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人から学ぶということ

「日本の独立を目指して」というブログから転載。
私はマスコミによる未来予測はまず信じないが、素人や市井の人の言葉には耳を傾けることが多い。聖書でも、「預言」は神から「普通の人」に「預けられる」のである。だから「預言」と言うのだ。預けられる方は、それで迫害を受けたりするから、ヨナのように迷惑がることも多い。
今はネット上で、匿名で書けるから、多くの未来予測の言葉が多い。それらが「預言」か、ただの妄想的「予言」かは、読む側で判断すればいい。つまり、読む側のレベルによって、それらの未来予測は役に立つこともある、ということである。専門家の言葉しか聞かないという人は、自分の判断力を最初から捨てているわけだ。

学ぶということについて、少し述べてみる。
私は中学校に入った最初の頃、数学で理解できないところがあったが、クラスでは劣等生の部類とされていた同級生から説明されて理解でき、その後はまずまず上位の成績を取るようになった。
自分の分からないことを少しでも知っている人間なら、その事に関しては誰でも自分の師になりうる、ということである。
たいていの人間は、自分より普段の成績評価の低い人間から学ぶということは最初から考えないようである。つまり、劣等生、優等生という考えに凝り固まっていることが多い。これは愚かしい習慣である。
優等生・劣等生と大雑把に分けることはだいたい有害なものだ。優等生当人にとっても、自惚れから性格を悪くしがちである。もっとも、学校という場所は生徒に優劣をつけるのが仕事みたいなところがあるが。
ついでに言うと、「劣等生」の方が、相手が「何がどう分からないのか」が分かっているだけに、自分が理解したことについては分かりやすく教えることができるので、良い教師(教え手)になるものだ。だから、教師による一斉授業よりも、同レベルの生徒同士で教え合う方が、生徒の能力は向上するはずである。
教えるとなると、丸暗記の知識だけでは相手を納得させられないから、教える側も「正解の根拠」を考える必要が出てきて、知識や理解はいっそう深くなるのである。教わる方も、教師に聞くより聞きやすいし、同級生とも親密になれる。
「ゆとり教育」を見直すとか言って、学習時間だけを長くするよりも、教育方法のこうした盲点、つまりあまり意識されていない部分をもっと考え直す方がいいだろう。

さて、例によって引用記事とは無関係な前説になったが、下記記事の未来予測は、だいたい納得できるものに思える。ならば、この予測を自分自身の今後の活動の参考にすればいいわけで、ネット周遊にはこうしたメリットもある、ということである。


(以下引用) *誤字や誤記らしきものの一部を失礼ながら注釈訂正してある。誤字誤記指摘が細かいのが厭味かもしれないが、書いている内容には大賛成だし、示唆されるところも多いのである。だからこそ引用もしたわけだ。そもそもネット上の文章の国語的正確さなど、ほとんどの人は気にもしないのだから、下記ブログ筆者も鷹揚に構えていいのである。私が誤字や誤記が気になるのは、過去の仕事からの職業病みたいなものだ。また、一部に余計な「突っ込み」を入れているのも、悪意からではない(単なる面白がり)であるのだが、悪意と思われる可能性もあるので、先に謝っておく。




