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北山や雪積む上の夜の月

昨夜、飼い猫が死んだのだが、真夜中に目覚めると、枕元の窓から真上に見える夜空に、小さく満月がかかっていた。ふと、「愛猫の死にし深夜や寒の月」という句を思いついたのだが、今一つ満足はできない。そもそも、愛猫と言うほど私はこの猫に構ったことは無かった。娘が猫好きなので、飼っていただけだ。それに、できればこの月が天空に小さくかかる寒そうな満月であることも表したい。そこで、とりあえず、「飼い猫の死にし深夜や寒満月」としてみたが、「寒満月」という造語も鼻につく感じだ。まあ、べつに名句を作る気は無く、ただ、出来事のスケッチとして俳句にしてみただけだから、これで良し、としておくことにした。
それから目が冴えて眠れなくなって、あれこれ浮遊思考が頭の中に浮かんだり消えたりしている中で、凡兆の「下京や 雪積む上の夜の雨」という句を思い出したのだが、もちろん、一昨日の大雪からの連想だ。今も、京都の町々の屋根には雪が積もっているだろう。
この句の初五を凡兆ではなく芭蕉が「下京や」に決定したというのは有名な話だが、確かにこの「下京や」は素晴らしいとは思う。だが、それがなぜなのかを論理的に説明した文章を私は寡聞にして知らない。一つには音調の問題だろうし、もう一つは「下京」という地名の持つイメージだろうが、私には芭蕉当時の下京のイメージが湧かないのである。この句で言えば、公家衆ではなく、一般民衆の住む町家がひっそりと寝静まるイメージなのだが、それで正しいのかどうか。
「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む。」は三好達治だっただろうか。地名や人名にはそれ自身固有のイメージがあるが、太郎や次郎の名で「すべての子供」が現出する、というのも詩の魔術である。

ブログのタイトルにした句は、今思いついて、凡兆の句を換骨奪胎してでっちあげた句、いや、盗作である。「雪積む上の夜の」の部分だけで、俳句や短歌などではすでに盗作になるのである。つまり、先行する作品のキモの部分を使ってはいけない、ということだ。これは「本歌取り」の際にも気をつけるべきことだろう。しかし、素人が俳句や短歌の練習として、あえてこの種の「盗作」あるいは「本歌取り」をしてみる、という練習法も「あり」、ではないかと思う。もちろん、私の駄句の場合は「『夜の月』だと? 月は夜のものに決まっている。これは『馬から落馬する』同様の阿呆な言い方だ」という批判が即座に出るわけだが、まあ、月は昼にも出るものだし、あえて「夜の月」と言う、適当さ、ユルさもいいではないか。(追記:「夜半の月」にすれば、「盗作」ではなくなるかな、とも思うのだが、どうだろう。時間も明確になるし。「北山や雪積む上の夜半の月」)





   下京や雪つむ上のよるの雨      凡兆

此句初冠なし*。先師をはじめいろいろと置侍りて、此冠に極め給う。凡兆あトとこたへて、いまだ落つかず*。先師曰、兆汝手柄に此冠を置べし。若まさる物あらば我二度俳諧をいふべからずト也*。去來曰、此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。此事他門の人聞侍らバ、腹いたくいくつも冠置るべし*。其よしとおかるゝ物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也。

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此句初冠なし :<このくはじめかんむりなし>と読む。「下京や」は芭蕉を交えて後から附けたということ。


凡兆あトとこたへて、いまだ落つかず:凡兆は「あっ」と答えたけれど、それでも何となく落ち着かない様子であった。そこで芭蕉は凡兆に、「凡兆手柄だ!これを枕に使え」と言ったという。


若まさる物あらば我二度俳諧をいふべからずト也:もし「下京や」よりよい上五が付けられたら、私は俳諧師を止める。芭蕉の確信。


此事他門の人聞侍らバ、腹いたくいくつも冠置るべし :この話を蕉門以外の人が聞いたら冠をいくつも用意することであろう。だが、それを自分たちが見るときっと滑稽なものに映るに違いない。それが芭蕉の凄さというものなのだ。



