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正義論

正義論

1 はじめに

 プラトンの『国家』の副題は確か「正義について」だったと思うが、その中の正義についての議論は明確な決着がついていなかったという記憶がある。ソクラテスが途中から「国家論」の方に話を変えてしまったのではなかったか。その中でソクラテスの論敵トラシュマコスの論は、「悪は本人に利益をもたらすのだから、(本人にとっては)善である」というようなものだったと記憶している。この論をソクラテスは結局否定できなかったはずだ。
 これから「正義」について考察する上で、『国家』を前車の轍とするならば、あの議論が紛糾し混乱したのは、「正義」を自明なものとしてしまい、きちんと定義づけなかったことから来たのだと思う。そこで、まず「正義」について定義する。

2 正義の定義

「正義」とは簡単に言えば「正しいこと」である。しかし、そう言うのは簡単だが、「正しさ」とは何かと言うと、もう少し話が複雑になる。
「正しさ」とは、
① 論理的に正しいこと。ある問題の正解。
② 道徳的に正しいこと。人間が他人との関係においてとるべき適切な行動。
③ 宗教的に正しいこと。神の掟(指図)に従うこと。
というような分析ができる。
それ以外の「正しさ」があるかもしれないが、今思いつくのはこれくらいだ。
 
 さて、物事を考察する便法として、「対立概念や類似概念を考える」という方法がある。そこで「正義」の対義語を考えれば、それはもちろん「悪」である。また正義の類似概念としては「善」が考えられるが、実は、善は悪の対義語にはなるが、必ずしも正義の同義語ではない。

「善」とは、
① 良いこと。一般的にすぐれていること。
② 利益であること。あるいは当人にとって好ましいこと。
③ 善良であること。道徳的にすぐれていること。
などの意味合いがあるが、これが「正義」とは必ずしも一致しないことはわかるだろう。

大胆な定義をすれば、「正義」とは行動基準(指針)であり、「善」とは評価基準であると言うこともできる。正義を行うことは当人にとっての不利益をもたらすことも多いのだから、「正義=善(当人にとって良いこと・利益であること)」とは限らないのである。逆にトラシュマコスの言うように「悪=善」ということが成り立つこともある。これは「悪行(悪因)→善果」ということなのだが、これを「悪=善」と言うと矛盾表現にも見える。


3 正義の判断

「善」を評価基準だと考えることにしよう。そして、「正義」の判断に「善」であるかないかを利用することにする。
「善でないこと」を「悪」とするのは、しばらく保留する。その前に、「悪」の定義から行おう。

「悪」とは
① 悪いこと。本人や周囲に害をもたらすこと。すなわち「害悪」
② 道徳的に悪いこと。ただし、その道徳が個人的道徳か社会的道徳かの問題がある。
③ 不快感を与えるもの。外面的なものと内面的なものがある。
上の③を「悪」の定義に入れるかどうかは、やや問題がある。「悪相」や「醜悪」のように、「悪」という字の用法としては③はありえるが、我々は通常「悪」という言葉に③の意味は含めていないだろうからである。しかし、今後の論の展開から③の意味も必要になるかもしれないので、そのまま置いておこう。
 上記の定義のうち、①はさらに細分化する必要がある。つまり、「本人に害をもたらすこと」と「周囲に害をもたらすこと」とはまったく別だからだ。だから、通常、不良青年やヤクザは周囲に害をもたらす行為によって本人は(主観的にでも)利益を得るのである。
 悪について考えるには、悪のもたらす利益と、本人と周囲(あるいは社会)との利害の対立について考える必要があるが、この問題は後に回そう。
 ②は、やや不明瞭に見えるかもしれない。①のような「害悪」は単に「不利益」なのだから、わかりやすい。しかし、「道徳的な悪」を考えるには、まずその「道徳」について検証しなければならない。「道徳の起源」「道徳の本質」「道徳の意義と効用」などの分析が必要だ。だが、これも後に回す。

 さて、「正義」の判断基準に「善」であるかどうかを入れるというのは適切か。つまり、「正しい行為」というのは、善であるかどうかで判断していいものなのか。いや、それより先にそれは誰にとっての正義であり、誰にとっての善なのか。
すなわち、「正義」や「善」は、全人類が共有でき、同意できるものなのか、それとも特定の集団内部でしか通用しないものなのか。
仮に後者であるならば、もはや哲学上の問題としては終わりであろう。私(我々)は私(我々)の正義を主張し、彼らは彼らの正義を主張する。そして力と力がぶつかりあって、勝った方の「正義」が生き残る。これが「勝てば官軍」という奴だ。そして現実世界の正義とはだいたいそんなものである。
しかし、哲学的な意味で我々が求める正義とはそのようなくだらないものではない。
全人類が同意し共有できる正義があるかないか。これがこの文章全体で扱う問題である。

4 所属集団にとっての正義と絶対的正義

 我々が考える正義とは、通常はその所属する文化によって規定された正義だろう。「嘘をつくな」「人を殺すな」「姦淫をするな」などの道徳律を守ることが正義であり、さらに、より積極的に周囲の人間にその道徳律を守らせるという行動が正義の行動となる。
 この場合その「正義」の正しさを保証するのはその集団の文化的伝統の総体である。その文化的伝統の中で「これは正しい行為である」と見なされた行為を行うのが正義なのである。たとえば「弱い者をいじめることは悪であり、弱い者を救うのは正義である」など。したがって、その集団の文化が変質した場合、その正義も変化することになる。たとえば前の命題とは逆に、スパルタにおいては弱いことそのものが悪であった。またたとえば「社会や他の集団に対しては悪事を行ってもいいが、仲間にだけは忠実である」というヤクザの正義が、現代の若者全体に広がっていることは、少年漫画を見れば一目瞭然である。もともと、少年漫画はストーリー展開上、他者との争闘が必須である。そして他者との争闘を合理化する理屈は、「自分の属する集団に対立する集団は敵であり、敵に対してはどのような悪も許される」という戦場の論理なのである。これはまた実質的に国家の論理でもある。
 さて、そうすると、ここで倫理学的に重大な問題が発生する。仮に、最初はある集団に属していた人間が、何かの事情で他の集団に移った場合、昨日までの味方は今日の敵となるわけだ。この場合でも正義そのものは変わっていないと見るべきだろうか。「昨日勤王明日は佐幕」と新納鶴千代みたいに生きることも正義にかなっているのだろうか。

 義(正しさ)とは何か、ということについて、墨子は「義とは利益であることだ」と定義している。この定義は簡潔であるが、浅薄にも見える。(ただし後述するが、これは実は浅薄ではない。)孟子はそれとは逆に「義と利をはっきりと弁別しなければならない」と言っている。しかし、では、孟子の考える義とは何か。それが分からないのである。

 とりあえず、最初に戻ってもう一度正義の定義を考えてみよう。正義とは正しさであり、正しさとは「① 論理的に正しい。 ② 道徳的に正しい。 ③ 宗教的に正しい」の三つがあった。この分類は、悪くはないと思う。
 言葉を変えれば、①は頭の中での正しさ、②は対人的・社会的な行為の正しさ、③は神の前での正しさである。この三つは合致することが多いとは思うが、常に合致するわけではないだろう。反社会的な教義を持つ新興宗教が社会から弾圧される例はよく見られることである。あるいは科学的な「真理」が反社会的な考えだとされた例も多い。いい例がガリレオ・ガリレイの「地動説」である。彼の説はキリスト教の教えに反するとして宗教裁判にかけられ、刑罰を恐れた彼は自説を撤回した。つまり、①と③は対立することがある。
 しかし、これらは皆、「宗教というものが根本的に誤っているのだ」とすれば問題は解消される。社会全体が宗教のエートスに染まっていた時代は迷信の支配する時代であっただけだ、という考えだ。そこで、とりあえず、③の「宗教的に正しい」については考察の対象から外して、①と②の関係について考えてみる。
 道徳的に正しいかどうかを考察する際に、その考察の仕方が論理的に誤っていないならば、世間のほとんどの人間が納得する客観性のある答えが出てくるだろう。つまり、①は②の正しさを保証しこそすれ、②と対立するものではない。問題は、言葉を使う側が「正しさ」をどちらの意味で使っているのか混乱させないことである。

 さて、ここでいよいよ本題に入る。
 「正義」とは、「道徳的に正しいこと」である、と定義しよう。では、何が道徳的に正しいことなのか。それを考える中で、「所属集団にとっての正義」と「絶対的正義」の違いも明確になってくるだろう。


5 道徳的な正しさとは何か

 道徳とは何か。「道」とは「人として歩むべき正しい道」であり、「道」とは「やり方」でもある。現実の道と同様に、人は道徳的に正しい道を正しい歩き方で歩く(正しいやり方で生きる)ことで正しい目的地へ行き着けるというわけだ。その正しい道の例が「嘘をつくな」「人を殺すな」「姦淫をするな」などの道徳律であるというのは前にも書いたが、個別的に見ればこれらの道徳律が実にあやふやなものであることは明白である。たとえば、我々は嘘をつかずには一日も暮らすことはできない。朝の挨拶から社交辞令、世間話に至るまで、その大半は嘘のオブラートにくるまれているはずだ。また、「人を殺すな」についても国家そのものが戦争時には殺人を命じるし、平常時にも死刑制度によって国家自体が人を殺している。「姦淫をするな」に至っては、「誰にも迷惑はかけていないのに売春(セックス)して何が悪いの」と主張する中高生の女の子が納得できるように説得できる大人は一人もいないだろう。
 では、道徳とは単なる「努力目標」なのか? 誰も守っていないが、守っているふりをするのが社会的儀礼だというだけのものなのか? あるいは国境を越えればそれぞれに異なる、ただの民族的風習にすぎないのか?

