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「春秋の筆法」の巧みな読者心理操作

「春秋の筆法」について調べていて、少し面白い文章に出逢ったので、転載する。東大のある研究室のホームページに載った文章のようだ。
そもそも「春秋の筆法」とは、(goo辞書だと)

の解説

《「春秋」の文章には、孔子の正邪の判断が加えられているところから》事実を述べるのに、価値判断を入れて書く書き方。特に、間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する仕方。




このように説明されている(別の解説だと、「事実のみを公正な立場で記述する書き方」という、正反対のものもある。つまり、「一見事実のみ書いているように見えながら、その書き方に実は筆者の価値判断が入っている」、巧妙なプロパガンダ文章だろうか。下に引用した文章は、そこを鋭く見抜いていると思う。)ので、現在のマスコミとこの筆法を結びつけたのはなかなか意想外だが、言われてみれば、「読者を洗脳する意図をもって書かれた文章や報道された情報」はすべて「春秋の筆法」と言えるかもしれない。
つまり、「舞文曲筆」であるが、その創始者と見做されているのが孔子なので、誰も「春秋の筆法」とは「舞文曲筆」だ、とこれまで指摘しなかったわけで、むしろ「面白い、知的な表現法のひとつ」とされてきたのではないだろうか。昔の人が「春秋の筆法で言えば」云々と言う場合は、「間接的原因を結果に直接に結びつけて」言うレトリック、つまり、「彼が死んだのは、彼が生まれたこと自体が原因だ」のような表現かと思う。

(以下引用)

「春秋の筆法」によるジャーナリズム?


作者: Wang Le | 2019年5月11日Posted in: フィールドレビュー



今回のフィールドレビューは、博士課程の王が担当いたします。ずっと疑問を抱えているジャーナリズムの社会的役割についてお話します。


『春秋左氏伝』から生まれる「春秋の筆法」という文章の書き方が存在しています。「春秋の筆法」とは、ある立場か価値観に沿って、それに相応しい史料を取捨し、史料に構成されるストーリーと史料を描く言葉遣いによって、決まった結論へ読者の判断を誘導しようとする書き方だと言われています。


たとえば、「鄭伯 段に鄢に克つ」では、弟の段と母親の武姜が起こした叛乱を謀略で対策し、鄭国の安定を遂げた鄭荘公が批判されています。批判的な態度を表現するため、荘公が君主であるのに「伯」と、段が弟であるのに直接に下の名前の「段」として呼称されています。魯国の史官としての孔子と左丘明の立場、儒教が最も強調する価値観「五常」(仁、義、礼、智、信という道徳を守ること)と「五倫」(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友関係を維持すること)に従い、史書である『春秋左氏伝』は国の利益を守るため理性的な戦略を練り上げる鄭荘公の行為を陰険かつ悪徳的なものとして批判しています。


このような「春秋の筆法」的な文章の書き方の根底にあるのは、執筆者をめぐる利害関係でしょう。特に広範囲に公開される文章の執筆者は常に「何をどんな言葉で書くべきか」と考える時点で、すでに身の周りの状況と情報に左右されてしまいます。この特徴を持つ「春秋の筆法」は現在のジャーナリズムにもまだその精神が存命しているようです。


最近の大津園児死亡事故の記者会見は明らかに「春秋の筆法」の方向に猛進しているように見えます。記者陣は警察に拘束されている加害者に取材不能の状況で、一刻も早く保育園側でどうしても新しい手がかりを発見しようとしました。「普段から危ないという認識はしているのか」という質問が出されたほどついに園側の正確性に質疑するようになってきました。今回の事件には確実な証拠があり、保育園も被害者である事実がはっきり認識されているため、マスコミが間違えたと一般大衆も自発的に批判できました。しかし、このようなマスコミの姿勢が一貫している現在、自分の正当性を充分に証明できる証拠がない被害者の場合は、このような質問に構成される報道によって、どのような窮地に立たされるのでしょうか。


