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「あしながおじさん」と社会主義

昔は、今もそうかもしれないが、大学受験用に英文学の英和対訳本というのがよく使われていて、私の場合は多分長兄が使ったと思われるそれで、和文訳のところだけを読むのが小中学生のころの娯楽だった。それで読んだ中には「トワイス・トールド・テールズ」や「スケッチ・ブック」などがあり、前者の中の「人面の大岩」など、後で小学校国語教科書の中で再会して驚いたりしたものだ。また、「スケッチ・ブック」の中には「リップ・バン・ウィンクル」の話、「スリーピー・ホロー」の話などもあったと思う。もっとも、どちらの本に載っていた話かは混同しているかもしれない。少なくとも、日本の普通の小中学生は知らない話を、こうした英和対訳本で知っていたのは、年の離れた長兄を持つことのメリットだった。
さて、以上は前置きで、本題はここから。
そうした英和対訳本の一つに、「ダディ・ロング・レッグス」つまり、「あしながおじさん」があり、私が社会主義という思想に肯定的な気持ちを持ったきっかけが、あるいはこれかもしれないのである。「あしながおじさん」は児童書にも分類されるくらいだが、内容は必ずしもそうでもない。大人が読んでも十分以上に楽しい作品であり、児童書に分類されるのは、子供でも読める健全な娯楽性がある、というだけのことだ。実際、この作品の主人公は大学生であり、児童書の主人公とするには年齢が高すぎるだろう。
さて、また話がわき道に逸れた。この作品の中に出てくる社会主義の話である。
主人公ジュディを大学に進ませ、学ばせてくれる正体不明の慈善家が「あしながおじさん」だが、その正体がジャーヴィス・ペンドルトンという青年紳士である、というのは別にネタバレというほどでもないだろう。別に、ネタバレで話がつまらなくなる類の小説ではない。そのジャーヴィスに主人公のジュディは好意を持つのだが、彼についてジュディは「あしながおじさん」への手紙でこう書く。(それを読むのが実はジャーヴィス本人になるわけだ。)

Julia's mother says he's unbalanced. He is a Socialist--except, thank Heaven, he doesn't let his hair grow and wear red ties. She can't imagine where he picked up his queer ideas; the family have been Church of England for generations. He throws away his money on every sort of crazy reform, instead of spending it on such sensible things as yachts and automobiles and polo ponies. He does buy candy with it though! He sent Julia and me each a box for Christmas.
 You know, I think I'll be a Socialist, too. You wouldn't mind, would you, Daddy? They're quite different from Anarchists; they don't believe in blowing people up. Probably I am one by rights; I belong to the proletariat. I haven't determined yet just which kind I am going to be. I will look into the subject over Sunday, and declare my principles in my next.

訳本が無いので(今持っているのは英語原文のものだけ。)私が適当に訳しておく。

「ジュリアのお母様は彼(ジャーヴィス)を偏向していると言っています。彼は社会主義者だと。幸いにも、髪を長く伸ばしたり赤いネクタイをつけていないだけで。いったい彼がどこでそんな妙な思想を拾ってきたものか、彼女には想像もできないのです。この一族は代々の英国国教徒ですから。彼(ジャーヴィス)はあらゆるキチガイじみた社会改革に自分の金を投げ出し、ヨットとか自動車とかポロ用の子馬だとかに金を使うという(金持ちにふさわしい)思慮深いことをまったくしないのです。でも、彼は御自分のお金をキャンディに使ったりもするのですよ。ジュリアと私はそれぞれ一箱ずつ、彼からのクリスマスプレゼントとして貰ったのです。
ご想像のとおり、私もたぶん社会主義者になると思います。お気になさいませんよね。それとも、おじさま、気になさいます? 社会主義者と無政府主義者はまったく違います。彼らは人々を爆弾で吹っ飛ばしたりはしませんわ。たぶん、私はプロレタリアート(無産者階級)として生まれついた権利からしても社会主義者になるべきでしょう。私はまだどういう方向に進むか心を決めてはいません。この問題を次の日曜日にじっくり考えて、次の手紙で私の方針を宣言したいと思います。」

 で、その「宣言」が次のものである。

Dear Comrade,
 
 Hooray! I am a Fabian.
  That's a Socialist who is willing to wait. We don't want the social revolution to come tomorrow morning; it would be upsetting. We want it to come gradually in the distant future, when we shall all be prepared and able to sustain the shock.
 In the meantime we must be geting ready, by instituting industrial, educational and orphan asylum reforms.

