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「和」を重んじすぎると悪の跋扈を許すことになる

ZARAというのが何の会社か知らないが、この社長の言葉は一面の真理を突いているとは思う。しかし、戦うべき時に戦わないのを「優しさ」とするのは違うのではないか。これは「柔弱」と言うべきではないだろうか。もちろん、「優しさ」という言葉を使うからこそ、この「個人としての優しさが集団としての残酷さを生む」という逆説の面白さが生まれるのであり、レトリックとしては面白い。そういう「社会の変態的なメカニズム」への明確な意識を持たせるにはいい言葉である。
優しさとは「臆病さ」の美名でもあるわけだ。「優しい男はモテない」というのは、女が男の「優しさ」の本性を知っているからかもしれないwww

別記事で書こうかと思うが、男の魅力というのは「思ったことを堂々と実行する」という、ある意味、「正直である」ことと「勇敢さ」が一番なのではないか。直情径行とも言う。間違ったら間違ったでやり直せばいいだけだ。賢い人間は計算が先に立って、損得勘定で行動するから「何もやらない」人生になるわけだ。もっとも、正直さだって損得計算でプラスになるから人生方針として採用できるのである。嘘つきは(物質的利益を得る以外には)たいていロクな人生を歩んではいない。土方や人夫の中には竹中平蔵や橋下徹の何千倍も立派な人間がたくさんいる。中には聖人のような人もいる。


「和をもって貴しとなす」というのが日本人に共通する精神だとは言えるだろうが、それはその気風を利用して悪事を行い権力を維持する連中の跋扈を許す精神風土でもある。
私なども、無名だからこそ堂々と権力やその周辺者の悪事への批判ができるが、顔出しだと何も言えない弱虫にすぎない。だが、SNSでの「権力悪批判」「社会悪批判」程度でもけっこう勇気が要ることなのである。私の言葉に理があれば、偶然にそれを目にした人の心の片隅に何かの影響が残る可能性もあるだろう。言葉の力を私は信じている。

(以下引用)



昔ZARAの日本法人社長から言われた耳の痛い話を思い出した 日本人は個人だと優しいのに、組織になると冷たくて、社会になると、時として凶暴になるよな。なんでか判る?それは、優しいからだよ。 優しいから、闘うべきところで、黙るんだよ。そうすると、対案が産まれないし、抑止が働かない。


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タイムトラベルとノスタルジー

「ネットゲリラ」にタイムトラベルの話が出ていて、爺さん婆さんたちが若き日のノスタルジーに耽っていて微笑ましい。
まあ、SFの中で、特にタイムトラベル物は、なぜかノスタルジーを掻き立てるもので、傑作が多い。その中でも「毎日おかん」氏(常連の中で文章が珍しくまともであるwww)の言及している「ある日どこかで」(この邦題は好まない。原題どおり「時のどこかで」がいい。)は、タイムトラベルSF映画の最高傑作と言っていい。ラフマニノフの「パガニーニの主題による変奏曲」が実に効果的に使われ、画面がきれいで、主演男女も素晴らしい(男は「スーパーマン」の俳優だが、その後身体障碍者になった。女は古風な顔立ちの美女で、役柄に実に合っていた。)。
そのほかにも、タイムトラベル物のSF小説・映画・ドラマは傑作が多いのである。「時を駆ける少女」は筒井康隆の原作より、映画(大林宣彦による最初の映画化。私はこの監督は「あざとい」のであまり好みではないし、意図的に安っぽくしている特殊効果も嫌いだが、この映画は青春の哀歓が観客によく伝わる。一番上手い演出は、実はラストの「おまけ」部分である。原田知世はこの一作で映画を引退していたら伝説の女優になっただろう。)やアニメ(細田守監督の実質デビュー作で、彼の最高傑作。彼は次作の「サマー・ウォーズ」からどんどん下降しているww)のほうがいい。
なお、毎日おかん氏が言及している高畑京一郎の「タイム・リープ」は、前に娘に勧められて読んだが、傑作である。ジュブナイルである「時を駆ける少女」をもう少しハードSFに近づけた感じか。
現在、「夏への扉」が邦画で実写映画化されてなかなか好評のようだが、無理に欧米作品を日本舞台でやるより、「タイム・リープ」を実写化したほうが良かったのではないか。そもそも「夏への扉」は小説だからこそいいのである。読者の想像が広がるからだ。基本的に一人称で書かれているから、読者は主人公と感情が一体化するわけだ。まあ、「夏への扉」の知名度と「タイム・リープ」の知名度は比較にならないだろうが、後者はもっと知られていい。
古典映画では「ジェニーの肖像」などもお勧めである。SFXが未熟な時代の作品だから、主演女優が少女から成人女性までを演じるのが「きつい」が、それ以外ではロマンチックそのものだ。