2013/1/14
「大愚の当たらない大予想」  

実物経済に戻る

これを芸術にもどすとどうなるか

工芸の隆盛である

抽象絵画。ポロックやラウシェンバーグなどのインチキ連中はちょうど金融工学のインチキと似ている

抽象化してこれがいいと強弁すれば価値が生まれる、という構造である。金融工学がマスコミででたらめを垂れ流す経済学評論家とペアになっているのと同じで

これらの現代芸術なるものは芸術評論家の口から出まかせ理論とセットになっている。

音楽ではどうか。

ジョンケージのどのなんかわからない音楽とこれまと評論家とセットになっている。

このようなインチキ抽象概念は2008年に死滅した

抽象化が人間に耐えられないものであることがわかったのだ

料理もそうだ。マクドナルドに代表される栄養成分主義は死滅した。食った人間が病気になったのである。大量生産農作物はこれから死滅する

医療もそうだ、生存率主義はちょうど利益率主義にあたるが、これも死滅する

幸福度で表現しなくてはならぬ。QOLが医療の結果として重視されるようになった

正気が戻ってきた

また都市に緑と虫と鳥を戻そうとしている

文明とは、虫のいない生活のことであった。カに刺されるのが嫌でインカは山へ逃れた。ローマは風呂と水道の求心力だ。(夢人注:?)アメリカは電気洗濯機と冷暖房だ

でもアレルギーが増えてきた。非特異抗原刺激の上で病原体を抑え込んでいたものが、非特異抗原暴露(夢人注:「曝露」か?)がなくなったので、過剰自己免疫が起こるようになった

過剰清潔のたまもの(夢人注:「たまもの」は有益なものを含意するので、皮肉の意図でなければ「結果」くらいがいい。)である。

いまや発酵食品のおお流行りだ。たとえば黒酢。あれは亀(夢人注:「甕」か)に原料を入れてほおっておくと巣(夢人注:「酢」か)になる。つまり大気中のカビである(夢人注:「亀に原料を入れてほおっておくと巣になる」というのは、何かシュールでグロテスクなイメージがあって面白い。)

ワインはどうか。地方に自生するカビと、ブドウをふんづける足のカビの混合物だ。だから名産のワインは土のにおいがする。安物のステンレスボトルで発酵させたものにはそれがない

さけはどうか?酒は造り手と天候次第である。ロット差が大きいが(夢人注:?)それでもそれを楽しむ。人の苦労をしのんで飲む

コメも同じだ、野菜も同じ。人の苦労が価値の中心に入ってきた。

そう、等価交換(夢人注:なぜ「等価交換」? 「実物経済とは等価交換が原則だ」ということだろうか。)と制作者(夢人注:「製作者」がいいが、「製造者」の方がもっといい。)への感謝がキーである

料理も産物も工芸品も食べ物もなにもかも感謝する相手を探しているのである。奪う奴やだますやつや抜け駆けする奴にはもう飽き飽きしているのだ

つまり西欧の500年の機能主義パラメータ主義に飽き飽きしているのだ。





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IT ENDED WHEN YOU SAID "GOOD BY"

安倍・石破・石原・橋下・桜井良子内閣が近いうちに誕生するだろうから、それを先取りして祝福の画像をプレゼントしておく。
原田知世の歌う「THE END OF THE WORLD」という珍しい動画だ。もっとも、出てくるのは原田知世嬢ではなく、まさしく「THE END OF THE WORLD」の映像という、皮肉のこもった動画である。残念ながら知世嬢は時を駈けて未来に行くことはあきらめたようだ。
しかし、まるで初音ミクのように透明感のある美しい歌声で、こういう歌に送られて世界が終わるなら、まあ、あきらめもつきそうである。
なお、この動画の存在は、「ハサミ男」(だったと思う)の作家殊能将之のツィッターで知った。

蛇足だが、『ドニー・ダーコ』という映画も一種のこの世の終わりを描いた風変りな魅力のある作品であるので、まだ見たことが無い人に週末の夜の酒のお供にお勧めする。(週末には終末映画を見ようってか)まあ、「中二病的終末観」だという評価もある映画なのだが。









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私の耳を脅かすあの音は何?