 いや、そうではないだろう。なぜなら、どの民族にも国家にもそれぞれに道徳があったということ自体、道徳が人間にとって必要なものであることを示しているからである。
 そこで、もう一度立ち戻って考えてみると、墨子の言う「義とは利益であることだ」という言葉は、見かけよりも深いものがある。つまり、道徳が存在することは社会全体にとっての利益であり、ひいては、それは個人の利益でもあるということなのだ。だが、道徳の規範自体は通常、「欲望の制限」であるから、個々の人間は道徳を自分にとって不利益であると考える。ここが道徳のパラドキシカルなところであり、道徳についての思考が紛糾する原因なのである。

 つまり、道徳とは「より大きい立場に立ってみた場合、個人にも社会にも大きな利益になるところの欲望制限の体系」なのである。そして、道徳とは「完全な実行が不可能に近いために、一般の人間には努力目標でしかありえない」という宿命がある。これも道徳が軽視される原因だ。つまり、法律とは異なり、「道徳を破ることの罰則」は無い。あくまで、道徳的な葛藤は個人の内面で起こるのである。「欲望をもって女を見るよりは、その目をえぐり出すほうがよい」などとキリストに言われても、自分の目を抉り出す者などおるまい。

 では、具体的現実的に考えて、道徳的に正しいこととは何だろうか。すなわち、その禁欲や規制が社会全体の利益であることとはどのようなことか。これはほとんど子供でもわかるような常識的行動になるはずだが、それを次章で考えてみよう。

6 我々はどう行動するべきか

 ロールズの「正義論」は、現代の古典的書物のようだが、学校教科書に紹介されているその趣旨は、次のようなものだ。
 「正義とは公正のことであり、自由と公平を実現することが正義である。それには以下の三つの原理がある。①平等な自由の原理:誰もが自由を保障されること。②機会均等の原理:社会参加や競争に関して機会が均等に保証されること。③格差の原理:社会的に不利な立場の人々には一定の配慮がなされること。」

 では、「公正」とは何か。「公」とは「私」の反対であり、社会性を意味すると見てよいだろう。つまり、「公正」とは、「社会性と客観性のある正しさ」だ。これによって個人が自分の主観のみで正義を主張するという態度は否定される。
 正義とは公正のことである、というロールズの主張には私は異論は無い。しかし、それに続いて出てくる「自由と公平を実現することが正義である」という主張には賛成できない。そもそも「自由と公平」が両立できないことは自明のことだろう。もちろん、ここで「公平さを損なわない限りで、個々の自由をできるだけ実現すること」と言えば、まったく問題は無くなる。アメリカ人は自由という言葉が好きだから、こういう「修飾語(制限)付きの自由」はお気に召さないだろうが、自由は基本的に他人の自由と衝突するものなのだから、まずその点を明確にする必要がある。
 そもそも、正義の概念の中に「自由」という要素が必要かどうかも疑問である。正義とは当為としての道徳律、つまり、いやいやながらでもやらざるを得ない行為であり、自由とはむしろ対立するものではないか。仮に本当に「自由に」行動させるなら、ほとんどの人間は自己の欲望を優先し、正義などそっちのけで行動するだろう。ロールズが「自由」という語を使ったのは、アメリカ文化のパラダイムが原因の思考停止から生じた勇み足だろう。
 そこで、ロールズの論を少し改変すれば、「公平を実現することが正義である。」という非常にシンプルな原理になる。そして、そのような行動は「公正な行動」だということになる。つまり、私が自分の個人的な欲望を抑え、社会性と客観性のある判断に従うとき、その行動は公正な行動と見なされるということである。
 こんな当たり前のことを言うのに、ずいぶん長々と回り道をしてきたものだが、正義というあいまいな言葉を明確にするのは、そう簡単なことではないのである。
 ロールズには「無知のヴェール」という用語もある。それは、私の判断が公正かどうかを判定するには、「私」という存在やその利害を棚上げにして、客観的に判定することが必要だということである。つまり、問題の件に無関係な第三者として判断する、その判断こそが正義にかなった判断だということである。
 以上のロールズの論は、「自由」云々を除けば、まずまず妥当な考えだろう。しかし、ここまではまだ一般論でしかない。現実的な場面で、正義にかなった行為とはどんなものを言うのか。それは道徳的行為とは何かと言い換えられるだろう。道徳とは、結局、社会正義の体系なのだから。

6 道徳を単純化してみれば

 あらゆる道徳は、ただ一つの原則に集約できる。それは「他人に害を与えるな」ということである。「嘘をつくな」も「殺人をするな」も「姦淫をするな」も、それらが他人に何らかの害を与えるため、その規制として作られたのである。しかし、我々が生きるのは、自分の欲望を満足させるためでもある。欲望を満足させるには他者との衝突や闘争が避けられないこともある。したがって、他人への害悪があまりに大きい場合は「法律」によって処罰が規定され、社会全体の抑止力となるが、害悪が小さい場合は道徳によって内面的に規制される。かつて(具体的には宗教心が道徳の背後にあった時代)は通常の人間に対しては、道徳だけでも十分な抑止力だったのである。だが、現在では、道徳による社会秩序の維持はほとんど存在しない。我々が悪事を行わないのは、ただ法律があるからである。
 いずれにしても道徳の基本原則は非常に単純であり、ただ「他人に害を与えるな」ということだ。しかし、その実際への適用が難しい。そこで、「嘘をつくな」「殺人をするな」「姦淫をするな」などの個々の道徳律が生じてくるのだが、それでもまだ「どのような状況なら許され、どのような状況では許されないか」という問題、つまり、現実というアナログで不定形の存在に「言葉」というデジタルで不完全な物差しを当てはめるという困難な作業が必要になってくる。そして、その解決は基本的に、「担当者、あるいは当事者の恣意的判断による」しかないのである。これは道徳以上に厳密性を要求される法律でさえも基本的にはそうなのである。
すなわち、法廷で様々な議論が行われても、裁判での最終判断は裁判官の恣意(裁判官の主観による法解釈と事実解釈)で決まっているというのが現実だ。それが明らかになるのは、国家の悪行に対する裁判官の判断が、必ず政府有利にしか判断されないということによってである。すなわち、裁判官は政府に雇われている以上、政府に逆らう判決を下すのはほとんど不可能に近いのである。しかしながら、それは本当は法の否定であり、国家自身が自らを法治国家ではないと知らせるようなものだ。本当の法治国家ならば、政府が敗北する裁判がもっと頻繁にあってよい。
 道徳に話を戻そう。道徳的戒律の対象となる悪行にはどのようなものがあるか。それを一言で言えば、「他人に害を与えること」だ、というのは先に書いたとおりである。それには「肉体的に危害を加えること」「財産や所有物を侵害すること」「精神的に危害を加えること」の三つがある。意外にもこの三つしかないのである。つまり、「私の身体への危害」「私の精神への危害」「私に所属するものへの危害」の三つだけである。
 たとえば、他人を侮辱することは、武家社会においては、そのまま刀での切りあいに発展した。名誉を汚されたままで生きることはできない、とかつての武士たちは考えたのである。こうした名誉を重んずるという心性は、日本人だけのものではないが、日本の武士は極端なほどに名誉を重んじたということだ。しかし、良く考えてみると、他人の侮辱は、それを自分が侮辱だと考えた場合にのみ侮辱になるのではないだろうか。もちろん、それが公衆の面前で行われたら、自分がどう思おうが、名誉が汚されたということは事実となる。プーシキンの『その一発』の中で、ある男が、自分に加えられた侮辱に対し、決闘という手段を採らなかったことで、その男の心酔者がその男に失望するという記述があったが、侮辱に対する復讐というのは、名誉回復の正当な手段だと洋の東西を問わず認められていたのである。余談だが、個人的な復讐や決闘が禁じられて、国家が暴力の権利を独占してからは、名誉という観念も失われた気配がある。
 要するに、精神への危害は肉体への危害以上にかつては重大なものだったのだ。しかし、今や、精神への危害に対して復讐をしたならば、その人間は国家によって処罰されるだろう。精神への危害に対する報復ができなくなったことと、現代において正義の観念が希薄化してきたことには深い関係がありそうである。
 肉体への危害は、それとは逆に、過剰に保護を受けているように思われる。つまり、目に見えるものについては権利義務関係が細かく規定されるが、目に見えないものはその存在価値がどんどん薄れていっているようである。(これに似た例が、現代における神への信仰の希薄化だ。)
 所有物への危害に至っては、「民法」の大半がその規定ではないかと思われる。しかしもちろん、所有物への危害は法律の問題であると同時に道徳の問題でもある。「汝盗むなかれ」という戒律は法律でもあり道徳でもあるのだ。ここで所有物とは何かを論じてもいいが、話が煩雑になるので省略する。たとえば夫や妻はその妻や夫の所有物だろうか。奴隷ならば明らかに所有物になるが、家族は所有物ではあるまい。また土地を所有するとはどういうことか。本来は誰のものでもない土地に、なぜ所有権というものがあるのか。開墾し手を加えたことによって所有権が生じるなら、なぜ森林や山林や原野にも所有権があるのか。また、先祖の所有権がなぜ子孫の所有権として認められるのか。これらは無批判に受け継がれてきた伝統にしかすぎないのであり、誰も問題視しないから問題化されないだけのことである。だが、ここではこれ以上は論じない。
 以上のような「精神への危害」「身体への危害」「所有物への危害」が「他人に害を与えること」だというのは、まず了解されたことにしよう。
 では、なぜ他人に害を与えてはならないのか。
 数学には極限という考えがある。ここでそれを応用してみよう。「他人に害を与える」ことを極限化して考えてみるのである。それは『どらエモン』の「独裁者スィッチ」のようなものになる。相手に与える最大の害は、その存在の消去である。つまり、自分が嫌う相手をどんどん消去(デリート)していくのだ。すると、最後に残るのは自分だけか、あるいは自分の意に逆らうことはけっしてしない奴隷かロボットと自分だけだろう。後者も「真の意味でこの世に存在するのは自分だけ」という世界である。
 さて、このような世界にいるあなたは幸せな人間だろうか。まさにこれは極限の自由であり、世界中のすべての物はあなたの思いのままだ。だが、あなたはそれを他人に与えてはならない。なぜなら、今は他人に害を与えることの極限を考えているから、どのような善行もやってはならないのである。そうすると、あなたの幸せは、本当に幸せなのか、という疑問が出てくるだろう。あなた以外に「人間」が存在しない世界で贅沢の限りを尽くして、あなたはそれで幸せになれるのか。誰か、他人の存在が無いと、あなたの幸せは完全にはならないのではないだろうか。仮に誰かが存在しても、その相手が、あなたの意に逆らうことはまったくできないようにプログラムされた人間ならば、そういう相手は人間と呼べるだろうか。おそらく、余程精神の異常な人間(これは社会上位の人間にも実は多いのだが)でない限り、自分以外に「人間」がいない、そういう世界にいる自分を幸せだと感じることは難しいだろう。
 他人に害を与えてはならない、というのは、以上の思考実験から、他人に害を与えることで自分も不幸になるからだと言える。だが、それほど簡単なものか。