(以下引用)

 以前にも書かせていただきましたが、私が選ぶタイムリープものナンバーワンは、高畑京一郎作「タイム・リープ あしたはきのう」ですね。体言止めの多用に最初こそ眉をひそめましたが、ストーリーにぐいぐい引っ張られて夢中になって読みました。


 未来から来たタイムトラベラー、という設定とは趣を異にしますが、スペイン映画「熱愛」A LONG RETURNING/LARGO RETORNO(1975年)が子供の頃にテレビで見て、しびれました。



『難病のため死を目前にした愛する妻を、治療法が見つかるまでコールド・スリープさせる事にした夫。40年後、当時のままの姿で目覚めた妻に、年老いた夫は会うことをためらってしまう……。冷凍睡眠をテーマとした、スペイン製の異色SFラブ・ロマンス。』(ヤフー映画解説より)


 一言でいうなら40年の時を経てお爺ちゃんになった夫と若々しいままの妻との再会を描いた映画です。


 この逆パターンとしては、クリストファー・リーヴ、ジェーン・シーモア主演「ある日どこかで」(Somewhere in Time 1980年)が良い出来らしく、「観るたびに号泣するの~」という男友達の言葉につられて昔DVDを購入しましたが、封を切らないうちにワープしちゃったらしくいくら探しても見つからないざんす。



「ある日どこかで」は傑作ですよ


この監督の最大ヒット作が「ジョーズ2」てのが何とも・・



 ありがとうございます。
 youtubeに書き込まれたコメントに胸を打たれ、早くも泣いております。
 何としてもDVDを見つけて鑑賞します!



 


 ~ある日どこかで Somewhere in Time テーマ曲と名場面~


https://www.youtube.com/watch?v=Fxx-0WApzF4


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西村ひろゆきの功罪

西村ひろゆきによる「位置エネルギーは存在しない」理論がどういうものか、一応、本人が説明しているようなので、引用しておく。途中で出て来る「質量保存の法則」と「位置エネルギー」がどう関係するのか、私は物理は極度に苦手なのでよく分からないが、位置エネルギーが、成層圏(と言うより当該惑星の引力範囲だろうか)を越えたらゼロになる、ということを疑問に思うのは、悪くない視点ではないか。(ひろゆきを嘲笑していた東大教授だか准教授だかもその点は認めているようだ。)まあ、よく分からないが、ひろゆきは「位置エネルギー」と「運動エネルギー」をごっちゃにしている感じがある。しかし、位置エネルギーと引力限界の相克というのは、学校の先生があまりきちんと教えていないところではないか。
要するに、位置エネルギーというのは、引力圏内での話であり、該当物体が引力の中心に向かって「落ちていく」ことが前提だろうから、引力範囲を超えると位置エネルギーはゼロになる、というのは不思議でも何でもない、という話だろう。ちなみに、高度が高くなればなるほど位置エネルギーは大きくなるが、それが現実のエネルギーになるのは、それが落下する中で重力加速度によって速度がどんどん激大になる、つまり位置エネルギーが運動エネルギーに変わると見做すのだと思う。位置エネルギー自体は本質的にはエネルギーではない、というひろゆきの「直感」はある意味正しい気がする。

