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「嘘」に対する日本人の態度

山本七平の対談集「日本教の社会学」は面白い本で、いろいろ啓発されるところがある。
その中で、第二次大戦時に米軍の捕虜になった山本七平が米兵から「進化論」を教えられ、「そんなの日本では中学生でも知っている」みたいな反応をすると、その米兵から「それなら、お前たちが『現人神』と言っている天皇が猿の子孫だと認めるのか」と言われて虚をつかれた思いになった、という趣旨の話があって、なかなか面白く思った。
で、私が思ったのは、日本人のほとんどは「天皇は現人神である」ということをそのまま信じたのではなく、一種の比喩として受け止めていたのではないか、ということだ。「神である」ことと「神のような存在である」ことの間には巨大な開きがある。しかも、欧米人の考える神(一神教の神)と日本の神(八百万の神)の間にも巨大な開きがある。
そもそも、当時の日本人でも記紀神話を頭から信じていたのは幼い子供くらいのもので、大人になればたいていの人は「これは象徴的な話だろう」と受け止めていたのではないか。まさか、記紀神話を「事実の記述だ」とは思わなかっただろう。ただ、それを事実であるかのように言い立てる勢力があったのも確かだろう。
要するに、普通の理解力を持つ大人であれば、人間がそのまま神様であるなどと信じるわけがないが、ただ、日本的には「角を立てる」のを好まないから、一部勢力が天皇の神格化をするのに特に反対するまでもない、と考えたのではないか。それこそが日本人の宗教への普通の態度だと思う。
つまり、日本人は何かが嘘だと分かっていても、その嘘が自分の生活に特に関係なければそれが嘘だとわざわざ指弾しないのである。
だから、(急に今現在の話になるが)新コロ詐欺が嘘だと分かっていても、それに異を立てないという人が多いのではないか。

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動画と文章の優劣

動画系の「情報量の少なさ」と「内容の事前検索がほぼ不可能」と「時間を食いすぎる」というのが私も大嫌いでほとんど見ないのだが、技術系の動画、特にDIY(まあ、日曜大工である)関係の動画は非常に役に立つらしく、我が女房のお気に入りである。
歌の歌い方(声の出し方)とか絵の描き方とか、学校では実はほとんど教えてくれないので、その手の動画も役に立つだろう。もちろん、その方面に興味があればの話だ。この前、バフィー・セントメリーの歌い方(声が或る種の楽器のように震える)を何というのか調べて、動画で「ビブラート」唱法と「トレモロ」唱法の違いを知ったが、動画も便利なものである。素人と玄人の接点(素人のプロへの入り口)としてネット動画はこれから活用されるのではないか。
だが、想像を広げてくれる点や自分のペースで相手ができるという点ではやはり文章(漫画含む)に及ぶものはない。世界から紙の本が消えたら(ブラッドベリの昔のSFだ。)、私もそれと共にこの世を去ろうかな、と思っている。「こころ」の「先生」ではないが、「畢竟、時代遅れだ」というわけだ。

(以下引用)

ふと見かけて、ものすごく同意しました。そ〜なんですよ、動画系の情報は面倒くさくて・・・あと知識や情報を求めてるだけで喋ってる人には特に関心ないことが多いんで、情報系動画はよほどのことがない限り見ないです・・・
引用ツイート
しのはら | 書く人
@shinoha_la
·
YouTubeが流行ってるのは分かるけど、活字派からすると「えっ、この情報量で15分…?」「欲しい情報に辿り着くために15分もこれを見てなきゃいけないの…?」ってなるのわかる? せっかちな人ほど活字で情報収集する時代に戻るんじゃないかなぁ。

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ランドセルの重さと「置き勉」問題

2018年9月に文科省が各地の教育委員会へ「置き勉」(変な言葉である。置くのは教科書であって「勉強」ではない。)を認めるように通達を出す(たぶんその後出したのだろう。)という方針発表を受けて書かれた記事の一部である。
今の子供がどんな状態だろうが興味は無い、という人もいるだろうが、教育環境の設計や整備というのは、いわば「国家百年の大計」と言うべきもので、今の日本は良く(たとえば知識水準の高さ)も悪く(たとえば奴隷的心性)も明治に作られた教育制度の結果である。「置き勉」を認めるかどうかでも、子供の生活や学習には大きな影響がある。たとえば、従来懸念されていたように、置き勉を認めることで、「家ではまったく勉強しない」子供が増える可能性もあり、それが常識通りに「悪い」のか、それとも逆に好影響もあると見るか、考察する意義はあるだろう。
私の意見は簡単で、子供に、全額政府負担で「自宅用」と「学校用」の2部、教科書を配布すればいい、というだけのことだ。その程度は、この少子化時代にさほどの出費でもないだろう。費用が気になるなら、大企業や富裕層から出資を募ればいい。社会福祉にカネを出すのは、社会から利益を得ている集団の義務である。まあ、「人道的企業」の栄誉が得られるのだから、企業にとって良い宣伝になる。