                                    Yours, with fraternal love,
                                                                Judy

(親愛なる同志よ

万歳!私はフェビアン主義者です。
これは喜んで待つという主義の社会主義です。我々は社会革命が明日の朝起こることを望みません。それでは大混乱になるでしょう。我々は社会改革がゆっくりと進み、遠い将来に、革命に対する準備が整い、衝撃に耐えられるようになった時に革命(根本的社会改革)が起こることを望みます。
  当面は、我々はそれに備えて産業を興し、教育や孤児院の改革を行っていくべきでしょう。

            友愛をこめて
                  あなたのジュディより)





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「夢の高校」考

夢の高校について考えてみたものを下に転記しておく。末尾の二つの校則は、冗談ではない。「性と暴力」は人間の二大衝動であり、教育の大きな二つの障害である。これを認めたら、教育は不可能になる、と私は考えている。少なくとも、学校内にセックスと暴力は持ち込まない、ということが重要である。もちろん、恋愛禁止、ではない。それは禁止して禁止できるものではない。




「夢の高校」考




「夢の高校」の具体的内容を考えてみる。



まず、基本コンセプト(広告業界では単に「コンセプト」と言うようだが、コンセプトは「概念」の意味だから、「中心的コンセプト」か「基本コンセプト」と言うべきではないだろうか。)から。



1)これまでの、「大学入試」だけのために存在するような、学力向上あるいはテスト能力向上のみを目的とする高校、あるいは運動部による売名で生徒集客のみを目的とする高校ではなく、生徒自身がそこに通うことが喜びでありつつ、社会で生きていく能力を増大させられる高校。



2)教師主体ではなく、生徒主体の学校。つまり、教師はあくまで生徒活動の補助と、一部の専門的分野での講義を主とし、その他の生徒活動にはほとんど口を出さない。同様に、生徒も教師のプライベートに口を出さない。基本は生徒の自学自習である。



3)教科内容は大きく二種類あり、第一種はこの高校だけで終了する教科、第二種は大学での勉強につながる教科。後者のための「受験教科」も第二種に含む。つまり、大学入試を完全に無視するわけではないが、基本的には、高校の学習は高校で終了、とする。受験対策は、一部の希望者のみが対象となる。



ここから、詳細内容に入る。



1)第一種の教科はだいたい次のようなものを考えているが、追加や削除は随時行う。



イ:身近な法律(道交法、住民登録その他の登録義務、民法の一部、その他)


ロ:身近な経済(税、公共料金、保険、銀行、会社の基礎知識、その他)


ハ:芸術(楽器演奏、美術実技、文芸実作、書道実技、茶道、その他)


ニ:自動車(特殊車両含む)運転


ホ:家庭科(大工仕事、工作、電気系修理技術、裁縫、手芸、料理、その他)


へ:体育(純粋体育、各種スポーツ、各種武道)


ト:ヘルスケア(栄養学、身体機能学、初歩の生理学、基礎の生物学、市販薬の知識、その他)


チ:情報リテラシー(スマホ、パソコンその他の情報機器の取り扱い方とネットの注意など)


リ:災害対策常識(災害救助、応急処置、サバイバル、その他)


ヌ:身体表現(発声法、演技、ボイスコントロール、メーキャップ、衣装知識、その他)


ル:外国語(エスペラント、英語、中国語、その他)


ヲ:政治学(歴史含む)



2)第二種は現在の高校の授業内容とほぼ同じなので省略。



3)時間配分は、1日に第一種2コマ、第二種2コマの各50分4コマが基本。午後は課外活動、クラブ活動、もしくは自由。土日は授業無しだが、学校は使用可。(3年間、午後は野球だけでも図書館に入り浸りでもピアノばかり弾いていたでも可)



4)校則1「校内でのセックスは禁止」(笑)この種の高校で、これを認めたら風紀退廃は確実。



5)校則2「身近な他者への嘲笑と愚弄、暴力を禁ずる」。目に余る校則違反者は退学。べつにこの高校はDQNの救済機関ではなく、一般の子供の全的な能力を伸ばすことを目的としている。





