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日常の芸術化

私にとって長い間の謎の一つが「茶道」であった。お茶を飲むだけのことをなぜあれほど面倒臭い儀式にし、しかもそれがなぜ、血で血を洗う戦国時代の武将たちの間ですら広まったのか。
戦国武将に関しては、お茶の席が一種のアジール(「聖別された逃避所・緩衝地帯」という意味としておく)であり、そこでは敵と味方さえも平和のうちに政治的密談を行うことが可能であった、という説があり、戦国武将にとってはこのメリットは大きかったのかもしれない。だが、一般人にとっては「茶を飲むことの儀式化」がなぜ必要だったのだろうか。日常のストレスからの逃避の場ならば、日常以上に強いストレスと緊張を要するような様々な作法や慣習の存在はナンセンスだろう。
茶道の達人たちの中にはそういう外面的な作法に拘らなくてもいい、という人もいるようだが、作法を抜きにした茶道は「茶を飲むだけ」に見える。そこに「茶道の精神」があれば、茶を飲むだけの行為も実は茶道になる、というのが結論になるのかもしれない。ちょうど、キリスト教におけるパリサイ派の「外面的規範を厳格に順守せよ」という行き方に対し、「内面性こそが大事である」、というイエス・キリストの教えが対立するようなものが、茶道にもあるようだ。
では、「茶道の精神」とは何か、と言えば、私は「日常の芸術化」である、と考える。もっと気どった言い方をすれば「日常の聖化」である。もっと普通に言えば、「日常を美に変える」ということだ。つまり、我々の日常の意識の深度が1か2であるならば、それを10にも100にも深めた意識で日常のあらゆることを見直し、その深度で生きることが茶道の精神ではないか、と私は考えている。私が味わう茶の味は、はたしてその茶の味の可能性を100%引き出したものだろうか。私が茶碗を扱う手つきは、果たして「美しい」だろうか。私が茶を入れる段取りは「芸術」だろうか。
もちろん、「茶」は「日常の芸術化」の象徴にすぎない。その意識で毎日を生きることで我々は人生を「高次元の生活」に変えられる、というのが茶道の意味ではないか、と私は妄想するわけである。
茶を飲むことは誰にでもできる。しかし、「茶を本当に飲む」ことは誰にでもできるわけではない、というこの誰にでも参加可能な、不思議な「日常の芸術化」が昔から多くの人の心を捉えてきたのではないだろうか。
コリン・ウィルソンが日本の茶道を知っていたら、ここにこそ「至高体験」に至る道がある、と言ったかもしれない。
なお、念のために言えば、私は世間的な意味での「茶道」体験は一度も無い。利休その他の先人たちも自分たちのやっていることを「茶道」とは言わなかったはずだ。「茶の湯」が「茶道」になったことと、お茶の儀式化や形骸化は並行して進行した気がする。




(以下「がま仙人のブログ(ガマ仙人の徒然草)」より転載)




ワシんちからスーパーまで
買い物に行く間に
日本庭園があって
そこにひっそり茶室がある
(この写真)

たぶん茶室だと思う  (茶室じゃなくてもいいけど)
しかも一畳半のものである
もしこれが茶室だとすると
ここのオーナーは相当すごいレベルだと思う

で一畳半の茶室の話をしよう

一疊半の茶室はすべての無駄を省いた
究極の茶室で利休が理想としものだ
禅僧として修行していた孫の宗旦が
利休のわび茶の思想を受け継ぎそれを極め
清貧に徹して「乞食宗旦」といわるまでになった
宗旦が設計する一疊半の茶室は、ついに
床さえ抜いてしまうという徹底ぶりだったんだね

利休はそもそもわび茶を追求してたわけだから
それを徹底的に極めていけば
最終的には宗旦の一畳半の茶室になるんじゃないか
ワシはそう思う

ちなみに今伝わっている茶道は
わび茶じゃないよ
たんなる茶道だよ
きれいな着物着て
お菓子くって
茶碗ほめて
茶道具の値段でびっくりしてみたり
価値のわからない掛け軸を絶賛したり
嫁の嗜みとしての茶道
旦那芸としての茶道
身体動作は美しくなるだろうけど
本来のわび茶じゃない
ワシはそう思う

もともと茶の湯ってさ
禅宗の坊主たちが
眠気ざましで飲んでた茶を作法化して
時の権力者の嗜みになったというだけのもので
たいしたもんじゃない

(中略)

長くなってしまった
わしがいいたいのは
村田珠光や乞食宗旦が
日常やってた清貧な生き方
そのものが茶の道なんだということ
そして禅の道なんだということだよ

そういう達人の極めた道をみてみたいもんだ
ブルーシートの中にガラクタを
詰めるだけ詰め込んで安心しているホームレス
部屋を汚し、ゴミだらけにして
ねっころがってTVを見ている貧乏さん
ここには道とかはない

