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この諸法の空相は

私はただの「思いつき」を「思考素材」と堅苦しい言い方をするのだが、我々の思考は無意識の大海の中から浮かび上がる「断片的思考」が機縁となって、後はそれに引き続く連想によってまとまった思考ができてくるものである。で、一番大事なのはそのきっかけとなる思考だから、それをわざわざ「思考素材」と呼んで重視しているわけだ。もちろん、世間的な成功を収めるには、本当に一番大事なのは、思考の継続性と徹底性、正確さではあるのだが、べつに偉大な哲学者や宗教家になりたいのでなく、思考そのものを楽しむのなら、やはり面白い「思考素材」が浮かび上がってくることが一番だ。
そういう意味では私の好きな箴言的な言葉はほとんどが思考素材でもある。そしてそうした特有の好みの思考素材が混じってくることで、思考の方向が私好みの方向になっていくわけだ。だから私はいつも同じような事を言ったり書いたりすることになる。まあ、食べ物の好みと似たようなものである。進歩が無い、と言われればその通りだ。
さて、私の思考素材の一つに「般若心経」がある。「聖書」も好きだが、それは文学として好きなのである。世界の創造主としての神など、私にはお伽話としか思えない。ただし、「我々の内なる神」という考え方なら好きだ。で、私は宗教としての仏教の信者ではないが、哲学としての「般若心経」は非常に面白いと思っている。
少し前の「山科恭介のブログ」でその般若心経についての文章があり、それを面白く読んだのだが、その中で「『空』は『無』の上位概念である」と断定的に、何の説明も無しに書かれていたことが少し引っ掛かった。
そこで、それを思考素材として少し考えてみたい。

私としては、「色即是空、空即是色」に先立つ「是諸法空相……色即是空、空即是色」の「是諸法空相」を問題にすべきではないのか、と思うわけである。つまり、この世界の諸法則(世界の在り方)を「空」という相(フェイズ)に於いて観じる時に、「あらゆる存在は空と見なせ、また空はあらゆる存在でもある」というのが私の解釈だ。つまり、「空」とは「空という見方」である。それを私流にこじつければ、「自分が存在しない場合のこの世界」が「空」なのである。自分がいなければ自分にとっての世界は存在しない。したがって「色即是空」である。「色」とはあらゆる存在、と考えておけばいい。あるいはあらゆる現象、でもいい。そしてまた、常識的に考えても分かるように、私が存在しなくてもこの世界は客観的には存在し続ける。だから「空即是色」なのである。
実に簡単で合理的な解釈ではないだろうか?
そして、これが実はすべての娑婆苦から脱出する道でもある。つまり、この人生のさまざまな不幸に苦しんでいる人間は「自分が最初からこの世界に存在しなかった世界」を思考実験的に考えてみればいい。そして、その世界と、今、あなたが苦しんでいるこの現実世界と比べて、どちらを選ぶだろうか。おそらくほとんどの人は、あらゆる苦難にも関わらず、「自分がこの世に存在する世界」を選ぶだろう。まさしく「生ける犬は死せる獅子に勝る」(聖書)のである。そして、ひとたび生を選んだ以上は、不幸や苦難にめそめそせず、雄々しく人生に立ち向かう意志が生まれるのは当然のことだ。
もちろん、「死に勝る苦しみ」を今現に味わっている人間には、こんなのは寝言かもしれない。そういう人間が自殺を選んだとしても仕方のないことだ、とは思う。それに、私自身、「いざとなれば死ねばいいさ」と、生きることを軽視するかのようなことを少し前に言ってもいるのだが、それは生の軽視ではなく、生にあまりに執着したくない、ということだ。生への過度の執着が多くの人にとって、逆に精神的な不幸や不満の原因になってはいないだろうか。前回書いた、認知症になったら殺処分にする、というのは、私自身が自分自身への処置として強く求めていることなのである。
死は必ずいつかは来るものであるし、死んだ後にどんな世界があるのか(まあ、まったくの虚無である可能性が99%以上だろうが)誰にも分からないのだが、「曲がり角を曲がった先に素晴らしい風景が広がっている」(「赤毛のアン」より)というのは人生だけでなく、死についても成り立つ可能性もある。
要するに、いつでも死ねるということの安らかさ、という考え方もありだ、ということである。死はすべての義務や苦痛からの解放でもあるが、すべての快楽からのお別れでもある。どちらかと言えば生のほうがいいが、生がすべて苦痛のみになれば、あるいは生きていてもしょうがない、という状態になれば、死も一つの選択肢であっていい。
我々はこの世界の下宿人のようなものだが、この世界を自分のイメージを元にして飾り付けることは許されている。そして、すべては我々がいかに考えるかで決まるのである。そういう意味では本当の富とは精神的な富のみである、と或る英語リスニングCDの中で最近聞いたのだが、(まあ、聞き間違いかもしれないが、私が聞いたことが私にとっての現実だ)実際、あらゆる幸も不幸も、根本的には我々の精神的態度で決まるのである。