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ホリーよ、正しく進め

昼間から酒を飲んで、いざ眠ろうかと思うと眠れないので、あれこれ物思いに耽っているうちに、なぜか「ティファニーで朝食を」の映画のことを考え出し、その連想で「ムーン・リバー」の歌詞のことを考え出して、なお眠れなくなったので、起き出してこのブログを書いている。
その前に考えていたのが、処女性というものについての男女の価値観の落差という問題(これはあきれるほど巨大な落差がある。)で、それは、「ティファニーで朝食を」の主人公、ホリー・ゴライトリーが、まだ物心のつかない少女のうちに、やむなく結婚を強いられ、(つまり本人の意思からではない処女喪失をし)その後、夫を捨てて都会に出てアマチュア娼婦として生きてきた、ということへの連想につながったのである。
また、トルーマン・カポーティがホリー・ゴライトリーのイメージとしていたのは実際の主演女優のオードリー・ヘップバーンとは正反対のイメージのマリリン・モンローで、彼女自身、少女時代に不幸な処女喪失の体験をし、ハリウッドデビュー前には田舎の冴えない男と結婚していて、それを捨ててハリウッドに出て世界的なスターとなったという、まさに映画界デビュー前の過去だけを見ればホリー・ゴライトリーそのものである。そして、ハリウッドに行っても、娼婦同然の生活をしているうちに、運よく映画デビューして世界的な大スターになったわけだ。彼女が映画でセリフのある役を貰った時の言葉が、「これからは役を貰うためにプロデューサーにフェラチオしなくても済むのね」だったという。
そうしたマリリン・モンローの実際の生涯と「ティファニーで朝食を」のホリー・ゴライトリーを重ねて見ると、この映画は苦い陰影を帯びてくる。
なお、「ホリー・ゴライトリー」は「ホリー」が「聖なる」で、「ゴライトリー」は「ゴー・ライトリー」つまり「正しく進め」である、というのが私の解釈だ。
つまり、「世界のホリーたちよ、理不尽な運命に負けず、正しく進め」という、トルーマン・カポーティのエール(声援)だろう。正しく進め、とは「自分で自分を抑圧せず、自由に生きろ」ということである。
ついでに、小説と映画の相違を述べれば、小説でホリーが歌う歌の歌詞は

「眠りたくなし
死にたくもなし。
ただこの大空の広い牧場を
旅していたいだけ」


だったと記憶している。小説の英語版は家のトイレにあるが、調べるのも面倒なので記憶のままで書いておく。
で、映画の中でオードリー・ヘップバーンが歌うのが、かの有名な「ムーン・リバー」である。
これも、ホリー・ゴライトリーの内面世界をうまく描き出した名曲だと思う。

英語がまったく駄目、という人のために私がいい加減な訳をしておく。


月の河よ、1マイルよりも広い河よ
私はお前を洒落た身なりでいつの日か渡ろう
古い夢を紡ぐもの
君よ、我が心を破るもの
お前の行くどこへでも
私もついて行こう

二つの漂流物
世界を見るために岸を離れた二人
世界にはこんなにも見るものがたくさんある
私たちは同じ虹の脚を追っている
曲がり角で待っているのは
ハックルベリー・フィンのような仲間
月の河、そして私



(補足)今朝になって確認してみたら、ホリー・ゴライトリーは「Holly Golightly」なので、「正しく進め」ではなく「光の中を歩め」とするべきかもしれない。まあ、どうせ酔っ払いの書いた文章だから、今さら訂正するのも無意味だが。なお、ホリーの外面描写はまさにオードリー・ヘップバーンであり、トルーマン・カポーティはマリリン・モンローの前半生をモデルにし、キャラクターの外面はわざとM・Mと正反対に変えて書いたのかもしれない。



ムーンリバー(Moon River)
Words by Johnny Mercer /Music by Henry Mancini (1961年)





Moon river, wider than a mile
I'm crossing you in style some day
Old dream maker, you heart breaker
Wherever you're going
I'm going your way

Two drifters, off to see the world
There's such a lot of world to see
We're after the same rainbow's end
Waiting round the bend
My huckleberry friend
Moon river and me

