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猫の下僕の或る感想

「神州の泉」から転載。
「神州の泉」にたまに載る、あまりお堅くない記事だが、そういう記事にも書き手の鋭い知性と感性が現われていて、私は好きだ。大所高所から世間を叱咤する硬派な政治記事より好きかもしれない。
世間的常識(というより、現在の科学に押し付けられた見解)に囚われない柔軟性が、下の記事にはある。話の内容が複数の猫の眠る姿勢のシンクロという、どうでもいいような話なので、多くの人にスルーされる可能性が高いが、面白い問題である。
もちろん、精神感応(テレパシー)ではなく、ただ、同じ姿勢で寝る方が何となく安心する、という「猫文化」である、という解釈もできるが、そういう一見些細な問題を研究することから人類史を一変させる大発見が生まれる可能性も無いともかぎらないだろう。
まあ、私は猫の眠る姿は好きだし、彼らのシンクロした眠りポーズは、非常に漫画的で面白いので、これは彼らの人間へのサービス行為なのではないか、とすら思っている。彼らが人間の言うことを聞かないのも、あれは犬とは違った形でのサービスだろう。そのうち猫の思考を解読できる時代が来たら、ぜひ、彼らの思考を知りたいものである。
上記タイトルの「猫の下僕」とは、言うまでもなく私(人間)のことである。普段、下僕として扱っている人間に、眠るポーズで面白がらせるくらいのサービスはしてやろう、という有難いお志が、あの眠りポーズではないか、というのが私の推理だ。



(以下引用)




2013年11月 5日 (火)



眠りネコたちの奇妙な相似(ニャンコのシンクロナイズド・スリーピング)について





Photo_3


(画像はhttp://labaq.com/archives/51758746.htmlからお借りした。)




「眠り猫」といえば、日光東照宮にある左甚五郎(ひだり じんごろう)の彫刻作品を思い浮かべる方も多いだろう。
だから何だと言われても、それにちなんだことを書くつもりは全くない。(笑)

自分の飼いネコたちが、いつの間にか冒頭写真のポーズをとって相似形に寝ている光景をしばしば目にしている全国の飼い主さんたちも多いだろう。


さて、2匹のネコが、ほぼ同じ姿勢で寝ることであるが、これは特に珍しいものではない。
神州の泉は子どものころから、多くのネコを飼ってきたが、2匹のネコが同じ姿勢で寝ているところは何回も見てきた。
あるときは3匹のネコが全く同じ姿勢で寝ているのも見ている。

眠りネコたちの不思議な光景を見るたびに、これは何だろうか、どういうことがらがこのネコたちに同時に作用しているのだろうかと考えるのだが、全く分からないし手がかりもない。

同床異夢(どうしょういむ)という言葉はあるが、無邪気に寝入っている2匹のニャンコは同床同形、あるいは同床同期となっている。
このニャンコ・シンクロについては、決して偶然の産物ではなく、世界的にも広く見られ、しかもかなり頻繁な再現性がある。
だから、何らかの科学的な説明があっても然るべきであろう。

神州の泉は寡聞にして、これを的確に説明したものをまだ目にしていない。
この現象をまっとうに説明したものがどこかにあるのだろうか!?

では、不遜にも自分で仮説を立ててみる。

いきなり核心部に入る(笑)が、もしかしたら、ネコ同士には、非言語的なコミュニケーション通路が身体的にできあがっているのではないだろうか。
その通路は睡眠時にも開いていて、2匹(複数)のニャンコの身体が共有された状態にあるのではないだろうか。
こういうニャンコ・スリープのシンクロは、その手の仮説を設定しないと説明がつかない。

これは仲のよい犬とネコの間にも起きているようなので、動物には種を越える、何か共通の連携通路があると考えたほうがいいだろう。
まあ、むずかしく考えずとも、この現象は人間で言えばテレパシー (Telepathy) の一種だろう。
ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接他人に伝達される。
電話コールを耳にして、ある人物を思い浮かべたとき、当の本人からかかっていたなどということはよくあることだ。
超感覚的知覚 (ESP Extra-Sensory Perception) の一種。

人間界は、自然と乖離した人工環境なので、この原初的な伝達方式は衰えてしまっている。
だからこの手のテレパシックな情報共有を、超自然とか超能力と位置付けてしまっているのだが、案外、動物界では常態的にこの手段を使用している可能性は高い。
だから、スリーピング・ニャンコのシンクロ姿形は、睡眠時無意識の同時的な相互転写(そうごてんしゃ)ではないだろうか。

ネコ同士が眠りの状態を身体的にも共有する事実は、考えてみるとじつに不思議なことだが、動物たちにとってはそれがごく普通の“社会性”なのかもしれないのだ。

大胆なことを言うなら、動物たちは睡眠時に同種同属の動物や他の種類の動物たちとコミュニケーションを取っている可能性がある。
意外と、インターネットが発達するはるかな古代から、動物たちは、世界中に散在する動物たちによって形成された、情報のネットワークを共有していたのかもしれない。
この自然界には、人間が観察しているにもかかわらず、いまだに解明されていないことがかなり多いと思う。

