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自由主義の破壊性(年齢と読書)

先日、高校1年の時の担任の教師だった人が亡くなったのだが、その人の或る言葉は私の記憶に残り続けている。
私は数人の友人と浪人時代にその教師と会ったのだが、その頃、ドストエフスキーの作品の面白さにかぶれていて、その教師に「ドストエフスキーの作品を全部読んだら、それ以上に面白い作品にはもう出会えないだろうから、それが残念だ」と生意気なことを言ったところ、その教師は少し黙った後、「僕はドストエフスキーが理解できたら死んでもいいと思っている」と言ったのである。この言葉は私に大きなショックを与え、その後、「文学を理解する」ことを安易に考えなくなった。とは言っても、生意気ざかりだから、「ドストエフスキーをこれほど面白く思っているのだから、俺のドストエフスキー理解がダメなはずはない」と思いながらも、「俺はドストエフスキーをいい加減な理解で読んだだけかもしれない」とも思ったわけだ。
「文学」などというたいそうな言い方はあまり好きではないし、私は純文学が大衆小説より上だという序列意識もさほど無いのだが、やはり「文学」あるいは「純文学」と、通常の娯楽小説には違いがあると思う。前者は、それを読むことで読んだ人間そのものに変化があるのに対し、後者は純然たる「時間つぶし」である。もちろん、楽しい時間つぶしはそれなりの価値があるが、肝心なのは、それを経験することで読んだ人の内面に大なり小なり変化が生じるかどうかということだ。つまり、その作品を読んだことで読んだ人間の「世界理解、あるいは人間理解の幅が広がる」わけだ。そして、ある作品がどの程度まで「読める」かどうかは、読む人のレベルによる。同じ人間でも、十代での理解と六十七十代での理解には大きな違いが出て来る。ただし、若年でもその作品の「大雑把な面白さ」や「哲学」は分かることが多いと思うが、細部はほとんど理解できていないのではないか。そして、優れた作品は細部にこそ本当の面白さがあるのである。
などと書いたのは、しばらく前に「悪霊」を再読した時にも感じたのだが、最近再読している「白痴」も、若い時に読んだ時には感じていなかった細部の面白さが抜群なのである。特に会話の面白さは、おそらく世界文学の最高峰だろう。
なぜドストエフスキー作品の会話が面白いかと言うと、人間自体の持つ喜劇性のため、と言えるかと思う。真摯さと偽りが同時に同じ人間の中に存在するから、その言葉も嘘と真実の混合となり、しばしば混迷そのものになる。実はこれは現実世界の人間も同じなのであり、何かを言う時にはあれこれ計算して話そうとするが、すぐに気が変わって支離滅裂な話しぶりになるわけだ。
我々は、自分で思うほど合理的なふるまいや発言をしているわけではない。
ドストエフスキーが「悪霊」や「白痴」の中で描いているのは、「自然な人間は、どのように欠点だらけでも美しいが、思想や信条に毒された人間は醜く、一種の怪物となる」ということかと思う。特に「自由主義」を彼は批判しているが、これは現代においてこそ納得されるだろう。
自由とは、束縛を脱することで、その行き着く先はあらゆる宗教や道徳や法律の否定になる、ということを彼は暗示していると思う。これは現代の新自由主義の世相を見れば、その先見の明が分かるのではないか。もちろん、ロシア正教の擁護者であるドストエフスキーは「宗教」という信条の毒には触れていない。ただ、「自由主義」の持つ破壊性が、「悪霊」や「白痴」には示されている、ということだ。
いずれにしても、老年での読書は、過去に読んだ作品の再読でも、若いころには理解できなかった細部の理解が可能になるという、素晴らしいメリットがあるのである。まあ、泉鏡花など、未読の作品で読んでみたいのもたくさんあるが、手元にある本の再読だけでも死ぬまで楽しめそうである。



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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