忍者ブログ

人生の外部委託

「隠居爺の世迷言」過去記事のひとつで、文学関係記事だが、現代文明論として面白い。
私がこれを読んで思ったのが「外部委託」の問題、ビジネス用語では「アウトソーシング」とかいう奴だ。現代の人間は自分の能力をかなりアウトソーシングしている。分かりやすく言えば「他人任せ」にしているということだ。
私が今書いているこの文章も、言葉の漢字変換をパソコンに任せている。昔なら、自分の脳の中にある語彙で文章を書いたが、今の人間の語彙や知識はネットから適当に探すのである。だから無惨な言葉間違いがネットには溢れている。
歩くことは自動車や電車任せだから、足が弱くなる。歩かない代わりに、ジムに通って高いカネを払って運動したりするが、それはまあ外部委託ではないだけマシか。
メシはコンビニ弁当かハンバーガーで済ます。自分で料理したら台所が汚れ、片づけや掃除か面倒だから、食事は自分では作らないわけだ。
外部委託の最たるものは実は教育だろう。これはほとんどの人が昔から外部委託していた。まあ、家庭教育というのもあったが、それは家事や道徳だけだろう。

で、結論は無い。我々は、自分の人生の重要部分を外部委託しているのではないか、と問いかけるだけである。幸い、物事を考えることだけは本質的には外部委託できない。やっているのはただ「判断を他人任せにする」だけである。


(以下引用)

夢十夜(第六夜) 夏目漱石



テーマ:

前回夏目漱石のことを取り上げたので、その勢いで「夢十夜」の第六夜について考えてみたい。この第六夜は地味な話であるが、難解なことについては他と同様である。以下あらすじをご紹介するが、短いので「青空文庫」ですぐに読める。

なお、これまで当ブログでは第一夜と第十夜を取り上げて書いたことがある(夢十夜(第一夜) 夏目漱石)(夢十夜(第十夜) 夏目漱石)
 
    ーーーーーーーーーーーーーーー

第六夜

運慶(平安末~鎌倉初期に活躍した仏師。名匠。)が仁王を彫っているという評判なので行ってみると、鎌倉時代と思われる護国寺の山門で、明治の見物人が大勢集まっている。

運慶は見物人を気にすることなく、ノミと槌で一生懸命に彫っている。自分が「よくあんなに無造作にノミを使って、眉や鼻ができるものだな」と独り言のように言うと、一人の若い男が、「あれはノミで作るんじゃない。木の中に埋まっている眉や鼻を掘り出しているんだ。土の中から石を掘り出すようなものだ。」と言った。

自分は、彫刻とはそんなものかと思い、それならば誰にでもできるはずだと考えた。そして、自分も仁王を彫りたくなり、見物をやめて家に帰った。

道具箱から金槌とノミをとり出し、裏庭にあった薪にするつもりで置いてあった手ごろな大きさの樫の木を選んで、勢いよく彫り始めた。しかし、不幸にして仁王は見当たらなかった。その次のにも、3番目のにも仁王はいなかった。次々と彫ってみたが、どれにも仁王はいなかった。

結局、明治の木には仁王が埋まっていないと理解した。それで、運慶が今日まで生きている理由もほぼ分かった。

    ーーーーーーーーーーーーーーー

これだけの話であるが、意味を汲み取ろうとすると難しい。おそらく、標準的な解釈などはないように思う。そこで、上の要約を私なりにさらに短くして箇条書きにしてみる。

① 昔の名人が一生懸命彫刻をしていたが、見ている限りにおいては簡単に見える。
② 自分にもできそうだったのでやってみたが、うまく行かなかった。
③ 今の時代でうまくやるのは無理で、それゆえ昔の名人が生き残っているのだろうと思った。

上記①と②であれば、誰しも思い当たることがあるはずだ。 彫刻に限らず、絵でも、スポーツでも、料理でも、ピアノでも、ゲームでも、上手な人がやっているのを見ると、大体は簡単に見える。あんな程度なら、自分もいつでもできるのではないかと思える。

しかし、実際にとりかかってみると、全く歯が立たないということがほとんどである。子供ですらバカにできないことが多く、ある程度熟練した子供というのは恐ろしく上手だったりする。

