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生存環境としての沖縄


昔は天気予報というと当てにならないものの代表だったが、最近はかなり信頼性が高くなっており、嘘情報の多い政治や芸能界や経済のニュースに比べるとはるかにマシなのではないかww

沖縄などだとたとえ雨が降っても温かいから濡れてもどうということは無いし、この時期の雨は少し降ってはすぐに止むという雨が多い。つまり、外出時にさほど天気を気にする必要もない。子供のころは、雨になど濡れても平気だったのだが、成人後、本土在住の時はそうもいかなかった。寒冷な地では雨に濡れて体温が奪われるのは生死にかかわることすらあるだろう。
気候がほとんど年中温暖であるのは、最高の自然の恵みであると私は思っている。もちろん、本土のたいていの土地のように四季の変化があるのも素晴らしいが、その分自然の脅威も大きいようだ。特に寒冷な土地は冬には大変だろう。暖房だけで膨大なエネルギーとカネが使われているのではないか。沖縄なら厚着して寝床に寝ていれば済むし、夏でも窓を開け放して風を通せば済むのである。周囲が海だから、夏は海水温が気温を下げ、実は夏でもやたらに暑くなることもない。まあ、冬でも凍死しないというのは、ある意味、天国かもしれない。
地球温暖化というのは、全世界の沖縄化ではないか? wwww

 
 



3か月予報 立春を過ぎて寒気南下か それでも季節前進 春の災害に注意© tenki.jp 提供 3か月予報 立春を過ぎて寒気南下か それでも季節前進 春の災害に注意

2月は前半を中心に、北日本に寒気が一時的に南下する可能性があります。3月には、寒気の影響を受けにくくなるでしょう。4月は、北日本を中心に暖かい空気に覆われる見込みです。


●2月~4月 偏西風は本州付近で平年より北を流れやすくなる


25日、気象庁が発表した3か月予報によると、2月から4月にかけて、偏西風は、中国大陸上では、平年より北を流れやすく、日本の西でやや南に蛇行する見込みです。このため、シベリア高気圧の南東への張り出しがやや強く、沖縄・奄美では一時的に寒気の影響を受ける時期があるでしょう。一方、偏西風は、本州付近で、平年より北を流れやすく、寒気の影響を受けにくい見込みです。


●2月 前半を中心に寒気が南下する可能性も


今年の節分は、2月2日、3日が立春で、暦の上では春です。


2月は、前半を中心に北日本に寒気が一時的に南下する可能性があります。


北海道から九州の日本海側では、平年と同様に曇りや雪、雨の日が多い見込みです。太平洋側では、平年と同様に晴れの日が多いでしょう。ただ、低気圧や湿った空気の影響を受けやすく、雨が降る時期があるでしょう。沖縄・奄美は、平年と同様に曇りや雨の日が多い見込みです。


気温は、北海道や東北は、2月の前半は、北海道を中心に平年より低くなる日が続くことがあるでしょう。期間を通しては、ほぼ平年並みで、後半になると、急に春めきそうです。関東から九州は、平年並みか高いでしょう。沖縄・奄美は、ほぼ平年並みの予想です。


●3月 北日本は寒気の影響を受けにくくなる


3月は、北日本は寒気の影響を受けにくいでしょう。


北海道や東北の日本海側は、平年と同様に曇りや雪または雨の日が多い見込みです。とはいうものの、平年の晴れ日数(晴れ日数とは、日照率40%以上の日)は、北海道や東北の日本海側は、2月は7.9日で、3月は13.2日ですので、3月になると、平年同様に日差しが届く日がグッと増えます。太平洋側は、平年と同様に晴れの日が多いでしょう。


関東から九州では、春らしく、数日の周期で晴れや雨になる見込みです。沖縄・奄美は、湿った空気の影響を受けにくく、平年に比べて、曇りや雨の日が少ないでしょう。


気温は、北海道や東北は、平年並みか高い見込みです。関東から九州、沖縄・奄美は、平年並みでしょう。沖縄では、晴れる日が少ない時期ですが、平年に比べて、春の日差しを感じられる日が多い見込みです。