 悪とは破壊的行為であると定義できるだろう。特に人間関係を破壊する行為である。いや、悪事を行いながらけっこう周囲と友好関係を築いている例もある、と言われるかもしれない。もちろん、その人間が真の悪人なら、それは周囲を騙して良好な人間関係を偽装しているだけだ。それでもその人間が幸せである、ということもあるだろう。そして物事の真実を見抜いている人間が、そういう「幸せな悪人」を見た時に、「天道是か非か」と司馬遷の嘆きを嘆くのである。しかし、それはその悪人が「悪によって」得たものではない。悪によって得られるものは物質的財産だけであり、物質的財産がその価値によって他の人間を引きつけたならば、それは財産自体の持つ「善」つまり「利益性」の結果にすぎない。悪の結果が直接に善報になったわけではない。
 金には善も悪も無い。金を得る手段の一つに悪行もあるし、むしろ悪行こそが手っ取り早い財産獲得の手段だろう。そこで金と悪が結びつくのである。金が目的で悪行をするわけだ。世の犯罪の大半はそれである。
 こうした犯罪を抑止するのがかつては道徳であったが、現在は法律しか無い、とはずっと前に書いた。
 他人に害を与えたことで本人が不幸になるのは、神経が弱いからにすぎない、という考えもできる。マクベスが主君殺しをした罪の意識に悩んでいるとき、マクベス夫人は夫の小心さを嘲笑ったものである。しかし、そのマクベスは勇猛な武将であり、戦場では無数の敵兵を殺してきたはずである。だから彼の怯えは殺人のためではなく、主君殺しを彼が特別な罪だと考えたことの結果だと言える。つまり、罪の意識は社会的・文化的に形成される超自我だろう。ならば、罪の意識なしに悪行をするのはそう難しいことではないはずだ。社会全体がアモラル(無道徳)になれば、罪の意識というものも無くなるはずだ。それこそ、まさしく現代という時代の特徴ではないか?
 悪を為すことで本人が不幸になるのは罪の意識のせいだとすれば、罪の意識さえ無くせば悪を為すことへの障害は無くなることになる。実際、この世界にはそういう悪の訓練所はヤクザ組織から軍隊に至るまでたくさんある。軍隊の第一の役目は「人を殺すことが平気な人間を作ること」なのである。会社なども会社の利益のためなら悪事のできる人間を重宝するだろう。善人ほど役に立たないものもない。なぜなら、道徳とは「禁止の体系」だからである。道徳とはブレーキなのだ。しかし、ブレーキの無い車はどういう存在になるか。そう、破壊的存在そのものになるのである。

7 社会にとっての悪と当人にとっての悪

 前章の最後の考察から、道徳を必要としているのは個人ではなく、社会である、という結論を出すのは簡単だ。だが、私はその結論を採用したくない。私は、実は「悪はその当人をも幸福にしない。その当人にとっても不利益な選択である」という仮説を心の中に持ってこの論考を始めたのである。
 つまり、「悪は当人にとって利益をもたらすから善(良きもの)である」というトラシュマコスの説を打破するためにこの文章を書き始めたのだ。
 もちろん、社会に害悪を与えれば、それが跳ね返って本人にも害悪を与える、などという理屈も言えるが、それが屁理屈であることは誰でも分かる。この世では悪を為しながらそこから利益しか得ていない人間が無数にいるからである。「悪因→悪果」という連鎖は、ここでは途中で切れるのである。すなわち、悪が利益を生むという現実が確かにある。
 にもかかわらず、悪は当人にとっても悪(不利益)である、という結論は私の中では動かし難い。最初に結論ありき、かよ、と馬鹿にされるかもしれないが、私には悪の結果として「幸福」になっている人間が本当に幸福だとは思えないのである。それは別に良心の呵責に苦しめられるだろうから、という話ではない。本物の悪人には良心など無い以上、良心の呵責も存在しない。たとえば、「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の犯人たちに良心の呵責というものがありえるだろうか。良心がかけらでもあれば、あのような残虐な行為はできないはずだ。いや、この世には良心などまったく無い人間も無数にいる。全人口の2~3%は、おそらくそうした人間である。つまり、学校ならば一クラスに一人は、生まれつきのヤクザ・殺人者だろう。
 では、そういう人間として生きることは幸せなことだろうか。良心が無い、ということは他の能力の欠如は別に意味しない。そういう人間が天才的なスポーツマンであることも、勉強の才能があることも、漫才の才能があることもあるわけだ。道徳のブレーキが無いということは、行動が自由であり、世間的権威をも恐れないから、案外格好良くさえもある。昔からドラマの世界では不良がもてはやされるのはそのためだ。
 しかし、私が悪人を見る時に思うのは、その精神の貧困さである。なぜ彼らはこれほどに貧困な精神しか無いのだろうか。悪を為し得るという心の回路には、他の人間を人間として尊重するという部分は無い。だからこそ悪を為し得るのである。他の人間は彼にとって道具か餌でしかない。そういう人間が作る人間関係が貧困なものにしかならないことは自明だろう。もちろん、幸福になるのに人間関係など不要だ、という人間もいるだろう。だが、人間関係を別としても、悪人の精神は私には汚らしいものに思える。いかに物質的に恵まれていようとも、彼らの精神と自分の精神を取り換えたいとはけっして思えない。それが、悪人として生きることは不幸だ、と私が言う理由だ。
 実在の人物を例に出して申し訳ないが、某東京都知事は文学的才能に恵まれ、金持ちの家に生まれ、生まれてから一度も経済的困難を味わったことはなく、政治家としては三流だったが都知事にまでなった男だ。だが、私は、彼になって生きるよりは都庁の傍で凍えているホームレスになったほうがいい。彼の得たあらゆる幸福も、彼のような精神で生きるという不幸の償いにはならないのである。この東京都知事はただの例である。彼はべつに「女子高生コンクリート詰め殺人事件」を犯したことはない。ただ、その精神は彼らと同一だと私には見えるということである。
 つまり、悪は社会にとって不利益をもたらすから悪なのではない。それなら当人にとって利益でさえあればいいわけだ。悪は、当人にとって悪なのである。それは、汚い心で生きることによって当人の人生そのものが汚染されるからである。
 汚い心とは何だ、という文句が聞こえそうだが、それは人間の理想や善なるものに対する不感症のことだ。悪人は、そういう理想や善への感性が無いからこそ悪を為し得るのである。通常、そういう理想や善が心に存在することで他人への愛情も可能になる。他人の体だけを所有すればいいという人間関係ではなく、相手のために自分が犠牲になってもいいという真の愛情は悪人には不可能なのである。
 結論的に言えば、倫理とは実は美感なのである。なぜ我々は利己的行為を嫌悪するか。それは、その行為によって自分が害を受けるからではない。それが汚い行為だからだ。他の悪行も同様である。それらは他者への害の有無以前に、汚いという感覚を我々に与える。その起源がどこにあるのか、これもまた文化による超自我にすぎないのか、今は論じる気は無い。
 抽象的な悪ではなく、現実の悪人を想像してみて、あなたは彼あるいは彼女になりたいか、と自分に聞いてみたらいい。なりたくない、という心の声が聞こえたら、それはなぜか考えてみる。すると、悪人の精神を汚いと感じる心がそこにあるはずである。もしも、なりたい、という心の声が聞こえたら、あなたはすでに立派な悪人である可能性が高い。

ニーチェは『善悪の彼岸』の中で犯罪を称揚している。犯罪を為すことは精神の偉大さを表すと言わんばかりである。確かに、孤立無援の状態で犯罪を為すことには、ある種の勇気が要る。勇気や男らしさを最大の価値と見做す男根主義者(障子を破るくらい、オレのは固いゾ、というわけだ。まあ、小説でならどうとでも書ける。)なら、犯罪もまた勇気の証明だということになるだろう。映画やテレビドラマが犯罪者をヒーローとして描くのも同様の思想が底にある。しかし、世の犯罪の大半は弱者いじめと詐欺的行為にすぎない。権力を持った強大な敵にアウトローとして立ち向かうヒーローなど現実にはほとんど存在しない。権力に立ち向かう人間は遵法的に戦って、当然ながらみじめに敗北するのである。
つまり、悪を為すのはただ卑しい心性の証でしかないというのが現実だ。勇気や男らしさは、弱い存在を守ってこそ価値があるのであり、弱者をいじめ、自分のエゴを満たすだけの「勇気」や「男らしさ」に何の価値があるのか。もちろん、当人にとっては欲しい物を手に入れるのだから、価値があるだろう。しかし、周囲の人間にとっては、そういう存在は唾棄すべきものなのである。
悪人とは、いわば人間社会にまぎれこんだ野獣なのである。法律や道徳という社会のルールを無視することで彼らは自分の望むものを手に入れる。野獣とは言っても、東大や一橋を出た人間もその中にはたくさんいる。だが、精神が「人間」ではないから野獣だと私は言っているのである。当然だが、この場合「野獣」は褒め言葉ではない。力こそすべてという人間の場合、野獣という呼称を褒め言葉と思うから始末が悪い。
 
悪人のほうがこの社会では成功する可能性が高いということを説明しよう。単純に数学的な話だ。善人は「できないこと」が無数にある。彼は善に反することはできない。ルールに反することはできない。だが、悪人はすべてが可能である。最終的な目的のために必要なら善行だってできる。つまり、偽善も可能だ。ルールも彼には存在していない。
ならば、この世界では悪人こそが成功するというのは自明の理ではないか。あらゆる悪を拒否して生きれば、まあ、妻子にさえ愛想を尽かされるのがオチだろう。品性高潔な騎士ドン・キホーテはあらゆる人間に嘲笑されつつ絶望のうちに死んで行き、「現代のキリスト」ムイシュキンは「白痴」扱いされた。その一方、「神も悪魔も男も女も信じない」男、ド・マルセーは総理大臣にまでなるのである。世界文学の名作には、世の真実があふれている。