ところで、第六夜の運慶が彫刻を「掘り出している」という表現を見ると、運慶の作業がかなり定型化されているような印象を受ける。つまり、彫るに当たって一々構図を考えたり、彫りの深さや曲線を吟味したりすることなく、あらかじめ定型化、定式化された方法に従っているように思える。

これは、武道だと分かりやすい。柔道でも空手でも、繰り出す技は決まっている。戦うに当たって、一回一回自分で考え、編み出した技を使っているのではなく、すでに身に付けた型の中から選択してとっさに繰り出している。

型だから柔軟性や融通性に乏しいということでもない。私たちは普通は何の苦労もなく歩いているが、歩く動作も型というか、技というか、術というか、そんなものである。無意識で決まり切った体の動かし方をするが、石があればよけ、溝があればまたぐなど自由自在である。

おそらく、第六夜の運慶は、私たちが歩くがごとく仁王を彫っていたに違いない。加えて、歩く際に石をよけ、溝をまたぐがごとく、木の性質に合わせてノミを当てるのだろう。そのせいで面白いようにスムーズに木が削れ、まるで木の中に隠れていた仁王が出てきたように見えるのではないか。

ということで、①と②は名人の素晴らしさを書いたものということでひとまず納得しておく。残りの③はどのようなことになるだろうか。第六夜に則して言えば、「鎌倉時代の運慶が、生まれ変わって今の時代に再登場することはない」と理解していいかもしれない。

私などは、特に意識はしないものの、昔よりも今の時代は進歩していると漠然と思ってしまう。たしかに、科学技術の進歩により、様々なことができるようになった。遠くに行けるようになった、おいしいものも食べれるようになった、快適な家に住めるようになった、情報もたくさん手に入るようになった。

しかし、疑わなくてはならないことは、いろいろなことができるようになった分、できなくなったこともあるのではないかということである。例えば、江戸時代には車がなかった。人々は、東京から京都に行こうとしたときには歩くしかなかった。そして、江戸時代の人々は、東京から京都に歩いていくのに必要なものを身に付けていた。

歩く旅はつらく危険なこともあっただろうが、今とは違った旅の楽しみもあったに違いない。現在の私たちは簡単に短時間で長距離の旅をすることができるようになった一方で、東京から京都まで歩いて旅をする能力も、体力も、楽しみも失っているのである。

ここまで書いてふと思いついたのは、医者の能力低下である。今の医者は検査で病状を判断する。しかし、昔は検査などなかった。あったのは体温計、血圧計、聴診器、触診くらいのものである。まずはそれで判断を下した。今の検査漬けの医療と較べて精度は低かったはずだが、医者の直感力は何倍も鋭かったはずである。

それで、今回の新型コロナウイルス騒動も理解できる。さして役にも立たないあんなPCR検査をなぜ必要と騒ぐのか全く理解できなかったが、今の医者は検査がなければ何も分からないのである。また、新型コロナウイルスのように未知の病となると、データがないせいで何もできないのである。

私など、専門家でも何でもない者が、なぜ医者よりも新型コロナウイルスのことをよく分かるのか不思議でならなかったが、あるいは、医者はなぜ素人よりも能力が低いのか不思議でならなかったが、検査が発達した分、医者の能力が低くなったと考えていいのではないだろうか。昔の医者なら、新型コロナウイルスに感染した人を見て、その様子を観察して、どうすべきか判断できたが、今の医者はそれができなくなった。

能力が低くなったのは、医者ばかりではなく、政治家も、官僚も、マスコミも、国民もである。おそらく、50年前なら今回の新型コロナウイルスは何の騒ぎにもならなかったはずだ。なぜなら、被害が生じていないからである。50年前の日本人なら、被害のゼロのことで騒ぐことはなかったように思う。


 


ところが、現在は被害がなくても騒ぐ。私は昔の人間なので、その気持ちがちっとも分からないのだが、昔に較べて、ある面では日本人全体の能力が低くなったのではないかと思う。

私たちは、進歩した社会に暮らせば暮らすほど、また、便利で豊かな生活ができればできるほど、自分自身の人間としての能力を失い、理解や判断のできる範囲が狭くなっていると考えた方がいいのかもしれない。