教師が言うから絶対に正しいとは中学生時代から思わなかったというところにひろゆきのひろゆきたるゆえんがあるようだ。ただ、レスバトルにおけるひろゆきは詭弁の塊なので、彼を信奉する若者や子供に悪影響を与えている。
私自身は、ひろゆきというのは「民事裁判に負けても逃げ続けていれば賠償金を払わなくてもいい」という驚天動地の事実を天下の人に教えたという点では或る種の偉人であり、偉大な犯罪者だと思うが、犯罪者を政府やマスコミが重用し始めたのは大問題だと思っている。


(以下引用)
8: 風吹けば名無し 2021/08/11(水) 18:06:02.12 ID:LdTFZdeYd
■ひろゆき位置エネルギー書き起こし

位置エネルギーって言う 中学1、2年の時にやるやつで
僕、位置エネルギーすごい嫌だったんですけど
あの 要はその 高い所にあるモノは その、要はココにあるモノとココにあるモノ
こっちの方が高い所にあるので落ちた時に、そのダメージがでかいと
要は「高い所にあるモノは位置エネルギーがある」っていう「表現」があるんですけど あれ嘘なんですよ!虚数と一緒で(ここで水を飲む)

要はその あの~「エネルギー=質量?速さ・・の二乗」っていう
要はエネルギーっていうものは必ず質量に変換されたりっていうのがあってエネルギーって突然ゼロになる事はないんですよ
ところがどっとい位置エネルギーって、じゃぁ・・ま 今、この高さの問題でいいましたけど
で これがどんどん上がっていったら そのうちその宇宙にまで行っちゃうじゃないですか
で 宇宙に行った瞬間にその玉はもう落ちてこないんですよ

要は宇宙ギリギリまで成層圏とか上がると落ちてきた時はメチャメチャエネルギーでかいんですよ
ただめちゃめちゃエネルギーでかいんですけど成層圏超えて宇宙まで行っちゃうと突然落ちてこなくなるからエネルギーゼロになるんですよ
これ質量ブフ笑 (大体その)笑 エネルギーゼロになっとるやん笑 っていうのが
要は今までの質量保存の法則と合わなくなるんすよ笑

だ、その、要は、物理学上質量保存の法則っていうのと矛盾するから位置エネルギーって本当は存在しないんじゃないの?っていう話なんですけど
ただ 位置エネルギーが存在するっていう風に~計算したほうが計算しやすいモノがあるんですよ(ここで水を飲む)

(コメントを見て)そうす 宇宙は無重力なので 要はド、、その高さっていう概念が突然なくなってゼロになるんすよ ま 重力もゼロになるんでね はい笑 
(コメント それはまだ証明されてないかな)そうすね笑 なので宇宙まで行って飛び降りてみるといいんじゃないでしょうか笑

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ティエリー・ド・ブルンホフのピアノ

今は素晴らしい時代で、ユー・チューブでいくらでも検索でき、あまり有名でもなさそうなピアニストを何となく聞いてみると、思いがけない拾い物になることがある。
この、ティエリー・ド・ブルンホフのショパンは、お勧めだ。

Alexandra Zarember
These are astonishing performances of Chopin’s Nocturnes, performed with the subtle discernment that Chopin preferred. The dynamics, tone, quality, subtlety, modesty, close reading of the score but very sophisticated (as opposed to academic). These are the ever elusive perfections one who plays Chopin is always searching for. I’m fascinated by his tone - just incredible. Chopin said that in the end it’s playing the music with a simplicity of style - whereby all the great many notes are synthesized into a calm, tasteful style,, with proper legato, no banging and no vulgar flourishes or excessive adornments. Thierry de Brunhoff was so brilliant.
Jojotonks
Such beautiful and sensitive playing. The music sings as if it were playing itself. Thierry de Brunhoff and Chopin are getting me through the long hours of the night when I can’t sleep after a heart operation.   It seems so sad that he became a monk at a young age, and deprived live audiences of his gifts. Perhaps he had recorded all he wanted and his God was obviously more important to him. I like the story told below of an organist who became a monk, then realised his talent was a gift from God that should be shared.



