言葉


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  • 馬込銀座


    もう「いじめ」という言葉、止めにしませんか? 暴行・傷害・恐喝・脅迫・自殺幇助という立派な刑法犯ではありませんか? 事実認定されたのなら迷わず警察・検察に告訴・告発すべきです。 そうでなければいつまで経っても、子どもの喧嘩レベルとしてスルーされてしまいますよ。 学校や教育委員会は矯正施設ではないのですから、過大な期待を持ってはダメだと思います。





  • 連絡帳


    私も小学生の頃、いじめられていた子をかばっていたことがあったけど、次は私がいじめられるようになった。 かばっていた子もいつの間にかそちらのチームに加わり、助けてくれることはなかった。 耐えきれず学校を飛び出したこともあったけど、慌てて担任が追いかけてきてマンション敷地で捕まり連れ戻された。 誰も助けてくれない、親にも言えない。 何とか耐えて中学校に入学し、いじめはなくなりましたが、今も私の手首には切り傷の痕が残っています。 死んだら親が悲しむとかよりも、死ぬことによって私のいじめに関わった奴ら全員困って人生めちゃくちゃになればいいと、憎悪の気持ちだけでした。 今はかわいい子供を2人授かり幸せです。あんな奴らのために死ななくてよかったと思います。 いじめは絶対ダメだと伝えていますが、いじめりている子を守れと言えません。 時代が変わっても、いじめは変わっていない。





  • カツモク


    自殺未遂を繰り返しているということなので、当然ながら重大事態認定がなされ弁護士などの第三者も含めたいじめ対策委員会などが組織されているはずですが、その組織的な動きにおいてこのような「謝罪の会」を設けることが決められたのでしょうか。だとしたら学校現場の常識としてちょっとあり得ない。 当事者がいじめを認めていないから、ではありません。認めていたとしても、自殺未遂を繰り返す被害者に加害者やその関係者を会わせるということは、普通はしない。学校と対応した教員は基本的な手続きを怠っているという意味で懲戒に値すると思いますが、それだけでなく、もし対策委員会が作られているのなら、その組織自体が糾弾されてしかるべきです。 また、その組織が作られていないのだとしたら、これもまたいじめ防止対策推進法に反しているということで、罪が一つ増える。




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「れいわ新選組」と山本太郎が今やるべきこと

「castibg vote」は、賛否同数の時に議長の投じる一票が原義のようだ。つまり、「キャスティングボートを握る」とは、そういう存在になることである。「ボート」は「boat」ではなく「 vote」だ。
非常に極端な場合を考えたら、たった一人の議員でも、政策の決定権を握る場合もありうるわけである。それが5人くらいもいたら、大きな存在だろう。で、れいわ新選組はとりあえずそのくらいの議員数はあったと思う。これは、次の選挙で与野党が同数くらいになった場合は重要な存在になる。
従って、れいわ新選組がやるべきことは「民衆啓蒙」であると私は思う。常に啓蒙活動をやり続け、議論を起こすことである。そして野党支持者全体の数を増やすことだ。
自公維新の悪政への批判は当然だが、既存メディア自体(ほぼ全体)が敵であるという前提に立たねばならない。とすれば、絶対に必要なのは、何より「自前のメディア」を持つことだろう。メディアと言っても、ユーチューブの利用でいい。それも複数持つのがいい。議員全員がユーチューバーになり、毎回ゲストを迎えて対談すればいい。これは自民党の西田昌司議員のものなどが参考になる。
共産党と交渉し、合同してお互いの党名を変更するのも「あり」だろう。(毎度言うが、共産党は政党としての骨太さはあると思うが、現体制の頭が時代に合わないと思う。)
いや、極端な話、「参政党」などの「新右翼」政党との合併があってもいいと思う。それこそが、下の記事で飛鳥氏の言う「妥協」ではないか。そもそも山本太郎もれいわ新選組も左翼政党でも何でもないのだから。(反与党を「左翼」扱いするのが日本のマスコミでありネット言論であるだけだ。)
なお、私は「れいわ新選組」という党名はダメダメだと最初からこのブログで言っている。元祖の新選組自体が単なる立身出世願望から生まれたテロリスト集団でしかなく、時流に逆らって滅びた存在という縁起の悪い名前だからだ。「れいわ」と時代を限定したのもダメだろう。
まずは山本太郎と大石あき子(だったか?)のコンビでユーチューブを始めたらどうか。大石議員は可愛いから、アシスタントに適役である。山本太郎の喋りの上手さは、お墨付きありだろうが、早口すぎるので、視聴者の頭の回転に合わせて喋ることが大事だと思う。ゲストには右翼や保守主義者の論客も招いて議論するといい。議論に負けることを怖れる必要はない。既に、既成メディアの弾圧を受けているのだから、これ以上政治的に不利になることはない。