時代を遡れば遡るほど、人間は生きていくのが大変だったはずである。しかし、その分、人々は神経を研ぎ澄まし、感覚を磨いて、できるだけ自分自身の能力を高めようとした。それゆえ、昔の方が今の人間よりも能力が高かったとしても不思議はない。

愚かになった現在の人間をもっと賢くするために、何かうまい解決法はないものだろうか。


 


拍手

PR

悪魔は美しい顔をしている

「櫻井ジャーナル」記事で、前半は面白い視点である。
後半は近現代世界史の本質を簡潔にまとめていて、高校生あたりの常識とするべき必読文章として読ませたい文章だ。まあ、要するに欧米は悪魔国家だということだ。ただし、世界から収奪した富で華麗な近代文明を作り、その影響が世界に及んでいるので痛し痒しである。

(以下引用)

2023.09.03

 
XML

拍手

親の親の親の代からの詐欺師一族が世界を支配

「櫻井ジャーナル」の少し前の記事の一部だが、現在の医学がロックフェラー支配下にあることはよく知られている。つまり、製薬会社支配である。そのロックフェラーの元祖が「偽薬品」販売で財を成したというのが面白い。「栴檀は双葉より芳し」の、悪い方の好例だ。

(以下引用)


破綻した国の国債を安値で買いあさり、満額で買い取らせるというのが「ハゲタカ・ファンド」のやり口。ウクライナにはIMFがカネを貸しているが、そのカネでファンドの要求通りに支払うことができる。債権者になったIMFは債務者である破綻国の政府に対して緊縮財政を要求、庶民へ回るカネを減らさせる。規制緩和や私有化の促進で国の資産を巨大資本に叩き売らせ、大儲けさせてきた。



 現在、欧米の金融資本はブラックロック、バンガード、ステート・ストリートをはじめとする「闇の銀行」が中心になっている。ウクライナの場合、西側から供給される兵器や「復興資金」の使い道についてアドバイスしているのがブラックロックだという。ブラックロックを率いるラリー・フィンクはウクライナとのウォロディミル・ゼレンスキー大統領と関係が深い。そのほか、JPモルガンやゴールドマン・サックスともゼレンスキー政権は協力関係にある。



 金融利権ではロスチャイルド、石油利権ではロックフェラーの名前が頭に浮かぶかもしれないが、クーデターが始まる前年である2012年の5月にジェイコブ・ロスチャイルドとデイビッド・ロックフェラーは手を組んでいる。ジェイコブ・ロスチャイルドが率いる投資会社RITキャピタル・パートナーズがデイビッド・ロックフェラーのロックフェラー・ファイナンシャル・サービシズが発行している株式の37%を取得すると発表したのだ。



 WHO(世界保健機関)はデイビッド・ロックフェラーの命令で創設されたと言われている。デイビッドの祖父に当たるジョン・D・ロックフェラーがロックフェラー財閥の祖と言われているが、その父親であるウィリアム・エイブリ・ロックフェラーは興味深い人物だ。



 19世紀のアメリカにはインチキ薬の販売を生業とする人物がいたが、そのひとりがウィリアム・レビングストン。石油をベースにした「万能薬」を売っていた。本人は癌の専門家だと名乗り、その薬は癌にも効くと言っていた。その薬を1瓶25ドル、その当時における平均的な収入の2カ月分に相当する金額で売っていたという。



 偽薬だということがバレると客からリンチされるが、レビングストンはそうした目にあっていない。ところが1849年、少女をレイプしたとして起訴されている。そして男の本名が明らかになった。ウィリアム・エイブリ・ロックフェラーだ。起訴される10年前に生まれた息子がジョン・D・ロックフェラーにほかならない。

拍手

関わるものをすべて汚染する世界の病原菌アメリカ

孔徳秋水氏は物の見方に偏りが多く、その文章も無意味な罵倒が多くて読者を選ぶ書き手だが、たまに鋭いことを言う。下のように、アメリカ批判をするときは、その言論のすべてが正しい。これは、他の書き手でも共通している気がする。つまり、アメリカというのは悪の帝国だから、その批判はすべて正当になる傾向があるわけかwww

(以下「バカ国民帝国日本の滅亡」から引用)
NEW !
テーマ:
公式ハッシュタグランキング:
ドイツ9

駐車違反の罰金は?…9000円でしたっけ?