秋葉原で「ハイル、安倍!」を叫ぶ日の丸軍団を見ると、まさしくヒトラーの突撃隊そのものであり、これから「お祭り騒ぎの若者たち」がどんどん出てくることは予想できる。そして、リベラルな思想、反戦思想の持ち主への弾圧がこれから起こってくるだろう。或る日突然、あなたの家に「特高警察」があなたを逮捕しにやってくる、ということもありうる。
平和を望むことが犯罪になる、という奇妙なことがこの世界にはあるのである。

このブログもいつ消えることになるか分からないが、とりあえず「12月16日事件」(衆議院選挙での不可解な結果)の記念に、W・H・オーデンの物語詩(ballad)を昔私が訳したものに少し手を入れて、紹介する。
若い恋人たち、あるいは夫婦の会話が2行ずつ繰り返される形の詩で、各連の1行目と3行目、2行目と4行目の末尾の語が原詩では韻を踏んでいるが、押韻まで訳出することはできないので、原詩も最後に載せておく。(原詩は新倉俊一「英詩の構造」から採った)

この詩を日本のプロ詩人が訳したものも幾つかあるが、みな私の意に満たない訳し方であった。私の訳もヘボかもしれないが、過去の訳は原詩の中心にある「恐怖」が感じられないものばかりなのである。その「恐怖」は第一連から存在しているのであり、「thrills」を「わくわくさせる」などと訳しては、詩が最初から台無しになる、と私は考えている。ここは「おびやかす」か「ぞっとさせる」とするべきだろう。










私の耳を脅かすあの音は何?

        W・H・オーデン (酔生夢人 訳)


私の耳を脅かすあの音は何?
谷を下ってくるドラムの音
   あのドラムの音は何?
あれは赤い服の兵士 それだけだよ 愛しい人
 兵士がやってきただけ

私の目に鮮やかに輝くあの閃光は何?
あんなに遠くから輝いて
   輝いて
彼らの武器に陽が射しただけだよ 愛しい人
 歩みにつれて輝くだけ

おお、彼らはあんな格好をして何をするの?
何のためにこの朝に
   この朝に
いつもの演習 それだけだよ 愛しい人
 でなければ人々を嚇しているだけ

おお、なぜ彼らは道を離れたの?
突然なぜ輪になるの
   輪になるの?
隊列を組み変えただけだよ 愛しい人
なぜ膝まづいたりするの?

おお、あの人たちお医者を呼びに行くのじゃない?
手綱を引いて その馬の
   その馬の
どうしてだい、傷ついた人はいないよ 愛しい人
軍の誰も傷ついてはいないのに

おお、彼らの捜しているのはあの白い髪の牧師さんじゃない?
あの牧師さんね
   ねえ、そうでしょう?
いいや、彼らは彼の戸口を通り過ぎたよ
訪れることもなく

おお、きっと近くに住む農夫の所だわ
あの農夫、あのずる賢い
   あのずる賢い奴
彼らはもう農家を離れたよ 愛しい人
彼らは今 駆け始めた

おお、あなたどこへ行くの?
ここに、私のそばにいて!
私に誓ったあの言葉は嘘だったの?
   嘘だったの?
いや、私はお前を愛すると誓ったね 愛しい人
だが私は行かねばならない

ああ、錠が壊される 扉が裂ける
彼らはこの扉へとひしめく
   ひしめく
軍靴の響きは床に溢れ
 彼らの眼は 火と燃えている
……… ………




O what is that sound which so thrills the ear

O what is that sound which so thrills the ear
Down in the valley drumming, drumming ?
Only the scarlet soldiers, dear,
The soldiers coming.

O what is that light I see flashing so clear
Over the distance brightly, brightly ?
Only the sun on their weapons, dear,
As they step lightly.

O what are they doing with all that gear,
What are they doing this morning, this morning ?
Only their usual manoeuvres, dear,
Or perhaps a warning.

O why have they left the road down there,
Why are they suddenly wheeling, wheeling?
Perhaps a change in their orders, dear,
Why are you kneeling?

O haven’t they stopped for the doctor’s care,
Haven’t they reined their horses, their horses ?
Why, they are none of them wounded, dear,
None of these forces.

O is it the parson they want, with white hair,
Is it the parson, is it, is it ?
No, they are passing his gateway, dear,
Without a visit.

O it must be the farmer who lives so near.
It must be the farmer so cunning, so cunning ?
They have passed the farmyard already, dear,
And now they are running.

O where are you going ? Stay with me here !
Were the vows you swore deceiving, deceiving ?
No, I promised to love you, dear,
But I must be leaving.