また
綺麗な着物を着て
窯の値段とか茶碗の値段とかしゃべっているおばちゃんたち
師範の免除がどうのこうのいっている旦那衆
そこにも道はない

あっさりした茶室のような小屋    (別にブルーシートでもいいよ)
掃除がいきとどいた庭に小さな花が咲き   (河川敷でもいいよ)
人知れず美しく貧乏している人がいたら
それは間違いなくわび茶を点てられる人です
作法とか関係なく美しいと思うよ

だって、わび茶とは生き方そのものなんだから




ちなみにね
「わびさび」という言語意識は
「美しい貧乏のなかの美しさ」という美意識に基づくもので
日本にしかない素晴らしい美意識です
ユダ金にとってはまったく迷惑な言語意識だよね






o 1. 坊主
o 2011年10月12日 06:30
o
写真の茶室、なんとも言えないほどの
味わい・風情があって、良いですね。




「一畳半の茶室の床を抜く」というのは
驚きました。

床を抜いてしまった茶室というのが
ちょっとイメージしにくいのですが
立ったまま、茶を点てたのでしょうか?





掃除がいきとどいた庭に小さな花が咲き
人知れず清貧に生きる人・・・

そこには、凛とした美しさがありますね。
2.
o 2. が
o 2011年10月13日 00:03
o 床抜きの茶室で
どうやって点てたのか
ワシにはわかりません

ゴザでもひいたのでしょうかね

「凛」という語感もすばらしいですね
日本語って随所に
すばらしいヒントがありますね

昔の人が残してくれた
魔法のキーワードですね
3.
o 3. ポン酢
o 2012年10月23日 14:53
o 古い記事に突然のコメント、申し訳御座いません。
臨済宗の泉田老師が、厳しい生活を過ごされる中「一服の抹茶で至福のひととき」との記事を読み、
禅とお茶の関わりを色々調べて行くうちに、利休さんと「わび茶」、そして茶道に辿り着きました。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121019-00000122-san-soci

でも、何だか凄い違和感。
さらに茶道を調べて行くと、茶室への入り方だの座る位置だの、座り方だの立ち方だの、お礼の仕方だの、茶器の鑑賞の仕方だの、「もてなされる方の作法」ばっかが説かれていて。
利休さんや宗旦さんが追い求めた「わび茶」の神髄は、そこにあるのかなぁって。
もてなす方の「精神性」を言われる事はあっても、「作法」とか今の茶道みたいな「儀式化」なんて、考えてもいなかったんじゃないだろうかって。

そんな時に、この記事に出逢いました。
とても嬉しい気持ちになりました。
これで迷う事なく「わび茶」(茶道じゃナイですよw)を始められそうです。
有り難うございます。

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大映特撮映画讃

井口博士のブログに載っていた「大魔神」の動画が面白いので、試しにこちらにもコピーしてみる。
私は子供の頃は東宝特撮映画のファンだったので、大映特撮映画など馬鹿にしていてほとんど見なかったのだが、この「大魔神」の特撮は素晴らしい。今のCGには無い「質感」と「巨大感」「迫力」がある。
CGの方が一見リアルに見えるのだが、実は本当の映画的迫力という点では昔の特撮の方が上だったのではないだろうか。初代ゴジラの、あの迫力は、CGでは不可能だろう。それに、昔の映画は「見せ方」が上手い。撮影角度を工夫することで、迫力を出し、特撮のアラを隠すことに長けていた。今は、技術が進化したために逆にそういう面での工夫がまったく無くなったのではないか。
しかし、この「大魔神」は欧米には輸出できないな。(やっても不評だろう)なぜなら、悪役の大名が最後に大魔神に殺されるのだが、それが「十字架」に磔にされる形で殺されるのである。これはキリストの磔刑への愚弄である、とされるのがオチだ。










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空を見上げること

いやあ、「純と愛」は「愛と誠」ではなく、「タッチ」だったんだねえ。しかも、逆ヴァージョン。双子の兄弟の「でがらし」の方が先に死に、何でも優れている方が生き残る。残された方は、あまりに恵まれた自分が、まるで兄弟の死に何かの責任があったかのように罪の意識を持ちながら生きていく、という話だったんだ。まあ、純の方は「南ちゃん」とは違って、この兄弟とは無関係に生きてきたわけだが、「家族の問題」を抱えている、という点では愛と同じである。ドラマの先行きは、この二人が力を合わせて家族の問題を解決していく、という方向なのかな。べつに「ホテルマン出世物語」では無さそうだ。
漫画的教養があると、「純と愛」はいっそう面白い、というのは冗談で、このドラマはただドラマとして面白いのだが、多分こういうタイプのドラマを受け付けない層は多いだろう。「梅ちゃん先生」後半の、視聴者を舐め切ったあのいい加減なドラマ作りを真面目に見るような層には、こういう「変化球」タイプのドラマは嫌われるはずである。そういう人は「女王の教室」と「家政婦の三田」でも見て、遊川和彦という脚本家がいかに優れた脚本家であるかを復習しておくことをお勧めする。特に「女王の教室」は稀に見る傑作である。