8 世に悪人の種は尽きまじ

「石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽きまじ」とは石川五右衛門の辞世の歌だと言う。もちろんフィクションだが、この歌は世の真実を語っている。盗人を悪人と詠み変えたら、もっといい。
なぜ悪人の種が尽きないのか、と言えば、それは悪を為すことが当人にとって利益である、と一般には思われているからだ。
縁なき衆生は救いがたしと言うが、悪人は以上のような私の論考を笑い飛ばすだろう。悪が利益であることなど当然すぎることで、そういう自分の精神が貧困だとか醜いとか言われても、俺は一向に痛痒は感じないね、というわけである。俺は豪華な大邸宅で一本何十万円のワインを飲み、お前は暖房も無いような四畳半で凍えながら、力のある連中を内心では羨みながらぶつぶつ文句を言っているだけさ、というわけだ。
そして世の大半の人間も、金と権力のある人間と無名の貧乏人の発言を比べたら、当然前者に軍配を上げるだろう。これは「東大にも入れない人間の東大批判など聞く価値はない」という論法に似ている。だが、悪を為した後で悪を批判するということはできないのである。バルザックの小説に出てくる哲学的悪党のヴォートランは「美徳は切り売りできないんだぜ」と言っている。今日は悪行を為し、明日は善行を為すというわけにはいかないのである。
というわけで、善と悪が戦えば、確実に悪が勝つ上に、世間的評価も悪人の側に上がるという、情けない戦いがこの世界での善と悪の闘争なのである。
それでもなおかつ善を選ぶというのは容易ではないが、勝ち目の無い戦いだからやらないというのは算盤勘定を優先させすぎた考え方だろう。人生の価値は何も1本何十万円のワインや一晩何百万円の美女だけにあるわけではない。
『吾輩は猫である』の中の苦沙弥先生と金満家の金田氏との精神的闘争も、いわば拝金主義者の醜さへの夏目漱石の嫌悪感の現れであるが、現代の悪は拝金主義と、金を得るための闘争の中にある。もちろん、性犯罪者などもたくさんいるが、それらはすべて「自分の利益のためには他人に害を与えてもいい」という心性から来ている。
その心性は、元を尋ねれば、自分の動物的欲望を満たすことが何よりも大事だという考え方から来ているのだが、若い頃ならともかく、20歳を超えた人間がまだそう思っているなら、それは頭の中身が動物レベルであるということだ。人間の中の野獣なのである。それでいながら社会的地位も名声もあるという人間が無数にいるわけである。名声などというのは地位に付属するものであり、地位は人格とは無関係に得られるものだから、これはべつに奇妙でも何でもない。東京電力の社長や会長なども、原発事故が無ければ最後まで地位も名声もある人物で通せたはずなのである。

9 それでも悪にノーと言おう

私はこの論考で「善は利益であり、悪は不利益である」ということを言うつもりであるのに、善が割に合わないことを長々と書いてきた。
「それでも人生にイエスと言う」というのはフランクルの書物の題名だが、それに倣って、
「それでも悪にノーと言おう」というのがこの文章の結論だ。
なぜか? それは悪が薄らみっともない行為だからである。悪を為す時の自分の顔を鏡で見ればいい。それがいかに卑しい顔か、自分でわかるだろう。
ただその一点だけで私は、仮に龍之介の『杜子春』のように人生の選択を迫られたならば、東京都知事の豪華な生活よりもホームレスの暮らしを選ぶべきだと言っているのである。
馬鹿馬鹿しいって? まあ、そういう人間は『シラノ・ド・ベルジュラック』のシラノの行為も馬鹿馬鹿しいの一言で終わりだろう。あのシラノの行為は、東京都知事を何億人積み重ねても足元にも寄れない気高さがあるのである。人間としてこの世に生まれたのは、人間として生きるためであり、野獣や昆虫のように本能的欲望を満たすためだけではない。人類が美という概念を考えだしたことはまさしく奇蹟であり、行動の美というものが、この世には確かにあるのだ。それが善である。
正義とは、最終的には自分自身が正しいと見なす行為であるが、それはまた、自分自身をより高い次元から見て、自分や周囲全体によい結果をもたらす行為のことである。
それは時には人間の常識的限界を超える。だから、自己犠牲というものがあれほど崇高な美的感銘を与えるのであり、我々がそれに感動できるところに、美とは空虚な概念などではなく、生きる意味につながるものであることが示されているのである。

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夕凪の時代に生きる

今日は漫画の話である。
「ヨコハマ買い出し紀行」という漫画がある。(最初、「横浜買い出し紀行」かと思ってそう書いたが、念のために調べてみると、「ヨコハマ」だった。これが漢字の「横浜」でないのはおそらく、意味がある。)作者は芦奈野ひとし、アフタヌーンKCから出ている。もちろん、週刊誌「アフタヌーン」でずっと前に掲載されたものだ。
で、この漫画は3・11のずっと前に書かれた作品だが、3.11以降の日本を予見していたような作品である。作中の世界は、近未来の日本で、横浜に近い関東西部のどこかである。その世界では、日本の海岸線の大部分は海に沈み、人々は残った場所で静かに暮らしている。つまり、日本の静かな滅亡を受け入れながら日々を生きているのである。
それを作者はこのように言っている。

「お祭りのようだった世の中がゆっくりとおちついてきたあのころ。
のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間」と。

「夕凪の時代」……現実の日本の今は、やがてそう呼ばれるかもしれない。その時代には、人々は争いをやめ、我欲を捨て、身近な物事や小さな自然の変化にしみじみと感じ入りながら生きていたと。

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ある短歌の分析

   ある短歌の分析

 寺山修司の有名な短歌

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

は、おそらく誰にでも深い感銘を与える歌だろうが、その理由は何か、分析してみよう。

 まず、この歌の特徴として、上の句と下の句の断絶がある。連歌の付け合いのようでもある。これは、句点を打ってみるとはっきりする。
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし。身捨つるほどの祖国はありや」
 つまり、上の句は情景描写、下の句は心内語である。そして、この両者の間には、結びつく必然性はない。なさそうに見える。(このあたり、田中芳樹風)
 だが、この上の句と下の句との照応が、この歌の生命だ、と私には思える。
 細かく見てみよう。
 まず「マッチ擦る」で、我々はそこにすでにある種のはかなさを感じる。マッチの火の生命がわずかなものであることは、誰でも知っている。そして、そのはかなさは同時に我々の生命そのものの、もしくは青春のはかなさを連想させる。
 その印象が誤りでないことは、ただちに次の「つかのま」の語で確証を与えられる。
 この「つかのま」の語は、一見冗語に見えるが、実は、我々をこの歌の世界に取り込む大きな働きをしているのである。
 そして、次の「海に霧ふかし」で、我々の心には、ある情景が浮かんでくる。
 霧に包まれた港で、トレンチコートか何かを着た男が、マッチで煙草に火をつける。その一瞬、霧の中に男の顔が浮かんで、すぐにまた白い霧に包まれる。沖合いで船の鳴らす霧笛がボーッと聞こえる。
「霧笛が俺を呼んでいるぜ」とでも言いたくなるような、日活映画的情景である。
 しかし、ある意味陳腐なこの情景が、次のフレーズで異常な様相を帯びる。
「身捨つるほどの祖国はありや?」
 祖国のために身を捨てようかどうかと迷う、この男は何者なのか。作者本人か?
 それが作者本人であれ、フィクションの人物であれ、この自問はこの情景に深い奥行きを与える。なにしろ、国家論である。政治論である。日活映画的安芝居ではない。少なくとも、アンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」のような政治とテロとニヒリズムと残酷の詩情に溢れたドラマを我々は想像してしまう。
 というような、上の句と下の句のドラマチックな対比による効果が、この短歌の魅力の理由だと、私は考えるのである。皆さんの意見はどうだろうか。

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著作権切れ映画鑑賞会2

今日は21番から30番を書く。
27番までが例の80作セットに含まれた作品である。28番以降は、追加発注した物で、その中には私の眷恋の作品であった「魔法の剣」もある。それ一つのために「80作セット」と大部分が重複しているにも関わらず、1600円で10枚セットを買ったのである。