O it’s broken the lock and splintered the door,
O it’s the gate where they’re turning, turning;
Their boots are heavy on the floor
And their eyes are burning.

W・H・Auden

  

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冬の句の傑作二つ

私の好きな冬の俳句を二つ紹介する。一つは松本たかし、もう一つは川端茅舎の句である。松本たかしについての解説、茅舎の句についての説明をネットから拾って載せておくが、前者はサイト名が不明、後者は「八半亭のブログ」というところから取った。「八半亭」は蕪村の号、「夜半亭」のもじりだろう。蕪村は私も大好きである。


松本たかしは能の家に生まれたが、病弱なために家業を継げなかったと何かで読んだ記憶がある。山本健吉の「現代俳句」(名著である)かもしれない。下記記事にもそのことが詳しく書かれている。であるから、この「夢に舞う」能は、もしも自分の体が健康であれば舞えたかもしれない、「見果てぬ夢」の舞であり、その切実なあこがれと悲しみの思いがこの句をこの上なく美しいものにしている。

川端茅舎の句は、解説を読まなくても、作者の命が今にも消えるのではないか、という印象がなぜかする句である。山本健吉の解説が見事である。このようなありふれた言葉の連なりが、読む人になぜこれほど感動を与えるのか。これが芸術の神秘である。たった17字の言葉、しかも平凡な人生のある一瞬のスケッチが、世界の大長編名作小説に拮抗して聳え立つのである。

たかしや茅舎にはほかにも佳句はあるだろうが、私にとってはこの二つの句以外に存在しなくても、いっこうにかまわない。生涯にこれほどの句を一つでも作れば、偉大な俳人だと言える。



(以上、酔生夢人)
以下はすべて引用。





夢に舞ふ能美しや冬籠   (松本たかし)

________________________________________
 代々江戸幕府所属の座付能役者の家の長男として生まれた松本たかしは5歳から修行に専念、8歳で初舞台を踏むのだが、14歳の時肺尖カタルを患い、見舞いにきた父が置いていった「ホトトギス」を手にしたことから俳句に興味を持つようになった。以後は病に身を預けながらの俳諧の道を歩むことになる。その作品の格調は高く「たかし楽土」「芸術上の貴公子」などとよばれる品位ある小世界を具象して伝統俳句の継承者の一人となったが、昭和31年5月11日、2月に脳溢血に倒れた体が悪化、強度の神経衰弱にかかって急逝した。享年50歳。










 約束の寒の土筆を煮てください (川端茅舎)
   


 この掲出の八句の中で、特に、六句目の、「約束の寒の土筆を煮て下さい」は、茅舎の傑作句の一つとして、今に詠み継がれている。この句についての、山本健吉の評(『現代俳句』)は次のとおりである。

この句棒のように一本調子だが、「約束の、寒の土筆を、煮て下さい」と呼吸切(いきぎ)れしながら、微(かす)かな声になって行くようで、読みながら思わず惹き込まれて行くような気持ちになる。いっさいの俳句らしい技巧を捨てて、病者の小さな、だが切ない執念だけが玲瓏と一句に凝ったという感じがする。




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俳句という遊び

毎日毎日、寒さの余り家に閉じこもって、ほとんど冬眠状態だが、いったい地球温暖化はどこへ行ったのだ。はやく温暖化してほしいものである。
若いころには千葉や東京にも住んでいたのだが、12月初旬、いや、正確には11月末からこんなに寒かった記憶は無い。むしろ11月や12月初旬は、「清涼で爽やかな季節」という印象であった。
まあ、暖流が近くを流れる海岸部の関東と、盆地の京都では気候が違って当然だが、昔からこの土地に住んでいる人々は我慢強かったのだなあ、と感心する。平安時代の貴族の女性など、「冬なら」十二単など着ていたのも納得、である。しかし、トイレの時は十二単をいちいち脱いでいたのかね。
さて、政治関係の話は一服して、今日は風流関係の話で、書けば多分自分の底の浅さを知られてしまうような内容だ。なぜそんなのを書くのかと言えば、馬鹿でも無知・無教養でも堂々と自分自身を世間に公開していいのだ、という私の持論のためである。と言うより、本当は、ノートに書いておいてもどうせ見直すことも無いから、ブログを備忘録として使うだけである。私が馬鹿さをさらす事で、世間の人間は「年を取ってもああはなりたくないものだ」、と我が身を振り返る一助になるかもしれないし。

