もう「いじめ」という言葉、止めにしませんか? 暴行・傷害・恐喝・脅迫・自殺幇助という立派な刑法犯ではありませんか? 事実認定されたのなら迷わず警察・検察に告訴・告発すべきです。 そうでなければいつまで経っても、子どもの喧嘩レベルとしてスルーされてしまいますよ。 学校や教育委員会は矯正施設ではないのですから、過大な期待を持ってはダメだと思います。
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気の赴くままにつれづれと。
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北一輝「日本改造法案大綱」 |
北一輝の著作といえば、23歳のときに書いた「国体論及び純正社会主義」と大正八年36歳のときに書いた「日本改造法案大綱(原題は"国家改造案原理大綱"」が双璧である。前者は1000ページに及ぶ大著であり、北の思想を理解するには必読とされるが、なにせ大部の本にありがちな散漫なところが目だち、読了するのが苦痛だとされるのであるが(筆者は未読)、後者は題名から類推できるようにプロパガンダ風の綱領文書なので、読了するのに時間はかからないが、その主張の背景が丁寧に説明されているわけではないので、これを読んだだけでは、北の思想の要諦はかならずしも理解できないかもしれない。にもかかわらずこの著作は非常な反響を呼んだのであって、日本の国家社会主義思想(日本型ファシズム)を論じるには、外すことができない。 北はこの本を大正八年に上海で書き上げた。その折の題名は前述の通り「国家改造案原理大綱」である。北はその原稿を大川周明に託して日本で刊行しようとしたらしいが、官憲による頒布禁止処分を受けて断念した。その後大正12年に、一部を修正し、「日本改造法案大綱」と題して出版した。その本にも検閲の跡が「何行削除」と言う形で及んでいるが、それらは天皇はじめ統治機関にかかわるものが主で、その部分の行間を何等かの形で補えば、北が何を主張しているか、大意は理解できる。なお、初稿を謄写刷りにしたものが一部に出回り、それなりの反響を惹き起こしたといわれる。若き日の岸信介も、その謄写刷りの版を読んで大いに影響された者の一人である。 この本を本当に理解する為には、北一輝の思想の全体像を理解しておく必要があると思うが、ここではとりあえず、この本から読み取れる文意をもとに、彼の言いたかったことを取り上げてみるにとどめたい。 北がこの綱領的文書の中で主張していることの基本的内容は、「緒言」にもあるとおり、「全日本国民の大同団結を以て、終に天皇大権の発動を要請し、天皇を奉じて速やかに国家改造の根基を全う」することである。この考え方を踏まえ、綱領の第一章第一条に相当する部分は、「大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を敷く」とされていた(この部分は検閲によって削除)。 要するにクーデターを通じて現行の統治システムを停止し、あらたな国づくりをしようということである。その国づくりは天皇の大権を奉じることによって実行される。つまり、天皇みずからが国家改造の形式的な主体となるわけである。これを政治学の用語で「自己クーデター」というが、北の場合には、天皇を形式的に奉じてはいても、実質的には自分たちで権力を独占している勢力を駆逐して、新たな政治勢力が名実共に天皇中心の新たな国を作ろうと言っているところが面白い。そのクーデターを担うべき新たな政治勢力の実態はいまひとつあきらかでないのだが、それは今現在権力を握っている勢力を倒すことが出来れば誰でもよいということのようである。北はとりあえず、現役の軍人や在郷軍人会に大きな期待をかけているようであるが、それは、この人々が大資本や大地主のような経済的な利害関係に縛られていないと考えたからだと思われる。 綱領(法案)の構成が天皇についての規定から始まっているのは、大日本帝国憲法と同じである。大日本帝国憲法と根本的に異なるのは、天皇を国家の主権者として位置づけるのではなく、国家の代表としているところである。つまり天皇は国家の構成員としては国民と同じ位置づけなわけである。この書物の中で一番伏字が多いのは天皇に関する部分であるが、それも無理はない。北の主張は、天皇制権力に対する重大な挑戦と受け取られてしかるべきところがある。 国民は天皇に対して、ある意味平等に近い立場に立つわけだが。国民相互の間では、平等はもっと徹底される。華族制の廃止や普通選挙の規程がそれをあらわしている。また北は、私有財産の制約についてかなりマニアックに記述しているが、これも国民の間での平等を担保する為の方策と考えられる。しかし、財産の全面的な国有とか共有とか言うことは幼稚な社会主義的思想として拒絶している。人は一定の財産が保証されてこそ、自立的な国民たりうると考えるからだ。その辺は自身が中産階層の出自であった北の皮膚感覚ともいうべきものが働いているところだろう。 国家と国民との関係は、国家による国民の庇護というイメージで貫かれている。国家は自ら大資本・大地主となり、その収益を財源にして国民を庇護すべき財政的な裏づけとする。また国家は労使関係に介入し、資本が労働者を抑圧することのないよう目を配る。同じようにして借地農業者(小作人)の権利も保護される。婦人や児童もまたそれぞれの局面において国家によって丁寧に庇護される。国民にして他の国民の権利自由を侵害したものには厳罰が課せられる。 一方国民は国家に対して様々な義務を負うわけであるが、北の面白いところは、国民の義務を強調することで国権を反射的に強化するにとどまらず、国家の国民に対する権利を積極的に主張するところである。徴兵制の権利および開戦の積極的権利がその中心であるが、これらは何も国家の権利として規定しなくとも成り立つはずのものである。