と、以上のような神州の与太話はどうでもいいのだが、話の帰着点として、同じ格好になっているスリーピング・ニャンコはほんとうに可愛い。





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私の「ゴルフ考」

休日の、暇にまかせて書いた「ゴルフ考」である。ゴルフに興味の無い人は、今日の酔生夢人ブログはお休み、と考えればいい。もともと、毎日書くつもりのブログではなかったのだ。
なお、私自身のゴルフ体験は、コースに出たのが10数回程度、練習場に行ったのも同じくらいで、スコアは惨憺たるものであり、私のゴルフ理論はまったくの「机上の空論」である。




私は肉体労働者だが、運動能力はちょっとした身体障害者並みで、年齢的に、身体に無理をさせると故障を起こしがちなので、スポーツとはまったく縁が無い。しかし、スポーツを見たり、スポーツ関連の本を読んだりするのは好きである。政木和三のゴルフ教習書など、面白く読んだ。しかし、その「真理のゴルフ」は、写真や図版と文章内容の関連が今一つ分かりにくいところが欠点である。特に、クラブのスイング軌道とクラブフェースの関連が、私にはあまり理解できなかった。クラブフェースを開いたり閉じたりせず、常にスイング軌道に直角に保つ、というようなことが文章では書いてあるのだが、写真ではそれがよく分からないのである。
「真理のゴルフ」の理論を私の解釈でいい加減にまとめると、

1) 体重は、最初からインパクトまでほとんど左足にかける。(これは通常のゴルフ理論における「バックスイングは右足体重で、インパクト後は左足に体重移動をする」、という説とは正反対。)インパクト後は、ランを稼ぎたいティーアップした球の場合は球を打ち上げる感じで右足に体重が移るが、正確な距離の欲しいアイアンショットや、ボールが逆回転して止まる球が欲しい場合は、左足体重のまま。(ただし、使い分けが面倒なら、下記引用記事のように、すべて左足体重でもいいかと思う。そもそも、左足から右足に体重が移るショットは、あまり格好のいい姿ではない。いわゆる「明治の大砲」か。もっとも、すべて左足体重というのも、あまり格好良くはないと思う。)
2) 構えの姿勢はあまり前傾せず、直立より少し前にかがむ程度。
3) グリップは、左手は親指と人差し指だけ、右手は中指と薬指だけで持ち、その4本の指でほぼ「一点支持」になるようにする。当然、強い握りや締め付けは不可能だろう。要するに、クラブは振り子の支点として、「一点支持」であるわけだ。
4) つまり、クラブを腕力では振らない、ということ。軽いスイングで後ろに持ち上げ、振り子のように戻す。ティーアップしたボールは、そのスイングの最下点を少し過ぎた所で捉え、地面(芝)の上のボールはスイングの最下点(アイアンはわずかに地面に打ち込む感じもあるか)で捉えるようにする。
5) インパクトの瞬間、両脇(両腕)を締め、クラブヘッドを「走らせる」。あるいはグリップ支点(指で掴んだところ)を停止させるイメージ、あるいは、あるプロ(青木功だったか)が言うように、「閉じた扇子をパッと開く」感じか。つまり、腕によるスイングは頑健な人より遅いが、クラブのヘッドスピードは速い、という感じになるだろうか。別の言い方をすれば、「鞭を振る」イメージかと思う。(このあたりは、ほとんど私の想像だ。)
6) クラブフェースはこの間、常にスイング軌道に直角。つまり、手首の返し(外転・内転)は無い。「真理のゴルフ」では、最後までスイング軌道にクラブフェースは直角、と言っている。つまり、インパクト後も手首は返さない、ということだろうが、それが可能かどうか、私には分らない。そうすると、大昔の「パーマー・フィニッシュ」のような感じになるような気もする。あの力感溢れるスイングと、「老人、女性、障害者、非力な人」向け、と私が見ている「真理のゴルフ」がフィニッシュだけは同じであれば、それはそれで面白い。もっとも、「パーマー・フィニッシュ」がどういうものか、私は昔、写真で数回見ただけだから、これもいい加減な感想である。