何の話かというと、俳句の話である。私はこれまで作った俳句が百に満たないというまったくの俳句素人だが、時々発作的に俳句を作ることがある。
で、昨日、近くの山を散歩して、俳句が次々に出来たので、それをここに書いておくわけである。
言い訳じみるが、私は「厭味な句よりは平凡な句、月並みな句の方がいい」という考えである。これは映画や小説などの好みもそうで、「後味がいい」かどうかが作品評価の大きなポイントになる。もっとも、ブニュエルの「アンダルシアの犬」など、後味がいいとはまったく言えないが、それが凄い作品であるとは評価する。逆に、世評が高くても、ゴダールの映画のように気どりまくった作品は大嫌いである。映画監督の中ではウィリアム・ワイラーなど、奇をてらったところがまったく無いので世間的評価はあまり高くないが、私の中では、「神様」スタンリー・キューブリックとほぼ同格である。
さて、話が俳句から逸れたが、俳句を作る人々の間では厭味な句、奇をてらった句が高い評価を得ることが多いと私は感じている。つまり、「自分には思いつかない」ものに人は感心するからである。だが、そうした奇をてらった句、作為がぷんぷん臭う句は厭味なものである。俳句に人生観をにじませるような深刻な句もだいたいが厭味なものだ。

俳句は、言葉によるスケッチである、というのが私の考えだ。

目の前の風景、ふと心の中をかすめる感慨を言葉で短くスケッチする。それが俳句の最高の機能であり、練りに練り上げて作り、歴史に名をとどめるような類の俳句は、芭蕉や蕪村などの天才が残したものだけで十分だ。凡人は、自分の平凡な感慨を、奇をてらうことなく平凡に詠めばそれでいい。要するに、俳句は万人に開かれた、日本の伝統的文化遺産である、ということだ。それをどのように利用しても誰も文句は言わない。

前置きがだいぶ長くなったが、私の持論がそうである以上、私の俳句は小学生レベルである。政治や社会を論じる時はいちおう中学生レベルはあるだろうと思っているが、俳句は小学生でも私よりうまく作る子はいるだろう。
だが、べつに人と競うためにやるのではないから、どんなヘボ句でもかまわないわけである。もちろん、それを公開するのがいいかどうかは別問題だが、私は、政治評論における「床屋政談」をもっと広げるべきだと主張するのと同様に、文芸でも「素人が文芸で遊ぶ」ことが広まってほしいと思う。特に俳句や短歌の裾野はもっと広がっていいのではないか。

さて、以下に私が昨日作った俳句を並べていく。ヘボ文芸作品に耐性の無い人は、ここで読むのをやめておくことだ。


1 下葉落ちて 視界広がる 林かな

(もうこれであきれてしまった人もいるだろう。「視界」というゴツゴツした言葉じゃなく、もっといい表現もあるだろうに、とは私自身も思うのだが、素人俳句で3分以上考えるのは無駄だ、と私は思っているので、そのままにする。)

2 空に舞う 落ち葉高々 鳥のごと

(初案は「風に舞ふ」だったが、どちらにしても月並みも月並み、あきれるほどだが、感じた通りなのだから仕方がない。「鳥のごと」は「鳥のごとく」とすると字余りなのでこうした。)

3 人も来ぬ 山に一本 紅葉かな

(「一本」は「ひともと」と読む。これでも子規の俳句の本くらいは読んでいるので、その程度の知識はあるわけだ。初案は「人も見ぬ」が初句であった。)