 


前回、タバコの健康被害訴訟で州政府が勝ち取った賠償金が2000億ドルで、


 


州政府の赤字補填に使われたという一例を話しました。


 


2000億ドル、1ドル146円とすれば29.2兆円ですね。


 


 


イラク戦争のときにサダムからふんだくった分が300~400億ドル。


 


但し、非公開で、いくらふんだくったのかさえわからない。


 


 


日本企業も「贈賄だ」と訴えられて丸紅が5460万ドル(約42億円)とられ、


 


これが2012年1月である。


 


ブリジストンも石油輸送ホース販売で便宜を図ったとして2800万ドル(約22億円)


 


これは、2011年9月である。


 


プラント大手日揮もナイジェリアの液化天然ガス関係で2億1880万ドル(182億円)


 


これは、2011年4月である。


 


米国企業もドイツやフランスの企業もやられている。


 


 


罰金のなかで「最大」とされるものは、89億7360億ドルで、


 


タバコの賠償金よりも、サダムの蓄財よりも少額ではあるが、


 


それでも9422億2800万円の額になる。


 


 


標的は欧州最大の銀行であるフランスBNPパリパで、


 


スーダン、キューバ、イランのために行ったドル送金業務について、


 


米国制裁法違反だとされたのだった。


 


支払わないと、米国での銀行業務の免許が取り消されると警告された。


 


 


ノルマンジー上陸作戦70年の記念式典の日(2014年6月6日)、


 


ホスト役のフランス大統領フランソワ・オランドがオバマ相手に抗議していた。


 


法外な金額にフランス国民も激怒。


 


オバマは「法の支配」を気取って、この抗議を無視した。


 


大統領は司法の捜査にクチを挟まないのだと…


 


 


フランスが、今回のBRICSに興味を示しているのも「なるほど」である。


 


 


オランドは米司法省捜査と聞いた直後の2014年4月に


 


オバマに親書を出し、米国の捜査の不当性を訴えるキャンペーンを張っていた。


 


 


国内法の国外適用は認めがたい国際慣習違反だった。


 


しかし、一か月もたたぬうちにパリパは全面屈服した。


 


 


結局、そうした送金業務は必ずニューヨーク銀行を経由する。


 


その時点で、米国法が発動してしまうのである。


 


 


くわしく本に書いてあるが、ブログにするにはちょっと長すぎる。


 


当ブログが、ここで警告したいのは、


 


金融も通信も同じリスクがあるという点である。


 


 


金融で米国経由のネットワークにつながれば米国法に金融が支配され


 


通信で米国経由のネットワークにつながれば、やはり米国法に支配される


 


…ということである。


 


 


そもそもインターネットは、米軍のシステムであった。


 


それを「民間用に開放」したという。


 


 


つまり、


 


インターネットの主権自体が米軍に握られているのである。


 


 


我々がネットにつながればつながるほど、衛星を打ち上げれば打ち上げるほど、


 


それは米軍の主権を強化していく。(そこに市民の主権はない)


 


 


それで「平和」になるならいいが?


 


目の前に展開している事実は、すべてその正反対である。


 


 


日本は、核やバイオ兵器の実験場にされている。


 


25年から30年に一回くらい事故があってくれると都合がいいのだろう。


 


データが取れるから。


 


 


2011+25=2036年…


 


「震度6以上の揺れに耐えた日本の原子炉はひとつもない」と武田教授。


 


次の東南海地震で西日本の原発がすべてやられる…


 


すると、日本人はみな「移民」となって海外へ逃れていく。


 


 


それはかつて、


 


「自国」を失って奴隷の日々を送ったイスラエルの民の運命そのものである。


 


 


米国は中南米といい、中東やアフリカといい、


 


国家元首を「独裁者」呼ばわりしては戦争を仕掛け、国家を破壊してきた。


 


 


そうやってできた移民が、アメリカや欧州に流れて行っていった。


 


 