以上は、かなり私の想像で補完した内容であり、元の「真理のゴルフ」からかけ離れた内容になっている可能性もあるので、真面目に読まなくていい。
もう少し補足すれば、政木氏は、ゴルフは「自分の足元1メートル四方だけ」のゲームだ、とも言っている。
飛ばそうとか、曲げないようにしようと思うあまり、スイングやインパクトの瞬間がおろそかになり、ヘッドアップなどをしたりクラブフェースが不正確に当たったりするのが、ゴルフの基本的な病状・病因であり、そもそもそれは広いゴルフコースや前方の様々なハザード、谷間などに幻惑されているのである。勝負は、ただインパクトの一瞬であり、その一瞬にきちんとクラブフェースが予定された飛行線と直角に、ボールに当たるかどうかだけでボールの方向も、そしておそらくはだいたいの飛距離も決まるのである。
などと分かったようなことを書いているが、私はほとんどゴルフをやらない人間だ。ただ、頭の中で考えるかぎりは、多分こういうことだろう、と思うだけである。
毎度言うが、私は考えることが趣味なので、こういうような「謎解き」自体が楽しいのである。しかも、世間には無数のヘボゴルファーが、「ヘボゴルファーのための究極のゴルフ理論」を探しているだろうと推測できるので、「真理のゴルフ」を足掛かりに、少し私も考えてみたわけだ。
なお、下の記事は、「左足体重」の効果についての実体験談である。ヘボゴルファーは、「政木メソッド」に限らず、いろいろと試してみると良いのではないか。
たとえば、「左手一本でスイングする」という方法もあり、サム・スニードによれば、たいていの素人は、その方が、いい打球が打てる、という。同じサム・スニードの本には「(素人は)ドライバーは、バッグから引き抜き、家に置いてゴルフ場に向かえ」とも書いてある。(笑)中部銀次郎もそれに近いことを書いており、下手なゴルファーは、ハーフセットのほうがスコアメイクには良いはずだ、とも言っている。これからゴルフを始める人は、心に留めておくと良いのではないか。フルセットを持つのは100を切るスコアが普通になってからでいいかと思う。(中部銀次郎によれば、アマチュアゴルファーの大半は、クラブの飛距離などほとんど一定していないのだから、たとえば6番と8番の間に7番アイアンがあっても、ほとんど意味はない、ということらしい。)



(以下引用)





2010年02月23日00:01

カテゴリ
ピヤポン・ゴルフ理論



嫌いと書きながらまたもやゴルフの話題ですが、3月1日にゴルフコンペを

開催する立場なので、知識と情報を身に着ける必要はあります。

こんな広告を見ました。



おいおい、俺の悩みはそれ以前に球が当たらないのだよ!

でも、ピヤポン・ゴルフ理論が世界に通用することがわかりました。

実は私は左足一本打法なのです。

測ってはいませんがアドレスでは左足に体重の70%ぐらいをかけます。

そして打つ瞬間には右足が浮いてしまいます。

この広告とまったく同じことではないのですが、体重を移動させないから軸が

ぶれにくく、力が分散されずに伝わるため飛距離が伸びるというピヤポン

理論が実証されたようです。

だから右半身の感覚がかなり麻痺しており、薬の副作用でいつもシビレがあり

多少右足を引きずって歩いている私でも、200ヤードのショートホールを

アイアンでワンオンし、10メートルのバーディーパットははずすものの、残り

20センチのOKパーがだせるのである。

ただ残念なのはゴルフに熱心でないため、練習にも行かず筋力トレーニング

もしないし、脳にエロ障害があり体力がついていかないため、思い通りの

正確なショットが出来ないのである。

この打法はもう10年以上前のゴルフコンペにて見つかったもので、その

日は調子が最悪でやる気を失くしていた時に、第一打のドライバーショットを

チョロってティーグランドを降りる時に右足を捻挫するという、まさに

"泣きっ面に蜂" 状態になってしまった。

歩くのはもちろん右足に体重をかけられないほど痛くて、あと4ホールを棄権

するか悩んだが、とりあえずそのホールだけはなんとかホールアウトする

ことにした。

刻んでいくしかないと、残り300ヤード以上はあると思っている中、8番

アイアンを持った。

左足に体重のほとんどを乗せ右足は支えている程度で、打つ瞬間は右足を

浮かせた。

何それ?