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信長殺しに見る、心理操作による犯罪

ずいぶん前に出版された本だが、杉山光男という人の「本能寺殺人事件の真相(信長殺しの犯人は秀吉だった!)」(同文書院)という本が面白かったのでメモしておく。
私は、以前に、得体の知れない創作衝動に動かされて「昇る太陽」という、秀吉の生涯をわずか10ページ程度に圧縮して描いた短編小説を書いたことがある。(徽宗皇帝のブログの「創作小説」ジャンルに入れてある。)たしか、何の資料も見ずに、1日で書いた記憶があるのだが、その内容を修正する必要は、あまり無さそうだ、というのが感想の一つ。
で、これは新しい知見だが、信長殺しの真犯人は秀吉だった、という説は、かなり有力だと言えそうである。もちろん、実行犯は光秀だが、秀吉が彼を心理的に操作して、彼を信長殺しに向かわせた、という話なのである。ミステリー小説としても素晴らしいプロットだが、実際、その大きな証拠もある。
それは、毛利攻めの陣中から、何の必要も無いのに、秀吉が信長に救援を求めた、という事実だ。従来の説では、これは秀吉が信長にゴマをすって功績を譲るためのものだ、とされている。実際、この頃の信長は天下統一を目前にして、彼の宿将たちを次々と粛清し、家臣たちを戦々恐々とさせていたのである。光秀の造反も、おそらく「次は自分だ」という、その恐怖からのものだろう。
そして、信長の有力家臣たちの中で、当時遊軍であったのは光秀だけであり、信長は、秀吉からの要請を受けて光秀に秀吉の応援に向かうことを命じた。つまり、信長はわずかな手兵を除いて、まったく無防備の状態で京都にいたのである。光秀に与えられたその完璧な機会が、彼に信長殺しという「犯罪」を犯させたのは明らかである。では、その機会を作ったのは誰か。秀吉だ。
秀吉からの援軍要請がなければ、光秀が軍を動かすことはできなかっただろう。信長は自分が命じた事だから、光秀軍が間近に来るまで、何の疑いも持たなかったのである。
こうして光秀の「敵は本能寺にあり」で、信長という一世の英雄は滅ぼされた。
では、信長殺しの犯人は光秀か? それとも彼に完璧な犯罪機会を与えた秀吉か?
これは、犯罪実行犯と教唆犯という単純な話ではなく、教唆された側が、その事実にすら気づいていなかったという、超高度な心理的犯罪なのである。

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「いざ生きめやも」は誤訳なのか

前回、絵の写真をコピーさせていただいた「晴れの日も、雨の日も」から転載。
絵画だけでなく、文学にも造詣が深く、深い鑑識眼があるお方だと思う。
この「風立ちぬ、いざ生きめやも」がヴァレリーの詩の誤訳だという説については、私も聞いたことがあるが、今ひとつ納得がいかないものを感じていた。そのモヤモヤしたものが何であったかが、下の文章で見事に解明されている。
結核という病気がかつて持っていた死病のイメージからは、「風が立った、さあ生きよう」という元気な発言は出てこないだろう、という推定はまったく正しいと思う。あるいは、堀辰雄自身、「いざ生きめやも」は誤訳だと知りながら、あえてこの訳をしたのではないか。いや、訳というよりは、ヴァレリーの詩に基づく創作だ、という意識だったのだろう。一種の本歌取りである。
私自身、考えることが趣味だと書いているが、こういう「謎解き」は普通の推理小説の何倍も私には面白い。もっとも、一番難しいのは謎を解くことよりも謎の存在に気が付くことだと思っている。



(以下引用)




「風立ちぬ、いざ生きめやも」は誤訳とはいうけれど。




Kaze_2


 堀辰雄の小説「風立ちぬ」の冒頭近くで語られる有名な台詞「風立ちぬ、いざ生きめやも」。これは美しい響きの言葉であり、印象深い句なのだが、誤訳であることでもよく知られている。