4 枯山に 鴉鳴きゐる 師走かな

(これは季重なりなので、最後の「師走かな」を変えたいが、面倒なのでそのまま書いておく。なお、「鳴きゐる」と旧仮名づかいにしたのは、ただの気分である。)

5 道に身を 乗り出したる 薄黄葉木

(少し厭味な句かもしれない。擬人法というのは厭味になりがちなものだし、「薄黄葉木」なんて無理な造語だろう。読みは「うすきばき」。実際に見た木の葉の色は、透明な黄色で、それが日に透けてきれいだったのだが、その色を俳句に詠むのは無理なようだ。「乗り出したる」は「のりいだしたる」と読む。)

6 昼にして 日の早傾くや 冬の山

(「早」は「はや」と読み、「早くも」の意。)

7 木隠れに 寺も見えけり 冬の山

(「木隠れ」は「こがくれ」と読む。)

8 宇多陵の 参道 冬の日を受けて

(これで私がどのあたりに住んでいるかが分かるかもしれない)


9 山越しに 京を見下ろす 師走かな


(別に末の句は「師走かな」でなくてもいいのだが、何も思いつかない時は、とりあえず今の季節がいつかを入れておく方針である。)

10 京囲む 山に幾筋 冬日の箭

(これも俗っぽい比喩だが、「箭(や)」を「矢」とするよりはまだ線状の光線のイメージがあるかと思う。初案は「遠山にレンブラントの光かな」という無季の句で、「レンブラント光線」がそのまま使われていた。「冬山に」としてもあまり変わり映えはしない。)


11 鳥騒ぐ 声も懐かし 冬の山

(「懐かし」は懐旧の情ではなく、「慕わしい」「孤独を慰めてくれる」意)

12 落葉の 山道行けば 風寂し

(本っ~当に、平凡そのものである。)

13 人も来ぬ 細山道や 風の音

(見たままの光景、風景である。)


14 暖かに 山の空き地を 日の照らす

(無季だし、平凡そのものだが、これも見たまま。)

15 道尽きて 戻る背中に 冬日かな

(本当は、道は尽きていなかったのだが、そろそろ家に帰ろうと思ってUターンしたのである。まあ、その程度の嘘は許容範囲だろう。)


以上、冬山散歩であった。

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ミス・オーティスは残念ながら


昨日書いたように私は村上春樹の小説が苦手(短編しか読んでいないが)なのだが、彼のエッセイは幾つか読んでいる。数日前に市民図書館から借りた中にも彼のエッセイ集(「村上ソングズ」)があったのを思い出して今読んでみたら、一つ新しい知識を得た。
私はシャンソンの「想い出のサントロペ」という歌(引用参照)が好きなのだが、同書中にあるコール・ポーター作詞作曲の或る曲の詞がそれによく似ているのである。
それを下に書き写し、村上春樹訳を参考に作った私の訳もつけておく。


Miss Otis Regrets ミス・オーティスは残念ながら

Miss Otis regrets she’s unable to lunch today  
Madame                    
Miss Otis regrets she’s unable to lunch today  
She is sorry to be delayed           
But last evening down in lover’s lane she strayed 
Madame                     
Miss Otis regrets she’s unable to lunch today   
                        
 
When she woke up and found that her dream of love was gone 
Madame                  
She ran to the man who had led her so far astray  
And from under her velvet gown         
She drew a gun and shot her lover down     
Madame                        
Miss Otis regrets she’s unable to lunch today  


The mob came und got her and dragged her from the jail  
Madame                  
They strung her upon the old willow across the way 
And the moment before she died      
She lifted up her lovely head and cried  
Madame                   
Miss Otis regrets she’s unable to lunch today  
Miss Otis regrets she’s unable to lunch today  



「ミス・オーティスはお詫びしてます」   

ミス・オーティスは残念ながら昼食には参れません  
マダム
ミス・オーティスは今日の昼食をご一緒できないとお詫びしてます
昨夜恋人の小路で道に迷ったのです
マダム
今日の昼食に参れないのが残念だとのことです