さて、週末なので、秋晴れの天気にふさわしい気持ちのいい文章を紹介しておく。
神秘思想家でIT技術者のKAYさんの文章だ。
私自身、空を見上げるのが大好きで、世界の名画をただでプレゼントする、と言われても、それがゴッホだろうがセザンヌだろうがレンブラントだろうが、「空を見上げる権利」とは引き換えにはできないと思っている。まったく、こういう素晴らしいものがこの世には存在しているのに、空を見上げない人間は大損をしているのである。
外に出る用事があれば、その時は、必ず空を見上げるとよい。それだけでもその一日の収穫としては十分だ。


(以下引用)


現代人は、空を見上げることが少ない。
昔は、空を見ないのは悪人と相場が決まっていたものだが、確かに、青空や星空を見上げる悪者など、あまりピンとこない。
また、人は不幸になると空を見なくなるが、本当は空を見上げないから不幸になるのである。
空に意識を向けると、高い波動の直撃を受ける。
空の向こうを見晴るかすようにずっと見ていると、不思議なことに、意識は自分の中に届くのである。そこはハートの座であり、おかしな言い方であるが、空の向こうに自分がいるのである。
空を見上げると、心は受容的になる。心が広がり、大抵のものは受け入れることが出来るようになるからだ。
せっかく空が見える場所で、ずっとスマートフォンを見ているような人が多いが、実に残念なことだ。
たびたび空を見上げ、受容性が高まると、他惑星の宇宙船や天使も姿を見せるようになるだろう。彼らを見つけるのは、ただ偶然によるのではない。心の受容性で決まるのである。
子供の頃は、授業中に空を眺め、ぼーっとしていると、心の深奥がかえって活性化し、果てしない空の向こうで、天使と話をしているのを感じることがあった。それを想像と言うのだろうが、想像は空想と違う。想像は現実よりリアルなこともあるのだ。
頭を空にして空を見上げていると、胸の中に不意に何かが浮かび、それを忘れずにいると、種子が太陽の熱を感じて、土の中から芽吹くように、あなたも宇宙の根源に向かって伸びるようになるだろう。






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批評することへの批評

私は芸術作品の批評というものには概して懐疑的である。
そもそも批評者自体に芸術に対する理解力があるかどうかが問題であり、理解力の無い人間には、もちろん批評する資格も無いはずだ。しかし「万民平等」という民主主義の誤解は批評の世界にも浸透しており、自分の独断と偏見を「批評」として言い広める人間は多い。自分の批評は自分の「独断と偏見」であることをむしろ誇り顔で言うくらいだ。
私のブログなど、独断と偏見の最たるものだが、しかし、作品を酷評する場合は、作品自体に欠陥があるのか、それとも自分が理解できていないのを一応は自分自身の中で反芻して考えてはいるつもりだ。
世の中には大胆な人間もいるもので、点数制の映画批評掲示板でフェリーニの不朽の名作、『道』に10点満点で5点とか6点とか平気で付けている人間がいるが、こういう人間は最初から映画を語る資格など無い、と私は独断で断罪する。芸術作品を理解するだけの頭も知識も無い人間が、日本語が使えるというだけで何でも語る資格はある、と思っているわけだ。こういう連中には虫酸が走る。自分が理解できないならば、黙っているがいい。
私が天上の音楽だと思っているヘンデルの「ラルゴ」のようなクラシック音楽を、退屈だ、と言う人間がいてもいいし、私のように、演歌やハードロック、ラップを聞かされるのは拷問に等しい、と思う人間がいてもいいだろう。趣味はそれぞれだ。しかし、何かを理解できない場合に、その対象が本当に無価値なものなのか、それとも自分にそれを理解できる能力や感性が無いのか、を少し立ち止まって考えるのがいい。
今の時代は、あまりに自分への反省の欠如した「傲慢な批評」が多すぎる。