真っ直ぐ天に向ってギューンと伸びていく、生涯一というぐらいの完璧と思える

ファインショット。

その後もナイスショットは続き、キャディーからは捻挫した方がいいですね

と嫌味を言われるしまい。

だからこれをマスターしていけば80台はいけそうだと思っています。

でも、金と時間と気を使うゴルフには懲りませんよ。

アフターゴルフではなく、エロ一直線にイーグルパットです。



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政木和三という人

「大摩邇」から転載。
政木和三という人物は、自著などに言うその経歴や業績があまりに常人離れをしている上に、その言葉も神秘主義者的なところがあるので、平凡人の私などから見ると、詐欺師か誇大妄想狂ではないか、という疑いもあるのだが、彼の業績が事実ならば、まさしく天才、いや超人だろう。
下の記事は、彼の著作の序文だが、輪廻転生という、私があまり好まない思想を、彼は事実だとしている。もちろん、輪廻転生が事実でない、という証明も存在しないのだから、それはそれでいい。その部分を除けば、彼の言葉は、いろいろと面白い。
彼が科学の全能を疑い、超自然的な力の存在を信じるようになったきっかけの「スプーン曲げ」は、手品でも可能なことから、現在ではほとんどの人が、あれは手品であった、と結論しているが、仮にそれが本当に超自然的な力(と言うよりは、現在の科学では解明されていない力)によるものだとすれば、我々は現代科学の限界と、世界の真の神秘を再考する必要があるだろう。場合によっては、輪廻転生をもこの世界の真実のシステムとして認めざるを得なくなるかもしれない。となれば、道徳も政治も、ひいては社会全体が変わってくるわけだ。だが、やはり輪廻転生が証明されることはほとんど永遠にないだろう。従って、悪はこの世界の強力な要素として永遠に存在する、となりそうだ。
さて、私は政木和三が1週間に三つくらいのペースで無数の発明をしたとか、何の訓練も無しにいきなりピアノの名演奏をしたとか、ほとんど勉強無しにドイツ語が日本語として聞こえたとかいった話が真実かどうかは知らない。しかし、そうした常人離れした話とは別に、彼が下で書いていることの中には、この社会をより良く改変していくためのヒントがある、と思う。そこで、紹介しておくわけである。
なお、下記文中で彼が「生命体」と呼んでいるものは、「輪廻転生する魂」と解釈していいと思う。その「生命体」の声は、欲望を滅却することで脳波がシータ波(仏教で、一般に禅定と言われる状態だろう)という低い周波数になれば聞こえてくる、ということだ。また、脳波を下げるには、呼吸数をうんと減らし、1分間に1呼吸くらいにすると良いらしい。興味を持たれた方は試してみると良いだろう。ただし、政木氏は大阪大学であらゆる科学を学んだからこそ、その「生命体」の声に従うことで無数の発明をしたわけで、そういう「素養」無しには彼のような仕事はできないだろう。まあ、涅槃禅定の状態を本当に知るだけでも大変なことではあるのだが。
蛇足だが、彼の書いたゴルフ書「真理のゴルフ」は、もしかしたら革命的なゴルフ教習書かもしれない。老人や非力な人、ゴルフが一向に上達しない人は、彼のゴルフ理論を試してみるといい。ただし、外見的にはかなりみっともないフォームになるかと思う。私自身はゴルフはやらないが、ゴルフクラブを少し触った程度の経験で言えば、「真理のゴルフ」の理論は合理的だと思われる。特に、素人がプロの真似をしてはいけない、というのは至言だろう。素人とプロでは、クラブを振る回数が圧倒的に違うのだから、プロの技術が素人に可能なはずはない。しかし、ゴルフではそういう勘違い人間が圧倒的に多いようだ。




(以下引用)



2013年10月11日06:37
カテゴリ
mariscoさん
『この世に不可能はない』
著書『この世に不可能はない』 ~ まえがきにかえて ~
mariscoさんのサイトより
http://ameblo.jp/koji-kitano/entry-11613967137.html



<転載開始>
2013-10-10 00:00:00 テーマ:『この世に不可能はない』著者:政木和三



『この世に不可能はない』
~ The Power of Mu ~
生命体の 無限の力
政木和三

まえがきにかえて

● すべてはここから始まった

 私は、常々『この世に不可能はない』と思っている。これは私のこれまでの、八一年の人生を振り返っての実感である。

 『余の辞書に不可能という文字はない』といったのは、かのナポレオンだが、私がいっていることは、他人や他国を権力や武力で押さえつけ、その上に君臨して『不可能はない』といったナポレオンの傲岸(ごうがん)なことばとは、意味内容を異にしている。

 むしろ逆で、『この世に不可能はない』と私が感じるようになったのは、身の回りで起こったいろいろな不思議現象を私が素直に謙虚に認められるようになってからであり、決して私の思い上がりからではない。

 私が思い上がっていたのは、むしろ『不可能はない』などという非科学的なことが、この世にありうるはずがないと、かたくなに信じて疑わなかった時期のことであった。
 それは現代科学と、それに携わっている自分自身への思い上がり以外の何ものでもなかったろう。

 あるとき、その私に転機が訪れたのである。

 私は、大阪大学を拠点に昭和五十七年まで、戦前から含めてほぼ四〇年間、科学者としての生活を送っていた。その後半まで私は、神仏の存在も、超常現象や超能力もいっさい認めようとしない、かなり頑迷な科学一辺倒の人間であった。計測器で測定できるもの以外はこの世に存在しない-------そうかたく信じていたのである。

 いまから二十数年前(現在より約40年近く昔)、超能力者として話題になっていたユリ・ゲラーが来日し、日本中に『スプーン曲げ』ブームがわき起こったときのことは、まだ読者の記憶の中でも古びていないと思うが、あのときも『あんなものは単なる見せ物にすぎない』と、私はブームにむしろ冷淡であった。