ジャーナリズムは最初から社会正義などを実現できる役割を果たせるものではありません。ジャーナリズムは道義を犠牲にすることで、個人か組織の利益を守る道具としても使えます。大学側の人間として、記者を目指している学生へどのようにジャーナリズムの本質を伝達したらいいかについて、なおさら考えなければならない問題ではないでしょうか。


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死ぬ前にしたい四つのこと

別ブログに書いたものだが、読み返すと、さほど悪くない内容なので、ここにも載せておく。まあ、私は二十歳前に自殺していてもおかしくない人間だったので、その後の人生は余禄である。この年になれば、いつ死んでもかまわないが、もう少し生きられるなら、という仮定の話だ。
他の三つはともかく、四番目は、これは誰でも、そして「天啓」が降りてきたら死ぬ間際にでも実現できることであり、それができたら一気に釈迦やキリストを超える史上最大の偉人であるwww
ウェッブ夫妻の「漸進的社会主義」と同様の思想は、「徽宗皇帝のブログ」にも、このブログにもずっと書き続けてきている。要するに、「社会主義の精神(理想)を持った資本主義」である。


(以下自己引用)


「たとえば人生の残り時間が五年なら何をしたいか」という問題だが、今日も酒は相変わらず飲んでいるがまだ酔いはさほどでもないので、酒のつまみに考えてみる。
一番にしたいことは、もっと自然と親しむことである。私は出不精なので散歩にも滅多に出ないが、出ると自然の風情に感動することが多い。そういう時に、雑草の花や木々の花を見て、その雑草や木々の名前を知っていれば良かったなあ、と思う。名前を知らないから俳句にも短歌にもならない。
二番目は、過去の記憶を探ることである。私は物覚えが非常に悪く、自分の経験したことをほとんど覚えていない。それで生きてきたと言えるのか、非常にこころもとない。まあ、私が悪いのではなく、記憶力のせいである、と迷亭みたいなことを言ってみる。
三番目は、何かいい小説なり脚本なりを一本書いてみたい、ということで、そのための準備などはこのブログに資料として少し残している。
四番目は、これは私が生きていることの「言い訳」みたいなものだが、もしかしたらある日突然、天からの啓示が降りてきて、「世界から貧乏や戦争を無くし、人類全体が幸福になり、地上の天国を作るアイデア」が心の中に生まれるのではないか、という期待というか、希望がある。
それを生み出せれば、私はただの飲兵衛の無能者から人類史上最大の偉人になるのであるwww
まあ、実はそれはウェッブ夫妻の「漸進的社会主義」思想で既に提示されてはいるのだが、それがなぜか(まあ、資本家がすべてを、特にマスコミと教育界と政治を牛耳っているからだが)全世界に広がっていかないのである。


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日本の子供が皆コナンとラナになれば日本の未来は明るい

総合テレビでの放映というのはいいが、なぜ深夜放送なのだ。これこそ、今の子供に見せたいアニメだろう。朝七時台とか夕方六時台とかに放映すべきアニメである。騎士道精神とか正義を行う勇気というものが払底した現代に、そういう素晴らしい精神を子供に教えることの意義をNHKはまったく考えていないのか。古いアニメオタクを喜ばすことに何の意味がある。
(親が録画して子供に見せればいいというのは浅薄である。それほど意識の高い親なら、NHK再放映以前にレンタルDVDなどで子供に見せている。「偶然に」子供が見るからこそ、その興奮と感激が後々まで残る強い感銘になるのである。)
なお、告知から放映までの期間も短すぎる。せめてひと月前から告知して期待感を盛り上げるべきである。

(以下引用)


NHKアニメ
@nhk_animeworld
「未来少年コナン」放送決定!
#宮崎駿 監督が手がけた不朽の名作が、総合テレビによみがえります!
デジタルリマスター版です。

[総合] 5/4(月)午前0:10~(※5/3深夜)

どうぞお楽しみに!