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「源氏物語」の弁証法的構造について

久しぶりに、世相と無関係な風流事について書く。
この前、市民図書館から借りてきた大野晋の『源氏物語』が面白かったので、備忘も兼ねて、一言書いておく。
私は以前、予備校で国語専門の講師などをしていたが、「源氏物語」は未読である。あんな膨大な作品、よほど心の余裕が無ければ読めるものではない。しかし、断片的な原文を通してでも、その素晴らしさは感じられ、隠居でもしたらじっくりと読みたいな、とは思っていた。で、私はもともと大野晋のファンでもあったので、この『源氏物語』を図書館で見つけて借り出したわけである。
これが、なかなかの名著で、私の大好きな「考える楽しさ」を満喫させるものであった。但し、白状するが、その中の語学的考察部分はほとんど飛ばし読みした。そういうものは国語教師時代に飽きるほどお付き合いしている。
で、一言でこの作品のポイントを言えば、「源氏物語は弁証法的作品である」ということになるだろうか。いや、そう気どった言葉を使わなくても、「二項対立的構造を持った作品だ」でもいい。こっちの方が難しいか。
源氏物語には異なる物語系列が入っている、と言うのは、「宇治十帖」とその前の部分(ここでは「本篇」と呼ぼう)との違いを見れば誰でも分かることだが、実は、宇治十帖の前の部分(本篇)自体に全く異なる物語系列があり、それがうまく組み合わされているためにこれまでは、あまりその事が気づかれていなかったと言うのである。学会ではこの説はけっこう前からあり、「紫の上系統」と「玉蔓系統」とか言われていたようだ。(いちいち元の本を参照しないので、誤記していたら御免。)で、大野晋はそれをさらに分けて、「宇治」以前を三つに分け、a系統b系統c系統とし、「宇治」を d系統として4部分の物語系統がある、とした。
ここからが面白いのだが、その4部分が二項対立的なのである。
簡単に私流にアレンジして書くと、まずaは「致富伝説」つまり「成功譚」であり、物語の王道である。光源氏という世に稀なスーパーヒーローがこの世の最高の栄華を得るまでの話だ。もちろん、その間に浮き沈みもあるが、それは成功に至るステップにすぎない。物語の薬味のようなものだ。
b系統は、その反対に「失敗譚」である。a系統では深く追求しなかった「成功の陰に存在する失敗」を物語として追及した、より文学的な話だ。これは作者が藤原道長という権力者の傍でさまざまな実体験を積むことで得た社会的知識や人間性の知識に基づいている。書かれた時期自体が、a 系統とb系統では異なり、それが後から見事に嵌め込まれたのだろう、ということである。もちろん、紫式部の天才があってできた奇蹟的作業である。
このa系統とb系統が弁証法の「正」と「反」の関係であることは誰でも分かる。
ではc系統とは何か。それは「本篇」最後の部分、光源氏の老年を描いた部分である。aもbも、青春期という点では同一だ。それに対立する老年の物語がc系統である。これまた「正」と「反」である。だが、「上昇」に対する「下降」を描いた物語的深化はあるが、真の意味での「合」ではない。いわば、仮の「合」だ。
ただ人間の一生を描くだけなら、いくら長く書いても、誕生から死までを描いても、それは読む人には「面白かった」で終わりだ。物語がただ正と反の連続では止揚は無い。それが通常の「物語」の限界である。だが、作者紫式部はもっと深いものを追究したかった。それは「人生に救いはあるのか」という問題だ。様々な幸福や不幸が積み重なって、死が来たら、それで人生が終わり、ではあまりに虚しい。特に、恵まれない人生を送った人間にとっての救いは何なのか。要するに、ここで作者は物語から文学へ、あるいは文学から哲学へと歩みを進めたのだ。それが、あの暗い「宇治十帖」の存在理由である。
作者は最初から、この「宇治十帖」は暗く、救いのない話だ、と断っているらしい。だが、それは表面上のストーリーであって、この「宇治十帖」において「源氏物語」はただの物語から哲学へと飛翔している。つまり、「合」がここにある。
「本篇」が「光源氏」という「光の世界」であるのに対し、「宇治十帖」は「無明の世界」である。ここに出てくる薫や匂宮は源氏の陰画やカリカチュアであり、本当の主人公は、大君、中の君、浮舟である。つまり、光源氏(男)が次々と手折って捨ててきたり面倒を見たりしてきた女たち、男を主人公とすれば、ただの脇役にすぎなかった女たちにとって生きる意味は何なのか、というのがここでの真の問題なのである。したがって、ここで初めて物語全体に真の結末、つまり弁証法的な「合」が与えられたわけだ。
描かれた人生を結論すれば、それは「無明」つまり「闇の世界」である。しかし、現生を無明と見ることは、それは当時のエートスから言えば仏(信仰)による救いしか解決は無い、という話になる。したがって、仏による救済の「暗示」が、物語全体での「合」ということになるだろうか。
「無明の世界」が人生への結論だ、というのはかなり救いのない思想であり、作者自身が本気でそう思ったかどうかは分からないし、それ以前に、この要約は私がかなり恣意的にまとめたものだから、大野晋の『源氏物語』とは掛け離れた内容になっている。(笑)
だが、「源氏物語」がそういうシンメトリカルな数学的構造を持った作品であることは確かだろう。
紫式部が漢学の深い教養を持っていたことはよく知られている。そして、漢文の特徴は「対句」である。対句は単なる表現法ではなく、物事を対比することで考察を進める思考法でもある。これは中国的弁証法だ。ならば、その思考法に慣れた紫式部の「源氏物語」が弁証法的構造を持っていることに不思議はない。
さらに付け加えれば、この「岩波現代文庫」の『源氏物語』には丸谷才一が解説を付けているが、これが小説の実作者の観点から、(全体的には絶賛しながら)大野晋の思考の欠陥を指摘している、という、本文の「正」に対する「反」の働きをしていて、これをも含めてこの本全体が弁証法的構造になっていて実に面白い。そして、最後の「合」は、もちろん読者の心に生じる思考である。(うまく、オチがついたかな。)