21 「ジャンヌ・ダーク」:監ヴィクター・フレミング 主イングリッド・バーグマン(2点) 評:2点は映像の美しさとセット、小道具係の労苦に対してである。ドラマとしては最低。バーグマン自身がこの役をやりたくてたまらなかったという話だが、この映画の出来を見たら、出なければ良かったと思っただろう。こういう大作映画が愚作になるのはよくあることである。監督が無能であったりセンスがなかったりするのは、スポンサーや映画ファンへの犯罪である。そういう監督が邦画の場合は半分以上なのだが、それで映画を撮らしてもらえるのは不思議である。余談だが、ジャンヌ・ダークが法廷(魔女裁判)で必ずしも自分の信念を貫いたわけでなく、自分の過去の行為を否定したというのは、おそらく史実だろう。これも映画のストーリーとはあまり関係ないが、「青鬚」のモデル、ジル・ドレーも出てきて、おっと思った。
22 「キング・コング」:監メリアン・C・クーパー&アーネスト・B・シュードサック 主フェイ・レイ、それともキング・コング?(6点) 評:歴史的価値から言えば、もちろんもっと高い点をつけるべきだが、ドラマとしての弱さは否めない。特撮は案外といい。もちろん、リアリティという点では新しい方のリメイク版にはかなわないが、映画のワクワク感は、実は稚拙な特撮の方が大きいのである。
23 「海賊キッド」監ローランド・V・リー 主チャールズ・ロートン(6点) 評:全体の3分の2までは素晴らしい出来だが、途中から話がいい加減な感じで収束するのが残念。チャールズ・ロートンは、イギリスの志村喬といったところである。悪役をすることが多い。「戦艦バウンテイ号」での船長役も悪役であったが、ここでも悪役。映画が途中からグズグズになったのは、主役(こういうのは主役と言うのか疑問だが、要するに二枚目とヒロインだ)の美男美女二人を無理にハッピーエンドに持っていこうとしたためだろう。主役は死なない、という鉄則を守るのはいいが、合理的説明を怠ると、ドラマは台無しになる。
24 「鉄仮面」監アラン・ドワン 主ダグラス・フェアバンクス(7点) 評:ダグラス・フェアバンクスの敏捷な剣戟を楽しむ映画である。次に書く「三銃士」は明らかにこの映画から多くのヒントを得ているようだが、映画としての品格、レベルはこちらがはるかに上である。最後の場面は、いかにもありがちなエンデイングだが、思わず涙が出てきてしまった。
25 「三銃士」監ジョージ・シドニー 主ジーン・ケリー(3点) 評:ジーン・ケリーによる、ジーン・ケリーだけのための映画である。当然、映画としての出来は最低レベル。ジーン・ケリーは映画というものを、自分を売り込むための媒体としか考えていない。それにある程度のブレーキがかかった「雨に唄えば」は大傑作だが、それでも彼の「ナルシスト・ダンス」にはビング・クロスビーの優雅さのかけらもない。ただの体操である。
26 「イワン雷帝」監エイゼンシュタイン主ニコライ・チェルカーソフ(4点) 評:歴史的名監督として名高いエイゼンシュタインの映画であるので大いに期待して見たが、まったくの当て外れ。キューブリックが「エイゼンシュタインはスタイルは満点だが内容はゼロ。チャップリンは内容は満点だがスタイルはゼロ」と言っていた言葉の正しさを実証する作品であった。登場人物の顔だけはすごい。まるで歌舞伎の大見得みたいな演技をするが、確かにある種の迫力と風情はある。それがつまり「スタイル」だろう。
27 「ジュリアス・シーザー」監スチュアート・バージ 主チャールトン・ヘストン(4点) 評:退屈な映画だが、誠実に作っている。おそらく原作であるシェークスピアの戯曲にかなり忠実に作ったのだろう。私は原作は読んでいない。I・モンタネッリの「ローマの歴史」に書いてあるシーザー暗殺の部分も映画の内容に近い。ヘストンの性格づけが今一つはっきりしないので、映画を見る快感はかなり弱い。つまり、感情移入できるキャラがいないのである。ヘストンは、最初は善人風だが、後半は権謀術数を巡らす小悪党になる。つまり、あまり魅力の無い人物である。映画としては面白くないが、勉強にはなる。
28 「魔法の剣」監バート・I・ゴードン 主ベイジル・ラスボーン(9点) 評:この評点はかなり主観的である。子供のころ、劇場でこの映画を見て、すっかり参ってしまった映画なので、そういう「思い出補正」のかかった点数だ。しかし、客観的に見ても8点はある作品だ。つまり、子供向け娯楽映画としては完璧である。まあ宮崎アニメなど、近年のアニメ映画の完成度や芸術性に比べれば落ちるだろうが、「男の子」限定ならこちらのほうがワクワクするだろう。特撮面では、最初の戦いに出てくる巨人がハリボテ見え見えなのが残念だが、その後の特撮は素晴らしい。特に、魔法で熱死する騎士の姿は、悪夢的で素晴らしい。私の書いた少年小説は、この「魔法の剣」のイメージが原点になっている。ついでながら、どこかで私は「2001年宇宙の旅」のキア・デュリアがこの「魔法の剣」の主演俳優だと書いたが、それは間違いであった。ボウマン船長の同僚宇宙飛行士役の俳優が、脇役で出ている、というのが正解のようである。多分アイルランド人の騎士の役だろう。また、お姫様が魔法使いの手の中で、小鳥から小さな人間の姿に戻るシーンがあったと記憶しているのだが、それは見当たらない。私が妄想で作ったシーンなのだろうか?ついでながら、お姫様役の女優はあまり可愛くない。まあ、子供にとってはお姫様などどうでもいいのである。お姫様など、冒険の景品でしかない。
29 「猛進ロイド」 監督 ? 主演ハロルド・ロイド(9点) 評:喜劇映画として驚くほど完成度の高い映画である。チャップリンの「ライムライト」や「独裁者」などは確かに傑作だが、「純粋喜劇」ではない。「純粋喜劇」としてはこちらに軍配が上がると思う。原題は「女性恐怖症」とでもいった題名だが、それがなぜ「猛進ロイド」というタイトルになったかというと、ラスト30分は、猛烈なアクションシーンの連続になるからである。おそらく映画史上最高のアクションシーンの一つではないか? 私はハロルド・ロイドの顔が嫌いで、食わず嫌いをしていたが、この映画には感心した。
30 「イースター・パレード」監チャールズ・ウォルターズ 主クロスビー&ガーランド (7点) 評:ミュージカル映画の最高傑作は同じクロスビーの「バンド・ワゴン」か、あるいはジーン・ケリーの「雨に唄えば」か、あるいは「マイ・フェア・レディ」かだろうが、ビング・クロスビーの映画の中では上位3位内に入るのではないか? ただし、ミュージカル映画としていいと言うよりは、クロスビーの映画としては珍しく、ドラマの部分がしっかりしているからこその高評価である。ジュディ・ガーランドは適役。歌もうまい。ついでだが、多くの人がミュージカル映画の最高傑作とする「ウェストサイド物語」は、斬新な作品だったが、ミュージカル映画の本質である「ファンタジックな幸福感」がゼロなので、ミュージカル映画としては私は高く評価しない。ただし、ミュージカル映画を幅広くとらえるなら、「ジーザス・クライスト・スーパースター」や「オール・ザット・ジャズ」と同様、高い評価をする。

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著作権切れ映画鑑賞会

京都郊外山中の町に引っ越してひと月半ほどはネット接続ができなかったので、暇を持て余し、安いDVDプレーヤーを買ったのを機に、古い名作映画などを見直してみた。「音と映像社」という会社の通信販売で、80作で1万1600円、1作当たり145円という奴を購入したのである。だいぶ贅沢な出費だが、1作145円で洋画の名作をDVDで所有できるのだから、レンタルよりかえって割安かと思ったわけだ。もちろん、こうした映画は著作権切れの古い奴ばかりだ。しかし、私は、映画というジャンルは1970年代くらいで終わったジャンルだと思っているから、古い方がいいのである。
残念ながらその80作(ほとんどが娯楽映画だ)のリストにはベルイマンやフェリーニといった「純文学的映画」の大物は入っていないが、これまで見る機会のなかった映画をこれで見ることができるのだから、それでもいい。
で、これから書くのは、そうした映画を見ての勝手な評価である。ただし、この種の評価は、言うまでもなく、見る者の主観でしかない。期待値が低いと実際以上に高く評価してしまうこともある。
で、それぞれ10点満点で点数化してみたが、中には映像だけなら満点、ドラマとしては0点といったものもあり、最終得点はその平均だから、この点数自体もあまり当てにはならないのである。まあ、ただのお遊びだ。
最初の数字は通し番号である。カッコの中が評価点。その後に短評など。
とりあえず、20作品ほど。