(以下引用)



そもそも、なぜ体に痛みが出るほどの重い勉強道具を毎日、学校に持ち運びしないといけなかったのか?
教育評論家の石川幸夫氏に話を聞いた。

教育現場では予習復習を家庭で毎日することを求めている

――なぜ多くの学校では“置き勉”を禁止にしてきたのか?

教育現場において、授業の予習復習を家庭で毎日することを児童生徒に求めており、そして家庭で勉強をするには教科書がないとできないという考え方が昔からありました。宿題がなくても家庭で学習する姿勢が大切だという認識が続き、勉強道具を全て持ち帰るように指導していたのでしょう。


――昔に比べて、小中学生の荷物が重くなったと言われている。その理由は?

かつてのゆとり教育の反省から、現在は学習指導要領が変わっています。保護者からの要望もあり、小中学生が学習する量はぐっと増えました。科目によってはページ数が1.5倍となった教科書もあり、それが複数科目に渡っています。以前に比べて、全体として平均2~3割ほど増えている印象です。

さらに、教科書の拡充に比例して副読本なども追加されました。そしてこれらを全て収納できるようにと、ランドセル自体の容量も以前に比べて大きくなったため、結果として重量がかさんだのだと思います。特に小学校低学年の児童の体力的な負担は相当なものです。


――今回の文科省の方針をどう評価する?

以前と比較にならないくらい、子どもたちの肉体的負担が大きくなっています。さらに中学生になると、これらの荷物に部活動の用具なども増えることになります。

そのような状況を鑑みて文部科学省は、各学校や教育委員会に判断を任せていた“置き勉”について、家庭学習に差し障りのない範囲で教科書等を置いて帰っていいという省としての方針を示したのでしょう。

また重い荷物を背負った状態では、登下校時に車が突っ込んで来るなどの事故が起きた場合に、児童らは咄嗟に避けるなどの行動が取れません。その意味でも、今回の方針は子どもたちに大きなメリットがあると思います。



文科省は、「実情にあわせて、それぞれの学校で検討してほしい」としている。家で勉強をすることはもちろん大切だが、時代とともに変化する教育現場で、まずは子どもが学校に元気に通えるように臨機応変に対策をとっていくことが重要だろう。

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「和」を重んじすぎると悪の跋扈を許すことになる

ZARAというのが何の会社か知らないが、この社長の言葉は一面の真理を突いているとは思う。しかし、戦うべき時に戦わないのを「優しさ」とするのは違うのではないか。これは「柔弱」と言うべきではないだろうか。もちろん、「優しさ」という言葉を使うからこそ、この「個人としての優しさが集団としての残酷さを生む」という逆説の面白さが生まれるのであり、レトリックとしては面白い。そういう「社会の変態的なメカニズム」への明確な意識を持たせるにはいい言葉である。
優しさとは「臆病さ」の美名でもあるわけだ。「優しい男はモテない」というのは、女が男の「優しさ」の本性を知っているからかもしれないwww

別記事で書こうかと思うが、男の魅力というのは「思ったことを堂々と実行する」という、ある意味、「正直である」ことと「勇敢さ」が一番なのではないか。直情径行とも言う。間違ったら間違ったでやり直せばいいだけだ。賢い人間は計算が先に立って、損得勘定で行動するから「何もやらない」人生になるわけだ。もっとも、正直さだって損得計算でプラスになるから人生方針として採用できるのである。嘘つきは(物質的利益を得る以外には)たいていロクな人生を歩んではいない。土方や人夫の中には竹中平蔵や橋下徹の何千倍も立派な人間がたくさんいる。中には聖人のような人もいる。


