(以下引用)
気の赴くままにつれづれと。
![]() 岸田家のルーツ、という話なんだが、上の図版は明治時代の基隆の地図で、「岸田喫茶店」「岸田呉服店」というのが、首相になった岸田さんの先祖がやっていた事業です。岸田幾太郎(1867-1908)というのが岸田さんの先祖です。 1891年(明治24年)頃に農機具、種苗、呉服などを輸出し、輸出先である北海道にて仕入れた海産物の販売業を始める[4]。1894年(明治27年)に三宅直之助の四女・スミと結婚。翌年には、長男の正記が生まれる。 長男が生まれて2ヶ月が経った頃には台湾の基隆市に移住し、現地で呉服商と材木商を営む[4]。この人の息子が、岸田正記といって、戦前・戦後に国会議員をやっていた。 |
西志和高等小学校卒業。1913年(大正2年)、広島県立広島商業学校卒業。広商時代の同級生に大木惇夫がいる。長崎高等商業学校[5]、京都帝国大学法学部卒業[3]。在学中の1922年(大正11年)高等文官試験行政科合格[6]。ところが岸田家は外地で事業を営んでいたため、戦争で全てを失ってしまう。この人の息子が岸田文武といって、通産官僚から政治家になる。といっても、父の地盤をすんなり継いだというわけでもないようで、年代が違う。地盤をついでの世襲ではないようだ。 広島県広島市出身[1]。この人の息子が、岸田文雄という事になる。 東京都渋谷区に生まれる[6]。父・岸田文武は広島県出身の通産官僚だった。岸田家は広島の一族であるため、一家は毎年夏に広島に文雄を連れて帰省し、文雄は広島原爆の被爆者たちから当時の話を聞いた[7]。岸田一族も多くが被爆し、死に至った者たちもいた[7]。アメリカの公立校に通ったという珍しい経験の持ち主ですw 高校時代は野球とフォークソングに夢中で、東大は2浪して果たせず早稲田進学。長銀に就職し、5年間勤めた後、衆議院議員の父の秘書となる。ところで宮沢喜一の甥っ子が宮沢洋一という国会議員なんだが、この人は岸田文雄の従兄弟です。 さて、そんなわけで世襲といえば世襲なんだが、戦争で原爆の被害を受けたり、外地の資産を失ったり、NYで差別されたり、親戚筋がみんな東大出の官僚だったり、人並みの苦労はしている家系のようだ。宏池会30年目の首相です。まぁ、頑張ってくれたまえ(謎の上から目線w |
8月の半ばまで、3週間ほど入院した。
退院してみると、驚くほど歩けなくなっている。
思い出してみると、このたびの入院に先立つ6月の半ば過ぎ以来、体調に不安を感じていた。そこのところから起算すると、およそ2ヶ月にわたって、私は、ろくに外出することもかなわず、部屋の中に閉じこもりきりで過ごしていたことになる。
と、現金なもので、すっかり体力が落ちている。
足腰の筋力もさることながら、心肺機能が目に見えて衰えている。であるから、少し歩くと、たやすく息が切れてしまう。
そこで、8月の下旬からこっち、意識的に歩くことを決意している次第なのだが、いかんせん残暑の戸外はあまりにも暑い。しかも都内の街路と店舗は、コロナ禍とパラリンピックのはさみうちで、正常に機能していない。
なので、夜中に歩くことにした。
夜になれば、暑さも多少はやわらぐ。
それに、9月の声を聞いてから、吹く風にも、心なしか秋の気配が感じられるようになってきている。
問題は、真夜中におっさんが町中を徘徊することの不穏さだ。
ごぞんじのとおり、21世紀の時代思潮は、中高年男性による深夜の単独歩行を許容しなくなっている。
いや、世間の目から見て、私はもはや「おっさん」というよりは「年寄り」に分類されているのかもしれない。
どっちにしても、事情はそんなに変わらない。
おっさんであれ、じいさんであれ、真夜中に平和な街路をうろつき回って良いキャラクターではない。うちの国の市民意識は、きわめて偏狭な方向に研ぎ澄まされつつ、今日に至っている。
そんなわけで、夜の9時を過ぎた時刻に町中を徘徊する折には、なるべく嫁さんと連れ立って歩くことにしている。とはいえ、無目的に歩くことはできない。われわれは、行き先を定めずに歩くことを楽しめる年齢をとっくに過ぎてしまっている。仕方のないことだ。
そこで、近所にある24時間営業のスーパーマーケットをとりあえずの目的地に定めることにした。これでようやく歩き始めることができる。