 「風立ちぬ」の巻頭には、ヴァレリーの詩の一節「Le vent se lève, il faut tenter de vivre」が引かれていることから、「風立ちぬ、いざ生きめやも」はそれの翻訳であることは明らかではある。
 原詩のほうは、一般的によく使われるフランス語の言いまわしで、特に難しいものではない。英語に訳すと、「The wind is rising, you should try to live」くらい。後ろの句の主語は本来はweなんだろうけど、この句は自分に言い聞かすような言葉なので、youのほうがいいとは思う。
 それで和訳すると、「風が起きた、生きることを試みねばならない」の意味となる。要するに、吹いた風を契機に、著者の「生きるぞ!」との決意を現わしているのである。

 ところで、堀辰雄はここの部分を、「いざ、生きめやも」と訳している。「生きめやも」は「生き+む(推量の助動詞)+やも(助詞『や』と詠嘆の『も』で反語を表す)であり、現代語になおすと「生きるのかなあ。いや、生きないよなあ」となる。ダイレクトに訳してしまえば、「死んでもいいよなあ」であり、つまりは生きることへの諦めの表現である。
 「生きめやも」を逆にフランス語に訳せば、Vous ne devez pas tenter de vivre.…ではあんまりだから、やんわりとVous n'avez pas à tenter de vivre.くらいになるだろうけど、いずれにせよ、己の生への強い意志を詠じた原詩とはまったく反対の意味になってしまう。

 それゆえ、堀辰雄の「いざ生きめやも」は誤訳の典型として知られてきており、例えば大野晋、丸谷才一の両碩学による対談で「風立ちぬ」が取りあげられたとき、両者により、堀辰雄は東大国文科卒のわりには古文の教養がないと、けちょんけちょんにけなされている。

 ただ、誤訳といえば、誤訳ではあろうけど、私は小説「風立ちぬ」では、「生きめやも」でもいいと思う。

 結核に冒された人達の生活を描いたサナトリウム文学を代表として、結核患者が著書の作品には独特の世界が広がっている。
 結核は抗生物質のある現代では治療の方法のある感染症の一つであるが、20世紀前半までは、効果的な治療法のない死病であった。今の感覚でいえば、末期癌のようなものであり、これに罹ったものは、自身の命を常に見つめて生きていくことになる。

 それゆえ、結核患者の作品は、短く限られた命を真摯に見つめ、その貴重な時を文章に凝集させていくため、清明でありながら密度が濃い、独自の文学を創造している。
 彼らの残した作品は、堀辰雄をはじめ、梶井基次郎、立原道造、富永太郎、…と日本近代文学の珠玉の宝物となっている。

 そういった人たち、毎日死と向き合っていた人たちの作品として、「風立ちぬ」を読んでみれば、季節の移り変わりに吹いた風に、「生きよう」という意思が立ちあがるとは思えず、季節の流れとともにこのまま静かに命が消えても、という感慨が起きても不思議ではなく、かえって自然な感情とも思える。
 元々「風立ちぬ」は軽井沢の療養所で、死を迎えいく若い男女の、残された日々の静謐な生活を描いたものであり、「il faut tenter de vivre」という能動的な精神はどこにもなかった、と思う。

 ヴァレリーの原詩では、いくつもの魂の眠る墓地に地中海から風が吹き付け、そこで著者は「生きねばならない」という強い意思を抱くわけであるが、軽井沢の森に吹いた秋の訪れを知らせる風は、地中海の風のようにある意味精神を鞭打つような剛毅なものとはほど遠く、もっと人の心に寄り添うような、人に赦しを与えるようなやさしいものであったには違いない。それゆえ堀辰雄は、吹く風にヴァレリーの詩を想起したとき、敢えてあのように訳したのでは。