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我執と「神」

我執と「神」

私のキリスト教への考えの中心は、まず、「神は存在しない。特にユダヤ・キリスト教の創造神はモーゼらによる創作である」しかし「キリストによる教えは、千古不易の偉大な教えである。その偉大さは『汝の敵を愛せ』という不可能な倫理を人類に示したことにある」という2点だ。後者はトルストイの示唆によって私が得たものだ。
自分を愛する者や自分に利益を与える者を愛するのは容易だ。しかし、それは「ギブ・アンド・テイク」の商取引にすぎない。何の見返りもなく、むしろ自分に危害さえも与える存在を愛することが、あなたにはできるか。
母親による育児放棄や児童虐待は、見返りの無い行為ができない現代人の時代精神の象徴だろう。子供がうるさい、邪魔だ、面倒だ、だから育児を放棄する、あるいは虐待する。これは自分にとって利益になる存在しか愛せない、ということだ。育児のために自分の好きなことができない、という不満も(子供)と(趣味)の価値比較をしているのだ。もちろん、自分にとっての価値であり、子供はそこではただのモノ(物体)だ。
我々は、援助の必要な無力な存在には本能的に援助を与えたくなるものだ。社会福祉とはその自然な本能を制度化したものにすぎない。もともと功利主義とは相反するものだ。したがって、功利主義と拝金主義に毒された現代社会では排斥の対象になるのである。その先頭に立つのが野田民主党や自民党、そして橋下のような連中だ。
社会的弱者への援助と母親の子供への援助は同根であり、どちらも「無償の愛」なのだから、その両者が同時に弱まっているのは当然だろう。

最初の段落の考えを補足する。キリストの教えは「人間はどう生きるべきか」という社会倫理がその大半を占め、その倫理の土台には神の存在がある。だから私のように神の存在を否定したら、ドストエフスキーの作中にある「神が存在しなければすべてが許される」という思想になる、というのが西欧的な考え方だ。だが、私はキリストの教えは神の存在と切り離しても有効だと考える。そういう意味では、私は「無神論的キリスト教徒」と自分を名乗ってもいいかと思う。
もちろん、「神」の定義次第では私も神を信じると言ってもいい。むしろ人間の心の中の善性を「神」と言うべきかと思う。「神」という漢字は「しめすへん」である。つまり、人間に正しい方向を示すのが神だ。人間はときどき自分自身が神になる、という考えなど面白いかもしれない。と言っても、新興宗教の話ではない。自分自身の中の善なるものに無心に従う時、その人は神のようなものだ、ということで、神というものはこのように日常的な、身近なものとしてもいいのではないか。
「汝の敵を愛せという不可能な倫理」とは、「倫理の極限」と言うほうがいいかもしれない。この「不可能」とは「不可能だが、それを目指して近づこうとするべきもの」であり、それに近づくほど人類は神的な存在になるのである。

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自分が存在しない世界を想定してみること

「ITスペシャリストが語る芸術」というブログから転載。
筆者のkayさんは超能力や超常現象を信じる神秘思想家で、運命論者であるようだ。最初は女性かと思っていたが、どうやら男性のようである。
そのあまりにも断定的な言い方に反発を感じる向きもあるだろうし、ブログを続けて読むと同じ内容を何度も繰り返すので、少々付き合いかねる面もあるが、時に素晴らしい文章で素晴らしい叡智の言葉を書くことがある。
下に引用するのが、その一例である。
これは仏教で言う「色即是空 空即是色」の本質をつかんだ言葉だと思う。つまり、自我を捨てた目でこの世界を見て初めて、この世界の真の素晴らしさは分かるということ。にもかかわらず、それに執着してはいけない、ということである。執着するやいなや、この世界は地獄と接続する。
私は筆者の主張する運命主義は、この世を改善する意志を失わせるマイナスの思想と見るから、それには不賛成だが、それが自我の苦しみから脱する道だとするなら、理解はできる。