かくして、8月の終わり頃から、ほぼ毎日、若干の遠回りをまじえながら、目的地である24時間営業のスーパーに立ち寄って、トマトだの牛乳だのを買って帰る散歩を日課としている。
ここまではまあ、まあ、あたりまえな話だ。
牧歌的なエピソードであると申し上げても良い。
ところが、昨晩、いやな事件が起こった。
この1週間ほど、私は、件のスーパーに到着するや、1階のセルフレジ近くにあるベンチに腰掛けて、比較的長い休憩をとることが習慣化していた。
ショッピングそのものに興味がないのもさることながら、スーパーに到着する頃には、すっかり息があがっているのが常だったからだ。
ついでに申せば、その24時間スーパーは、日々の歩行の目的地で、私個人の心の中では
「到着」
という気分を抱かせる場所だった。
であるから、私は、嫁さんが地下と1階の売り場を歩き回って商品を物色している間、ベンチに座って、ひとりしずかに、その日一日の歩行実績の達成をことほいでいたわけなのだ。
そういう繰り返しが1週間ほど続いた。
で、ゆうべのことだ。
なんと、セルフレジの後方にしつらえてあったはずのいつものプラスチック製のベンチが消えている。
周囲を見回してみると、ベンチは、通路の奥に片付けられている。そして、6本の脚で自らを支えることをやめて、座面の裏側を晒すカタチで、無残に立てかけられている。つまり、ベンチは、撤去こそされていないものの、人間が座ることのできないブツとして、壁際に押し付けられていたのである。
なるほど。
私は、考えた。
この1週間あまり、買い物もせずに夜中の売り場でベンチを専有していた私の習慣は、店舗を管理する人間の側から評価してみれば、迷惑な行為だったのかもしれない。
だから彼らは、商品を買わない来店客が、ベンチを長時間使用することを、やんわりと拒絶する挙に出たわけだ。
壁の隅に立てかけられたベンチの、ホコリにまみれた裏面を眺めながら、私は、すっかりいやな気持ちになって店を出た。
思うに、これは偶然ではない。
売り上げに結びつかない人間を売り場から排除することは、現代にあっては正義に類する行為だ。そうやって21世紀の資本主義は動いている。客でない人間はすなわち敵なのだ。われわれはそういう時代に立ち至っている。
3日ほど前だったか、ツイッターのタイムラインに、自民党の総裁選に立候補している政治家が、2012年にさる政治集会の席で話したスピーチの動画が流れついてきた。
私は、横向きに立てかけられている無残なベンチを眺めながら、そのスピーチを思い出さずにおれなかった。
彼女は、国にとって一番大切なのが「国家経営の理念」であるという、故松下幸之助翁の言葉を紹介したうえで、こんな意味のことを言っている。
「さもしい顔して貰える物は貰おうとか、弱者のフリして少しでも得をしよう、そんな国民ばかりでは、日本国(にっぽんこく)は滅びてしまいます。◯◯総理は常に……多くの方がマジメに働く、ヒトサマにご迷惑をかけない。自立の心を持つ……もう一度、皆さんと力をあわせて、また◯◯総理に頑張っていただいてですね、日本を奴らから取り戻しましょう」
なるほど。
特定個別の政治家の発言をあげつらって論難することは私の本意ではないので、名指しにはしないが、件のスピーチは
「さもしい スピーチ 創生日本」
あたりの検索ワードを入力すれば、随時フリーで流通する動画として確認できるはずだ。ぜひ、自分の目と耳で確認してみてほしい。
私が読者の皆さんに、このスピーチ動画の視聴をおすすめするのは、必ずしもその内容が非常識だからではない。
むしろ、あのスピーチの中で政治家が訴えていた内容が、令和の時代の平均的な日本人にとって、「常識」に属する感覚なのかもしれないという疑念を、拭い去ることができないでいるからこそ、私は、その「常識」を客観的に見直してみてほしいと考えている。もしかしたら、われわれは、すでにして狂っているのかもしれないわけだから。
そうでなくても、昨今のあたりまえな若い人たちにとって、典型的な「弱者」は、「さもしい」とまでは言わないまでも、迷惑な存在ではあるのだろう。だからこそ、買い物もせずにマーケットのベンチを専有している人間は、「うさんくさい年寄り」として冷遇されるのである。
(中略)