 「風立ちぬ」という不朽の名作につきものの誤訳問題。
 いろいろと意見はあるようだが、私は堀辰雄を擁護したい。


 風立ちぬ 堀辰雄著






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聖なる森

「死の島」で有名なベックリンの「聖なる森」である。
「死の島」同様に、見るものに恐怖感を与える絵画だ。こうした絵の描ける才能の持ち主はそう多くはない。
写真は「晴れの日も、雨の日も」というブログから拝借した。今日知ったばかりのブログだが、そのブログの管理人氏は芸術に関して深い見識のある人のようなので、過去記事を今後読むのが楽しみである。
なお、「聖なる森」を英訳すると「Holly Wood」つまりハリウッドになる。あの虚飾の都とこの死の森では大違いだが、映画「イナゴの日」のラスト近いシーンでは、ハリウッドが白く塗られた墓であることが幻想的に描かれていた。


(以下引用)




Hollywoods

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寒い話

「長く、暗い冬」というタイトルで徽宗皇帝のブログに記事を書いたが、そこからの連想で、小泉八雲の「鳥取の布団の話」を思い出したので、ネットで拾ったものを転載しておく。訳が少し軽すぎるし、アレンジしてあるので、八雲作品の持つ詩情や不気味さが失われた感があるが、冬の夜、寒さに震えて布団をひきかぶる時には、この話を思い出すのもいいだろう。子供なら、この話がトラウマになって、布団そのものを怖がるようになりかねない話である。

ついでに、同じく寒さからの連想で、山上憶良の「貧窮問答歌」も後で追加しておこうと思う。



(引用1)最初の「ムカ~シ」は、この話の陰惨さにまったく釣り合わないと思うので、訂正させてもらう。その他、少々変更した。







鳥取の、ふとんの話

〔小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』から〕





 昔、鳥取に小さな宿屋がありました。
この宿屋の主人は開店して初めてのお客に一人の旅の
商人を迎えました。宿屋は新しい店ではあり
ましたが、お金があまりなかったため、家具などはすべ
て古道具屋から買ってしつらえたものばかりでした。  
 お酒などのたくさんのもてなしを受けたお客は横にな
るとすぐに眠ってしまいました。


眠っていると
誰もいないはずの部屋から
もの悲しげな声がきこえてきました。

「兄さん寒かろう」

「おまえこそ寒かろう」

 二人の子どもの声でした。

 お客は明かりをつけて部屋の中を見回しましたが、だ
れもいません。気のせいかと思いましたが、また、

「兄さん寒かろう」

「おまえこそ寒かろう」

 という声が聞こえてきました。
よく聞くと、掛けているふとんからこの声が聞こえてくるのです。
 

 気味の悪くなったお客は慌てて勘定をすませ宿をとびだしていきました。

 つぎの晩も同じようにふとんに怯えた別の客が出てい
ってしまいました。
 はじめは、お客の話を信じていなかった主人もさすが
におかしいと思い、そのふとんを自分で掛けて寝てみる
ことにしました。すると――

「兄さん寒かろう」

「おまえこそ寒かろう」

 という声がするのでした。




 
 このふとんは、もとは貧しい一家のものでした。
 貧しい家でしたが両親と2人の子供の4人で仲良く暮
らしていました。しかし、あるとき父親が病気で亡くな
り、それを追うように母親まで亡くなってしまったので
す。残された2人の子どもは頼りもなく生きていくため
に身の周りのものを売っていくしかありませんでした。
そして一番最後に残ったのがこのふとんでした。

 ある寒い日、二人がふとんにくるまって寝ていると、
家主が家賃を払えとふたりのところへやってきました。
家賃が払えないふたりは、ふとんを取り上げられ、雪の
降るなか外に放り出されてしまいました。ふたりは寒さ
を凌ごうと抱き合い、いつしか眠ってしまい、永遠に目
覚めることがなかったのです。あまりの寒さにふとんに
魂が取り憑いてしまったのでしょう。

 そんなかなしい話を知った宿の主人は、ふとんを供養
してもらいました。
 
 それからは、ふとんがしゃべることはなかったという
ことです。








(引用2)夢人が少し訂正してある。たとえば、「布肩衣」が「布肩着ぬ」と誤記されていた。その他、返歌が長歌部分と連続していたのを分けて表示し、一部は色字にした、など。