(以下引用)



ティエリー・ド・ブルンホフ

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ティエリー・ド・ブルンホフ(1934年11月9日生まれ)は、フランスのピアニストでベネディクト会の僧侶です。

歴 [編集]

ティエリー・ド・ブルンホフはジャンセシル・ド・ブルンホフの息子で、ババルゾウのクリエイターであり、ローラン・ド・ブルンホフの弟です。


11歳の時にアルフレッド・コルトーからピアノのレッスンを受け始めました。彼が何度か証言したように、それは彼に最大の音楽的影響を与える人格です:


「私は彼にすべてを借りている、私が臆病になることができるすべてのもの、私は彼のおかげです」または「彼は別の世界ではなく、世界の中心にあなたを連れて行った[.]自分を乗り越えるのに」


その後、エドウィン・フィッシャーの教えに従い、10年以上にわたりエコール・ノーマル・ド・ミュジーク・ド・パリ教師になりました。彼の生徒の中にはヒュセイン・セルメットがいました。


彼はショパンシューマンの解釈で特に知られていますが(この最初のマスター、コルトーの非常に深いマークの一つ)、彼のレパートリーはベートーヴェンからドビュッシー 、ラヴェルまで、カール・マリア・フォン・ウェーバーを通じて非常に広いです。


しかし、彼の好みはショパンに行きます, 彼はこれらの用語で賞賛します:


ピアノはショパンです。彼は歌の可能性とピアノの音の宇宙を最もよく理解している人でした。


1974年、彼はタルン部門エンカルキャット修道院[fr]僧侶として引退しティエリー・ジーン兄弟になりました。この点に関して、彼は2004年にロドルフ・ブルノー=ボルミエへの手紙で宣言しました:[2]


もし神が存在するならば、あなたは飛び込んですべてを与えなければならなかったと私には思えました。私にとっては子供の頃からすべてを含んでいたので、すべてを与えるためにも音楽を与えるものでした。それは私の宇宙、私の呼吸、私の言語、他の人との交わり、自己の贈り物でした。神は、私たちが神を愛するのを待つために、同時に同時にすべてを封じ込めるために、それ以上のもののように思えました。この神への期待は私にとって決定的なものでした。 [3]


彼はまた、マリア・カラスの大ファンでした.


ピアニストでラジオプロデューサーのフィリップ・カサードは、2008年から2015年の間にフランス・ミュジークのティエリー・ド・ブルンホフにいくつかの一連のプログラムを捧げました。




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学校の「お勉強」と「現実生活」の出会い

インターネットの素晴らしさは、一流の学者(特に科学者)の書いた文章に容易に、そして気軽に接することができることで、私のように怠け者の学生だった人間でも、現在の新コロ騒動の中で下の荒川央氏のような学者の文章を読めば、生物学に興味を持ったかもしれない。
私は医者にはなりたかった人間だが、医者など、「症状から病名を判断する」「その病気に対して適切な治療法を判断する」ことさえできればいい、つまり、江戸時代の医者のようなものでいいという考えだったから、高校や大学(医学部ではなく歯学部に進んだが中退した)の生物の授業などまったく興味も無かったのだ。化学や物理も同様で、何で小難しい「原理」などを覚える必要があるのか、と思っていた。そもそも原理を知っていることと、その原理を使ったものを道具として使用できることはまったく別の話で、人類の中の天才たちが何百年もかかって獲得した知識を凡才が「理解する」など僭越だ、くらいの考えだったのである。
下の記事の中の細胞の核分裂の話など、高校生物の教科書を思い出して、なかなか懐かしい。それが、新コロ問題の中の「ウィルスやワクチンによるゲノム書き換え」とこうして関係するとは、意外でもある。