昔の彼らは、奴隷を捕まえて売買していたが、いまは国を潰せばよいだけだ。


 


そうすれば、いくらでも移民を供給できる。仕事するチンピラにも事欠かない。


 


 


しかも移民の方からカネを払い、「逃がしてくれ」と頼んでくる。


 


まったく「カモがネギをしょってくる」とは、このことである。


 


 


女たちに売春させるのも、このようにすればカンタンというわけだ。


 


表向きは「女性の人権」と繰り返しておけば、だれも怪しまない。


 


 


私のような者たちのクチさえ封じておけばよいのである。


拍手

北一輝による「象徴天皇制」の先取り

壺斎散人氏による北一輝の「日本改造法案大綱」の解説である。
私もウィキペディアにあるそれを読んだことがあると思うが、漠然とした理解にとどまっており、こうした解説は役に立つ。
私が北一輝に一番親和力を感じるのは天皇の位置付けである。あの、天皇神格化の時代に、現在の「象徴天皇制」(下の引用文での「国家の代表」とは、まさにそれである。)に等しい「権力ではなく権威的存在」の位置付けをしたのは慧眼だと思う。これこそまさに歴史的に見た、天皇本来の在り方だからだ。ただし、危機の時には「天皇大権」を持っている、というところが「政治的装置としての天皇」の特色、あるいは強力な可能性なのである。そして、「自分は国家の代表である」という意識が、天皇を天皇らしい人格へと作るのであり、それこそが「天皇という制度」の最大のメリットであるのだ。

大日本帝国憲法と根本的に異なるのは、天皇を国家の主権者として位置づけるのではなく、国家の代表としているところである。つまり天皇は国家の構成員としては国民と同じ位置づけなわけである。

(以下引用)


北一輝「日本改造法案大綱」




北一輝の著作といえば、23歳のときに書いた「国体論及び純正社会主義」と大正八年36歳のときに書いた「日本改造法案大綱(原題は"国家改造案原理大綱"」が双璧である。前者は1000ページに及ぶ大著であり、北の思想を理解するには必読とされるが、なにせ大部の本にありがちな散漫なところが目だち、読了するのが苦痛だとされるのであるが(筆者は未読)、後者は題名から類推できるようにプロパガンダ風の綱領文書なので、読了するのに時間はかからないが、その主張の背景が丁寧に説明されているわけではないので、これを読んだだけでは、北の思想の要諦はかならずしも理解できないかもしれない。にもかかわらずこの著作は非常な反響を呼んだのであって、日本の国家社会主義思想(日本型ファシズム)を論じるには、外すことができない。

北はこの本を大正八年に上海で書き上げた。その折の題名は前述の通り「国家改造案原理大綱」である。北はその原稿を大川周明に託して日本で刊行しようとしたらしいが、官憲による頒布禁止処分を受けて断念した。その後大正12年に、一部を修正し、「日本改造法案大綱」と題して出版した。その本にも検閲の跡が「何行削除」と言う形で及んでいるが、それらは天皇はじめ統治機関にかかわるものが主で、その部分の行間を何等かの形で補えば、北が何を主張しているか、大意は理解できる。なお、初稿を謄写刷りにしたものが一部に出回り、それなりの反響を惹き起こしたといわれる。若き日の岸信介も、その謄写刷りの版を読んで大いに影響された者の一人である。
この本を本当に理解する為には、北一輝の思想の全体像を理解しておく必要があると思うが、ここではとりあえず、この本から読み取れる文意をもとに、彼の言いたかったことを取り上げてみるにとどめたい。

北がこの綱領的文書の中で主張していることの基本的内容は、「緒言」にもあるとおり、「全日本国民の大同団結を以て、終に天皇大権の発動を要請し、天皇を奉じて速やかに国家改造の根基を全う」することである。この考え方を踏まえ、綱領の第一章第一条に相当する部分は、「大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を敷く」とされていた(この部分は検閲によって削除)。