(追記)
大野晋はこの著作の中で「弁証法」という言葉は一度も使っていない。これは私が同作品のヒントで考えた「発展的考察」なので、私の言葉で同作品を読んで、騙された、と言わないように。だからこそ「最後の『合』は読者の心にある」と書いたのである。そんな『合』の無い読書など、つまらないではないか。
ついでに紫式部の「源氏物語」の構造を数式化しておく。a、b、c、dは本文中に書いた物語系列である。

① a:b
② (a+b):c
③ (a+b+c):d

という三つの弁証法的構造が積み重なって、一つの統一的作品を作る、という奇跡的な構成である。言うまでもないが、②は①に対して「合」となり、③は②に対しては「合」となるわけである。さらに、③に対する「合」を読者が考えることになるだろう。


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秋風と秋風邪

今日は何の引用も無しで、ただの雑談である。まあ、いつも雑談だが、政治的・経済的な内容ではない、ということだ。
朝晩めっきり涼しくなってきた。
日中は、この上なく気持ちのよい季節だが、夜になると気温が低すぎて、風邪などを引きやすくなる。
これは私自身の体感による推測なので、何の客観的根拠も無いのだが、体温が1度下がると、体の免疫力が1割から2割低下する、という印象が私にはある。
簡単に言えば、寝冷えによって風邪を引くのは当たり前のメカニズムだ、ということである。人間の体温は、確か就寝時には低下するはずである。体温低下が免疫力を低下させるとすれば、寝冷えによる風邪引きは理の当然だろう。
ところが、若いうちは免疫力が高いから、少々の寝冷えでは風邪など引かない。しかし、年を取ると、免疫力自体が低下するので、若い頃のままの気持ちでいると危険なのである。
それに、今の季節は、まだ涼しさが気持ちいいので、布団などかぶって寝るのは鬱陶しい。そこで、薄着のまま、掛け布団無しで寝て、夜の冷え込みで風邪を引いたりすることになる。
私も夜明け近くになると、「あっ、今俺は風邪を引きかけている」と夢うつつで気付いて、掛け布団を肩まで持ち上げる。それで30分ほど体を温めると、その風邪っ気は消えている。毎朝のように、その繰り返しである。
しかし、その「風邪っ気」に気づくかどうか、そしてそれにすぐに対処するかどうかが大きな分かれ目だろう、と思う。
まあ、最初から、寝冷えをしない態勢を整えて寝ればいいのだが、今の時期、寝る時には涼しいのが気持ちいいので、なかなかそうもいかないのである。
特に、高齢の方々には、寝る時には靴下をはき、長袖の上着を着て寝ることをお勧めする。そうすれば掛け布団が就寝中に外れても大丈夫だろう。風邪は足先と肩先から来る、というのが私の持論である。


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価値観について

「般若心経」について書いた昨日の記事に関連して、昔書いた文章を掲載しておく。別ブログ(文書倉庫として使っている)にも載せているが、そちらは訪問者のほとんどいないブログなので、ここに載せたほうが誰かには読んでもらえるだろう。
なぜ前回の記事と関連するかというと、どちらも「心的態度」を扱っているからだ。



価値観について



第1節 社会的価値観と個人的価値観

 人間と動物の相違は、人間には価値の意識があることで、その価値の意識が人生を複雑にも面白くもする。ある意味では、人生の諸問題は価値の意識から来ると言える。

 何を価値があるとし、何を価値が無いとするかは、社会的な合意がある反面、個人的なものでもある。それが「価値観」だ。一般的には、価値観は個人的なものだと思われているようだが、実は

1 社会的に合意された価値観が、個人の価値観の大部分を占めている。

我々が文化生活を享受できるのも、この価値観の共有から来るのである。(ここで、事例を挙げるなら、たとえば、美人・美男子の基準は、時代と社会によってほぼ決定され、個人的な趣味はそれほど決定的な要素ではない、などがそれだ。あるいは、能力のある人間は価値があり、能力のない人間は無価値であるとされるのは、ほぼどの時代、どの社会でも変わらないだろう。そこで、たとえば、「弱さ」を価値あり、とする人間がいたとしても、それは個人的な偏向にしかすぎないとされるのである。)しかし、また、