(以下引用)




6月10日


あなたが死んだ世界


カテゴリ:芸術・哲学・神秘思想社会・教育

自分が存在しない世界を想像したことのある人は少ないだろう。
ところが、それをやってみると、これまで全く知らなかった神秘的な感覚を感じると共に、深い知恵を得るのである。

あなたが死んで少し経ったとする。
学校や職場、そこへの通学や通勤で通った道、利用した駅の風景を思い浮かべてみる。
すると、あなたがいた頃と、何も変わっていないことが分かる。
誰もあなたのことなんか、もう忘れている。
家族なら、しばらくの間は、あなたのことをよく思い出したり、話したりするかもしれないが、それも、そう長いことではない。
あなたが死んだ影響なんて、全くないのだ。

会社などで、「俺がいなければ、仕事が回らない」なんて思っている者は多いだろうが、そんなことは全くない。
実際、そんな態度を露骨に見せながら仕事をしていた者が、不意に移動させられたなんてことを何度か見たが、それで職場が少しでも混乱したなんてことは一度もなかった。
プロ野球やプロ・サッカーでも、主力選手がケガをして出場できなくなると、マスコミはよく、いかにもチームが大打撃を受けるようなことを書くが、実際は、すぐに別の選手が活躍して、むしろチームがよくなったりするものだ。スター選手が欠場したら、かえって大勝する場合が多いじゃないか?

まして、我々凡人は、いてもいなくても、世界に何の影響もない。
「残された妻子が不憫だ」とか、「年老いた親を残したまま死ぬわけには」という者も多いが、何とかなるものだ。
実際、主人が亡くなった後、奥さんが強くなり、そして、家族の協調性が強くなって幸福になった家庭を見たこともあるし、それが自然なことと思う。
『蘇る金狼』という映画で、松田優作さん演じる朝倉哲也が銃を向けた暴力団の男が命乞いをした時、哲也が、「女房子供あんのか?」と聞くと、その男は、「いるいる!いっぱいいる!」と必死ですがる。しかし、哲也は、「死んだ方が幸せになるだろ」と言って、引き金を引いた。
我々も、その暴力団の男と、ちっとも変わらないのだ。

家族、地域、学校、職場・・・そういった、あなたが深く関わった処でも、あなたが死んでも、何の影響もない。
ましてや、別の学校、会社、隣町、さらに、行ったこともない場所では、あなたの死は、あまりに無関係だ。
通勤電車の中で眺めた風景も何も変わらない。
ところが、ふと、不思議なことに気付くかもしれない。
自分がいなくなった世界を、観察するという行為を超えて、もっと静かに、深く感じた時、すなわち、観照した時だ。
実に、世界が美しく変わっていることに気付く。
あなたが知らなかった場所のことさえ感じられる。遠い国の町、草原、砂漠、海のことまで見えてくるようだが、それらが、ことごとに美しい。
なんと、我々がいない方が、世界は美しいのだ!
これはどういうことだろう?それは、我々の自我が、いかに世界を醜いものにしていたかということだ。
雨が降ったら憂鬱なのは、雨のせいでも、誰のせいでもなく、自分の心のせいだったことに、初めて本当に気付くのだ。
教師や上司、あるいは、クラスメイトや同僚の誰かが嫌なやつだったのは、実に、我々の心がその原因だったのだ。
全ての悪の根源たる自我が消えたら、世界は元々美しい。
そりゃ、世界には様々な問題があり、我々が死んだからといって解決するものではないし、実際、我々が死んでも、状況が変わるわけではない。
しかし、何かが違うのである。
まるで、映画の中の出来事のように、虚ろで嘘っぽいものに変わっている。
世界は、実に、ただの劇であったと分かる。

そして、ふと気紛れに、自分が元いた場所を見てみる。
すると・・・
自分がそこにいる。生きて、以前と同じようなことをしている。
それが、ほとんど他人事のように感じる。実際、それはもう自分ではない。
ただ、生まれる前に定められた運命の通りに生きているだけの、思考する個別体である。
その自分が、死のうが生きようが、もうどうでもいいことだ。運命の尽きるまでは生きるし、定められた時にちゃんと死ぬだろう。
これが悟りの実際である。