 昭和四十七年三月のことである。たまたまテレビのスイッチを入れると、画面は相変わらずスプーン曲げの実演で、いいかげん苦々しく思った私は、たまりかねてテレビ局に抗議の電話を入れた。

 『科学的にいって、念力でスプーンが曲がるなんてことはありえないのです』

 『それならスタジオに来て、それを証明されたらいかがですか』

 私が工学博士であると知って、プロデューサーが逆に私にテレビ出演を求めてきたのである。

 そうなったら後には引けない。科学の正しさを証明するべく、自分で発明した『ストレーンメーター(金属ひずみ計)』を持って、私はテレビ局へ出かけて行った。

 ストレーンメーターは、一〇万分の一ミリのひずみでも検出できる計測器だ。その上に置かれたスプーンがほんのわずかでも曲がれば、そのひずみがたちどころに数値でモニターに表示されるしくみになっている。

 被験者には、スプーンに手を触れることなく、念を送るだけで曲げるという条件がつけられ、いよいよ本番がスタートした。念力でスプーンが曲がるなどという馬鹿げたことは絶対にありえない。そう確信して私は、念を発し続ける被験者をあざ笑うような気持ちで時間の経過を待っていた。

 ところが、『まだ曲がりません』というアナウンサーの声を聞きながら『それ見たことか』と思った、まさにそのときである。ストレーンメーターのモニターに一〇〇〇分の三ミリほどのひずみが表示され、私は一瞬、自分の目を疑った。わずか一〇〇〇分の三ミリとはいえ、スプーンはたしかに曲がったのである。

 想念の力で金属が曲がる。その信じられないような事実を見た瞬間、私は驚愕(きょうがく)し、それまで三十数年間も学んできたことのすべてが、根底からくつがえされていくような感じにとらわれてしまった。科学者としての私が、超常現象に目覚めた、これが最初の出来事であった。

 だが、長年にわたって培われてきたこれまでの科学への信念が、私の中から急激に消え去ってしまったわけではない。

 たとえば昭和四十八年一月に、私はまたしても同じテレビ局の番組に出演し、はたして想念の力で物体は動くか、という実験をしている。私が銅線でつくったヤジロベエに指を差し出し、『近づけ』と念ずるとヤジロベエは指に近づき、『回れ』と念ずると回り出すという実験であった。

 だが、超能力というものを否定したい気持ちがまだ私のどこかに残っていたのだろう。本番でヤジロベエはたしかに念じたとおりに動いたのだが、私は、それは念力によって動いたのではなく、私の体に発生した静電気の力で動いたのだと説明した。その証拠として蛍光ランプの中間をアースすると、それがほんの一瞬ほのかに光ったのである。少なくとも静電気の存在は、それで証明されたと私は思った。

 この放送のすぐ後で開催された日本薬学業会の総会で、講師として招かれていた私は、テレビ局での出来事を得々と披露した。すると、大阪大学のA教授と大阪府立大学のM教授が席を立ち、

 『政木さんの言っていることはおかしい。そんなことは静電気では起こりえない。それは明らかに念によるものである』

 と指摘されたのである。静電気でそんなことが起こりえないというのは、たしかにそうなのだ。私は壇上で答えに窮し、しどろもどろになってしまった。私が根本的に自分の考え方を改めなければならないと思うようになったのは、それからである。また、実際その後、私の身の回りに起こった超常現象の数々は、私の考え方を一八〇度転換させるに充分な出来事ばかりであった。

 私は、それらの出来事を通じて、この世の中には人間の知らないもうひとつの未知のエネルギーが確実に存在するのだということ、そしてこのエネルギーは、実は人間の肉体の内側にも潜んでいて、ある状態のもとにおかれると、それが前面に出てきてとうてい信じられないようなものすごい力を発揮できるようになるのだ、ということなどを知らされたのである(このエネルギーこそが、これから本書に頻繁に出てくる『生命体エネルギー』である)。

 『この世に不可能はない』と私が思うようになったのは、そのときからであった。

 と同時に、私にひとつの強い思いが生まれてきた。超常現象そのものはすばらしいことだが、身の回りにそれがいくら起こったからといって一般の社会の人々に何の幸福も喜びも与えない。むしろ自分の内側に潜むエネルギーを引き出し、その力によって新製品を発明して、多くの人々に喜びを与えるのが自分に課せられた仕事ではないのか。これまで長年学んできた工学や医学や力学の知識も、それによって活かされるだろう。そういう自分の内側からの声が、さながら神の啓示のごとく私の心に響いたのである。

 それ以来、私の発明は、一週間に三件平均で生まれるようになった。戦前からのものを含めてトータルすれば、私の発明は三〇〇〇件にものぼるだろう。その中には、自動炊飯器や瞬間湯沸かし器や自動ドア、あるいは医療の世界で使われているCTスキャンなど、読者に馴染みのものも多いと思う。これらを多くの人々に提供できたということは、私にとって本当に幸せなことであった。