要するにクーデターを通じて現行の統治システムを停止し、あらたな国づくりをしようということである。その国づくりは天皇の大権を奉じることによって実行される。つまり、天皇みずからが国家改造の形式的な主体となるわけである。これを政治学の用語で「自己クーデター」というが、北の場合には、天皇を形式的に奉じてはいても、実質的には自分たちで権力を独占している勢力を駆逐して、新たな政治勢力が名実共に天皇中心の新たな国を作ろうと言っているところが面白い。そのクーデターを担うべき新たな政治勢力の実態はいまひとつあきらかでないのだが、それは今現在権力を握っている勢力を倒すことが出来れば誰でもよいということのようである。北はとりあえず、現役の軍人や在郷軍人会に大きな期待をかけているようであるが、それは、この人々が大資本や大地主のような経済的な利害関係に縛られていないと考えたからだと思われる。

綱領(法案)の構成が天皇についての規定から始まっているのは、大日本帝国憲法と同じである。大日本帝国憲法と根本的に異なるのは、天皇を国家の主権者として位置づけるのではなく、国家の代表としているところである。つまり天皇は国家の構成員としては国民と同じ位置づけなわけである。この書物の中で一番伏字が多いのは天皇に関する部分であるが、それも無理はない。北の主張は、天皇制権力に対する重大な挑戦と受け取られてしかるべきところがある。

国民は天皇に対して、ある意味平等に近い立場に立つわけだが。国民相互の間では、平等はもっと徹底される。華族制の廃止や普通選挙の規程がそれをあらわしている。また北は、私有財産の制約についてかなりマニアックに記述しているが、これも国民の間での平等を担保する為の方策と考えられる。しかし、財産の全面的な国有とか共有とか言うことは幼稚な社会主義的思想として拒絶している。人は一定の財産が保証されてこそ、自立的な国民たりうると考えるからだ。その辺は自身が中産階層の出自であった北の皮膚感覚ともいうべきものが働いているところだろう。

国家と国民との関係は、国家による国民の庇護というイメージで貫かれている。国家は自ら大資本・大地主となり、その収益を財源にして国民を庇護すべき財政的な裏づけとする。また国家は労使関係に介入し、資本が労働者を抑圧することのないよう目を配る。同じようにして借地農業者(小作人)の権利も保護される。婦人や児童もまたそれぞれの局面において国家によって丁寧に庇護される。国民にして他の国民の権利自由を侵害したものには厳罰が課せられる。

一方国民は国家に対して様々な義務を負うわけであるが、北の面白いところは、国民の義務を強調することで国権を反射的に強化するにとどまらず、国家の国民に対する権利を積極的に主張するところである。徴兵制の権利および開戦の積極的権利がその中心であるが、これらは何も国家の権利として規定しなくとも成り立つはずのものである。それをわざわざ国家の権利として規定するところが北の国家主義者としての面目に属するのだろう。

内政にかかわる部分と並んで対外政策の要諦についても、わざわざ一章を割いて言及している。北の対外政策の特徴は、積極的膨張主義ともいうべきもので、日本が膨張して行く先として、朝鮮半島はもとより、満州、東シベリアにも及ぶ。さすがに中国大陸を領有しようとまでは言わないが、オーストラリアは日本の領土とすべきだと主張する。対外膨張は20世紀のファシズムに共通する特徴だと言われるが、北にもその特徴がよく現れているわけである。

日本の対外膨張は国際的な緊張をもたらすことになる。そこで北は、対英米戦争の可能性を論じたり、それにロシアが付け込んで日本の大陸権益を掠め取ろうとするかもしれぬと心配してみたりした挙句、日本は米英露支の四カ国とゆくゆく対決する運命にあるというようなことを言う。結局そうなってしまったことは、歴史の物語るとおりである。

こんな風に整理してみると、北は内政面で国家中心主義的な政策を主張する一方、対外的には積極的膨張主義を主張したということになる。この二つの特徴は、20世紀のファシズムに共通するものであるから、我々が北を日本型ファシムズの思想家と呼ぶには十分な理由があるということになろう。