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角砂糖は菓子の代わりにはならないけど

今朝の(一つ前の)記事が少しブルーな内容なので、気分を変えるためにもう一つ投稿する。
角砂糖はなぜグラニュー糖や上白糖、あるいはコーヒーシュガーなどよりもコーヒーや紅茶に入れておいしいのか、という疑問を解くためにネットを調べているうちに、テレビの「物食い番組」でのボキャブラリーの貧困さを批判したスレッドにぶつかり、ちょっと面白いので転載する。
多分、「2ちゃんねる」派生サイトだろうと思うが、よくわからないサイトからの転載である。
テレビで物を食う番組の多さと、それを食った時の褒め言葉のワンパターンぶりには確かにうんざりするが、「甘みがあって美味しい」どころか、ただ大声で明後日の方向に向かって「うんま~い!」と叫ぶだけで通す芸能人も何人かいる。どちらも嫌だが、食事時に見る番組としては、そういう「物食い番組」は案外無難なのだよな。無芸芸人のおしゃべりの不快感とは別に、うまそうな料理が画面に出ているだけで、自分の食っている食事の貧弱さが精神的に緩和されるのかもしれん。
美味さの表現については、1番の意見に賛成だが、8番15番の反論ももっともである。テレビ放映の限られた時間の制約もあるが、味を言葉で表現するには、もともと優れた才能が必要なのだ。東海林さだおのエッセイがその点では最高だが、それもどちらかというと味よりは食感を微分的に表現する才能である。グルメブームの走りであった漫画「美味しんぼ」の中の表現にしても、味そのものがうまく表現されているかどうかは疑問だ。「まったり」などは有名だが、これも食感だ。
結局、味を表現するなら「甘くて美味い」「辛いけど美味い」「苦いけど美味い」「酸っぱいけど美味い」とするのが本当は正解なのだろう。なぜなら、7番が言うように、「美味い」とはもともと「甘い」が転化した言葉であり、どの世界でも甘いと美味いは最初は同義であったからだ。それは、昔は甘さが希少で貴重なものだったからである。
素材の持つ味は、それぞれにおいしさがあるが、菓子などは最初から甘さがその本質的な味だ。だから、22番などに書かれたように、菓子などが「甘くなくておいしい」というのこそトンマの表現であり、「甘さは控えめで、味わいがあっておいしいです」と言うくらいの言語能力の無い女の子に食べ物レポーターをさせるべきではない。


(以下引用)

1 :名無しさん:2000/10/27(金) 16:02
テレビの中途半端な(?)グルメ番組でよく聞くセリフ「甘味があって
美味しいですねー」ってどう思います? ナントカ産キャベツ食べて
「甘くて美味しい」、肉食って「甘味があって美味しい」、果ては、明石
の塩舐めて「甘味があるんだよー」。「美味しい」を構成するのは甘味だけか?あん?
そんなに甘いのが好きなら角砂糖でも食ってやがれ! と思うのは私だけでしょうか?
2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:11
正直な意見じゃないの?「甘味があって美味しい」
甘いのが好きっていう問題じゃないと思うが。
3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:17
1は、砂糖の甘さしか知らんのか?
4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:31
キャベツでもお米でも肉でも、噛んでると甘味が出てくるもんだよ。
アイスやチョコみたいに甘いもん食って「甘い」って言うのは当たり前だけど、
「味」はそんな単純なもんじゃないってことじゃないの。
今晩早速、ごはんを30回くらい噛んでみなよ。
5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:32
「甘みのある野菜」はうまいとおもうがね。
6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 16:34
素材そのものの味を知らんのか?>1
7 :ばかぐるめくん:2000/10/27(金) 17:46
日本のように食生活が貧しく、人民の味覚が未発達な国において
は、食べ物の「甘味」には絶対的な価値があるとされています。
貧者の食事における至上目的はカロリーの確保であり、甘さ、辛さ、
酸っぱさ、苦さ…など数ある味覚の構成要素の中でも、満腹感の象
徴である「甘さ」に対して唯一独特のポジションが与えられているの
は当然のことであります。
つまり「甘ければ甘いほどおいしい」わけです。
たしかに「甘すぎて不味い」という場合もあるにはあるのですが、
「美味しい」が「不味い」に転じる境界線が、「辛すぎて不味い」や
「酸っぱすぎて不味い」に比べて極端に高いところに置かれているの
です。