 平成八年六月に、私の八十歳の誕生日を祝する『八十歳記念祝賀講演会』を岡山のシンフォニーホールで盛大に開催していただいたとき、私は尊敬するN和尚からご祝辞を頂戴(ちょうだい)したが、その中でN和尚は次のようなことばを述べてくださった。

「政木先生の学んでこられた工学の『工』という文字は、もとは『巫』という文字からきています。『巫』という字の上の横棒は天、下の横棒は地を表わします。その真ん中の二つの人という字は工に携わる人という意味です。つまり天のすばらしさを地上に下ろし、地に埋もれたすばらしいものを地上に持ち上げ、人々に幸せを与えるのが工に携わる人であるということです。『工』という文字は、そこからきています。政木先生は、まさに文字どおり、無欲になって天のもの地に移し、地のものを持ち上げ、宇宙にある一番すばらしいものを人々に提供してこられ、八十歳の今日を迎えられました」

 これは、私にとって身にあまる非常にありがたいおことばであった。

 一人でも多くの人々に喜びを与えられるということほどこの世に幸せなことはない、と私は思う。

 現代文明は、外面的な豊かさを求める『物質文明』にどっぷりと浸かっている。それによって、人類は地球を住みにくいものにし、自らも破滅の道に一歩踏みこんでいきつつある。その中にあって、いま必要なのは、自然への回帰であり、精神世界の再認識であろう。私たち個々人は、自分さえよければ他人はどうでもいいというエゴイズムを捨て、常に人々に幸せを与えつつ自らの人間性を向上させていくという高い精神をもたなければならない。

 本書で明らかにするように、私たちは肉体だけの存在ではない。私たちの本質は、実は『生命体』だと考えられる。私たちに、ときに信じられないような力を発揮させるのは、この生命体のエネルギーなのである。

 私たちは、これから二十一世紀に向けて、かけがえのない地球を大気汚染や環境破壊から守っていかなければならない。そしてその中で、自らの可能性を目いっぱい花開かせていかなければならない。そのためのキーワードがこの『生命体』である。

 私は、生命体の力によって起こる数々の奇跡を見てきた。また、高められた生命体のエネルギーが発揮されることで、この世に不可能がなくなるという数多くの体験もしてきている。私は本書で、それらの体験のいくつかを読者諸氏に語りたい。

 さらに、この混沌の時代を私たちはどう生きていくべきか。それを読者とともに探っていきたい。

 生命体の力が発揮されれば、この世に不可能はなくなる。それは本当である。私は、どうすればそうなれるのかを読者の皆さんに訴えたい。

 私の思いが、どれだけの強さ確かさで読者の皆さんに伝えられるかはわからないが、少なくとも、この世に不可能はないということを、本書を通じてご理解いただき、それによって読者諸氏の人生の幸福に多少なりとも役立てれば、著者としては望外の幸せというべきであろう。

平成九年六月

政木 和三


初版印刷:1997年7月20日
初版発行:1997年8月5日
著者:政木和三
発行人:枻川恵一
発行所:㈱サンマーク出版
発売元:㈱サンマーク
印刷:共同印刷㈱
製本:㈱若林製本工場
©Kazumi Masaki. 1997
ISBN4-7631-9192-6 C0030




 政木和三先生とのご縁の始まりは、昭和五年生まれの私の実父が小学生時代の頃より電気のイロハを教わり(実際に、電気ギター制作等々、様々な電気技術のご教授を、家族ぐるみのご近所付き合いの中で個人的に無償で賜ったそうです)、その後、御晩年には、政木先生の素晴らしいご発明品の集大成のひとつとして“世のため、人々のため”に御余生をかけ陰徳にご尽力なさいました超強力 神経波磁力線発生器(改名機器、インパルス磁力線、そして、Mリングと、すべての御販売は㈲政木研究所、㈱ケントにて)の製造に至るまで、数々のお仕事をお世話頂き、政木先生がお亡くなりになる最後の最後まで、私も含め家族ぐるみのお付き合いを賜わり、今も尚、心の底よりとても尊敬し、感謝している恩師・師匠です。

 以前に紹介させて頂きました政木先生の御著書『未来への発想法』の約一年後にご発刊なされました御晩年の作品『この世に不可能はない』を、政木先生からのお教えである『目先の欲望を捨て去り、世のため、人々のために尽力せよ!』との仰せを引き続き継承するため、これから毎日少しずつではありますが紹介させて頂きますので、皆様には再度、暫しのお付き合いの程、何卒、宜しくお願い申し上げます。