「和をもって貴しとなす」というのが日本人に共通する精神だとは言えるだろうが、それはその気風を利用して悪事を行い権力を維持する連中の跋扈を許す精神風土でもある。
私なども、無名だからこそ堂々と権力やその周辺者の悪事への批判ができるが、顔出しだと何も言えない弱虫にすぎない。だが、SNSでの「権力悪批判」「社会悪批判」程度でもけっこう勇気が要ることなのである。私の言葉に理があれば、偶然にそれを目にした人の心の片隅に何かの影響が残る可能性もあるだろう。言葉の力を私は信じている。

(以下引用)



昔ZARAの日本法人社長から言われた耳の痛い話を思い出した 日本人は個人だと優しいのに、組織になると冷たくて、社会になると、時として凶暴になるよな。なんでか判る?それは、優しいからだよ。 優しいから、闘うべきところで、黙るんだよ。そうすると、対案が産まれないし、抑止が働かない。


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タイムトラベルとノスタルジー

「ネットゲリラ」にタイムトラベルの話が出ていて、爺さん婆さんたちが若き日のノスタルジーに耽っていて微笑ましい。
まあ、SFの中で、特にタイムトラベル物は、なぜかノスタルジーを掻き立てるもので、傑作が多い。その中でも「毎日おかん」氏(常連の中で文章が珍しくまともであるwww)の言及している「ある日どこかで」(この邦題は好まない。原題どおり「時のどこかで」がいい。)は、タイムトラベルSF映画の最高傑作と言っていい。ラフマニノフの「パガニーニの主題による変奏曲」が実に効果的に使われ、画面がきれいで、主演男女も素晴らしい(男は「スーパーマン」の俳優だが、その後身体障碍者になった。女は古風な顔立ちの美女で、役柄に実に合っていた。)。
そのほかにも、タイムトラベル物のSF小説・映画・ドラマは傑作が多いのである。「時を駆ける少女」は筒井康隆の原作より、映画(大林宣彦による最初の映画化。私はこの監督は「あざとい」のであまり好みではないし、意図的に安っぽくしている特殊効果も嫌いだが、この映画は青春の哀歓が観客によく伝わる。一番上手い演出は、実はラストの「おまけ」部分である。原田知世はこの一作で映画を引退していたら伝説の女優になっただろう。)やアニメ(細田守監督の実質デビュー作で、彼の最高傑作。彼は次作の「サマー・ウォーズ」からどんどん下降しているww)のほうがいい。
なお、毎日おかん氏が言及している高畑京一郎の「タイム・リープ」は、前に娘に勧められて読んだが、傑作である。ジュブナイルである「時を駆ける少女」をもう少しハードSFに近づけた感じか。
現在、「夏への扉」が邦画で実写映画化されてなかなか好評のようだが、無理に欧米作品を日本舞台でやるより、「タイム・リープ」を実写化したほうが良かったのではないか。そもそも「夏への扉」は小説だからこそいいのである。読者の想像が広がるからだ。基本的に一人称で書かれているから、読者は主人公と感情が一体化するわけだ。まあ、「夏への扉」の知名度と「タイム・リープ」の知名度は比較にならないだろうが、後者はもっと知られていい。
古典映画では「ジェニーの肖像」などもお勧めである。SFXが未熟な時代の作品だから、主演女優が少女から成人女性までを演じるのが「きつい」が、それ以外ではロマンチックそのものだ。


(以下引用)

 以前にも書かせていただきましたが、私が選ぶタイムリープものナンバーワンは、高畑京一郎作「タイム・リープ あしたはきのう」ですね。体言止めの多用に最初こそ眉をひそめましたが、ストーリーにぐいぐい引っ張られて夢中になって読みました。


 未来から来たタイムトラベラー、という設定とは趣を異にしますが、スペイン映画「熱愛」A LONG RETURNING/LARGO RETORNO(1975年)が子供の頃にテレビで見て、しびれました。



『難病のため死を目前にした愛する妻を、治療法が見つかるまでコールド・スリープさせる事にした夫。40年後、当時のままの姿で目覚めた妻に、年老いた夫は会うことをためらってしまう……。冷凍睡眠をテーマとした、スペイン製の異色SFラブ・ロマンス。』(ヤフー映画解説より)


 一言でいうなら40年の時を経てお爺ちゃんになった夫と若々しいままの妻との再会を描いた映画です。


 この逆パターンとしては、クリストファー・リーヴ、ジェーン・シーモア主演「ある日どこかで」(Somewhere in Time 1980年)が良い出来らしく、「観るたびに号泣するの~」という男友達の言葉につられて昔DVDを購入しましたが、封を切らないうちにワープしちゃったらしくいくら探しても見つからないざんす。



「ある日どこかで」は傑作ですよ


この監督の最大ヒット作が「ジョーズ2」てのが何とも・・



 ありがとうございます。
 youtubeに書き込まれたコメントに胸を打たれ、早くも泣いております。
 何としてもDVDを見つけて鑑賞します!