(以下「反戦な家づくり」から引用)




民主主義はいのちを守る妥協の技術(れいわ新選組への手紙)

1339年から1453年まで、実に120年ちかくにわたって、イギリスとフランスは戦争していました。いわゆる100年戦争です。
その後も、イギリスでは30年間のバラ戦争、フランスは60年間も神聖ローマ帝国と戦争を続けています。
それが一段落したかと思ったら、1618年から1659年までいわゆる30年戦争で、ヨーロッパ大戦がくり広げられます。
ざっくり言えば、14世紀から17世紀まで、ずっ~と戦争をしていたわけです。
今の日本にあてはめると、赤穂浪士が討ち入りしていた時代から今日まで、ずっと戦争をしているようなもんです。
どんなに国内がぐちゃちゃになったか、想像を絶します。
しかも、この時代の戦争は、王家の継承権をめぐる争いで、民衆にとってはいかなる意味においても何の利益もないのです。
この血塗られた300年間が、英仏を民主主義の魁(さきがけ)としたことに無関係なわけがありません。
17世紀において、国民の国家という概念が生まれ、啓蒙思想、社会契約論、そして民主主義が生まれます。
300年にわたる戦争への恨みと、ボロボロになった社会でなんとかして生き延びるための知恵、それは妥協です。
自分にとっての正義をどこまでも振りかざせば、何百年も戦争が続いてしまう。それをしないためには、妥協をするしかない。どうにかして落とし所をみつける妥協の技術。戦争でボロボロになるよりは、悔しいけれど妥協を納得するための技術。それこそが民主主義だったのです。
■戦後民主主義という幻想
ところが、日本においては、民主主義は全く違う形で根付いてしまいました。
米国様にいただいた「戦後民主主義」です。
最低最悪の侵略と敗戦から、血と涙で自ら民主主義をつくり出すかわりに、安直に「戦後民主主義」をプレゼントされてしまった日本。そのせいで、日本における民主主義は「生きるための苦渋の選択」「命を守る妥協の技術」ではなく、ほんわかした理想の姿として舞い降りてしまったのです。
それを信じ込んだ「革新」と、そのカラクリを知っている「保守」が、見せかけの対立構造を作る55年体制において、万年野党と自民党独裁が続きます。
そんな民主主義幻想と表裏一体の自民党独裁を壊したのが、小沢一郎です。
彼は、常々「日本に民主主義を根付かせる」と言い続ける民主主義原理主義であると同時に、民主主義の本質を理解していました。
決して理想ではなく、よりよい明日にするための妥協の技術としての民主主義をなんとか実現しようとし、ついに2009年の政権交代までこぎ着けます。
しかし、かれのプロパガンダの拙さという恨みも残しつつ、オザワイズムはほとんんど理解されることなく、民主党執行部の変節と裏切りにより、民主主義は幻想の彼方へ追いやられ、万年野党と自民党独裁の時代が舞い戻ってしまいました。
■れいわ新選組
日本における民主主義革命が崩壊した2012年以降、唯一の希望は山本太郎によるれいわ新選組の立ち上げでした。
小沢一郎を師とあおぎ、ともに自由党の共同代表をつとめた山本太郎は、小沢の説く本来の民主主義を理解していました。
私自身が太郎さんをウォッチし、ときに直接話をした実感から、それは間違いないと思います。
だから、2019年のれいわ新選組立ち上げには、無謀だと思いながらも大いに期待し、自分でもできるだけのことはやりました。
結果、220万票を獲得。大躍進ではあるけれども、目標の2/3という微妙な結果になります。
れいわ新選組の迷走は、ここから始まった、と私は見ています。
政治にも人生にも絶望していた人が、れいわ新選組に期待して立ち上がった2019年のれいわ新選組一揆は、私自身が身をもって体感したので、ウソではないと分かります。
その一方で、3年間で3度の国政選挙を経ても、その220万人から一歩も広がっていないことも事実です。