(以下引用)


まず、一人の人間を構成する細胞数は何十兆個というレベルになります。またRNAワクチンに含まれる脂質ナノ粒子の数も膨大です。それぞれがすでに天文学的数字です。スパイクタンパクのRNAが逆転写されたものが、その天文学的な数の中のたった数個の細胞のゲノムにでも取り込まれて、その細胞が免疫の監視を免れて生き残るとすれば、大きな問題となる可能性があります。「すべての細胞でRNAワクチンが効率よく逆転写されゲノムに取り込まれる」といったような極端な事を言いたいのではありません。すでに世界中で数十億人が接種しているRNAワクチンです。その中で実際どれほどの人数にどの程度の頻度でRNAワクチンがゲノムに取り込まれる事態が起き得るのか、という話です。



逆転写されてゲノムに取り込まれる代表的なウィルスがレトロウィルスです。ゲノムへの遺伝子導入にしばしば使われるレトロウィルスベクターはレトロウィルス由来のものです。ベクターは外来遺伝物質を別の細胞に人為的に運ぶために利用されるDNA (またはRNA) で、分子生物学や細胞生物学で汎用されます。レンチウィルスはHIV (human immunodeficiency virus、ヒト免疫不全ウィルス)  を代表とするレトロウィルスの一種で、レンチウィルスベクターはHIVゲノムから作られています。HIVは核膜を越えるための特別なタンパクの tatを持っており、レンチウィルスベクターはtatを使って核膜を乗り越えてゲノムに感染します。レトロウィルスベクターは核膜を乗り越えるタンパクを持ってはいませんが、ゲノムに感染できます。それはなぜでしょうか?ヒントはレンチウィルスベクターは増殖しない細胞にも感染できるが、レトロウィルススベクターは増殖中の細胞にしか感染できないという事です。


実は細胞増殖の途中に「核膜が無くなるタイミング」があるのです。細胞周期とは1つの細胞が2つの娘細胞を生み出す周期の事です。1つの細胞周期の間にゲノムDNAの複製と娘細胞への分配が起こります。細胞周期は、G1期 (間期1) -> S期 (染色体複製期) -> G2期 (間期2) -> M期 (分裂期) というように進行します。M期に染色体が凝縮し、反対側の極に引っ張られ、半分ずつ2つの娘細胞に受け継がれます。このM期には核膜が崩壊し、一時的に消失します。レトロウィルスベクターはこの核膜消失時に核に侵入し、そしてゲノムに挿入されます。M期に核膜が消失するという事は生物学の基礎知識でもあります。

RNAワクチンが逆転写されてゲノムに取り込まれる事はあり得るのでしょうか。ワクチンではないのですが、コロナウィルス自体のRNAゲノムがヒト細胞由来の逆転写酵素によって逆転写されてゲノムに挿入される事はあるようなのです。


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「要請に→応じる」「命令に→従う」という日本語の呼応関係

赤字にした「ネットゲリラ」記事中の一コメントだが、はっとさせられた。私も最近はネットの滅茶苦茶日本語に感覚が麻痺しているし、文章を斜め読みする習慣がついているので、こういう指摘は貴重である。確かに、「従う」は「命令」に対するものであり、「要請」には「応じる」か「応じない」かだろう。
マスコミが「要請に従わない店舗」と書くのは、「要請」には従うのが当然で、それに応じない店は「要請に『従わない』反逆者・不届きもの」のイメージを作るためではないか。


(以下引用)