1 「西部の男」:監ウィリアム・ワイラー主ゲーリー・クーパー(10点) 評:最高である。ゲーリー・クーパーの映画として最高ではないか?もちろん、監督の手腕である。クーパーの役は、まさしく彼のためにあるような役で娯楽映画のヒーローとしては最高に好感の持てるキャラである。助演のウォルター・ブレナンも最高。ヒロイン役の女優も美人ではないが、可愛い。細部のユーモアも最高である。最高ばっかり言っているが、ウィリアム・ワイラーは世界最高の監督なのだから、こう言うしかない。
2 「マクリン・トック」:監アンドリュー・V・マクラグレン 主ジョン・ウェイン(3点) 評:キャラ、ドラマとも魅力無し。元ネタはシェークスピアの「じゃじゃ馬馴らし」だろう。下手な換骨奪胎である。ジョン・ウェインのオカマ歩きだけが目立つ映画である。私はウェインは好きだが、その歩き方だけはどうも好きになれない。モーリン・オハラは虚栄心の強い頭の悪い女という損な役柄である。ウェインの娘役は生意気、その恋人も生意気、ウェインの役は威張り屋で傲岸で、キャラにまったく魅力なし。
3 「静かなる男」:監ジョン・フォード主ジョン・ウェイン(7点) 評:昔、劇場でも見たが、もっと面白くなりそうな話で、やや物足りない。詩情はある。宮崎駿の原点の一つか。延々と村の端から端まで続く男同志の殴り合いは、「ラピュタ」「紅の豚」などに引き継がれている。あるいは同じフォードの「ドノバン珊瑚礁」の方の影響か。
4 「ウィンチェスター銃73」:監アンソニー・マン 主ジェームス・スチュアート(6点) 評:ドラマ自体は悪くないが、風情が無い。ジミー・スチュアートの個性があまり生かされていない。
5 「シェーン」:監ジョージ・スチーブンス主アラン・ラッド(10点) 評:最高である。西部劇における詩情という点で最高峰だろう。子役があまり可愛くない顔なのが残念。もちろん、これまで数回見ているが、年を取るほど良さが分かる映画だ。アラン・ラッドは西部劇の似合わない優男だが、この映画ではその品の良さが生きている。
6 「復讐の谷」:監リチャード・ソープ 主バート・ランカスター(7点) 評:プログラム・ピクチャーだろうが、案外といい出来である。もちろん、バート・ランカスターの魅力が点数の半分。
7 「砂漠の鬼将軍」:監ヘンリー・ハサウェイ 主ジェームズ・メイスン(7点) 評:戦争映画としてはやや爽快感に欠けるが、史実とフィクションがうまく融合した、良い映画である。
8 「外套と短剣」:監フリッツ・ラング主ゲーリー・クーパー(5点) 評:有名監督なので期待して見た分、がっかりした面がある。主人公があまりに馬鹿すぎて、感情移入が難しい。スパイ映画としての出来はそう悪くはなく、細部には面白い部分もある。
9 「ヨーク軍曹」:監ハワード・ホークス 主ゲーリー・クーパー(6点) 評:全体としては面白いのだが、敬虔なキリスト教徒である主人公が戦場で敵を殺しまくるようになる理由付けが納得しがたい。劇場でも見た作品だが、評価は当時もこんなもの。もっと面白くできそうな話である。
10 「メンフィス・ベル」:監ウィリアム・ワイラー*ドキュメンタリー(5点) 評:ドキュメンタリーだから、ドラマ性は薄い。しかし、ウィリアム・ワイラーだから、結構見られる作品になってはいる。当時の空軍の戦略についての興味深い情報も得られる。「メンフィス・ベル」は飛行機の機体に描かれた美人のことのようだ。
11 「アフリカの女王」:監ジョン・ヒューストン 主ボガード&ヘップバーン(7点) 評:以前にも見たが、その時よりは面白く感じた。主役二人の演技を楽しむ映画である。もちろん、ヘップバーンはキャサリンのほうである。ボギーはオードリーとも「サブリナ」で共演したが。
12 「嵐が丘」:監ウィリアム・ワイラー主オリヴィエ&オベロン(10点) 評:これほどの傑作を、食わず嫌いで見逃すところだった。なにしろ、ラブロマンスが嫌いだから、監督がワイラーでもなければ、絶対に見ない種類の映画だ。もちろん、原作は読んでいるし、傑作だと思っている。しかし、文学作品を映画化してロクな映画になった試しはない。だが、やはりワイラーである。映画としての出来は最高。彼は、私の中では世界最高の映画監督だ。彼の映画で失望したことは一度も無い。これは黒澤やキューブリックにおいてさえも無いことだ。
13 「若草物語」:監マーヴィン・ルロイ 主ジューン・アリスン(7点) 評:なぜか好きな作品なので、3回ほど見ている。穏やかに心楽しく見られる映画である。昔は映画の後半が気に入らなかったが、今は、その非ロマンティックな現実性も悪くないと思うようになった。
14 「ローマの休日」:監ウィリアム・ワイラー主ペック&ヘップバーン(10点、いや20点) 評:ロマンチックコメディ映画史上最高の作品である。1点も非の打ちどころがない。完璧な作品、映画の至宝である。もちろん、これまで10ぺん近く見ている。できれば、これがカラー作品であったら……。
15 「地上最大のショー」:監セシル・B・デミル 主チャールトン・ヘストン(4点)評:ドラマ性が弱く、どこを見どころにすればいいのか迷う、大味、散漫な映画である。キャラにも魅力なし。ジェームス・スチュアートがほとんど顔を出さない役で出演している。サーカスについての豆知識が得られるのが取り柄の映画か。
16 「宝島」:監バイロン・ハスキン 主ロバート・ニュートン(7点) 評:見て損は無い映画だ。本来の主演は少年俳優だろうが、海賊キッド役の俳優がまさに「役者やのう」という感じで、ドラマを引っ張っている。原作の良さを最大限に引き出した良作である。
17 「類猿人ターザン」:監W・S・ヴァンダイクⅡ世 主ジョニー・ワイズミューラー(7点) 評:ドラマとしては最後のあたりが弱いが、全体的になかなか面白い。大昔の映画でも馬鹿にはできない。特に、主演のワイズミューラーの演技には感心した。水泳選手上がりの際物役者と思っていたが、普通の役者よりずっと上手い。ジェーンの足を引っ張って穴から引きずり出すシーンは可笑しかった。
18 「サムソンとデリラ」:監セシル・B・デミル 主ヴィクター・マチュア(7点) 評:思ったより面白く、よくできた作品だが、主人公サムソンの阿呆さは(原作、つまり聖書のとおりだが)見ていられない。洋画の主人公は女と見れば鼻の下を伸ばす阿呆ばかりである。しかし、サムソンとライオンの格闘シーンその他、場面場面は見ごたえがある。
19 「ベン・ハー」:監フレッド・ニブロ 主ラモン・ナヴァロ(7点) 評:作られた時代を考えれば、8点を献上してもいいくらいの堂々たるスペクタクル作品である。ワイラー版の「ベン・ハー」の戦車競走の場面は、実はこの映画とそっくりそのままである。本当に迫力がある。欠点は、主演俳優が昔風の弱弱しい感じの二枚目であること。敵役の俳優は、実に憎々しくていい。
20 「クォ・ヴァデイス」:監マーヴィン・ルロイ 主テイラー&カー(7点) 評:主役二人のキャラがあまりに不愉快な性格付けなので、感情移入が難しいが、全体の出来は優秀である。人間よりも風景やセットが素晴らしい。デボラ・カーは清純な乙女の役だが、ロバート・テイラー演じる役が最初は人間の屑みたいな性格なので、それに惚れるという設定だけで、もうアウトである。後で改心するにしても、観客の生理としては、この男キャラへの嫌悪感は拭い難い。したがってカーに対しても、この阿呆娘としか思わない。ピーター・ユスチノフ演じるネロ皇帝は、俳優なら誰でも演じてみたいキャラだろう。この映画でも主役の二枚目とヒロインはどんな危険に遭っても死なないという愚劣な鉄則(次回23番参照)のために、ラストのあたりがグジャグジャになる。