 


 ~ある日どこかで Somewhere in Time テーマ曲と名場面~


https://www.youtube.com/watch?v=Fxx-0WApzF4


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西村ひろゆきの功罪

西村ひろゆきによる「位置エネルギーは存在しない」理論がどういうものか、一応、本人が説明しているようなので、引用しておく。途中で出て来る「質量保存の法則」と「位置エネルギー」がどう関係するのか、私は物理は極度に苦手なのでよく分からないが、位置エネルギーが、成層圏(と言うより当該惑星の引力範囲だろうか)を越えたらゼロになる、ということを疑問に思うのは、悪くない視点ではないか。(ひろゆきを嘲笑していた東大教授だか准教授だかもその点は認めているようだ。)まあ、よく分からないが、ひろゆきは「位置エネルギー」と「運動エネルギー」をごっちゃにしている感じがある。しかし、位置エネルギーと引力限界の相克というのは、学校の先生があまりきちんと教えていないところではないか。
要するに、位置エネルギーというのは、引力圏内での話であり、該当物体が引力の中心に向かって「落ちていく」ことが前提だろうから、引力範囲を超えると位置エネルギーはゼロになる、というのは不思議でも何でもない、という話だろう。ちなみに、高度が高くなればなるほど位置エネルギーは大きくなるが、それが現実のエネルギーになるのは、それが落下する中で重力加速度によって速度がどんどん激大になる、つまり位置エネルギーが運動エネルギーに変わると見做すのだと思う。位置エネルギー自体は本質的にはエネルギーではない、というひろゆきの「直感」はある意味正しい気がする。

教師が言うから絶対に正しいとは中学生時代から思わなかったというところにひろゆきのひろゆきたるゆえんがあるようだ。ただ、レスバトルにおけるひろゆきは詭弁の塊なので、彼を信奉する若者や子供に悪影響を与えている。
私自身は、ひろゆきというのは「民事裁判に負けても逃げ続けていれば賠償金を払わなくてもいい」という驚天動地の事実を天下の人に教えたという点では或る種の偉人であり、偉大な犯罪者だと思うが、犯罪者を政府やマスコミが重用し始めたのは大問題だと思っている。


(以下引用)
8: 風吹けば名無し 2021/08/11(水) 18:06:02.12 ID:LdTFZdeYd
■ひろゆき位置エネルギー書き起こし

位置エネルギーって言う 中学1、2年の時にやるやつで
僕、位置エネルギーすごい嫌だったんですけど
あの 要はその 高い所にあるモノは その、要はココにあるモノとココにあるモノ
こっちの方が高い所にあるので落ちた時に、そのダメージがでかいと
要は「高い所にあるモノは位置エネルギーがある」っていう「表現」があるんですけど あれ嘘なんですよ!虚数と一緒で(ここで水を飲む)

要はその あの~「エネルギー=質量?速さ・・の二乗」っていう
要はエネルギーっていうものは必ず質量に変換されたりっていうのがあってエネルギーって突然ゼロになる事はないんですよ
ところがどっとい位置エネルギーって、じゃぁ・・ま 今、この高さの問題でいいましたけど
で これがどんどん上がっていったら そのうちその宇宙にまで行っちゃうじゃないですか
で 宇宙に行った瞬間にその玉はもう落ちてこないんですよ

要は宇宙ギリギリまで成層圏とか上がると落ちてきた時はメチャメチャエネルギーでかいんですよ
ただめちゃめちゃエネルギーでかいんですけど成層圏超えて宇宙まで行っちゃうと突然落ちてこなくなるからエネルギーゼロになるんですよ
これ質量ブフ笑 (大体その)笑 エネルギーゼロになっとるやん笑 っていうのが
要は今までの質量保存の法則と合わなくなるんすよ笑