2 価値観を共有することはこの社会の収奪システムの中に組み込まれることでもある。

我々は、「価値あるもの」を手に入れるために働き、稼いだ金を出してそれを購入する。社会の上位にいる人間は、下の人間のそうした馬車馬的労働の成果を吸い上げ、消費者からは金を巻き上げて、自らの快適な生活を維持していく。かつては王侯貴族が行い、現在では大資本家(及び、その協力者である政治家や官僚)が行っている、これが社会の収奪システムである。(社会の収奪システムは、先進国と後進国との間でも維持されている。後進国がいつまでも後進国であるのは、すべてがシステム化されているからである。)
その収奪システムから逃れる簡単な方法は、自分だけの価値観によって行動することである。つまり、社会が価値ありとするものに背を向けて生きることだが、しかし、完全にそれを行うと、社会の文化的産物をすべて拒否することになり、原始人の生活になる。
 この、「共通価値観」と「個人的価値観」との摺り合わせが、人生を生きていく上での最大のポイントになる。「共通価値観」の肥大した人間は周囲に流され、社会の収奪システムの奴隷となるし、「個人的価値観」が肥大しすぎた人間は、周囲から孤立し、変人扱いされることになる。

第2節 価値観と性格

 離婚の原因として、よく「性格の不一致」という言葉が出るが、性格とは、実は価値観の集合でもある。人生を生きていく上で、何を価値があるとするかという根本が違っていたら、共同生活が成り立つはずはない。一方は都会生活を好み、他方は自然の中の生活を好むとすれば、生活すべき場所すら異なることになる。どちらかに従えば、当然、もう一人は不満を抱えていくことになる。
 そして、「十人十色」とか、「蓼食う虫も好きずき」とか言うように、個人的価値観は多様なものである。たとえば、同じように漫画を好んでいても、その好む漫画の傾向が同じとは限らない。趣味については、片意地な偏食家が多いのである。自分の趣味を絶対的に肯定していない人間は、ほとんどいない。趣味については、誰もみな、自分を精神的貴族だとみなしているのである。

 我々の人生がどのように彩色されるかは、快不快の気持ちによるが、何を快とし、何を不快とするかは価値観に左右されていることが多い。簡単な例では、労働と遊びの相違である。我々は労働を不快な義務と思い、遊びを快楽だと思っている。だが、スポーツは、スポーツ選手にとっては労働であり、観客にとっては遊びだ。ゴルファーにとってゴルフは労働だが、プロ野球選手がシーズン・オフにゴルフをやれば、それは遊びである。このように、同じ行動が苦痛にも快楽にもなる例は多い。その原因は、物事をとらえる姿勢にある。それを価値観と言うのは不適切かもしれないが、ある価値観をもって接するから、あるものを価値があると思ったり、また無価値だと思ったりするのは事実だ。これを価値観と言わないで、「肯定的態度」と「否定的態度」と言ってもいい。
 
我々は通常、快不快を動かしがたい前提条件と考えがちだ。つまり、ある対象とそれへの快不快は密接に関連していると考えている。だが、そうだろうか。我々があるものを肯定したり、否定したりするのは、実はただの習慣にすぎないのではないだろうか。
 もちろん、物事に対する趣味は、我々の性格そのものと言ってもいいくらいに固定的であるのが常だが、しかし、趣味は変わりうるものでもある。つまり、短期間には動かしがたいが、時間をかければ変えうるものだ。趣味と同様に性格も変えられる。つまり、

3 我々が自分の性格としているのは、我々がそれを自ら選んできた結果だ。

「その性格」であるのが我々自身にとって心地よいから我々はその性格を続けているのである。(つまり、快感原則は人生の根本原則だが、何を快とし、何を不快とするかは変えうるのである。)これは外面的な性格演技だけの話ではない。ドストエフスキーの作中には、よく卑屈な小市民が出て、自らを卑下するが、その卑下する自分に、実はある心地よさを感じているのである。たとえ、自分の不甲斐なさのために娘を身売りさせ、自分が最低の父親である、と泣いていても、そのような自分の存在をどこかで肯定しているのである。これが、人間の自己愛である。我々が自分の性格にうんざりしながらも、けっしてそれを変えないのは、実はそれが自分にとって「居心地がいい」性格だからである。
 しかし、繰り返すが、性格は変えがたいものでありながらも、可変的なものでもある。たとえば、ここに内省的な人間がいたとしよう。彼を軍隊の中に放り込んで、一年間も鍛えれば、彼は立派なロボット的兵士になるだろう。それが戦場ならなおさらだ。なぜなら、決められた行動に即座に従わないかぎり、彼の生存は保証されない以上、彼には内省の余地は無いからである。少なくとも、彼は自分の内省癖を、それがゆるされる時間まで棚上げにする習慣を身につけるだろう。そして、やがてはその内省癖そのものがどうでも良いものになっていくはずである。我々の性格も趣味も習慣の問題にすぎない。兵士の中に哲学者がいないとは限らない。だが、勝れた兵士ではありえないだろう。兵士として生き延びるためには、我々は動物的な脊髄反射(通常は「命令~服従」の反射。戦場では「危機~戦闘行為」の反射)で生きるしかないのであり、自らの内面への深い思索などしていては生きてはいけないだろう。