貧窮問答歌

 風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩衣 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか 汝(な)がよはわたる
 天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 言えるが如く 鞭(しもと)とる 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術なきものか 世の中の道 


世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば




風交じりの雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜はどうしようもなく寒いので,塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり,咳をしながら鼻をすする。少しはえているひげをなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが,寒くて仕方ないので,麻のあとんをひっかぶり,麻衣を重ね着しても寒い夜だ。私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ,妻子は泣いているだろうに。こういう時はあなたはどのように暮らしているのか。

 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。ぬえ鳥の様にかぼそい声を出していると,短いもののはしを切るとでも言うように,鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえる。こんなにもどうしようもないものなのか、世の中というものは。


この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。


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ひ~らひ~ら♪

暇つぶしにネットを見ていたら、「めぞん一刻」結末部の総集編みたいな動画があって、なかなか感じがいいので、ここに取り込んでおく。
「ひ~らひ~ら♪」のあたりは、あのアニメを見ていた人なら、この真面目な動画ではなく、例のアホダンス(登場人物たちが並んで、ガニ股で横歩きする奴)を思い出すだろう。(一番の歌詞では「き~らき~ら」だが、二番では「ひ~らひ~ら」。アニメでは二番の歌詞が使われていた。)

昭和は遠くなりにけり、である。





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肉体的な美と精神的な美の一致

「文殊菩薩」に皇后様の記事が載っていたが、その一部だけ転載する。他の部分も皇后様の人柄を表すエピソードであるが、この部分に特に私は感銘を受けたからだ。中でも赤字部分が、それだ。最初の手話の件は、皇后様が、この障害者大会を参観するに際して、あらかじめ、称賛を意味する手話を覚えた上で参観なさったことを意味している。果たして、他の来賓にそれほどの心配りのできる人間はいただろうか。おそらく、ほとんどいるまい。
次の、知的障害者の子供たちに皇后様の印象を訊ねた時の彼らの答えは、相手が皇后様であることは知らなくても、「きれいな人」「やさしい人」という印象はそのまま伝わったということだ。これが人格の力である。
私は皮肉な人間だから、女性が「幾つになってもきれいでいたい」などと言うのを聞くと、「きれいな婆あがいるもんか」と憎まれ口をききたくなるのだが、ある種の人間は、人格の力が外面まで美しくするのではないか、とも思う。はっきり言って、洒落ではないが、皇后様はまさしく「皇后しい」いや「神々しい」美しさだ。女優などの、骸骨の上に肉で化粧しただけの表層的な美しさとは別種の美しさである。だから、年齢を超越した美しさなのだろう。
若いころの美智子妃も美しかったが、今の美智子妃の方が、ある意味、若いころよりも美しいのではないだろうか。




(以下引用)



10月6日、東京都文京区であった「第15回日本太鼓全国障害者大会」を訪れた時もそうでした。

 この大会には、耳が不自由な人や知的障害がある人たちが参加。熱のこもった演奏が披露され、皇后さまは身を乗り出すようにして鑑賞していました。演奏が終わると、両手を高く上げ、ステージに向かってひらひらと左右に振り続けました。関係者に聞いたところ、「称賛」を意味する手話だったそうです

 帰り際、皇后さまは、出演を終えた人たちを「立派でしたよ」とねぎらい、これから出演するメンバーには「たくさん練習なさったんでしょう。しっかりね。いつものようにたたいてくださいね」と激励。福島県郡山市から参加した太鼓チームには「被災されなかった?」「太鼓は無事でしたか」と気づかっていました。

 主催した日本太鼓財団の塩見和子理事長が話してくれたエピソードも印象的でした。皇后さまがお出ましになった際、大会に参加した知的障害のある子どもたちに「どなたかわかる?」と聞くと、皇后さまのことは知らないようでしたが、口々に「きれいな人!」「やさしい人!」などと話したといいます。「皇后さまはいつも本当に障害者福祉のことを気にかけてくださっています」と塩見さんは話していました。



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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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