●4月 北日本を中心に暖かい空気に覆われる


4月は、北日本を中心に暖かい空気に覆われやすいでしょう。


平年と同様に北海道から九州、沖縄・奄美は、春らしく、天気は短い周期で変わります。北海道や東北の太平洋側と関東や東海、近畿から九州では、平年と同様に晴れの日が多いでしょう。


気温は、北海道や東北は、平年並みか高い見込みです。関東から九州、沖縄・奄美は、平年並みでしょう。


●南岸低気圧による太平洋側の雪


冬の終わりから春先にかけて、低気圧が本州の南を東進する、いわゆる南岸低気圧により、関東など太平洋側で、大雪になることがあります。昨年2020年は、3月14日、前線を伴った低気圧が本州の南を進みました。その日、東京都心では観測史上最も早く桜が開花しましたが、春の訪れを実感するどころか、雨が雪に変わりました。





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大河内山荘

今日は朝イチで病院に行ったついでに、天気もいいし、バスの一日乗車券を無駄にするのも何なので、今年の紅葉を眺めに嵐山まで行ってきたが、いつも数百メートルで音を上げる膝の調子が良くて幸いだった。とは言っても、嵐山全体で歩いた距離は3キロか4キロ程度かと思う。その間に野宮神社から竹林の道、常寂光寺、落柿舎、大河内山荘、渡月橋と回れるのだから、散歩コスパが実にいいのが京都、特に嵐山の利点だろう。
その中で実に素晴らしかったのが大河内山荘で、あの庭園は世界的に評価されるべきものだろう。入園料は1000円とお高めだが、お茶(抹茶)と和菓子(落雁)の接待付きだし、何より、あの庭園だけでもそれ以上の価値がある。常寂光寺から大河内山荘までのうち200メートルほど軽斜度の坂道を歩くので、足の弱い人間(私)は少しくたびれるから、まずはお茶で一休みというのは有難い。

落雁の抹茶に溺れ 紅葉かな

というのが、そこで詠んだ狂句である。もちろん、落雁を「空から落ちた雁」と見立てて、それが腹の中で抹茶に溺れる、というおふざけだ。
庭園は、実に工夫されたもので、最初は両側を密な低木で囲まれた狭い歩道を歩いていく。紅葉は頭上に見えるだけだが、その、視覚的に限定された空間だからこそ、背景を空にした紅葉をじっくり眺めることになる。そして、道の角ごとに視界が開け、遠くの山(嵐山連山)や京都の遠景がわずかに見える。そのアクセントがいい。大河内伝次郎は俳優として、あるいは映画関係者として、映画から学んだ「見せる技術」をこの山荘に活かしたのだと思う。
そして、しばらく行くと、紅葉の林の中の建物(平屋の和室)が見えるが、このあたりの紅葉は実に見ごたえがあり、思わず、何枚か写真を撮ったものである。まあ、誰にも見せるものでもないが、記念だ。

京都に住む利点は、観光をするのに好きな日時が選べることで、せっかく観光に来たのに雨降りだったなどということが無い。晴れた日に、気が向いたら遠出すればいいのである。まあ、そう言いながら、私はロクに観光もせず、近所の裏山を散歩するだけで十分満足なのだが、春の桜や秋の紅葉を眺める楽しみは、我が故郷、南国沖縄では得られないものである。まあ、こうした満足がいつまで得られるか分からないが、とにかく今日は満足な一日だった。

なお、大河内山荘から渡月橋までの途中に、周恩来の記念石碑があり、そこに書かれた詩(「雨中嵐山」)が面白そうだったが、私の無学と碑の風化のためなどで読めない字が多かったのが残念である。
その一節。漢字は適当に充(あ)てた。

瀟湘雨霧濛濃
一線陽光穿雲示
(以下4文字、読めず)

一線の陽光が雲を穿って示したのがどういう光景か、気になる。


(以下ウィキペディアから一部抜粋)