アジアの発展途上国の人が、茶に砂糖をドバドバいれて「美味し
く」して飲む人のは貧しさの象徴と考えられていますが、なあに、
日本人の味覚だって、50年前からなんにも変わっちゃいないのですよ。
相変わらず、いちばんよく売れている缶飲料は、UCCのベトベト
砂糖入り缶コーヒーなんですねー。
8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 18:06
紋切り型の表現にウンザリという意味なら、1にちょっとだけ同感。
キャベツの甘み、肉や塩の甘み、
「甘み」といってもそれぞれ違うもんね。
ただ「甘み」以外にいい表現って難しいし、
表現にこだわる余り長々語られてもなんかイヤ。
抽象的でわかりづらいよりは、「甘み」の方がよっぽどいいよー。

「角砂糖食っとけ」ってちょっと笑った。
9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/27(金) 23:43
馬鹿リポーターが肉食ったときの台詞「やわらか~い」が嫌。
お前等入れ歯か?
12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:12
そんな番組見なければいいのに。
当然自分は見てないので、1の言っている事が全然わからん。
13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:15
あと似たようなのに、柔らかいというのもありますね。
「このお肉、やわらか~い!」
14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:20
常套句としては、「スープに絡まりやすい縮れ麺」てのがなんかイヤ。
なんとなくだけど。
あとソムリエの表現が全部イヤ。
「秋の森のような、爽やかでいてやや乾いた感じの香り」とか。
長くて訳わからん。尻がかゆくなる。
イメージを喚起するのに、必ずしも語彙の多さが必要なわけではないと思う。
(テレビの「甘みがあって」とかは安易かなと思うけど、
 「甘み」と表現すること自体に文句はないです)
15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 00:38
では、逆に1がリポーターになったとして、
限られた時間の中でどう表現するんだ?
出来ない事を偉そうに言うな。
「甘みがあって美味しい」というのは、一般に分かりやすく
限られた時間で伝える表現としては良いと思う。違うか?
16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 03:32
>日本のように食生活が貧しく、人民の味覚が未発達な国において
British food is the most horrible in the world!
17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 03:38
「甘味があって云々」は確かにいまや常套句で、かえって不快になるほど多用されてるけど、
15の言うように他の表現がむずかしい。
「味に奥行きがある」とか「しゃっきりポン」とか言っても見てる側は
わかるようでわからんしな。
18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 03:38
貴重な食材とかを「鶏肉みたいでおいしい」とかいう表現するのは
なんだかなーと思う。そんなら鶏肉食べればいいやと思う。
19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 05:25
「コクがある」って言葉も連発するよね。
よく聞く単語だけど、みんな雰囲気で使ってるって感じ。
キチンと説明して欲しいところだけどね。

ほんと、こんな曖昧な言葉もないよなぁ。
22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2000/10/28(土) 16:11
なぜか最初から甘いとわかっているもの(ケーキとかチョコレートとか)に
対しては、「甘くなくって美味しい」というコメントが出てきますね。

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「梅ちゃん先生」を見るためならNHK料金も払う

ブログ中断前は、毎日のように更新しなければならないという強迫観念めいたものがあって、負担感が少しあった。趣味で始めたブログに負担感があるのでは、本末転倒だろう、ということで、再開後はなるべく気楽にやるつもりでいる。
ブログ内容も気楽な、趣味的なものを書きたいと思っているのだが、ついつい重い社会的問題についての感想などを書いてしまうのは、根が真面目だからだろう。まあ、軽い記事は「アンファニズム」あたりに書いているので、私という人間の子供っぽい部分はそこで発散しているからいいわけだ。