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「死ぬこと」のマニュアル

   「死ぬこと」のマニュアル

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、「葉隠」の中でもっとも人口に膾炙した言葉だが、あまりに明瞭な言葉の多くがそうであるのと同様に、この言葉を深く考えた人間は多くないように見える。(かつての私自身がそうだったのだが。)たいていの人間がそうだと思うのだが、人間にとって、やはり自分の命が一番大事だろう。もちろん、自分の愛する者の命をそれより上位に置く場合も多い。しかし、自分の主君のため、今なら自分の属する会社や組織や上司や国のために自分の命を投げ出すなんてまっぴらだ、というのが現代の大方の人間の心理に決まっている。私も同じである。だから、「葉隠」のこの言葉は、時代のパラダイム(枠組み、限界)に縛られた発言であり、自分とは無縁な言葉としか考えていなかった。しかし、花田清輝という、三、四十年ほど前に有名だった知識人の書いたある随筆の中に「葉隠」からの引用があって、その言葉で「葉隠」に対する見かたが少し変わったので、それを書いてみる。
 我々は、江戸時代や戦国時代の武士は、死ぬことに対する抵抗感が、今の人間より少なかっただろうと想像しているが、実は「葉隠」が書かれた頃はすでに太平の時代であって、武士の間ですら軟弱な気風が広がっており、その風潮に業をにやした老人が若い武士たちへの戒めとして書いたのが、この「葉隠」であったのだ。そして、彼は武士道の本質を、「死ぬこと」だと規定したのである。さすがに、当時としてもこれは大胆な規定だっただろう。この事は、逆に当時の武士たちが、死ぬことをいかに嫌がっていたかを表している。だから、作者の山本常朝は、「武士道に関し、二つの判断の間で迷ったら、早く死ぬ方を選べば良い」という、実践的なマニュアルを示している。これも極端な意見だが、「武士道とは死ぬことである」という大前提から出てくる、合理的で有効な命題ではある。
 さて、私が花田清輝の随筆の中で興味を持って読んだのは、その「葉隠」からの引用で、おそらくこれも若い武士への忠告と思われる、「おろめけ、空言言え、ばくち打て」と、「一町のうちにて七度空事言うが男なり」という言葉である。
 「おろめけ」とは、私の持っている古語辞典には載っていないが、「拝む」を「をろがむ」と言うのと同様、「をめく」つまり、「喚く」の命令形だろう。「わめけ、嘘を言え、博打を打て」と言っているわけだ。
 これは非常に面白い言葉で、また、ここに「葉隠」の本質が現れているのではないかと思われる。
 私は、「葉隠」とは、「死ぬ」ための実践マニュアルだと考える。
 人を、いかにして死に向かわせるか、というのは、すべての君主にとっての難問である。主君の与える「御恩」に対して、死で報いるという理屈もその一つだろうし、「忠」という抽象観念を持ち出すのもその一つだろう。戦国時代なら、戦場での死を賭した働きによって、褒賞や身分の上昇が得られる、というのもその一つだ。しかし、平時において、主君のために命を投げ出させるのは、容易なことではない。そうした状況で人間は、自らの死を逃れるために幾つでも理屈を考え出すだろうからだ。中でも邪魔になるのが、世間的なモラルと「忠」の衝突である。だいたいにおいて主君は、自分のエゴイズムのために部下を利用するわけだから、そこには当然世間一般の義理や人情との衝突も生じることになる。そこで、主君の側の立場に立てば、「二つの判断の間で迷ったら、ためらうことなく死を選べ」という実践的マニュアルが有効になるのである。つまりは、思考停止、判断停止を指示しているのである。その前提に、主君の、あるいは主家のために、という言葉があるわけだ。これは、軍隊、あるいは戦場においては、上官の命令は絶対であり、個人的判断は排除されるというのに似ている。こうした思考停止状態、判断停止状態で、兵士たちがいかに非人間的行為を行なってきたかは、枚挙に暇が無いだろう。また、それは戦争の遂行のためには正当な行為であったとされるのである。武家社会では、平時に於いても、主家の名誉のために個人の「自発的な」死が必要な場合もあっただろう。そうした時に有効なのが、この山本常朝の勧めるような自動反応的行為である。現代でも、新興宗教の教祖の非道徳的な犯罪命令に、信者たちが易々と無批判に従った例もある。人間は、習慣と訓練で、容易にロボット化するものなのである。新聞紙上を賑わす大企業や公務員の犯罪の多くも、そうした習慣による道徳的不感症によるものだろう。
 「喚け、嘘を言え、博打を打て」というのは、いつでも必要な時に命を投げ出せる(要するに、主君の役に立つ)のは、そうした人間だということなのである。これは、ヤクザの鉄砲玉(使い捨ての殺し屋役)などを考えてみれば納得がいくだろう。単純で動物的な人間のほうが、鉄砲玉には使いやすいわけだ。別の言い方をすれば、それがいいと言うわけではないが、部下たるものは、物事を理屈で考えず、本能(ただし、この本能は、単に自動反応的行為の意味だが)で動け、ということ、使命のために自らを狂的な状態にせよ、ということだ。人間は、理性的に自らの死を迎えるのは難しい。しかし、狂的状態では、人は容易に自ら死ぬものだ。そして、そうした状態を正当化する価値観が、「男」ということなのである。
「一町のうちにて七度空事言うが男なり」というのも面白い言葉ではある。一町とはおよそ百メートルほどだが、百メートル歩く間に七度嘘を言うのが男だ、と断定しているのが面白い。なぜ、嘘を言うのか、というと、これは「葉隠」の全体から見ての推測だが、自らの男としての誇りを守るために、という事ではないだろうか。一つの嘘は他の嘘を要求するものだ。そこで、最初の嘘を維持するためには七度も嘘をつけ、ということである。なぜ、主君のために、あるいは、組織のためでもいいが、死ぬことができるか、というと、一つには、そこに自分の男らしさの証明がかかっているからである。あいつは卑怯だ、弱虫だ、男らしくない、と言われる屈辱よりは死を選ぶわけである。そして、その前段階として、嘘をつくことに代表されるように、世間のあらゆる道徳にこの特殊なモラルが優先することが宣言されているわけである。
ここでは、自らの男としての誇りは、何物よりも優先されねばならないことになっている。つまりは、マッチョズムの行き着くところは、自死にあり、ということで、「葉隠」をあれほど愛読した三島由紀夫があのような死を遂げたのは、当然の帰結だったのかもしれない。一見、合理主義者に見える彼の、政治的発言やパフォーマンスのほとんどが理解不能なのは、彼が政治に求めたのは、自らの死のための単なる舞台装置だったからではないだろうか。もちろん、そこには、戦争中に自らが安全な場所にいて死を免れたことへの自己嫌悪があったと思われるし、彼独自の夭折への愛着、老化への恐怖もあっただろうが、本質的には男らしさというものへの強迫観念が彼の自死の原因だったと思われる。
 しかし、こうした男らしさへのこだわりが、女性からみれば、何ともあわれでいじましく見えるものであることを大抵の男は知らない。ボディビルで筋肉を鍛え上げた男性を、男は感嘆の目で見るが、女性は、「気持ち悪~い!」としか思わないものなのだ。大人の男たちの戦争ごっこ、軍隊ごっこに対し、田辺聖子が言った感想は「泣かんと、よう遊んではるわ」だったと覚えているが、男というものの子供っぽさを、これほどはっきりと表した言葉は無い。男たちの、力への憧れが、いかに幼児的な心理であるかが良く分かる言葉ではないか。それにくらべて、身の周りの細々としたものを大事にし、生活そのものを美化しようとする女性的姿勢は、はるかに高級で、文化的で、大人の態度だと言えるだろう。男は、彼らだけで放っておくと、着替え一つせず、風呂にも入らず、仲間うちで喧嘩ばかりする子供に戻ってしまうものだから、女性が教育してやる必要がある。しかし、残念ながら、権力は、それを望む者の手に入るものだから、世の権力は男性の手に握られている。戦争と闘争を事とする男社会はまだまだ続くだろう。男らしさが、自らの力の証明や実行と不可分であるかぎり、世の中は殺伐としたものにならざるをえない。
 要するに、「男」という価値意識は、現代ではほとんど建設的な意味を持たない。まあ、男らしさというものに強きをくじき弱きを助けるという任侠や、騎士道的な精神があれば別だが、しかし最近の映画やテレビや漫画などに見る現代の男らしさというものは、むしろ力で他を支配し、そのためには手段を選ばないという、弱い者いじめを恥じない、野蛮で粗暴なものになっているようだから、そうした男らしさは傍迷惑以外の何物でもないと言えるだろう。もっとも、それに比例して、最近の若い女性も生活の美意識を失った下品な女性が増えているから、お互い様ではあるが。
 本題に戻ろう。「葉隠」の基盤となっている「男らしさ」に意味が無いとすれば、「葉隠」にも意味が無いかといえば、そうではない。むしろ、現代においてこそ「死ぬ」ためのマニュアルは必要なのである。我々の現代生活は、生活感が希薄であるにも関わらず、いざ死ぬ段になったら誰もが死を恐れる。黒澤明の「生きる」の主人公のように、自らの死を目の前に突きつけられて、初めて自分の生の空虚さが分かるのだが、人生の中味はめいめいの問題だからここでは論じない。しかし、誰にでも一様に来る死を、いかに迎えるかは、マニュアルがあっていいだろう。主君のために死ぬのは真っ平御免だが、どうしても死ぬことが避けられないなら、何とかうろたえずに死にたいではないか。
「葉隠」が教えたのは、男らしさでも何でもいいが、何かの価値を大前提とし、その価値意識の前では、いつでも自分を判断停止の状態に持っていくように自分を訓練しておけ、ということである。実際には、その対象が、時には神であったり、天皇であったり、自分の名誉であったりするわけだ。しかし、死を乗り越えるような、そうした「虚構の」(現実の存在でもいいが)価値は現代で可能だろうか。私は、自分の家族のためなら、もしかしたら自死を受け入れることも可能かな、という気もするが、それ以外では思いつかない。しかし、宗教を信じている人間が、比較的容易に死を受け入れるのは、こうした判断停止によるものだということは、あまりにも当たり前すぎて逆に気がつきにくい点ではないだろうか。要するに、そうした連中は(失礼ながら)生前から半分気が狂っているから、簡単に死を受け入れられるのだ。まあ、神や仏といった虚構を本気で信じ込むことにも、こうした大きなメリットはあるということだが。ついでに言えば、神や仏といった存在が厄介なのは、それが存在しないことの証明が不可能なことだから、私がこんなことを言ったところで宗教信者たちには痛くも痒くも無いはずである。さらについでに言っておくと、私は、気の狂った人間が「正常な」人間よりも劣った存在だと考えているわけではない。北杜夫がどこかで言っていたように、正常と異常の間に明確な区別はなく、我々は皆、多かれ少なかれ狂人なのである。ただ、社会にとって不都合な種類の狂人が隔離されたり治療されたりするだけのことで、それは、我々すべてが潜在的な犯罪者でありながら、ある種の基準を満たした人間(必ずしも、法を犯した人間とは限らない。権力にとって不都合な人間や、単なるスケープゴート的な冤罪の犠牲者もいる。)だけが犯罪者扱いされることと、何も変わりはない。
結論的に言えば、「葉隠」は、あくまで封建領主の統治のためのサポートテキスト以上のものではなく、いわば、会社が社員教育に使う非人間的な教育マニュアルでしかないが、その中心に「死」がある、という点でユニークなものである。そして、死そのものの考察の上で、もしかしたら、これまでの微温的で空疎なホスピスやターミナルケアについての言説には欠けていた「狂」や「ロボット化」という視点を与えてくれる、重要な参考書となるかもしれないのである。問題は、しかし、「愛と誠」(ふ、古い!)の名台詞ではないが、「**のためなら死ねる!」という存在を我々は探せるだろうか、ということである。

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他人を否定することで優越感を持つ人々


「阿修羅」によく投稿するASY8氏の文章を、コメント付きで転載する。なぜコメントも転載するかは後で説明する。
ASY8氏の文章はたいてい面白い。自分の周囲の物事に対する観察眼があり、分析も的確だ。特に、描写力が素晴らしいから、この人は作家的才能があると思う。ただ、感想が常識的すぎるから、私小説系統の作品以外は向いていないように思う。つまり、奇想や飛躍のあるユニークな作品は書けないかと思う。しかし、これだけの観察眼と描写力があるだけでもたいしたものだ。下の文章は、普通の人のあまり知らない世界の優れたルポルタージュになっている。ただ、この人は文章の段落分けをしない癖があって、非常に読みにくいので、こちらで勝手に段落分けをして転載する。
で、コメントを転載する理由だが、それは、こうした掲示板でのコメントというものの浅薄さの事例としてである。ASH8氏の記事は、読者が直接には知らない世界をレポートしてくれる貴重な文章であるにも関わらず、こうして簡単に否定するようなコメント(コメント2は肯定的だが)をしているわけだが、これは他人を否定することで自分がより上位の存在になったかのような錯覚と満足感を得ているのである。実はこういうコメントの書き手はこの記事の中の「常に誰かを嘲笑している」連中と同タイプなのだ。
「東大話法」の本質を言えば、「自分はレベルが高く、他の人間はレベルが低い」ということを見せつけるということだが、ネット上のコメントの多くは、幼稚なレベルの「東大話法」と言える。
なぜ幼稚かと言えば、そこには論拠も何も存在せず、ただ他人を否定するだけだからである。一言コメントというものは概して下らないものだが、それでも言った本人は自分が偉くなったような錯覚に陥るのである。
「他人を否定すれば、自分はそれより上であることになる」という錯覚は、実はほとんどの、他人の陰口や批判の根底にある心理でもある。
そういうお前のブログも他人の批判ばかりじゃないかって? まあ、それはそれ、これはこれである。(©島本和彦)


(以下引用)

独立行政法人
http://www.asyura2.com/10/idletalk39/msg/784.html
投稿者 asy8 日時 2012 年 2 月 17 日 18:27:09: 3ati27iqg4fYY