人物[編集]

その立ち回りから「八方破れ」、「型破りの快剣士」、大きな目玉から「目玉のデンジロー」とも呼ばれた[1]。『忠治旅日記』出演のころから、一脈のニヒリズムを底流とした大河内の眼光は、ファンの胸を揺さぶった。


「丹下左膳」のような殺し屋役以外に、大河内は喜劇物にも好んで出演した。内田吐夢監督の『仇討選手』はインテリファンを喜ばせ、その後も『小市丹兵衛』、『怪盗白頭巾』(泥棒ヒゲの滑稽メイクで登場)、『でかんしょ侍』などといった作品に出演している。喜劇物では高勢実乗鳥羽陽之助市川百々之助などと共演した。


俳優になるまでは文学者志望だった大河内には、哲学的な性格があった。晩年は仏教に帰依し、名利にこだわることなく淡々と生き、人徳が出て人間として超脱した姿を見せた[26]


極度の近視で、普段は牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけていた。しかしこれがかえって大河内の眼に異様な光を与えることとなる。近視のため相手に肉薄して刀を振るうので、迫力ある乱闘が生まれた。裸眼では足下もよく見えず、『新版大岡政談』の撮影時には乱闘中勢いあまって顔面を泥の中につっこんでしまうほどだった。

 

剣戟スタア・大河内傳次郎[編集]

澤田正二郎譲りのリアリズム、火花を散らすような大河内の立ち回りの秘密は、強度の近眼にあった。立ち回りでは刃引きをした「ホンミ(真剣)」を使った。絡みの役者は殺陣師の指示に従い、斬られる部分に綿を入れてかかっていくが、大河内は相手の身体に刀が当たらなければ承知しなかった。


刃引きはしていても真剣が当たれば相手は生傷、タンコブだらけとなり、大河内との絡みには「膏薬代」が出た。伊藤大輔は大河内の立ち回りについて次のように語っている。

バンツマ(阪東妻三郎)は間合一寸で抜く、(市川)右太衛門は舞踊ですから呼吸を合わせれば怪我はない、(嵐)寛寿郎は正確無比に剣が飛んでくる、これも殺陣の段取りが狂いさえしなければ安心です。それぞれに、避けようがある。傳次郎これはぶっつけ本番で、避けも逃げも出来ません。迫力が出なければ嘘になりましょう— 伊藤大輔、大殺陣 チャンバラ映画特集

大河内は『鞍馬天狗』の近藤勇役で嵐寛寿郎と絡む時は必ず抜き身の真剣を使った。嵐は「一番怖かったのは大河内傳次郎」、「あの人、近眼でっしゃろ。怖かったですよ」と語っている[28]

大河内山荘[編集]

大河内山荘 大乗閣

大河内は敬虔な仏教信者としても有名で、1931年(昭和6年)に京都嵯峨の小倉山[注釈 7]の向かいの亀山の山頂に広壮な山荘を置いた。大河内は広大な和式庭園を自ら設計し、家続きの寺院「持仏堂」を建て、そこで教典をひもとき、朝夕「南無阿弥陀仏」を唱えてすごした。東映時代劇など晩年の多数の脇役出演によって稼いだ多額のギャラは、その大半が山荘造営に注ぎ込まれたという。現在この山荘は大河内山荘として一般公開されている。彼の死後も、妻をはじめとする遺族が山荘を維持しており、傳次郎生誕100周年の1998年(平成10年)に刊行された山荘の写真集は、未亡人に捧げられている。

日活時代の大河内の自宅は撮影所のすぐ傍らの竹藪にあり、撮影所内の人たちは大河内を「藪の神様」と呼んでいた。「大河内に楯をついたらえらいことになる」とのことから「カミサマ」と呼んだものらしい。大河内は撮影中に気に入らないことがあると、プイと仕事をやめてこの亀山の山荘に閉じ籠ってしまった。稲垣浩がのちに本人にその理由を聞くと、「聖徳太子は自分の政事や行いに誤りがないかと夢殿に籠って反省したと聞いています。私が山荘に行くのも、あそこで座禅を組んで反省しているのです」と答えた。