ハッキリ言えば、れいわ新選組の戦略ミスと言わざるを得ません。
ここからは、れいわ新選組支持者の皆さんから袋だたきにされるかも知れませんが、それでもれいわ新選組と山本太郎に期待するからこそ、書き続けます。
れいわ新選組の迷走と戦略ミスは、220万を失いたくないばかりに、次の一歩に進んでいけないということです。
自由党から独立したことで、澎湃(ほうはい)と湧き上がってきた220万人の支持者は、ある意味で「純粋れいわ新選組」であり、妥協を許さない「れいわ新選組の理想」を支持する人々です。
れいわ新選組が「共闘」とか「妥協」のような素振りを見せるやいなや、愛想を尽かして去ってきかねません。
れいわ新選組と山本太郎は、220万人を守ることを優先してしまいます。
いつ実現できるのかわからない理想を掲げ、政権交代という言葉はいつの間にか霧散消滅し、その純粋理想主義についてきてくれる220万人に支持されるための政党になっていきます。
しかし、多くの有権者は現実的です。
政権取れる可能性の全く見えない政党の言うことには、なかなか耳を貸してはくれません。
220万の壁を大きく越えられないのは、必然なのです。
■れいわ新選組が躍進するためには
政党が躍進するためには、大きく三つの要素があると考えています。
ひとつは、多くの人に支持される政策を掲げること
ふたつは、それが実現できるかも、というリアリティを感じさせること
みっつめには、キャスティングボートをにぎること
れいわ新選組は、ひとつめは微調整で十分です。
決定的に欠けているのが、二つ目と、三つ目です。
政策のリアリティとは、すなわち政権交代のリアリティです。
いい政策であるほど、政権交代しなければ実現しないことは、有権者は痛いほど分かっています。
「れいわ新選組を支持しない有権者はバカだ」的な議論もれいわ新選組支持者の間に見られますが、バカはっどっちだと自省する必要があります。
あのフランス革命の時代でも、政権を握ったのは「平原派」別名「沼沢派」というどっちつかずの中道派を獲得した勢力なのです。
ゆるゆるの中道派を罵倒し、ダメな野党と罵っているだけでは、政権は握れません。
少しでも自前の政策を貫きつつ、なんとかして中道派を獲得すること、少なくとも全力でその努力をしていることを、有権者に見せること、それが、今れいわ新選組に求められることです。
キャスティングボートは、より妥協の度合いが大きくなります。
政策実現にむけてという意味では、まだ今のれいわ新選組は小さすぎてキャスティングボートも握ることはできません。
それでも、それぞれの政策や、それぞれの選挙区など、個別事情の中ではそういう重みをもって交渉できる場面はゼロではありません。
少々妥協してでも実をとる。政権交代に近づける。
今のれいわ新選組には、そういう意識がまったく感じられません。
根拠なしの「がんばれば勝てる」は 神風特攻隊の精神です。
今のれいわ新選組を見ていると、そのような危なっかしさを感じざるを得ません。
■ガス抜きではない本当の民主主義を
「国会のパフォーマンスでガス抜きではダメなんだ」、と言って山本太郎はれいわ新選組を立ち上げたはずです。
その根本に立ち戻ってもらいたい。
220万の支持者に、民主主義とは何なのか、本当に人々を救うためにはどうすべきなのか、怖がらず、諦めず語りかけ、ともに学ぶことが、れいわ新選組と山本太郎に求められている。私はそう考えます。
再度言います。民主主義は、膨大な人類の血をもって生み出された妥協の方法です。命を守るための技術です。理想でも正義でもありません。
だからこそ、危機に瀕するかけがえのない命を守れる可能性があるのです。
絵に描いた餅は、誰の命も救うことはできません。
このまま220万人の仮想都市の城壁の中で生き延びるのではなく、理想を高く掲げつつ、大胆に現実世界に突き進んでもらいたい。
太郎さん、2000万人にむかってダイブしませんか。