拍手

「民主主義」がタイラント(僭主)を作る

「知の快楽」から転載。
私自身はアリストテレスの著作を自分で読んだことはないので、ここに書かれたことの真偽は判断できないし、使われている言葉自体が意味不明なものもある。たとえば、下の記述では「君主」と「僭主」の違いが「内面的なもの」でしかなく、他者からは判断が不可能である。
実際には「僭主」というのは「偽りの君主、資格無しに君主の座を奪い取った者」というのが多くの人の想像するものだろう。つまり、その人間が「美徳を目的としている」か「富を目的としているか」など、その言辞からはまったく判断不可能であり、その秘密の行為の暴露(露呈)によってたまに正体が 分かるだけだ。ということは、その人間の「君主の資格」など、美徳の有無では判断しようがないわけである。
手持ちの辞書(新明解百科語辞典)では僭主を「帝王の名を僭称する者」と文字通り明快に説明している。さらに、「古代ギリシアの諸ポリスにみられた非合法的手段で支配者となった者。多くは貴族出身で平民の不満を利用し、その支持を得て政権を掌握。(タイラント)」とある。実に痒いところに手が届く説明である。そして、その僭主の多くが暴君となったため、「タイラント=暴君」のイメージがついたのだろうが、では「合法的手段で支配者になる」とは、どういうことかというと、「血統による」か「議会の議決による」かのどちらかだろう。そして問題は、タイラントが出るのは「平民に政治への不満がある時」であり、タイラントは平民の支持を得て政権を掌握するわけだ。これはまさしく、「民主主義の発露」ではないかwww

(以下引用)

アリストテレスが国家の統治形態を論ずる部分は、彼の政治思想のハイライトをなすものである。彼は統治形態を、一人による統治、少数者による統治、多数による統治にわけ、それぞれについて、良い統治と悪い統治とを論じている。

まず良い統治には、君主政治、貴族政治、立憲政治の三つの形態がある。それに対して悪い統治には、僭主制、少数政治、民主性の三つがある。それぞれ良い統治が堕落した形態とすることができる。

アリストテレスは本音では、君主政治は貴族政治よりも優れ、貴族政治は立憲政治よりも優れていると考えていたようだ。だがそれは君主や少数者に優れた人物がいるという条件のもとでの話である。実際としては君主は腐敗して僭主となり、貴族は自分の利害を優先するあまり大衆を搾取して、堕落した少数者による政治に陥る。


民主政治の特徴は、貧窮者の手に権力が握られ、彼らが富裕者の利害を無視するところにあるが、同じく悪い政治のなかでは、少数政治や僭主政治よりも悪の度合いが少ない。こうしてアリストテレスは、実際の政治の経験の中から、民主政治を条件付で擁護する姿勢をもとっている。

アリストテレスがもっとも憎んでいたものは僭主政治であったようだ。僭主が君主と異なるところは、一言で言えば、君主が名誉を欲するのに対して、僭主は冨を求める点だ。君主は国民全体を衛兵とし外国に立ち向かうが、僭主は傭兵を蓄えて自分の利害のために武力を行使する。その対象は国民であったりもするのだ。また僭主はその大多数が煽動政治家であって、国民の支持を得て君主となりながら、一旦君主となるや、国民の利害を無視するものだ。

権力の交代を、アリストテレスは革命という概念で論じている。革命は僭主政治を対象にしてもっとも起こりやすく、民主政治においては起こりにくい。民主政治が腐敗して衆愚政治に陥ったとき、扇動者が現れて僭主となる場合があるが、それも長くは続かないというのが歴史の教えるところである。

このようにアリストテレスの政治を論じる視点は、一方ではギリシャの都市国家の歴史を踏まえ、他方では優れた政治家の資質をにらんで理想的統治をも論じるものとなっている。彼がプラトンと異なる点は、現実を理想に従属させなかったところである。