山荘は戦後、本格的な建築に改められたが、いちばん苦心したのは井戸だったという。高い山頂での掘削であるため、地下水脈に至るまで相当深く掘らなければならず、出来上がった井戸は石を投げ込んで七、八ツを数えなければ音がしないほどの深さだったという。鎌倉様式と室町様式が混然としている大河内山荘は、出来上がったころはあまり評判は良くなかった。


ある日、大河内が常盤のあたりを散策していると、道端に転がっている石地蔵を見つけた。立ち去りかねて野仏を拾い上げた大河内は表情が気に入り、これを抱き上げ、山荘に持ち帰った。ところがこれを近在の子供が目撃して、常盤村の人たちが大河内に地蔵を返さねば訴えるとねじ込んできた。これに大河内は平然と、「あの地蔵は盗んだのでない、常盤を散歩していたらあの地蔵様が“大河内、大河内”と呼びとめなさった。道端に転んでいるお姿がとても傷わしく思われたので山荘にご案内して、大切におまつりしただけのこと。あなた方がそれほど大切な地蔵様であるなら、なぜおまつりをなさらぬか。なぜ道端に横倒しになっているのを起こして差し上げぬのか。草むらに横たわった地蔵様を見つけたというのは霊の導き、縁あってのことでありましょう。訴えなくとも戻せと言うなら戻しますが、その代り地蔵寺をたてて立派におまつりしてください」と答えて見せた。こうした話し合いが何度かあり、結局常盤村が地蔵を大河内山荘に寄贈することで裁判沙汰にもならず決着したという[29][信頼性要検証]







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言葉の「誤用」への疑問

私は言葉にわりとうるさいわりに、世間の一部の人間が「誤用だ」と言っている事例にも素直にはうなずけない。つまり、自分の感覚に合っていれば正用、合わなければ誤用、という感じかもしれないwww
「確信犯」の使い方の大半は誤用だ、という意見もあまり納得していない。「確信」の内容がどうであれ、何かを確信して犯罪を実行するなら、すべて確信犯であり、悪いことだと確信しながらやろうが正しいことだと確信しながらやろうが確信犯である、とするのが言語的には当たり前ではないか。つまり、かりに「確信犯」が法律用語なら、法律用語は単なるジャーゴン(専門用語、または隠語)でしかないのに、それをなまかじりした人間が「確信犯は誤用されている」と主張していると見るべきではないか。
「姑息」「穿った見方」「憮然とした表情」の誤用された例は私は見たことがないというか、私自身が誤用しているのかもしれない。「役不足」の誤用は知っているが、その誤用に対する正しい言い方とされている「役者不足」は、まるで新コロで役者がみんな休養して役者の数が足りなくなったみたいであるwww つまり、「誤用」にも理由がある(「正用」の言葉自体に問題がある)わけだ。ならば、それは果たして誤用として完全に否定するべきなのだろうか。

(以下引用)

誤用で使われている「確信犯」に代わる本来の言い方って何?

Category: 未分類  
1: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:47:39.59 ID:oL2kzOjc0
悪いと知りながら行為に及ぶことを確信犯以外では何と言えばいいの?


引用元: https://swallow.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1603082859/



2: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:48:17.90 ID:1kldrf5A0
確信犯はどういう意味なん?

4: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:49:02.99 ID:oL2kzOjc0
>>2
正しいと信じて行為に及ぶことみたいなものだったはず
誤用の確信犯とは反対や

3: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:48:21.41 ID:iS1+ImL90
故意犯らしいが通じないわね

6: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:49:58.15 ID:oL2kzOjc0
>>3
語呂悪いから普及しそうにないやね…

5: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:49:29.97 ID:6Uhhu0+6p
結構こういうのあるよな
「○○は誤用やで!」ってドヤ顔で指摘する割に、じゃあ何て言えばいいのかは知らないパターン
穿った見方とかもそう