第3節 物の価値

 第1節で「社会的価値観」について述べたが、実は、価値の相場は合理的に形成されるわけではない。
 誰でも、黄金は価値があると思っている。だが、その価値は主として「希少さ」によっているのである。誰かが言っているが、黄金より土が少なかったら、土のほうが価値が出るだろう。希少さとは無関係に、実際に土のほうが価値があるとも言える。なぜなら、黄金の上に作物はできないからだ。我々は土に価値があるなどとは思わない。それは周りに膨大にあるからだ。だが、飢饉が来れば、作物を生やしてくれる土地の価値が、はっきりとわかるはずである。そのとき、黄金が、いかに無価値かもわかるだろう。問題が少し違うが、インカ帝国にもしも黄金がなければ、スペイン人たちはインカ帝国を滅ぼさなかったかもしれない。インカ帝国にとっては、黄金は災いを招く存在であった。インカ人自身にとっても黄金が、価値がそれほどあったとは思われない。なぜなら、スペイン人に略奪されるまでは、彼らにとって黄金はありふれた存在だったからである。そのへんの石ころと同じ比率で黄金があれば、誰が黄金を崇めるだろうか。(このことを敷衍すれば、世界中の人間が美男・美女になった世界では、美男・美女の存在価値は無いことになる。)
 土と同様に、我々がその価値に気付かないものが、空気と水である。我々が生存できるのは、ひとえに空気と水と土のおかげであり、それ以外のものは生きる上では剰余にすぎない。もちろん、文化とはその剰余のことではあるのだが、少なくとも生存上の第一義的なものは、この三者なのである。
 さて、この人間社会では、黄金は価値があるとされている。そこで、黄金を独占した人々は、その相場を自分たちで決めることで、他人の上に立ち、優雅な生活を送ることができるわけである。つまり、社会の構成人員を「黄金は価値がある」と教育(洗脳)すれば、その後はほぼ永遠に富の独占ができるわけである。これが資本主義の起源である。
 いや、黄金はそれ自体価値がある、と異論を述べる人もいるだろう。何しろ、容易に加工できる「美しい」金属で、しかも時の浸食を受けない。だから黄金には絶対的な価値があるのだと。なるほど、それらの美点は確かにある。特に、貨幣を作る上で、黄金はいい原材料だろう。そうした価値を否定はしない。貨幣経済の上に成り立っているこの社会を維持する上で、黄金は重要な要素には違いない。しかし、黄金の持つ価値は、必要以上に吊り上げられているのではないだろうか。他の貴金属や宝石なども同じである。
 では、芸術品の価値はどうだろうか。ゴッホの絵とセザンヌの絵は、どちらがどれくらい上なのだろうか。我々素人からは、その価値の差はわからない。三つ以上の数の数えられない土人同様に、どちらも「たくさん、たくさん」という評価しかできないのである。しかし、現実には、ゴッホの「この絵」は幾ら、セザンヌの「この絵」は幾ら、と評価がちゃんとついている。では、その値段は誰がつけるのか。ここで登場するのが「専門家」である。彼らは専門家同士のギルドを作り、その内部でさまざまな物に値段をつけ、それを素人に売りつける。物の値段、物の価値はこのようにして決まっていくのである。生きている間は1,2枚しか売れなかったゴッホの絵も、誰かが提灯持ちをし、評価をつり上げていった結果、生きていた時のゴッホ自身では絶対に買えないような巨額の値段がついていったわけである。正直言って、私はたとえばセザンヌの絵に価値があるようには思えない。印象派以前の古典派の絵なら、その技術の巧拙だけでも、ある程度の価値判断はできる。だが、その相場として、果たして食事一回分の値段が適当か、それとも庶民の一生の稼ぎに相当する金額が妥当かはわからない。そして、専門家たちは、後者が妥当だと言うのである。
 なるほど、芸術作品に巨万の金を出す人間がいるのは確かだ。だが、それは、彼らにとっての金が、庶民にとっての水や土と同様の安価な物だというに過ぎない。自ら紙幣を印刷できる人間には、紙幣は紙切れと同様だろう。
 問題は、こうして値段がつけられると、その対象品は、それからは庶民の手には決して届かないものになることである。
 我々の住むこの社会では、こうした「価値のピラミッド」が作り上げられている。一着100円のシャツもあれば、一着数千万円の衣服もある。1000円の腕時計もあれば、数百万円の腕時計もある。しかも、後者の方が性能は悪かったりする。
 とすれば、社会的な価値というものは、その大半は幻想的なもの、あるいはもっと端的に言えば、詐術だと言ってもいいのではないだろうか。実は、これがこの文章を通して私が言おうとしていることなのである。
 つまり、社会的価値とは、個人的な主観から出発して、それが社会的な広がりを持つにつれて様々な詐術が加わり、やがて壮大な幻想のピラミッドになったものである。
 もちろん、個人の主観の段階でも、すでに幻想だ、と岸田秀的に言ってもいい。だが、ここで洒落たつもりの言い方をするなら、それ(「価値という幻想」)は「価値ある幻想」かもしれない。幻想には違いないが、幻想が無価値だとは言えない場合もある、ということである。