さて、今日はNHKの朝ドラの話をしよう。
大評判だった「カーネーション」の後を受けて始まった「梅ちゃん先生」は一向に評判にならないのだが、これは近来出色の出来ではないかと私は思っている。毎日ただで見ていては済まないので、私はこれまで不払い方針だったNHK料金を払い始めたくらいだ。しかしこのドラマが人気にも評判にもならないのは、多分主人公の梅子があまりに「いい子」すぎて女性受けしないのだろう。
女性は自己中でわがままな女主人公が好きなものだ。松田聖子やダイアナ妃が女性に好まれるのは、自分もそう生きたいという願望を代行しているからだろう。梅子のような「いい子」は男にとって都合のいい女として嫌われるわけだ。「カーネーション」は数回しか見ていないが、あれも女性受けするタイプの主人公だったようだ。
で、「梅ちゃん先生」というドラマは、実に気持ちのいいドラマである。一日が始まる朝からドロドロの不倫劇など見たがるのは女性くらいであって、男は爽やかなドラマを見たいものだ。「梅ちゃん先生」は爽やかで楽しいドラマであり、朝ドラとしては最高だろう。昔の、「おハナはん」という朝ドラ(表記は不明。「お花はん」か?)に近いのではないか。あの頃はそういう朝ドラが好まれたのだが、多分、これから世間の嗜好がそういう方向に回帰していく気がする。だから、「梅ちゃん先生」スタッフは気長に構えて、今の方向を見失わないように作っていってもらいたいものである。

蛇足だが、タイトル画面のジオラマの中で、よく見ると焼鳥屋か何かの前に朝も昼も夜も同じ猫がずっといるようだ。そういう細部も面白い。

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新しい進歩は辺境から生まれる

前回の記事の趣旨を後押ししてくれるような言葉が井口博士のブログに書かれていたので、転載する。
私は、世間的な意味での冒険家というものにはほとんど興味が無い。徒歩で南極点に行こうが、無酸素でエベレスト(今はチョモランマとかいう変な名前になったが)登頂をしようが、人類の進歩にはまったく無関係なくだらない行為だと思っている。
しかし、科学者の発明や発見は、人類全体の幸福にそのままつながる素晴らしい行為・達成であり、その発明や発見に至る過程は、それこそ人類の望みうる最高の知的冒険だと思っている。冒険とは、何も肉体的行為だけではない。
しかし、その科学者が権威に従うようになったら、新たな発明も発見もありえないのは当然だろう。科学者が教会の権威に従って天動説を信じていたら、現在の宇宙物理学は存在したか? ならば、現在主流であるビッグバン説だろうが膨張宇宙説だろうが進化論だろうが疑うのが真の科学者だろう。
というわけで、ある種の考えが、現在は奇説・怪説・オカルト・珍説とされていようが、そこから人類を新しいステージに引き上げる大発見が生まれる可能性は高いのである。


(以下引用)


こういう科学者集団の世界からみれば、フリーエネルギー発電、重力発電など、「まゆつばもの」に見えるだろうが、その予算レベルで言えば、誤差の範囲内程度というスモールスモールサイエンスに過ぎないのである。しかしながら、最初は飛行機も紙飛行機から始まったように、町工場の中の小型発電機が、将来には、地球規模の重力発電機に変わらないともかぎらないのである。マッキントッシュも最初はガレージから始まったのである。

この意味では、ビッグサイエンスの世界、バイオサイエンス、高エネルギー物理などの世界の科学者は、科学者としての本来の目的やその精神を忘れてしまったと言えるだろう。科学者は、「権威を信じるな」が合い言葉だった。「権威の否定」こそが、科学者のもっとも科学者らしい伝統だったのである。

日本の科学者やインテリたち、普通の教科書通りに成長した人々、こういった人間も、そろそろ「覚醒」して良い頃ではないのだろうか? 私はそう思うが。

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「この世界の片隅に」

良書の紹介。

こうの史代「この世界の片隅に」(双葉社 前後篇あり)


こうの史代は『夕凪の町 桜の国』が有名だが、そっちよりも私はこちらの方が大傑作だと思う。何より、戦争の時代の庶民の生活、生き方をユーモア混じりに描く、その描き方が素晴らしい。しかも、全体のリズムやトーンが見事に一定し、最後と最初が照応しているという、雑誌連載作品とは思えない完成度である。作者の絵も、『夕凪の町 桜の国』よりもはるかに表現力が豊かになっていると思う。まあ、こちらが後の作品だと思ってそう言うのだが。
日本漫画史上に残る傑作の一つといずれ評価されるだろう。

一見お遊び風の部分が時々出てくるが、それが何とも味わい深いのである。
楠公飯の解説の中の楠公のセリフ「やれうまし。まぢうまし」は特にお気に入り。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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