(Refrain)







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「この世界の片隅に」予告編ができた

こうの史代の「この世界の片隅に」は、以前に実写ドラマ化されたらしいが、私は見ていないし、たぶん見ないほうがいいような気もする。あの超名作の原作漫画に対して、実写ドラマ版の評判が少しも聞こえてこないのは、失敗作だったからだろう、と思うからだ。例によって大手芸能プロの若手クズタレントを使っていい加減に作ったドラマではなかったか。(見もしないでいい加減なことを言うのは良くないが、こういう傑作をドラマ化する時は、絶対に失敗してはならない、というのが「原作に対する責任」なのである。)
で、今回のアニメ化だが、これは成功していることを今から予言していい。それは予告編を観るだけで分かる。監督が、あの「マイマイ新子」の監督であることも、信頼できる理由だ。映像は、原作のタッチを見事に生かしていることも、予告編で分かる。
ただ、残念なのが公開が来年2016年であることだ。
「戦争法案」が論議を呼んでいる今、この夏こそ、この映画が公開されてほしかった。そうすれば、多くの人がこの映画を見て、庶民にとって戦争とは何か、戦争は戦場の殺し合いだけにとどまらず(いや、最前線だけが戦場ではなく、国家全体が戦場となる、と言うべきか)「銃後の暮らし」をどのように変えるかを考えるきっかけになっただろう。
で、アニメ公開は来年まで待つしかないが、原作漫画はいつでもどこでも手に入るはずだから、ぜひ多くの人が手に取ってほしい。けっして暗い反戦漫画ではなく、ユーモアと詩情に満ちた作品でもあるのだから、真面目な作品が苦手な人(私もそうである。)も敬遠する必要などない。とにかく、日本漫画史上に残る名作なのである。


(以下「椎名高志ツィッター」から引用)



椎名高志 @Takashi_Shiina 9時間前

こ、これは素晴らしすぎてアカンやつ・・! RT ついに動いてるすずさん観られた!!す……素晴らしい……早く完成した映画が観たい…………༼;´༎ຶ ۝ ༎ຶ༽ 映画「この世界の片隅に」特報1








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新しいものと古いもの


「dot」というサイトから転載。
中国人が、日本人が書いた中国史を読んで面白いと思うのは当然で、それは中国史そのものが面白いからだ。では、なぜそれまでは「面白い中国史」が中国内に無かったか、と言えば、おそらく毛沢東の「文化大革命」以来の「過去の文化との断絶」が、今に至るまで続いていたからだろう。
これは中国だけの話ではない。この日本でも、太平洋戦争の敗戦によって「過去の文化との断絶」が起こり、戦後の教育と欧米支配の文化の中で育った人間はもはや精神の中身がそれ以前の日本人とは違っているのだ。
問題は、「失われた文化の中の貴重な財産」をいかにして再発見し、取り戻していくかだろう。新しいもののすべてが良いわけでもないし、古いもののすべてが悪いわけでもない。それどころか、弊履のごとく捨てられようとしている古いものの中にこそ本当に貴重なものが膨大にある、というのが私が自分のブログの中で何度も言っていることだ。そういう意味では私は「保守主義者」でもある。
で、「新しいもの」は常に「商売」とセットになっており、金になるから誰でも飛びつく。古いものはほとんどタダでその辺に転がっているから誰も目にも留めず、やがて消えていく。(あるいはひそかに発掘され、形を変えて「新しいもの」として再生され、その時には著作権や所有権が発生し、庶民全体の財産ではなくなる。)民俗学者などがそれに僅かに抵抗するだけである。
資本主義とは金がすべてという社会だから、その雄であるアメリカ文化が金と直結する新しいものだけに価値を置き、老人まで無理に若作りするキチガイ文化であるのは当然である。その属国、文化的植民地である日本の文化も然り。



(以下引用)




「日本人が書いた中国史」が現地で大人気 その理由は


(更新 2014/6/25 07:00)

 




講談社の100週年記念事業として出版された『中国の歴史』。「第三者」の視点が評価され、日本以上の反響を中国で起こしている(写真:講談社提供)

講談社の100週年記念事業として出版された『中国の歴史』。「第三者」の視点が評価され、日本以上の反響を中国で起こしている(写真:講談社提供)




