《「春秋」の文章には、孔子の正邪の判断が加えられているところから》事実を述べるのに、価値判断を入れて書く書き方。特に、間接的原因を結果に直接結びつけて厳しく批判する仕方。
」、巧妙なプロパガンダ文章だろうか。下に引用した文章は、そこを鋭く見抜いていると思う。)ので、現在のマスコミとこの筆法を結びつけたのはなかなか意想外だが、言われてみれば、「読者を洗脳する意図をもって書かれた文章や報道された情報」はすべて「春秋の筆法」と言えるかもしれない。
つまり、「舞文曲筆」であるが、その創始者と見做されているのが孔子なので、誰も「春秋の筆法」とは「舞文曲筆」だ、とこれまで指摘しなかったわけで、むしろ「面白い、知的な表現法のひとつ」とされてきたのではないだろうか。昔の人が「春秋の筆法で言えば」云々と言う場合は、「間接的原因を結果に直接に結びつけて」言うレトリック、つまり、「彼が死んだのは、彼が生まれたこと自体が原因だ」のような表現かと思う。
今回のフィールドレビューは、博士課程の王が担当いたします。ずっと疑問を抱えているジャーナリズムの社会的役割についてお話します。
『春秋左氏伝』から生まれる「春秋の筆法」という文章の書き方が存在しています。「春秋の筆法」とは、ある立場か価値観に沿って、それに相応しい史料を取捨し、史料に構成されるストーリーと史料を描く言葉遣いによって、決まった結論へ読者の判断を誘導しようとする書き方だと言われています。
たとえば、「鄭伯 段に鄢に克つ」では、弟の段と母親の武姜が起こした叛乱を謀略で対策し、鄭国の安定を遂げた鄭荘公が批判されています。批判的な態度を表現するため、荘公が君主であるのに「伯」と、段が弟であるのに直接に下の名前の「段」として呼称されています。魯国の史官としての孔子と左丘明の立場、儒教が最も強調する価値観「五常」(仁、義、礼、智、信という道徳を守ること)と「五倫」(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友関係を維持すること)に従い、史書である『春秋左氏伝』は国の利益を守るため理性的な戦略を練り上げる鄭荘公の行為を陰険かつ悪徳的なものとして批判しています。
このような「春秋の筆法」的な文章の書き方の根底にあるのは、執筆者をめぐる利害関係でしょう。特に広範囲に公開される文章の執筆者は常に「何をどんな言葉で書くべきか」と考える時点で、すでに身の周りの状況と情報に左右されてしまいます。この特徴を持つ「春秋の筆法」は現在のジャーナリズムにもまだその精神が存命しているようです。
最近の大津園児死亡事故の記者会見は明らかに「春秋の筆法」の方向に猛進しているように見えます。記者陣は警察に拘束されている加害者に取材不能の状況で、一刻も早く保育園側でどうしても新しい手がかりを発見しようとしました。「普段から危ないという認識はしているのか」という質問が出されたほどついに園側の正確性に質疑するようになってきました。今回の事件には確実な証拠があり、保育園も被害者である事実がはっきり認識されているため、マスコミが間違えたと一般大衆も自発的に批判できました。しかし、このようなマスコミの姿勢が一貫している現在、自分の正当性を充分に証明できる証拠がない被害者の場合は、このような質問に構成される報道によって、どのような窮地に立たされるのでしょうか。
ジャーナリズムは最初から社会正義などを実現できる役割を果たせるものではありません。ジャーナリズムは道義を犠牲にすることで、個人か組織の利益を守る道具としても使えます。大学側の人間として、記者を目指している学生へどのようにジャーナリズムの本質を伝達したらいいかについて、なおさら考えなければならない問題ではないでしょうか。