だ、その、要は、物理学上質量保存の法則っていうのと矛盾するから位置エネルギーって本当は存在しないんじゃないの?っていう話なんですけど
ただ 位置エネルギーが存在するっていう風に~計算したほうが計算しやすいモノがあるんですよ(ここで水を飲む)

(コメントを見て)そうす 宇宙は無重力なので 要はド、、その高さっていう概念が突然なくなってゼロになるんすよ ま 重力もゼロになるんでね はい笑 
(コメント それはまだ証明されてないかな)そうすね笑 なので宇宙まで行って飛び降りてみるといいんじゃないでしょうか笑

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ティエリー・ド・ブルンホフのピアノ

今は素晴らしい時代で、ユー・チューブでいくらでも検索でき、あまり有名でもなさそうなピアニストを何となく聞いてみると、思いがけない拾い物になることがある。
この、ティエリー・ド・ブルンホフのショパンは、お勧めだ。

Alexandra Zarember
These are astonishing performances of Chopin’s Nocturnes, performed with the subtle discernment that Chopin preferred. The dynamics, tone, quality, subtlety, modesty, close reading of the score but very sophisticated (as opposed to academic). These are the ever elusive perfections one who plays Chopin is always searching for. I’m fascinated by his tone - just incredible. Chopin said that in the end it’s playing the music with a simplicity of style - whereby all the great many notes are synthesized into a calm, tasteful style,, with proper legato, no banging and no vulgar flourishes or excessive adornments. Thierry de Brunhoff was so brilliant.
Jojotonks
Such beautiful and sensitive playing. The music sings as if it were playing itself. Thierry de Brunhoff and Chopin are getting me through the long hours of the night when I can’t sleep after a heart operation.   It seems so sad that he became a monk at a young age, and deprived live audiences of his gifts. Perhaps he had recorded all he wanted and his God was obviously more important to him. I like the story told below of an organist who became a monk, then realised his talent was a gift from God that should be shared.



(以下引用)



ティエリー・ド・ブルンホフ

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ティエリー・ド・ブルンホフ(1934年11月9日生まれ)は、フランスのピアニストでベネディクト会の僧侶です。

歴 [編集]

ティエリー・ド・ブルンホフはジャンセシル・ド・ブルンホフの息子で、ババルゾウのクリエイターであり、ローラン・ド・ブルンホフの弟です。


11歳の時にアルフレッド・コルトーからピアノのレッスンを受け始めました。彼が何度か証言したように、それは彼に最大の音楽的影響を与える人格です:


「私は彼にすべてを借りている、私が臆病になることができるすべてのもの、私は彼のおかげです」または「彼は別の世界ではなく、世界の中心にあなたを連れて行った[.]自分を乗り越えるのに」


その後、エドウィン・フィッシャーの教えに従い、10年以上にわたりエコール・ノーマル・ド・ミュジーク・ド・パリ教師になりました。彼の生徒の中にはヒュセイン・セルメットがいました。


彼はショパンシューマンの解釈で特に知られていますが(この最初のマスター、コルトーの非常に深いマークの一つ)、彼のレパートリーはベートーヴェンからドビュッシー 、ラヴェルまで、カール・マリア・フォン・ウェーバーを通じて非常に広いです。


しかし、彼の好みはショパンに行きます, 彼はこれらの用語で賞賛します:


ピアノはショパンです。彼は歌の可能性とピアノの音の宇宙を最もよく理解している人でした。


1974年、彼はタルン部門エンカルキャット修道院[fr]僧侶として引退しティエリー・ジーン兄弟になりました。この点に関して、彼は2004年にロドルフ・ブルノー=ボルミエへの手紙で宣言しました:[2]


もし神が存在するならば、あなたは飛び込んですべてを与えなければならなかったと私には思えました。私にとっては子供の頃からすべてを含んでいたので、すべてを与えるためにも音楽を与えるものでした。それは私の宇宙、私の呼吸、私の言語、他の人との交わり、自己の贈り物でした。神は、私たちが神を愛するのを待つために、同時に同時にすべてを封じ込めるために、それ以上のもののように思えました。この神への期待は私にとって決定的なものでした。 [3]


彼はまた、マリア・カラスの大ファンでした.


ピアニストでラジオプロデューサーのフィリップ・カサードは、2008年から2015年の間にフランス・ミュジークのティエリー・ド・ブルンホフにいくつかの一連のプログラムを捧げました。




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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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