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大学を辞めても生きてはいけるし、必ずマイナスになるとは限らない

私は大学というものの存在意義をさほど重要だとは思わない人間だが、真面目に何かを学びたいという人間が大学を辞めざるを得ない状況というのは気の毒である。
特に理系学部は(個人では実習が不可能だろうし)基本的に大卒が就職要件でもあるだろうから、大学中退は一生の岐路になる。
文系学部の学生には「まあ、頑張れ」「道はひとつだけではないぞ」と言いたいのが本音だ。つまり、たとえば文学部を出たから小説が書けるというものではないし、社会学部を出たから社会認識が正しくできるとは私は思わないからである。
何なら、肉体労働をして生きていってもいいではないか。私は、若いころは肉体労働をし、年を取ったら頭脳労働で生きるのが理想だったが、年を取るとボケるのを計算に入れていなかったwww 気力や意志力というのも、若さ、あるいは健康に支えられている部分が大きいのである。
若さというのは、それだけで大きな財産だ、というのは前にも書いたことだ。
ただ、若い時というのは妄想(私の場合は自死念慮だった。)が頭の半分くらいを占めているからまともな判断が難しい。そこが人生の分かれ目だろう。若いうちは感受性が強いというのは、感情に振り回される危険性が大きいということだ。
まあ、前にも書いたが「最後まで耐え抜いた者は救われる」という聖書(宗教嫌いの人は、聖書は宗教書ではなく名言集だと思えばいい。)の言葉を、これから困難に向かう若者に贈る。


(以下引用)



学生の13人に1人が退学検討

コロナで生活厳しく、団体調査


©一般社団法人共同通信社




記者会見する学生団体代表の岩崎詩都香さん=22日午後、東京都千代田区

 新型コロナ感染拡大に関する学生団体の調査で、大学生らの約6割がアルバイト収入が減ったり、なくなったりしたと回答したことが22日、分かった。親の収入がなくなった、または減ったと答えた学生も約4割に上り、調査に答えた学生の13人に1人が、大学を辞める検討を始めていると回答するなど、多くの学生が経済的に厳しい状況にあることが浮かんだ。


 調査は、学生団体「高等教育無償化プロジェクトFREE」が9日から、インターネットで実施。21日夜時点で回答のあった大学生や短大生ら514人の回答をまとめた。


 学生団体の代表は、一律の授業料半額免除などを求める緊急提言を発表した






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「スメラミコト」の語源説についての補足

少し前に書いた「スメラミコト」の語源の話だが、最近は「スメラ」が梵語の「スメル」から来ているという説が学界の主流になりつつあるらしい、という話を前記事に追記した。
「スメル」が「聖なる」の意味(厳密には「須弥山」の意味だから、「聖なる」とは違うようだ。)だという点では非常にいい説だと思うが、それが「スメラ」と変化する意味が分からない。外来語を「語尾変化」させるのは不自然だと思うわけだ。おふざけで「プリティ」を「プリチー」などというのとはわけが違う。
まあ、別に「統べる」説に固執するわけではないので、もっといい説が出てきたら、私も考えを変えるし、前に書いた内容もそれほど深く考えて書いたわけでもない。単に、「澄む」はおかしいだろう、というだけの話だ。
そして、「ミコト」が貴人を指す、というのはいいとしても、なぜ貴人を「みこと」というのか、その語源はどう考えられているのだろうか。
今思い付いたのだが、よく人名で「人」を「と」と読ませるように、「みこと」は「ミコ人」だったのではないか。そして「み」は「御」であるとすれば、後は、間にある「こ」が何か尊貴さを表す言葉で、古い時代から存在した形容語だと考えられる。それが何かは、いずれ考えよう。「巫女」を「みこ」と読ませたあたりにヒントがありそうな気がする。つまり、「霊力」に関係するかと思う。あるいはそのまま「巫女的な人」という意味で「ミコヒト」→「ミコト」となったのかもしれない。(「こ」が単独で意味があるのではなく、「みこ」で一単語だという考えだ。もちろん、「こ」単独で意味がある可能性も排除しない。)