「歴史」が日中のいさかいの原因になって久しい。両国関係の冷え込みも続く。ところが、日本人が書いた中国史の翻訳本が、なぜか中国で売れ行き好調だ。

 10年ほど前に日本で刊行された『中国の歴史』(講談社)という骨太のシリーズ。中国で翻訳出版されたところ、執筆者や出版社がびっくりするほどの売れ行きを見せている。

 同シリーズは全12巻。筆者は原則、時代ごとに専門家1人が1巻を担当。例えば8巻は『疾駆する草原の征服者―遼 西夏金 元』といったように従来の通史にない魅力的なタイトルをつけた。ただ、日本では1冊3千円近い価格ということもあり、実売は各巻平均で1.5万部程度だった。

 一方、中国版の出版元によれば、1冊50 人民元(約820円)弱という、中国ではかなり高めの価格設定にもかかわらず、今年1月の刊行から何度も増刷を重ね、現時点で6万5千セットに達し、年内に10万セットまで届きそうな勢いだという。

 自らの歴史に高いプライドを持つ中国で、外国人が書いた中国史に人気が集まるのは極めて珍しい。上海の日刊紙「東方早報」は「最近の図書市場で最もホットな出来事は、日本学者が書いた『中国の歴史』だ。国内の読者は、なぜ国内の一流の学者がこうした本を書かないのか考えてしまうに違いない」と、この現象を取り上げた。

 シリーズ編集委員を務めた学習院大学の鶴間和幸教授は「日本人の書いた中国史が、中国人にも共有され、とてもうれしい」とし、「中華思想的な『中華対夷狄』という対立軸でなく、多元文化の集合した中国という視点で執筆したことが、従来の中国人が書く通史とは異なっていたのではないか」と語る。

AERA 2014年6月30日号より抜粋


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南米の異常気象と「地軸の傾きの変化」

「in deep」から転載。
私の意見は、これらの異常気象の原因は、太陽に対する地球の地軸の傾きが変わった(変わりつつある)ことによる、というものだ。地軸が傾けば、地球各地の日照量の分布も変わり、上昇気流が起こる位置も変動し、大気の大きな流れも変わるのが当然であり、気象変化も当然だろう。要するに、地殻変動が大地震を起こすのにも似たことが大気に起こっている、ということである。エルニーニョがどうだとかこうだとかいうのは些末な問題にすぎない。
これは大変な事態であり、それに対して全地球的な取り組みをすべきなのである。地球温暖化など、これに比べれば(地球温暖化が事実であると仮定しても)些末も些末、まったく問題にもなりはしない。
そもそも、地球が温暖化して誰が害を蒙るのか。人類の居住範囲が増え、生活環境も良化し、いいことばかりである。いったい、冬と春夏秋とどちらが住みやすいか、考えるまでもないことだろう。人類が寒さとの戦いにどれだけのエネルギーを費やし、どれほどの消耗をしてきたかを考えれば、地球温暖化論など愚劣すぎて考慮にも値しない。(地球温暖化で極地の氷が溶けて、一部では寒冷化や異常気象が起こる、などという怪しげな論も私には馬鹿馬鹿しい。)
要するに、「思いもかけない異常気象が起こる」ことがこれからは「当たり前に」起こる、ということが分かっていれば、対策はできる、ということである。そして、対策をしなければならない、ということだ。「これまではほとんど起こっていなかった」ことが、気象に関しては今後は起こりうる、という想定の下で生きて行くべきだろう。現在は主に赤道周辺で異常気象が頻発しているだけだが、温帯地方も無関係というわけにはいかない。いや、規模的には小さくても、この日本でも幾つかの異常気象が近年起こっていたはずである。
まあ、地球温暖化詐欺は「二酸化炭素排出悪玉論」で原発推進とセットだから全世界的に行われてきたわけだが、「地軸傾き異常気象原因論」では金儲けにつながらないから、おそらくこの論は日の目を見ることはないだろう。


(以下引用)