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ダメ教育がダメ社会を産む





私は数学というのがどういうものなのかよく分からないのだが、微分とか積分とか行列とか、本当に現実社会で使われているのだろうか。まあ、科学者や研究者になるのなら分かるが、たとえば医者になるのに高等数学が必要だとはまったく思えない。大学で無理なカリキュラムをやらせるより、高校段階から医者教育をさせればいいのではないか。あるいは、IT専門家ですら、数学が本当に必要だとは思えない。大学が不要という点では法律も同じである。
この前、坂村健の「痛快! コンピュータ学」という文庫本を読んだが、一部は飛ばし読みをしたものの、大体は理解できた。
非常に極端に言えば、2進法と「and,or,not」だけの使用でコンピュータのプログラムが作れるということだ。
私が理解できたということは、平均的な高校生でも楽に理解できると思われる。つまり、入門書数冊を読めば、たいていの高校生がプログラマーになれ、そうすると未来のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスになれる可能性もあるわけだ。逆に言えば、日本は「理系を無意味に難しくしている」ために、理系の窓口が異様に狭くなり、社会の発展性を失っているのではないか、と推定できる。
これからは、chatGPTで人間の代用ができる分野がどんどん増えるだろう。裁判官など、偏見と打算と権力者への遠慮に満ちた人間よりchatGPTのほうがまともな判決を出してくれるとすら私は推定している。医者も同様だ。つまり、記憶と現実事象の照合で答えを出す分野においては、もはやAIのほうが人間よりはるかに優れていると見ていいと思う。だが、AIには創造性は無い。想像性もない。あるのは、単に超人的な記憶力だけだ。つまり、これからの世界は想像性と創造性に優れた者が社会を率いていく、いや、そうでなければならないだろう。そういう時代に向けて、今のような高校や大学の在り方が対応できるとはとても思えない。



(以下引用)

日本が理系離れ加速してる理由って「これ」だよね

 

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1:風吹けば名無し :2023/08/10(木) 12:00:37.87ID:Ws7vifjIp
結論から言うと日本の高校数学(大学入試)があまりにも難しすぎるからに他ならない
そのうえ試験の時間制限が非常に厳しいので、当然ながら世の中の9割以上はこんなの無理ゲーすぎて数学アレルギーになっておしまいっていう

特に近年はセンター試験・共通テストが異常なほどのタイムアタックテストになっているから上位校の生徒でさえ対応できない子が増えていて、理系離れがますます加速している模様
そりゃセンター共テが無理ゲー化しているなら理系科目は全捨てして名門私文を目指す方が圧倒的に賢い選択肢だからね

では理系を増やすにはどうすれば良いのか?と言えば、その逆をするしかない
つまり高校数学や大学入試を簡単にする

アメリカのセンター試験と言われるSATを見てみればわかるけど、それこそ日本の高卒認定試験より簡単だったりする
冗談抜きで、三角形∠ABCのAが73° Bが82°の時、Cの角度は何度ですか?みたいな問題が平然と出てくる
そしてそんなテストで9割~満点取って自分は数学が得意だと自信をつけて大学で理系に進むのがアメリカの学生