今朝目覚め 恋の夢が永遠に去ったことを知り  
奥様
彼女は無情な恋人のもとに駆けつけ
ビロードのガウンの下から
銃を引き抜いて 恋人を撃ちました
奥様
ミス・オーティスは今日の昼食には参れません

群衆が監獄から彼女を引きずり出して引き回し   
奥様
道の向こうの古い柳の木に吊るしました
死ぬ間際に彼女は
その愛らしい頭を上げ 叫びました
奥様     あなた様との約束の
昼食に参れなくて済まないと
昼食をご一緒できなくて済まないと





(引用「ハムレットの世情日記」より)



先日NHKのラジオ深夜便を聞いていたら衝撃的なシャンソンが流れてきた。金子由香利が歌っている「想い出のサントロペ」だ。原曲はコラ・ヴォケールの歌った新劇的シャンソンである。

爽やかな海辺の風のような心地よいイントロ。
主人公の女性が、海辺の別荘の持ち主に手紙を書いている形式で歌は進む。
そして主人公の女性が彼を・・・
ぞくっとする歌詞である。

訳詞

 ♪ この夏はサントロペにはまいりません
お借りしたあの家にはまいりません
この夏はサントロペにはまいりません
他のどなたかにどうぞ貸してください

あなたの家はとても美しく海の夜風がいつでも吹いていました

この夏はサントロペにはまいりません
とても楽しみに仕度もすんだのに
この夏はサントロペにはまいりません
望みをなくし彼も今はいません

あなたの家はとても美しく幸せに満ちた去年の夏でした

この夏はサントロペにはまいりません
私も彼も二度とは行けません
やがて誰かが私を捕らえます

いとしいあの人を、今、殺しました




ここでいともやさしく穏やかな後奏が流れ、
独白がかぶる。

Mon cherie madame,
この夏はサントロペにはまいりません
今年もこれからも・・・

と、多分フランス語の詞では、
毎年借りている貸し別荘の女主人に宛てた手紙の形を取っているので、
書き出しとして、
Mon cherie madameが入っていると思われる。



美しい海辺の別荘、潮風、淡淡と語る主人公。

 けれど、ラストはサスペンス風なショッキングで悲しい結末。


「太陽がいっぱい」とか「悲しみよこんにちわ」
とか、昔のフランス映画のサスペンスはハンサム(または美しい)主人公が恐ろしい殺人事件を起すのだが、あくまでそれはフィクションで、映画の中の美しいサスペンスとして楽しめたから良かった。

近頃はあまりに物騒で意味不明な無差別殺人や猟奇的な事件が起こりすぎて、フィクションの中のスリルとして殺人をとらえるのが難しい。

それでも、この曲の美しさが救いで、なんとなく聴いて見たいシャンソンとして人気がある。

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あをによし 奈良の小鹿は ヤバいほど好きよ

「谷間の百合」さんの今日のブログ記事(引用2)が面白かったので、坂上郎女の歌をネットで少し調べてみた。下に引用したもの以外にもまだたくさんあるようだが、この一連の歌は、まるで万葉時代の俵万智である。と言うより、短歌の中で、女性の、日常的で平明な恋歌となると、どうしても俵万智を連想するのが思考的定型になってしまっている。
なぜ坂上郎女の歌を調べたか、というと、「谷間の百合」さんの記事に引用されていた歌の中の「うるほしき」の意味が分からなかったからだ。喉を「うるおす」とは言うが「うるほしき言」とは何だろうか、と思って調べると、某万葉サイトでは「愛しき」と表記されており、納得した。ならば、シャンソンの古典「聞かせてよ 愛の言葉を」ではないか。
なお、下に引用する歌には私が勝手に句読点を付けた。そうでないと現代人には理解が難しい、という判断である。
坂上郎女の元歌はぴんと来なくても、現代語訳は現代の若い女性にも受けそうな内容だ。誰の訳かは知らないが、うまい訳だと思う。
奈良のポスターに付けられたキャッチコピーは私も感心しない。「ヤバい」をいい意味で使うあたりが「現代的だ」という売りなのだろうが、坂上郎女の歌とのつなげ方が強引すぎて厭味である。まあ、それを抜きにして可愛い小鹿を見て「ヤバいほど好きよ」と思うのならば、それは自然なことだ。
本来なら、この記事は「谷間の百合」さんのブログにコメントとしてでも出すようなものだが、長すぎるので、ここに書いた。日常の些末事を推理するのが趣味の私にとって元記事はいい思考素材でありました。