7: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:51:02.82 ID:0oxtvHPx0
わかっててやってる

10: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:52:20.13 ID:lfqYZfQ10
確信犯役不足姑息はもう市民権得たな

11: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:52:53.09 ID:7N1fzSH80
分かっててやってる

12: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:53:16.18 ID:TcczZXhC0
言葉なんて時代に合わせて変わってけばええがな

13: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:53:20.71 ID:6PHjF9Dh0
嫁も市民権得てるな

14: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:54:17.58 ID:oL2kzOjc0
確信犯って言ってる人に指摘することもないけど自分が言うときは故意犯を使っていきたいね

15: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:54:46.45 ID:6Uhhu0+6p
慣用的に使われる「穿った見方」って、なんて言い換えればええんや?

慣用的に使われる「憮然とした表情」って、なんて言い換えればええんや?

17: 名無しさん 2020/10/19(月) 13:54:53.39 ID:8W+SBzFU0
他力本願の誤用は浄土真宗がキレてたな

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「自由」

「徽宗皇帝のブログ」で「革命」について書いたあと、革命とは基本的に「現秩序による異常な束縛からの自由を求める行為」ではないか、と考え、それと「新自由主義」との違いを少し考えたのだが、その際に、ジャック・プレヴェールの「自由」という詩を思い出し、ネットで探したのだが、まったく見当たらない。
プレヴェールは「枯葉」などの作詞や映画「天井桟敷の人々」の脚本で有名だが、今ではあまり知る人はいないだろうし、彼の詩の中でも「自由」という詩は知られていないと思う。
私がこの詩を知ったのは大昔に読んだ大島弓子の漫画(たぶん、「リベルテ144時間」、つまり「144時間(6日間)の自由」というタイトルだったと思う。)の最後にこの詩が引用されていて、それが非常に印象深かったのだが、もちろん、今ではそのフレーズはほとんど覚えていない。要するに、詩に対して冒涜的な圧縮をするなら、「(僕が子供から青年時代まで出会った)あらゆる場所に、物の上に僕は君の名を書こう、『自由』と」、という詩である。おそらく、フランス語では「自由(リベルテ)」は女性名詞だと思うのだが、「自由」に捧げる愛の告白、といった印象の詩で、ある種の人間にとって自由が人生そのものと切り離せないものだと分かる。
その自由の中には、「ある種の考え方を拒否する自由」もあれば、「自分で自分の人生を終わらせる自由」もあり、またたとえばホーキング博士のように自分の力ではほとんど動けない人間、つまり身体的には不自由の極致にある人でも、その頭脳の中は常人のレベルを超えた活動をする人もいる。自由とは身体的なものだけではない。
何かをやる自由もあれば、やらない自由もある。いずれにしても、自由の無い人生とは、それは「生きている」と言えるのか、疑問である。生きることと自由は不可分だろう。私が新コロへの自粛を嫌悪するのも、その「自由への束縛」が生理的嫌悪感を抱かせるからかもしれない。

まあ、プレヴェールの詩のひとつをネットから探したので、それについての随想ともどもここに載せて、彼の詩がどんな感じか見本としておく。

(以下引用)

ジャック・プレヴェールの詩「Le jardin」

2019/10/08 20:34

Des milliers et des milliers d’années
Ne sauraient suffire
Pour dire
La petite seconde d’éternité
Où tu m’as embrassé
Où je t’ai embrassée
Un matin dans la lumière de l’hiver
Au parc Montsouris à Paris
À Paris
Sur la terre
La terre qui est un astre.