日本も本気で理系の少なさや理系離れを憂うならこうするしかない



2:風吹けば名無し :2023/08/10(木) 12:00:52.34ID:Ws7vifjIp
間違いなくこれが原因


4:風吹けば名無し :2023/08/10(木) 12:02:24.06ID:S8/aUZpu0
正解


5:風吹けば名無し :2023/08/10(木) 12:03:51.24ID:z/LHuHyId
好きな学問好きなまま学んでいってある程度で大成したらええと思うけどな
若いうちに篩にかけすぎやね

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利己主義と利他主義と社会主義

「徽宗皇帝のブログ」に載せたアイン・ランドについての記事の一部を検討してみる。まあ、趣味的考察である。
最初に言っておけば、ランドの「オブジェクティビズム」という言葉は、言葉自体が不適切である。「物体主義」や「対象主義」が意味不明なのはもちろん、「目的主義」でも意味不明で、下の文章を読むと「自己目的主義」とでもいうニュアンスのようだ。「自分自身(の幸福)が人生の最大の目標である」というのなら、それに反対する人はほとんどいないだろう。だが、そうすると他人の利害との衝突が当然出て来るわけで、結局は「利己主義」は正しいか、という問題に帰着する。
もちろん、利己主義の衝突は無限の闘争と暴力による支配・服従関係にしかならないわけである。では、「利他主義」はどうかと言えば、それも「自分の利益」を無視した利他主義など、聖人君子にしか不可能な話である。となると、結局は自分の利益と社会全体の利益を案配するという「社会主義」しか正解は無いのである。しかしまた、「社会全体の利益」が「独裁政党や独裁政府の利益」とすり替えられることもしばしば起こってきたことだ。それに、経済面では計画経済(社会主義)は自由主義経済(資本主義)に敗北してきたのがこれまでの歴史である。
まあ、毎度言うが、社会主義精神によって抑制された資本主義が一番の正解だろう。究極の自由主義とは、いかに紳士の服装をしていても、野獣の世界なのである。


(以下引用)


ほとんどのプロの哲学者は、ランドのオブジェクティビズム理論を笑っています、なぜならそれは美徳の合理的で客観的な理論を生み出すと主張しているが、誤謬、不特定の用語、および非セクチュアに満ちているからです。ランドの話し方はこうだ。



人間、すべての人は自分自身の目的であり、他人の目的への手段ではありません。彼は自分のために生きなければならず、他人に自分を犠牲にしたり、他人を自分自身に犠牲にしたりすることはありません。彼は自分の人生の最高の道徳的目的として彼自身の幸福の達成とともに、彼の合理的な自己利益のために働かなければなりません。


ランドは、彼女が「利己主義」について話すとき(彼女の著書「利己主義の美徳」のように)、これが彼女の意味であり、「人間が好きなようにする」ためのライセンスを与えていないと言います。彼女は、「自分の利益のために取られる行動は悪であり、自分の利益のために取られる行動は悪である」という考えを単に拒否していると言います。彼女は、人々が自分の意味を「利己主義」とは考えていないが、「私が『利己主義』で意味していることが慣習的に意味されているものではないことが本当なら、これは利他主義の最悪の告発の1つです。利他主義は自尊心のある自立した人の概念を許しません。」何が起こるかというと、ランドは「利己主義とは自尊心を意味するだけです」と言いますが、実際にこれが何を意味するのかを実際に定義するときはいつでも、それは次のように聞こえてしまいます...ただの利己主義。彼女は他人の苦しみを気にしていないようで、言葉の従来の意味で「利己的」に見える多くの行為(あなた自身が贅沢に暮らしているにもかかわらず、労働者にまともな生活を送る余裕がないほど少ない賃金など)に問題はありません。

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