*小鹿の写真を見たい人は、「谷間の百合」さんの方へ直接GO!


(引用1)

656番
【坂上郎女】(さかのうえのいらつめ

我れのみぞ 君には恋ふる。 我が背子が
 恋ふといふことは言のなぐさぞ。

恋しいと想っているのは私ばかり あなたが恋しいよと言うのは口先ばかりだわ

657番
【坂上郎女】(さかのうえのいらつめ

思わじと言いてしものを、 はねず色の
 うつろひやすき 我が心かも。

もう あなたの事を考えるのはやめとうと思ったのに また、あなたを想ってる

(夢人注)「かも」は詠嘆の語。「~だなあ」と訳せばいい。「はねず色の」は不明。

658番
【坂上郎女】(さかのうえのいらつめ

思へども 験もなしと知るものを、
 何かここだく 我が恋ひわたる。

どんなにあなたを想っても仕方がないとわかっているのに どうしてこんなに 恋しく切ないんでしょう

(夢人注)「ここだく」は多いことを表すので、「こんなに」の訳でいい。「わたる」は「~し続ける」意。

659番
【坂上郎女】(さかのうえのいらつめ

あらかじめ 人言繁し。 かくしあらば
 しゐや我が背子 奥にいかにあらめ。 

今から人の噂がたっているのよ ねえあなた まったくこの先はどうなるんでしょうね

(夢人注)「かくしあらば」は「斯く、あらば」に強調の「し」をはさんだもの。「しゐや」は不明。

661番
【坂上郎女】(さかのうえのいらつめ)

恋ひ恋ひて、 逢へる時だに 愛しき
 言尽くしてよ。 長くと思はば。

恋しくて やっと逢えた時くらい 優しい言葉をいっぱい言ってよ 私をいつまでも愛する気持ちがあるのなら





(引用2「谷間の百合」より)



十月二十九日 その二  ポスター




きのうは用があって奈良へ行っていました。

雨のなか、傘を差して歩いていると、上の観光ポスターが目に止まりました。
あまりの可愛さに、しばし、立ち止まって見ていました。
そのうち、どうしても、このポスターが欲しくなりました。
ちょっと距離がありましたが、駅の観光案内所に行きました。

「あのポスターが欲しいのですが」と言うと、あれは非売品だとにべもない返事。
諦めきれず、独り言のように「欲しいのになあ」とかわいく呟いてみたのですが、駄目なものは駄目でした。
それで、貼ってあったポスターを撮ってきたというわけです。

帰って調べてみると、外にも何人かブログに貼っておられました。
子鹿の可愛さに夢中だったので、「ヤバイほど好きよ。」というキャッチコピーを認識したのは帰宅してからでした。
センスがいいと評判だったということですが、わたしには分かりませんでした。
あまりいいようには思えませんでした。

このコピーの横に小さい字で(。。。と大伴坂上朗女が詠まれました)とあります。
その大伴坂上朗女のうたはこれです。

「恋ひ恋ひて、逢えるときだにうるほしく、言尽くしてよ長くと思わば」

この「うた」を現代のコピーライターは「ヤバイほど好きよ。」と表現したのです。

わたしもコピーを考えてみようかなと闘志が湧いてきました。
可愛い子鹿にも似合うようなコピーを。


このポスターを紹介したいだけの記事でした。



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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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