都内の飲食店、半分以上が時短に協力しなくなってしまったというんだが、そりゃ、3月分の協力金も払ってくれないんだから、我慢できないわw アタリマエ。そもそも、「居酒屋の店員から客にコロナが感染った」というケースがどれだけある? コロナの客が、居酒屋で客同士コロナを伝染しまくっているという、それだけ。居酒屋がコロナを伝染しているわけじゃない。

新型コロナウイルスに関する4回目の緊急事態宣言が発令中の東京都で、都の要請に従わずに午後8時以降も営業する店舗が増えている。日本経済新聞が新宿などの個人飲食店500店を調べたところ5割超の店舗が時短営業していなかった。時短協力金の支給の遅れなどが店主らの離反を招き、緊急事態宣言の実効性が薄れている。

【日経】緊急事態宣言下の都内飲食店、5割超が時短営業せず 時短協力金の支給遅れが店主らの離反招く というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。
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未だに要請守ってもお金配らないからな
そりゃ守らんわ
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命令じゃないから聞く必要性はないな
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五輪で感染拡大するのを見込んで意図的に協力金を遅らせてるんだよなぁ
ほら、感染拡大はお前ら国民の自己責任だぞwって全て自己責任で誤魔化そうとする国賊政府と小池ババァ
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五輪は盛大にやるが国民は自粛しろっておかしいだろ
協力金も払わねえのに誰が守るんだよバカ
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新宿だけなら7割ぐらい守ってないんじゃ下町は割と守ってるよ
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協力金を遅らせてる理由解ったよ

わざとらしい
飲食店が諦めて潰れるのを国や行政はわざと遅らせて待ってるんだと
その方が緊縮自民党は金出したくないから助かるんだし
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↑正解だろうね。
テレビで代表者変更さえ認めないって言ってたし
潰れて仕舞えば、どうでもいいしな
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支給が遅れる
つまり国が不渡出してる様なもんか
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自分たちは税金を懐に入れてぬくぬく。
下々の者にはコロナ禍で厳しいところに更に追い打ち。
北斗の拳の世界ですかね?
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マスゴミどもは
要請に「従わない」って表現してるけど、
要請に「応じない」だろ アホどもが

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「造反有理」

差別問題やいじめ問題ですっぽり抜け落ちている視点だと私が思うのは、差別やいじめをする側にとって「差別やいじめは娯楽である」ということだ。差別やいじめは「面白い」から無くならないのである。これは自明の理だと思うのだが、誰も言わないようだ。
なぜ差別やいじめが娯楽かと言うと、これは人間の最大の本能である「自己愛」から来ている。動物なら「自己保存本能」だが、人間だとそれが「自己愛」になる。自分を優れた存在だと思いたい気持ちであり、他者に対する自分の優越性を喜ぶ気持ちだ。我々が他人から賞賛されると喜び、叱責されると不快になるのは、その自己愛のためである。我々が自分の趣味や自分の家族が他人から褒められると嬉しいのも、その趣味や家族が自分の一部だからである。
差別やいじめは、自分がその差別やいじめの対象より優れた存在であるか、少なくともその行為に対して相手が無力であり、自分が力ある存在だ、ということを示す行為である。劣等生が優等生をいじめた場合、「力においての優劣関係」では劣等生が上なのである。
差別やいじめは、その優劣関係を逆転しない限り無くならない、と私は思っている。それは、誰かの力を借りての逆転でもいい。つまり、差別しいじめる人間の道義の心に訴える行為はまったく無意味だろう、ということだ。
もちろん、差別されいじめられている人間自身が反撃するのが一番である。暴力による反撃でも、差別やいじめが明白ならある程度許されていいと私は思う。言い換えれば、理不尽な仕打ちを受けている人間には暴力による反撃の権利がある。昔の流行語を使えば「造反有理」だ。まあ、体制側としては「言葉で解決したい」だろうが、体制というのはそれで利益を得ている人々のためにあるのであり、下の人間のためにあるのではない。言葉による解決が不可能だからこそ、差別やいじめは無くならないのだ。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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