深謝
m(__)m

<転載終了>

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読書についての断想

「谷間の百合」さんが、多読家でありながら物事の本質が見えない人のことを書いていて、面白く思ったが、読書というものは本来、人間にとって危険なものでもある。昔から「本に読まれる」と言われてきたのがそれだ。
惑溺的な読書習慣は、ただの喫煙や飲酒と同じことであり、何も褒めるに値しない。
ショーペンハウエルの言葉を借りれば、読書とは、基本的には「自分の頭を他人の思想の運動場にする」ことでしかないのである。その状態があまりに長く続くと、「本に読まれる」人間の出来上がりだ。
しかしまた、書物の中には、現実以上に素晴らしい世界もあり、それは現実人生ではけっして味わえないものだ。おそらく、楽譜が読める人には、楽譜の中に音楽そのものがあるだろうし、数学の論文の中に美を見出す人もいるだろう。それらは、それを読むスキルのある人にしか味わえない世界だ。小説だって同じことである。
私には或る種の文学(現代文学の類)は「読めない」し、読む気も無い。また、昔の作家の作品も、こちらの力量不足で読めないものが多い。泉鏡花や幸田露伴の文章がスラスラ読める人は羨ましい。これらは、読めればその中に素晴らしい宝があることは確実なものだ。森鴎外や夏目漱石なら、読んでたいていは理解できるが、漱石の「真面目な作品」は、最初から読む気が起こらない。鴎外の史伝も読めば面白いのかもしれないが、まだ読んでいない。やはり、人間は易きに就くものだから、そうした「読むのに努力の要る本」はなかなか手が出ないのである。練習をしないと楽器が弾けないようなものだ。弾ければ、人生の楽しみが増えることは確かなのだが。

現代の多くの人にとって読書の目的は「情報収集」か「娯楽」のどちらかだろう。昔は「教養のための読書」という考え方があったが、物知りだから教養がある、というものでもない。テレビのクイズ番組のチャンピオンは物知りだが、彼らに「教養」があるとは思えないだろう。
まあ、教養とは何ぞや、という話になるとまた話が長くなるから、この辺までで駄弁は終わろう。


スタインベックが、「『罪と罰』(を読む)という体験は、その人の在り方そのものを変える」という趣旨のことを言っているが、優れた文学はそういう力があり、それは危険なものでもある。たとえば、昔は、太宰治を読んで太宰治的(クズ)人間になった文学青年が多かったようだ。しかし、これも太宰治の一面的理解によるものであって、「正義と微笑」や「パンドラの匣」、「女生徒」など、向日的でユーモラスな作品もまたその一面なのである。「人間失格」など、あまり青少年の読むべき本ではないだろう。漱石ならば、「こころ」よりも、「草枕」の冒頭部分の方が教科書に載せるべきものだ。あの調子のいい名文は、言葉(日本語・国語)の面白さを子供たちに教えるだろう。

















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ゴンドラの唄

ユーチューブを見ていたら、藤圭子の「ゴンドラの唄」があったので、コピーしてみる。
歌の中身と彼女の人生が重なっているようにも思う。まさに「命短し 恋せよ乙女」である。
黒澤明の「生きる」で、志村喬が雪の中のブランコに腰かけてこの歌を口ずさむシーンも忘れ難い。




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兵六餅のこと

私が子供のころ、時々食べた菓子に「兵六餅」と「ボンタン飴」がある。それが今でも百円ショップなどで買えるので、たまに買って来ることもある。もちろん、今どきの子供が好む食べ物でもないだろうから、私自身が食べるのである。
プルーストの「失われた時を求めて」の紅茶に浸したマドレーヌではないが、子供の頃の思い出の味は、失われた記憶を蘇らせこそしなくても、懐かしい感じはある。
下に書いたのはその兵六餅の箱に書かれている漢文(多分、漢詩の七言絶句だろう。「人」「身」「真」が型どおり押韻されているし。)と、そのふりがな(「読みがな」と言うべきだろうか。平がな書きの書き下し文とも言える。)だが、私は子供のころ、この中の「ひょうろくいかでかむいの志んを志らん」がひどく奇妙に思われたものである。まず「いかでかむいの」とは何か、どこでどう切って読むのか。「志ん」とか「志らん」はどう読めばいいのか。その頃は万葉仮名など知らないから「志ん」は「しん」と読めばいい、とは気づかなかったのである。小学低学年だから「志」の音読みが「し」であることも知らなかったかもしれない。五十音表で「ゑ」は知っていたと思うから「志」と「ゑ」を混同して「志ん」を「えん」と読んだりしたような記憶もある。全部平仮名の中に二箇所だけ「漢字」が混じるのはおかしいから、と子供なりに合理的な理由付けをしたのだろう。
父親が鹿児島旅行に行ったときに、兵六餅と「大石兵六夢物語」の小冊子をお土産に買ってきたようなうっすらとした記憶もあるが、今では茫々たる時の彼方の幻である。

五百年来世上人(ごひゃくねんらいせぜうのひと)
見来皆是野狐身(みきたればみなこれやこのしん)
鐘声不破夜半夢(せうせいやぶらずやはんのゆめ)
兵六怎知無意真(ひょうろくいかでかむいの志んを志らん)