・・以下日本語訳・・


何千年かかっても
とうてい言えっこない
あのほんの一瞬を
きみがぼくにキスをして
ぼくがきみにキスをした
ある朝のこと 冬の光のなか
パリのモンスリー公園で
パリで
地球で
地球という惑星で


・・・・・


フランス語を学習していた時に、フランス語の先生が朗読してくれたジャック・プレヴェールの詩。題名の「Le jardin」は”庭”という意味。読み方は、ル ジャルダン。
私はこの詩の朗読を聞いて、綺麗な詩だな、と思った。フランス語の発音の美しさはもちろん、フランス人の愛に生きる生き方がこの詩にギュッと詰まっているような気がして。
冬の光がさすある朝のこと、小さなモンスリー公園で、パリで、地球で、惑星で、広がっていく宇宙のなか、まるで時が止まったかのような。でも、言えない。キスをした、あのほんの一瞬を語ることなんて、どんなに時間がかかっても言えっこない。何回読んでも、素敵だなぁ。
こういう詩で思うことは、日本語にしてしまうと、どうもくさすぎるセリフになりがち、ということ。私は村上春樹の本はムズムズして読めないのだけれど、きっと英語とかフランス語訳で読んだら自然な表現に感じるんだろうなと思う。言語と表現の相性というか。日本語の感覚、英語の感覚、というのかな。その言語の感覚ってあるよね。言語って、言葉って、文化だもんね。







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It の考察

別ブログに試しに書いた文章だが、書くのに時間も頭もわりと使ったので、ここにも載せておく。

(以下自己引用)

日本人はIt(それ)を知らない



誰も読まないようなこんなブログにこういう話を書くのも意味が無さそうだが、まあ、もともと誰かに読ませるより、自分の頭の整理と考察と保存のためのブログであり、それを誰かが読んで参考にでもしてくれれば大いに満足である。
などと前置きしたのは、これから書く記事の中身が「英語に関する思い付き」で、私自身英語は苦手であり、今さら勉強する気も無いのだが、ふとした思い付きを大事にするというのが私のポリシーなので、浮遊思考を失わせないためにこうして書いているわけだ。

その「英語考察」の内容は、「itの使い方」であり、広く言えば「英語の指示語の使い方はわりと幅が広い」ということだ。たとえば「this」は身近な事柄や物を指すが、それは「空間的に近い」場合にも「時間的に近い」場合にも用いる、といったようなことである。
とりあえず、「it」について言えば、その基本的用法は「漠然と何かを指す」という、用法自体が漠然としたもので、ボケ た老人が「あれだよ、あれ」というような感じに似ているか。で、ポイントになるのは、会話をしている双方で「今話題の中心になっている物や事柄」が「it」であることだ。
たとえば、「That's it!」というのは、その問題となっている漠然とした対象が明確になった時の思わず手を打ち合わせる感じだと言えそうだ。この「that」の使い方も面白いが、この一文を心理的に言えば、「遠いところにあると思っていた何か(あれ)が、現在の話題の中心となっている物や物事そのもの(それ)であった」という「解決感」だろうか。「あれがそれなんだよ!」と直訳しても感じは分かりそうだ。

"I don't get it."(分かりません)は、「私は、あなたが言っているそれ(it)を把握できません」ということだろう。つまり、双方の話題の中心がitである。
" Let's give it a try."(ちょっとやってみましょう)は、「問題のそれ(it)に、我々(私)がそれを試す機会を与えましょう」ということで、Itの示す概念が日本人の使う「それ」より生々しく現実的な印象が強い。ほとんど擬人化的だと思う。
" Hold it!"(待て!)は、「それ(it)を保持せよ」という命令文で、当然、保持状態を維持することを含意するから「待て」という訳になる。この場合、日本人は絶対にitを使った英文にすることは想像もしないと思う。なぜなら、itが両者の間の問題事項であるという概念が無いからだ。もちろん、「wait!」でも同じことだが、英語文化圏の人間にとってはitが「親しい存在の言葉」(使い勝手のいい言葉)だということだろう。
" Leave it to me!"(私に任せて)は日本人にも分かりやすい。「それ(it)を私に(私の仕事として)残して」ということだが、日本人だと「私にそれを任せて」ではなく、「私に任せて」と言うだろうというのが文化の違いである。物事の関係を明確にする、つまり、主語と目的語を明確にするのが英語文化だと思う。それは日本の「責任の所在がどこにあるのか分からない(意図的に曖昧にする)」という文化とも話が関連すると思う。
" We've made it."(着きました)は、分かりにくいが、itが現在の問題事項だと理解していれば、自動車に乗っているふたりの間の問題事項は「目的地に到着すること」であり、「我々はそれ(it)を為した」は「目的地に到着した」となるわけである。
" You've got it."(了解しました)も上記と同じことである。現在の問題事項が「私が相手の指示内容を把握したかどうか」であるなら、「あなたはそれ(it)を得た」は、「私があなたの指示を了解するという結果をあなたは得た」は「了解しました」となる。たぶん、「I've got it」でも同じだと思うが、これだと「私の頭が鈍くて、了解するのに手間取った」というニュアンスになるのではないか。そうではなくて、「お前の説明が下手だから私は了解するのに手間取った」が"You've got it"のニュアンスだろうというのは考えすぎか。
" You have it all wrong."(君は全部勘違いしている)のhaveは知的把握(理解)も「所持」の一種だということだろう。で、ここでもit が話者双方の問題事項だというのが分かる。だが、私が上に書いたこと全体が「君は全部勘違いしている」と英語話者から言われるかもしれないwww