思うに、昭和が終わってからの日本の社会は
「私権の尊重」
「私有財産の優位」
「自己責任」
「公共概念の後退」
「企業的経営という理念の絶対性」
「自由競争の賛美」
を旨とする新自由主義に傾いている。
そこへ持ってきて古くからの東アジア的な伝統である
「ヒトサマに迷惑をかけない」
「世間の大勢に従うのが無難だ」
という感じの集団主義と事大主義が加味されている。
で、このふたつの本来は相容れないはずのプリンシプルが悪魔合体した結果として、21世紀のわれら日本の社会の空気は、異様なばかりに周囲の目を気にする世間絶対主義という、限りなく窮屈な個体として結晶しつつある。
その結果が、寝転がることのできない仕切り付きベンチと、「排除アート」(公共空間にホームレスが居住することを防ぐために設置される尖った彫刻もどきのモニュメント)の蔓延でもあれば、散歩のためにやってくるベンチ占有者をスーパーの休憩スペースから追い立てないと健全な営業が立ち行かないと考える売り場担当者のオブセッションであるわけだ。
さて、エピローグというほどのことでもないのだが、長くなってしまったので、最後にいやな読後感のネタを紹介しておく。
コロナ禍のあおりを受けて美術館や博物館が苦境に陥っているという話がいくつか耳にはいってくる。
たしかに、美術館や博物館は苦しいだろう。ふつうに考えればわかる話だ。
ところが、この件に関して
「多額の公金が投入されている施設である以上、美術館だとかは、富裕層のための文化施設なんではなかろうか」
「美術館や博物館に通うことで教養や知的好奇心を涵養する階層があるのだとすれば、その階層こそが恵まれた人々であり、そういう人々を優遇することは逆進性だぞ」
という感じのツイートを流している人気アカウントがいて、しかも、これらのツイートにはバカにならない数の「いいね」がついている。
世も末だと思う。
個人的には、美術や芸術や先人の文化に親しむための施設を「富裕層のための文化施設」と言ってしまう感覚や、それらのために傾ける努力や興味を「逆進性」のひとことで説明してしまうセンスに、げんなりさせられる。
たぶん、人類の営為を「効率」と「自己責任」の観点から評価しなおせば美術館だの博物館だのは、富裕層の道楽にしか見えないのだろう。
私は、富裕層ではないが、だからといって貧困層に分類されたいとも思っていない。
というよりも、自分以外の人間を「富裕」と「貧困」という観点からしか評価できない人間こそが本当に貧しい人間なのだと思っている。
そういう人たちが総裁選を争っている。
きっとおそろしく貧しい近未来がやってくることだろう。
その先の未来に期待することにしよう。
また来週。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
作者 | レオナルド・ダ・ヴィンチ |
制作年 | 1513〜1516年 |
メディア | 油彩、クルミパネル |
サイズ | 69 cm × 57 cm |
ムーブメント | 盛期ルネサンス |
所蔵者 | ルーブル美術館 |
《洗礼者ヨハネ》は1513年から1516年ころにかけてレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品。完成作品の中では彼の最後の作品で、実質的な遺作とみなされている。また、レオナルドのスフマート技法が最高潮に達した頃の作品である。サイズは69 cm × 57 cm。パリのルーブル美術館が所蔵している。
明暗のコントラスト技法であるキアロスクーロで描かれた人物は背景の黒い影から出現しているように見える。
この人物は孤独な状態にあるヨハネを描いたものであるという。十字架と着ている毛皮で人物がヨハネであることがわかるが、また、レオナルドの代表作である《モナ・リザ》を彷彿させる謎めいた微笑を見せている。
ヨハネは救世主の存在を知らせる「メッセンジャー」であり、右手はレオナルドの《聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ》と同じように、天を差しており、左手は胸に手を当てている。
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