アルストテレスの統治形態論は、その後のヨーロッパ人の政治思想にとって、知的枠組みの一つとして大いな影響を持ち続けたのである

拍手

学校が「競争社会」であり特殊な権力構造の場であることが学校犯罪の温床

イジメ加害者の親族が虐め犯人をかばうのは下劣だが自然な行為であり、それを批判しても仕方がない話だと私は思う。人間の多くはそういう下劣な精神を持っているし、そういう人たちが他の場面ではまともそうなふるまいをしているのがほとんどだろう。
つまり、いじめ問題は社会構造の問題として抜本的対策を採らないと無くならない。具体的に言うと、「学校という異世界」をきちんと構造改革していくしかないのであり、現在の単なる受験予備校としての本質的性格の改善、学校権力の剥奪、そして「競争主義でない学びの場」あるいは単純に「両親が働いている間、子供を安全に委託できる場」としての学校にしていく必要があるのではないか。(いじめは競争のストレスが原因である、あるいは競争から脱落しそうな上位人間のストレス解消の面が大きいと思う。自分がストレスを受けているから、弱い人間を攻撃してストレス解消をするわけだ。競争が正しいとされるから、弱者を排斥するいじめも正しいことになる。他人を助けること自体が楽しいならいじめは起こらない)
まず、いじめは犯罪であることを徹底するなら、学校内への「警備員」配属とその巡回があってよい。その給与は学校の上部とは無関係に支払われ、学校責任者自体が監視されるわけだ。部活動での「犯罪的行為」「子供への加害行為(精神的加害含む)」の監視も必要だろう。
学校という組織に自浄能力がまったく無いことは明白だ、ということを国民全員が認知すべきだろう。そして学校教育を「生徒がお互いに教え合い助け合う」場にすべきだろう。つまりアニメのお約束の「学園祭」の楽しさが学びにおいても日常となるわけだ。学ぶことは本来は娯楽だからこそ、多くの学者が自ら進んで学んだのである。しかし、今の受験社会では学ぶことは刑罰である。

(以下引用)


《埼玉15歳イジメ自殺》「飛び降りたのは自分の意思ですよね?」15歳少年を追い詰めた、加害生徒の父親と祖母の"強烈発言”とは《録音あり》


配信

文春オンライン

「ぼくに言った、あの言葉は、ぜったいに忘れない」


相手生徒の父親と祖母が「謝罪の会」に出席したが…


「足がそうなったのは、まず君が原因」音声に残るAの父の言葉


2/3ページ





  • 馬込銀座


    もう「いじめ」という言葉、止めにしませんか? 暴行・傷害・恐喝・脅迫・自殺幇助という立派な刑法犯ではありませんか? 事実認定されたのなら迷わず警察・検察に告訴・告発すべきです。 そうでなければいつまで経っても、子どもの喧嘩レベルとしてスルーされてしまいますよ。 学校や教育委員会は矯正施設ではないのですから、過大な期待を持ってはダメだと思います。





  • 連絡帳


    私も小学生の頃、いじめられていた子をかばっていたことがあったけど、次は私がいじめられるようになった。 かばっていた子もいつの間にかそちらのチームに加わり、助けてくれることはなかった。 耐えきれず学校を飛び出したこともあったけど、慌てて担任が追いかけてきてマンション敷地で捕まり連れ戻された。 誰も助けてくれない、親にも言えない。 何とか耐えて中学校に入学し、いじめはなくなりましたが、今も私の手首には切り傷の痕が残っています。 死んだら親が悲しむとかよりも、死ぬことによって私のいじめに関わった奴ら全員困って人生めちゃくちゃになればいいと、憎悪の気持ちだけでした。 今はかわいい子供を2人授かり幸せです。あんな奴らのために死ななくてよかったと思います。 いじめは絶対ダメだと伝えていますが、いじめりている子を守れと言えません。 時代が変わっても、いじめは変わっていない。





  • カツモク


    自殺未遂を繰り返しているということなので、当然ながら重大事態認定がなされ弁護士などの第三者も含めたいじめ対策委員会などが組織されているはずですが、その組織的な動きにおいてこのような「謝罪の会」を設けることが決められたのでしょうか。だとしたら学校現場の常識としてちょっとあり得ない。 当事者がいじめを認めていないから、ではありません。認めていたとしても、自殺未遂を繰り返す被害者に加害者やその関係者を会わせるということは、普通はしない。学校と対応した教員は基本的な手続きを怠っているという意味で懲戒に値すると思いますが、それだけでなく、もし対策委員会が作られているのなら、その組織自体が糾弾されてしかるべきです。 また、その組織が作られていないのだとしたら、これもまたいじめ防止対策推進法に反しているということで、罪が一つ増える。




拍手

カレンダー

10 2024/11 12
S M T W T F S
4
23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析