2012年2月17日、午後3時43分頃、ポリテクセンター三重の手書き製図制作教室付近にて、電気設備科の若いごろつきにまたしても因縁をつけられた。
これはいつもの人物ではなく、別の人物である。私が担当教官に対して相談した時に、他にもいろいろと不愉快なことを言う奴がいるから気をつけるように言われていた。しかし、そのときにはなんのことかわからなかった。これも同じく10月入所組である。とにかく平然と、侮辱的な発言を行う。しかし、面と向かって喧嘩をする度胸はないようだ。女の腐れのようにいつもつぶやいているし、これまた暴言を吐き続けている。
ここには常に教室でもどこでも帽子をかぶりつづけている者がいる。それも作業用の帽子ではなく、ファッション的な帽子である。頭が禿げているのを隠したいのか、それともそれほどまでに帽子が好きなのかよくわからない。この人物も教官の指示命令には従わず、いつも好き勝手なことばかりしている。他にもいつもニット帽をかぶっている者もいる。ヒッピーのような服装の者もいる。これにはあまり気がつかなかった。最近になって、やたらに挑発行動をするようになったのは、例の人物がおとなしくなってからである。本当に今までに働いてきたことがあるのかわからないが、ものすごく傲慢であり、威張り腐っており、これまた横柄で、平然と昼寝をする。そして、やたらと強がりを言う。何をそんなに怖がっているのかわからないが、やたらに強がる。強がるし、いきがるし、とにかく結果(引用者注:「喧嘩」の誤記だろう)を売ってくるのだが、いつも逃げ腰である。仕掛けてくるのはいつも向こうであり、私はなるべく避けているのだが、とにかくやたらに注目を浴びたいようだ。
ここの訓練校に入校することはお勧めできない。こういうごろつきやチンピラが集結しており、まったく統制が取れておらず、いかなる正常な訓練も行われていない。形だけでの表面的なものだ。とても本気で、技術や技能、学問をしようという気配は感じられない。常に退廃的であり、無気力であり、非常に険悪で、治安が悪く、常に陰口悪口が蔓延している。規律とか、規範とか、倫理、良心、道徳心、向上心は全く感じられない。普通の人にとっては退屈だろうし、真面目な人には苦痛だろう。ここはゴロツキが集結する危険地帯である。
もちろんまともな人物もいる。それが私だとは言わない。もちろん私自身にも問題があるのだが、それにしてもここは全くいかなる配慮もなく、全て完全に放任主義なのである。いかなる規則もなく、規律も、ルールも何もない。若いからといっても、過去の職場において、まったく地位や役職もなかったとは言えず、それなりの責任ある地位にいたのかもしれない。だが、この連中の日頃の言動や、雑談の違法行為の自慢話や、因縁つけの手口等からすると、とても責任ある地位にいたとは思えない。もしもこの連中が再就職ができたら、本当に奇跡だとしか思えない。だが年齢が若いのであれば、就職では(注:「就職は」の誤記)できるだろう。
この毎日因縁をつけてくる、例の人物以外のいじめ常習犯については、まったく相手にしたくないし、逆に相手にすると、指導員に怒られてしまうが、どうやら何としても、私に認めて欲しいようだ。私が認めるかどうかがどうしてそんなに重要なのかわからない。そもそも他人の陰口悪口を言いたい放題、毎日言い続けておいて、友達になりましょうとか言うのは全く変であり、異常であるとしか思えない。未熟であることは、当人も気がついているようだが、そんな卑怯者に対しては、何も意見は述べられない。少なくとも、他人に意見を述べるときは、まずは自分お(注:「の」の誤記)氏名を名乗るべきであるし、また、群衆に紛れて背後から言うべきではない。そういうことに熟練しても、誰も褒めてくれないし、それで出世することもない。国会では、ヤジ将軍などもいるが、それで成功した人はいない。なんともやっていることは女の腐れのようなことであり、どうにもこうにもならない。その上、それを追求(注:「追及」が適切か)すると、とぼける始末で、結局は、自分の発言にいかなる責任も取らず、知らぬ存ぜぬととぼけるだけで、まさに自分から志願して幽霊になったようなものである。こういうのはまったくつかみどころがないし、どこの誰なのかもわからない。こういう幽霊が今後どのように生きようとも、それは自由だが、自分が不正行為をしてきたのに、それを誰も親切に注意してくれなかったなどと言わないで欲しいものだ。またそういうやり方で、仲間を増やすことは難しい。
この人物は、特定の同じ10月入所組に対しては、やたらにゴマすりをして、授業中でも私語を続けている。どうも何か勘違いをしているようであり、自分が偉いと錯覚しているようだ。確かに頭は悪くないようだし、器用でもある。不思議なことに、こういう連中は、過去に工業高校を卒業したせいか、頭は悪くないし、器用だし、工業技術系の知識とか、経験も豊富である。確かに仕事のやり方は知っているようだ。ただ共通しているのは、文化的なものは一切ない。何か知的なというか、文化的な、芸術的な高尚なものはなく、神や仏を信じない傾向がある。もちろんそれは個人の自由である。ただし、自分が偉いと思い込んでいるうちは、絶対に本当の友人はできないものである。それに、何か自分の好きな文化的な、知的な趣味を持つべきである。パチンコとか、競輪、競馬、競艇等の賭け事ではなく、何かもっと芸術的なことだ。本を読むのもいい。要するに、今までの荒廃した、すさんだ人生観ではなく、何かこうもっとNHK的な、(注:こういう表現が期せざるユーモアになってもいるが、高踏的な読み手には嫌われそうなところだ)要するに、一般教養を習得すると、管理職向きとなる。いつまでも、毎日のように、他人に暴言をはき、陰口悪口を言い続けて嘲笑し、他人のゴシップだけで雑談を終了させるのではなく、もっと知的な文化教養度の高い会話をするべきだ。他人に因縁をつけるのではなく、普通の挨拶をするべきだし、それが嫌ならせめて沈黙するべきだ。
私が教養があるとか、知的であるということではない。もしもそうであれば、今頃は公務員になって威張っている。訓練生ではなく、所長になって、一日中パソコンで遊んでいる。全て部下に任せて自分は部屋に閉じこもって昼寝をしている。(注:もちろん、皮肉だろうが、全体の書きぶりが真面目なので冗談に聞こえないところが難点だ。しかし、職業訓練校の所長の仕事の実態を知らせるメリットもある。すべて天下りの仕事ぶりはそんなものだろう。)
いくら自分の間違った人生観を他人に押し付けようとしても、そんなものは通用しない。
訓練校の指導員も大変だ。こういうのを相手にしないといけない。まったくどうにもこうにもならない。ただこの連中の嫌がらせの手口はかなりのものである。しかし、その手口を褒め称える気にはなれない。むしろとてつもなく悲しいし、情けない。若いとはいえ、もうすでにそれなりの年齢であるのに、やっていることは小学生程度である。小学生でもしないかもしれない。
まずなによりも悪いのは、卑怯であることだ。自分の安全を確保しつつ、何の関係もない他者を陰湿に攻撃し続け、それを得意としている。反省もないし、罪の意識もない。まったく進歩向上する気もなく、堕落しているのをかっこいいと勘違いしている。再就職しても、相当に苦労するだろうし、逆に職場で相当にいじめ攻撃を受け、上司からもいびられるだろう。だが、巧妙に取り入って、ゴマすりをする技術はあるようだ。仲間とは何であろうか?普通の一般人は、犯罪者と仲間になりたいとは思わない。
さらに不思議なことに、この人物は、やたらに警察の話をするようになった。あたかも警察は自分の仲間であるかのような話ぶりである。しかも授業中にその話をしている。休憩時間中は、誰も相手にしてくれないので、授業中に雑談をしたいようだ。
こういう連中に共通していることは、とにかく常に誰かを嘲笑しているということである。よほど劣等感が強いのか、常に誰かを見下していないと安心できないようだ。しかし、まともに喧嘩をする度胸はない。そして自分の言ったことを決して認めない。常に堂々巡りであり、水掛け論であり、収拾がつかない。要するに何がしたいのかもわからない。べろべろに甘えん坊であり、まったくへろへろで女よりも女の悪い面が出ている。要するに会話にも筋が通っていない。それは私も同じだが、とにかくいつもぶーたれている。ダウンタウンのはまぐちのように、いつもぶーたれている。何か今までに苦労をしてきたという感じがしない。火星かどこかからきたかのようだ。
ただし、他人が不愉快になることはズバリと決して逃さずに言いまくる。もちろん同じことは他の誰でも出来るが、あまりにもガキっぽくて他の人はしないだけだ。こういう連中は、本当に間髪を入れずに、他人を侮辱する方法を心得ているし、相手傷つく言葉を常に考えているようだ。それを武器として大量に備蓄し、常に使用する機会を狙っている。(注:このあたりの観察眼と分析力、描写力は凄い)
あまりにも悲しい。果たしてこんな人間が、責任ある地位を獲得できるのだろうか。そんなことで部下の信頼を勝ち取ることができるのだろうか?企業の星として、会社の重役として、あるいは、小さな町工場の社長としてであろうとも、そんなチンケな根性ではとてもなれない。そんなことをして、物が売れると思っいているのだろうか?私もいろいろな店を知っているが、確かに店員のなかには、客に対して陰口悪口を言う者がいる。しかし、そういう店員はすぐにいなくなってしまう。長続きしないのだ。それどころか、店そのもがつぶれてしまうことも珍しくない。客に対して、そういう態度をする店が繁盛するわけがない。
私がどうしてこのようなことを述べるのかというと、それはこれからここに来ることを計画している人に、実態を知ってほしいからだ。もちろん他の訓練校でも問題はあるだろう。バラ色の訓練校等はないと思うかもしれない。しかし、私は、こういう問題がいつまでも長く続いたということばかり記憶しているのではない。決してすべての訓練校が、こういう状態にあるわけではない。
過去にどういう実績、経験があろうとも、謙虚な気持ちは捨てないで欲しい。それを捨てたら人間は終わりだ。傲慢になり、威張り腐り、もう自分は何でも知っているとか、他者よりも作業が早いとか、そんなことは、自慢にも何もならない。それはそれで素晴らしいが、現場で活躍して自慢するべきことだ。それにどんなにそういう技能が優れ、知識があり、早く作業を終わらせられても、他人に因縁をつけたり、侮辱し、嘲笑し、からかい、陰口悪口を言って面白がるなら、そんな人間は、たとえどんなに若くても、有害な存在であり、どんな職場でも必要ではない。会社としては、作業が完了しさえすれば、それでいいのかもしれないが、一人ですべてをやるならともかく、協力してやらねばならばならない時には、そういう態度ではだめだ。またそういう人間に友人はできない。  
  拍手はせず、拍手一覧を見る


コメント
01. 2012年2月17日 20:08:10 : IYyRSPdFJA
面白いが私的なことは書き込むな。

02. 蒲田の富士山 2012年2月17日 21:02:46 : OoIP2Z8mrhxx6 : 8h0h6m0uF2
面白かった。

03. 2012年2月20日 10:27:29 : BLErIkpY3A
心情の吐露ってそもそも雑談板じゃ無いでしょう?

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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