なお、例文はすべて「英語コミックス鉄腕アトム」(実業之日本社)から採った。

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松本人志と三浦瑠璃という、最悪ヴィジュアル二名のCMww

アマゾンプライムのCMに松本人志と三浦瑠璃の極右ふたりが起用されて、解約が相次いでいるようだ。
下のコメントによると、アマゾンジャパンの社長は香港人のようだから、電通に騙されたのだろうと思うが、どうなのか。
なお、記事タイトルはヴィジュアルのことを言っているが、下種は顔を見れば分かるので、これは性格や思想も含めての彼らへの嫌悪感のことである。

(以下引用)

アマゾンジャパンの社長は香港出身。極右二人起用をするとはよっぽど日本政府の圧力が凄かったんでしょうね。


(夢人追記)批判の声がアマゾンジャパンを動かしたようである。賢明な判断だ。

Amazonプライムビデオは、インターネットショッピングサービス「Amazon」が運営している動画配信サービスだ。激安価格で映画やドラマが見放題なだけでなく、オリジナル番組も多いことから、世界中で支持されているサービスである。そんなAmazonプライムビデオが大炎上している。

・三浦瑠麗さんの思想に反対する人たち
AmazonプライムビデオがテレビCMの出演者として三浦瑠麗さん(39歳)を起用したところ、一部の人たちから猛烈な批判の声があがり、インターネット上で大炎上状態となった。怒っている人たちの大半は三浦瑠麗さんの思想に反対する人たちのようで、彼女がCMに出るたび、不快な気持ちになるようである。

・三浦瑠麗さんが出演しているCM動画が削除
三浦瑠麗さんがAmazonプライムビデオのCMに登場するたびに不快に感じている人たちが、TwitterなどのSNSで三浦瑠麗さんをCMから消すように強い要望を書き込み。その影響なのか、Amazonプライムビデオの公式YouTubeから三浦瑠麗さんが出演しているCM動画が削除される事態に展開した。

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マスク神話の小学校算数的考察

「in deep」記事の一節だが、まさに「形而上的」というか、宗教的思考とでもいうべきか。「論証拒否」のままに現実が動かされている状態である。
果たして、「50メートルの穴が無数にあいた壁で、体長1メートルの無数の生物を閉じ込めることが可能だろうか」。(ウィルスは、生物と無生物の中間的存在とされているようだが、これは単なる比喩である。)
昔、スコラ哲学で、「針の先に天使が何人とまれるか」という問題を論じたことがあったらしい。この「マスク問題」はそれを思わせる。

(以下引用)



なお、ウイルスの直径はおおむね 0.1マイクロメートルなのに対して、一般的なマスクの穴は 5マイクロメートル程度です。


つまりマスクをするという行為は、「 50メートルの穴を 1メートルのものが通過することを阻止できるか」という話であり、極めて形而上的な話です。


こんなアバンギャルドな世界が実現しているのが今の現実です。

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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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