(以下某サイトより引用)


次に挙げられるのが、岩波書店から出版された『岩波古語辞典』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編/岩波書店/1974)の中に掲載されているサンスクリット語からきているとする説です。

ちなみに、サンスクリット語とは古代インドで使われていた言語で梵語とも呼ばれ、特にお墓に時折記されている文字として知られています。

この説は、「スメラ」は古語で「皇」と表記し、それがサンスクリット語で須弥山(古代インドで世界の中心にあるとされた聖なる山)を意味する「スメール」からきているというものです。つまり、後ろに「ミコト」がつくことで「聖なる君主」を意味する「スメラミコト」となったという考えに立ちます。

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夏は発見されるのを待っている

前に書き写した佐野洋子の文章の中で認知症の母親が言う

「夏は発見されるのを待ってるの」(正確には「夏は、発見されるのを待つだけなの」)

という言葉は、唐突であるだけに非常に印象に残るのだが、認知症の人間の内部の思考というのはどう動くのだろうか。突然にこのように、詩のような、哲学のような言葉が出てきたのが、あの場面全体を感銘深いものにしている。
「夏」というのは、人名などではなく、季節の夏だと思うが、それが「発見されるのを待っている」と擬人化されると童話のようでもある。そして、「ああ、夏というのは発見されるまでは気付かれないのだ」と思う。これはもちろん、夏だけには限らない。それが好きな人や敏感な人に発見されるまではたいていのものは気付かれない。
昔から「見れども見ず」というのはそういうことだ。これを「見れども見えず」と言うと少しニュアンスが違い、能力の問題になるが、「見ず」というのは「最初から見る意思がない」ということである。私自身、「見れども見ず」の人間であるだけに、「夏は発見されるのを待ってるの」という言葉に心を打たれたのだろう。

「夏は、発見されるのを待つだけなの」

という、原文のニュアンスは、「発見されていない」夏の孤独感や無力感や悲哀もある。そこに、病院のベッドにずっと置かれて、たいていの人からは「人間ではない何か」のように思われている認知症患者の孤独を感じるのは穿ちすぎだろうか。

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天国はどこにある?

紙の本から直接コピーできればいいが、そうもいかないので、自分でワープロ打ちして転載する。
佐野洋子という、イラストレーターで作家(だと思う)だった人の随筆集の或る一節だが、この部分だけでも見事な「ピエタ像(聖母子像)」になっていると思う。或る種の神々しい光をこの母娘の姿に私は感じる。私は読んだことがないが、佐野氏は「百万回生きた猫」というベストセラー童話の作者であり、この時には癌で余命一年か二年くらいだったのではないか。


(以下「役に立たない日々」から引用)


お昼すぎに母のところに行った。丸坊主に帽子をかぶって行った。母はぼーっと寝ていた。もう私かどうかわからないらしい。私も疲れていたので、母の寝床にもぐり込んだ。母は私の坊主頭をぐりぐりなでて「ここに男の子か女の子かわかんないのが居るわ」と云った。
「あんたの旦那は佐野利一でしょ」
「もうずっと、何にもしていない」何にもって何だ。もしかしていやらしい事なのか、でもぼーっとしている何だか透明になっちまった母さんはいやらしい事なんかいくら云ってもいやらしくないみたい。
私が大声で笑ったら、母さんも声を出して笑った。
「母さん、もてた?」
「まあ、まあでした」そうかね。
「私、美人?」
「あんたは、それが充分です」
又大声で笑ってしまった。
母さんも一緒に笑った。
突然、母がぼんやり云った。
「夏はね、発見されるのを待つだけなの」
私はしーんとしてしまった。
「母さん、私しゃ疲れてしまったよ。母さんも九十年生きたら疲れたよね。天国に行きたいね。一緒に行こうか。どこにあるんだろうね。天国は」
「あら、わりとそのへんにあるらしいわよ」








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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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