第4節 生きる価値

 つまり、価値は幻想かもしれないが、それによって我々は人生を生きる価値のあるものにしているのである。我々は自分を取り巻く様々な物に価値づけをすることで、自分の人生を価値あるもので満たすわけだ。たとえば、漫画の好きな人間は、それを価値ありとしている。スポーツ観戦の好きな者は、それを価値ありとしている。周囲に対してそうした価値を感じられなくなった状態が、ニヒリズムである。ニヒリズムとは、つまり価値の喪失なのである。「空なるかな、空なるかな、空の空なるかな、すべて空なり」というわけだ。そうなれば、人生そのものも無価値で、生きるに値しないということになる。
 ここで、最初に戻って、実は価値とは自分が決めるものだ、ということに思い至れば、この人生が価値がない、というのは、実は自分がそう決めたというだけのこととなる。そうしたニヒリズムには一種のロマンチックなイメージもあるから、それに陶酔するのはいいが、それを本気で信じるのは、自分で神様を作り出して、その神様を礼拝するようなものである。
 
 我々は、自分の人生やこの世界を価値ありとすることもできれば、無価値だとすることもできる。一つ一つの事柄に対する価値判断も同様だ。要するに、価値判断にはもともと何の根拠もいらないのである。問題は、そうして下された価値判断が社会的な広がりを持ってきた場合である。価値とは、原則として比較である。絶対評価ではなく、相対評価なのだ。その評価のピラミッドがこの世を一種の地獄にすることもある。つまり、価値の体系の下層に置かれた存在にとって、価値ほど呪わしいものはない、ということになる。
 価値が主観の範囲に納まっていれば、価値は人生の輝きを作る。だが、それが客観のふりを始めると、それは地獄となる。我々は他人の作った価値観の泥沼に足を取られて、やがては自分自身やその周辺の物事を無価値な存在とするようになるのである。だが、価値とは本来、主観から始まったものでしかない。「客観的価値」も誰かの主観が他人を巻き込んでいっただけなのだ。ならば、再び我々は、価値判断を自らの手に取り戻してもいいのではないだろうか。
 
 アメリカン・コミックのポパイの口癖は、「俺は俺さ」である。つまり、他人がどうであれ、俺は自分の考えで行動する、という宣言だ。そのような、自分自身が拠り所である強い自我を持った人間は、現代には少ない。リースマンの言う、「他人志向」型の人間がほとんどだ。いつも、他人がどう思うかを気にして、おどおどと振る舞うのである。
 自分が「価値有り」と思う事柄は、果たして本心からそう思っているのか。それとも他人の価値観に従っているのではないか。もしも、それが本当に自分の心からの考えなら、他人がどう言おうと、「俺は俺さ」と言えるはずだ。
 もちろん、社会の決めた価値観に従って生きるのは楽かもしれないし、安全かもしれない。しかし、人生をトータルして考えた場合、他人の価値観に従った生き方が満足を与えるかどうか、怪しいものである。まして、その「社会的価値観」が、一部の人間の利益のために作られ、維持されてきたものなら、それによって不利益を得ている人間が無数にいるはずである。要するに、社会の底辺にいる人間の不幸の土台には不公正な社会的価値観があるということだ。それは不幸な人々の物質的不利益の原因でもあり、精神的不利益の原因でもある。
 なぜ「足が長い人間はカッコいい」ということになっているのか。「足が短いほうがカッコいい」という考えがなぜ「正しくない」と言えるのか。それは、ただ長い間に形成された「社会的価値観」のためである。欧米人種的な体型や容貌は美しく、アフリカ人やアジア人は美しくないという価値観が、あらゆるメディアを通じて、我々の心に刷り込まれ、植え付けられてきたからである。ならば、我々「醜い人種」は、「足が短く、鼻が低く、平面的な顔のほうが美しい」という主張をしてもいいのである。
金で計る価値にしても同じことであり、我々が既成の価値体系にノーを言い、誰もが贅沢品に無意味な出費を渋るようになれば、企業は安くて良い品を作ることに努力するようになるだろう。
学生の場合なら、「成績」というただ一つの価値観で自分を測るかぎり、その底辺にいる人間は不幸になるしかない。運動能力や芸術の才能があればまだいいが、それも無い場合はどうするか。「そんなのはみんな他人が勝手に作った価値観だ。俺には俺だけの価値がある。他人がどう言おうが関係ない」と思えばいいのである。

4 「I am what I am.」(俺は俺さ。)

 この言葉には、地面にしっかりと足をつけて生きる人間の気迫がある。
 

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