それをわざわざ国家の権利として規定するところが北の国家主義者としての面目に属するのだろう。 内政にかかわる部分と並んで対外政策の要諦についても、わざわざ一章を割いて言及している。北の対外政策の特徴は、積極的膨張主義ともいうべきもので、日本が膨張して行く先として、朝鮮半島はもとより、満州、東シベリアにも及ぶ。さすがに中国大陸を領有しようとまでは言わないが、オーストラリアは日本の領土とすべきだと主張する。対外膨張は20世紀のファシズムに共通する特徴だと言われるが、北にもその特徴がよく現れているわけである。 日本の対外膨張は国際的な緊張をもたらすことになる。そこで北は、対英米戦争の可能性を論じたり、それにロシアが付け込んで日本の大陸権益を掠め取ろうとするかもしれぬと心配してみたりした挙句、日本は米英露支の四カ国とゆくゆく対決する運命にあるというようなことを言う。結局そうなってしまったことは、歴史の物語るとおりである。 こんな風に整理してみると、北は内政面で国家中心主義的な政策を主張する一方、対外的には積極的膨張主義を主張したということになる。この二つの特徴は、20世紀のファシズムに共通するものであるから、我々が北を日本型ファシムズの思想家と呼ぶには十分な理由があるということになろう。 |
もう「いじめ」という言葉、止めにしませんか? 暴行・傷害・恐喝・脅迫・自殺幇助という立派な刑法犯ではありませんか? 事実認定されたのなら迷わず警察・検察に告訴・告発すべきです。 そうでなければいつまで経っても、子どもの喧嘩レベルとしてスルーされてしまいますよ。 学校や教育委員会は矯正施設ではないのですから、過大な期待を持ってはダメだと思います。
私も小学生の頃、いじめられていた子をかばっていたことがあったけど、次は私がいじめられるようになった。 かばっていた子もいつの間にかそちらのチームに加わり、助けてくれることはなかった。 耐えきれず学校を飛び出したこともあったけど、慌てて担任が追いかけてきてマンション敷地で捕まり連れ戻された。 誰も助けてくれない、親にも言えない。 何とか耐えて中学校に入学し、いじめはなくなりましたが、今も私の手首には切り傷の痕が残っています。 死んだら親が悲しむとかよりも、死ぬことによって私のいじめに関わった奴ら全員困って人生めちゃくちゃになればいいと、憎悪の気持ちだけでした。 今はかわいい子供を2人授かり幸せです。あんな奴らのために死ななくてよかったと思います。 いじめは絶対ダメだと伝えていますが、いじめりている子を守れと言えません。 時代が変わっても、いじめは変わっていない。
自殺未遂を繰り返しているということなので、当然ながら重大事態認定がなされ弁護士などの第三者も含めたいじめ対策委員会などが組織されているはずですが、その組織的な動きにおいてこのような「謝罪の会」を設けることが決められたのでしょうか。だとしたら学校現場の常識としてちょっとあり得ない。 当事者がいじめを認めていないから、ではありません。認めていたとしても、自殺未遂を繰り返す被害者に加害者やその関係者を会わせるということは、普通はしない。学校と対応した教員は基本的な手続きを怠っているという意味で懲戒に値すると思いますが、それだけでなく、もし対策委員会が作られているのなら、その組織自体が糾弾されてしかるべきです。 また、その組織が作られていないのだとしたら、これもまたいじめ防止対策推進法に反しているということで、罪が一つ増える。
ほとんどのプロの哲学者は、ランドのオブジェクティビズム理論を笑っています、なぜならそれは美徳の合理的で客観的な理論を生み出すと主張しているが、誤謬、不特定の用語、および非セクチュアに満ちているからです。ランドの話し方はこうだ。
人間、すべての人は自分自身の目的であり、他人の目的への手段ではありません。彼は自分のために生きなければならず、他人に自分を犠牲にしたり、他人を自分自身に犠牲にしたりすることはありません。彼は自分の人生の最高の道徳的目的として彼自身の幸福の達成とともに、彼の合理的な自己利益のために働かなければなりません。
ランドは、彼女が「利己主義」について話すとき(彼女の著書「利己主義の美徳」のように)、これが彼女の意味であり、「人間が好きなようにする」ためのライセンスを与えていないと言います。彼女は、「自分の利益のために取られる行動は悪であり、自分の利益のために取られる行動は悪である」という考えを単に拒否していると言います。彼女は、人々が自分の意味を「利己主義」とは考えていないが、「私が『利己主義』で意味していることが慣習的に意味されているものではないことが本当なら、これは利他主義の最悪の告発の1つです。利他主義は自尊心のある自立した人の概念を許しません。」何が起こるかというと、ランドは「利己主義とは自尊心を意味するだけです」と言いますが、実際にこれが何を意味するのかを実際に定義するときはいつでも、それは次のように聞こえてしまいます...ただの利己主義。彼女は他人の苦しみを気にしていないようで、言葉の従来の意味で「利己的」に見える多くの行為(あなた自身が贅沢に暮らしているにもかかわらず、労働者にまともな生活を送る余裕がないほど少ない賃金など)に問題はありません。
私は、そうした図書館での書籍の貸し出しについて罪悪感をまったく覚えていない。ひとつには私が小さい頃から図書館で本を借り続け、その恩恵を受けてきたからだが、もうひとつには、私が借りることでその書籍の運命が変わるかもしれない……というものもある。
どういうことかというと、図書館の書籍って借りてあげないと処分されちゃうことがままあるよう、思われるからだ。
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