(注)「怎」は、私のワードでは箱に書かれた「いかでか」に該当する漢字が出ないので、これで代用とする。「いかでか」は、「いかで…か」の短縮形で、「どうして~だろうか、(いや~ではない)」という反語を表す。

試みに訳してみると「この五百年の世上の人を観察すると、みな野狐のような連中である。鐘の音を聞いても誰も夜中に目を覚ます者などいない。兵六よ、お前がいくら強がっても、何もしないことが一番だ、ということは分からないだろう」といったところか。もちろん、私はこの文の前後関係を知らないので、ただ、兵六らしい男が腰の刀を握って化け物退治にでも行くようなパッケージの絵から類推しただけである。
私のブログのプロフィールで言う、「考えることが趣味」というのは、だいたい、こういう埒も無い夢想や、日常の謎の推理を意味しているわけだ。
なお、「野狐のような連中」とは、「野狐禅」で悟ったつもりになっている愚か者、くらいの意味だろう。





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良寛「地震の後の作」

「阿修羅」に珍しい投稿があったので、転載し、私自身の訳文を付けておく。
良寛による「地震後の作」という漢詩らしい。まるで3.11後の日本を予見したかのような作品で、興味深い。

(以下引用、および追加現代語訳)注は夢人による。


日日日又日日
日日夜夜寒裂肌
漫天黒雲日色薄
匝地狂風巻雪飛
悪浪蹴天魚竜漂
墻壁相打蒼生哀
四十年来一回首
世移軽靡信如馳
況怙太平人心弛
邪魔結党競乗之
恩義頓亡滅
忠厚更無知
論利争毫末
語道徹骨痴
慢己欺人弥好手
土上加泥無了期
大地茫茫皆如斯
我独鬱陶訴阿誰
凡物自微至顕亦尋常
這回災禍尚似遅
星辰失度何能知
歳序無節己多時
若得此意須自省
何必怨人咎天效女児


日々(ニチニチ)日々 又日々            毎日毎日、また毎日
日々夜々(ヤヤ) 寒さ肌(ハダエ)を裂く       毎日毎晩、寒さが肌に沁みる

(予が性 寒さを怖る、因って以て発端とす)   (私は寒さが苦手なので、これを詩の
                       書き出しとする)
漫天の黒雲 日色薄く             空いっぱいの黒雲、日の光は薄く
匝地(ソウチ)の狂風 雪を巻いて飛ぶ        狂騒の大地の狂風は雪を巻いて飛ぶ
悪浪(アクロウ)天を蹴って 魚竜死し        大波が天まで逆巻き昇り、魚も竜も死に
墻壁(ショウヘキ)相打って 蒼生(ソウセイ)悲しむ     家々の壁はぶつかりあい、民草は悲しむ

四十年来 一たび首を廻らせば         自分が生きてきた四十年を振り返れば
世の軽靡(ケイビ)に移ること 信(マコト)に馳するが若し 人心の軽薄に移るは駆けるかのよう

況(イワ)んや 太平を怙(タノシ)んで人心弛(ユル)み   まして大平の世を楽しんで人心は緩み
邪魔の党を結んで 競って之に乗ずるをや   姦悪は徒党を組んで勢いに乗じている

恩義 頓(トミ)に亡滅(ボウメツ)し          恩義の心は滅亡し
忠厚 更に知る無し              忠厚の気風は知る人もいない

利を論ずれば 毫末(ゴウマツ)を争ひ        利を論じれば僅かな利益を争い
道を語るを 徹骨(テッコツ)の痴(チ)とす       道を語る者がいれば笑い物にする

己に慢り人を慢るを好手とし          己を誇り、人を欺くをうまい手だとし
慢上慢を加えて已む時無し           自惚れに自惚れを加えて止む時が無い

大地茫々 皆是(カク)の如し           大地は茫々としてみなこの通りだ
我独り惆悵して 其れ誰にか訴えん       私ひとり悲しんで 誰に訴えるのだ

凡そ物は微より顕に至ること固より其の勢い   およそ物事は微かから顕かへと移る
今日の災禍は猶遅きを怪しむ          今日のこの災厄は遅すぎたほどだ

語を寄す諸人能く信受せよ           さて皆さん、よく聞いておくれ
何ぞ必ずしも驟かに人を怨み天を咎めて 女児に效(ナラ)わん  人を恨み、天を恨むなどと
                          子供のようなことはするまいぞ

          沙門良寛書/地震後作


(注)
*「己に慢り人を慢るを好手とし」→「人を慢る」ではなく、「人を欺く」である。
*原詩と書き下し文にはかなり違いがあるが、主として書き下し文に従って訳した

*編集画面と掲載画面がまったく違うので(困ったものだ!)見づらいが、訳文は赤字で書いてあるので、読めないことはないだろう。



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