というわけで、ここから本題です。

今、南米が何だかものすごいことになっていて、それを少し前からご紹介しようと思っていました。




エクアドルとコロンビアに現れた「氷の世界」

とりあえず、今回ご紹介する場所と出来事を地図で示しておきたいと思います。

south-america-03b.gif
Google Map



コロンビア・ボゴタ

南米コロンビアの首都ボゴタの「雹(ひょう)での壊滅的な被害」に関しては、

コロンビアの首都ボゴタを信じがたい雹(ひょう)嵐が襲い、洪水と建物被害で緊急事態発令
 2015年03月26日

という記事でもご紹介しましたが、その後、ネットに新たな写真が次々に投稿され、ボゴタの状態がすさまじいものだったことがわかります。冒頭の写真や下の写真も、その時の様子の一部です。

bogota-hail-2.jpg
Feet of Hail on the Equator in Colombia and Ecuador

コロンビアでの報道では「 60センチの雹が積もった」とありましたが、写真を見ると、場所によっては、それを越えている感じがします。



エクアドル・キト

この「とんでもない雹」は、2月の中旬に、コロンビアのお隣のエクアドルの首都キトでも降っていました。

quito-1.gif

▲ 2015年2月16日のエクアドル・タイムズより。


上の報道写真の後ろのほうにいる若者らしき人たちの格好を見ていただきたいんですが、半袖とか半ズボンとかで、その時の大体の気温が察せられます。

quito-02.jpg


雹はどちらかといえば、夏に近い季節に降りやすいものですので、上のような格好も不思議ではないのかもしれないですが、この降り方は壮絶すぎ。

そして、さらに南に行き、チリの「世界で最も雨の降らない地域」で起きたこと。



チリ・アタカマ砂漠

このチリのアタカマ砂漠というのは、

アタカマ砂漠 - Wikipedia

アンデス山脈と海岸の山地によって湿った空気が遮断されているため世界でも最も乾燥した砂漠であり、40年間まったく雨が降らなかった地域もある。

という場所です。

3月25日、そのアタカマ砂漠が「信じられない豪雨」と「大洪水」に見舞われるという、有史時代で起きたことがないのではないか、というようなことが現実に起きています。


流されそうになっている少年を助けようとする男性
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▲ 2015年3月27日の英国 BBC ニュース Peru & Chile devastated by flood torrents より。


洪水で破壊された町
atacama-floods-01.jpg

▲ 2015年3月26日のユーロ・ニュースより。


この洪水は雨によって起きたものですが、

7年間分の雨量に相当する雨が 12時間で降り落ちた

のだそうです。

多分、このあたりの人々は水不足を考えることはあっても、「洪水対策」などは考えたこともなかったはずで、多くの家、橋、道路などが破壊され、3月25日の時点で、7名の方が亡くなっています。

そして、ブラジルでは中央部のパラー州イタイトゥバという町で、豪雨による洪水で道路に巨大なシンクホールが突如開き、そこにバスが転落する瞬間が映像に収められています。

bus-brazil-01.jpg

euronews

この事故は、事前に運転手が異変に気づき、乗客を全員バスから降ろしましたので、全員無事でした。しかし、バスはそのまま川へ流されていきました。

下がユーロ・ニュースの映像です。




これらのあまりにも激しい気象そのものも壮絶なのですが、しかし、「何かおかしい」と思うのは、例えば、そもそも、チリとブラジルで現在問題となっているのは、「圧倒的な水不足」なのです。

ブラジルの一部では、そろそろ深刻な事態となる日が迫っています。

brazil-water-shortage.gif

▲ 2015年03月17日の記事「ブラジルで続く深刻な干ばつにより、首都サンパウロで6月にはすべての水が枯渇する可能性を政府が発表」より。


上の記事で、米国 RYOT の報道を翻訳しています。

抜粋しますと、


米国カリフォルニアの干ばつのひどさは、 NASA の科学者たちが「あと1年しか水はもたない」と推定しているほどだが、ブラジルのサンパウロはもっとひどい。

サンパウロ州では、過去 80年で最悪の干ばつが発生している。

今の状況が続いた場合、サンパウロでは、6月頃に水がなくなるだろうと予測されている。そして、今から2年半はその状況が続くという。これは、ブラジル政府が独自に計算した推定値だ。

AP 通信は、「サンパウロ周辺の 2000万人へ水を供給する貯水池は、今年2月に驚くべき水量の低下を示し、現在は 8.9%しか貯水されていない」と報じた。

政府は、雨不足が継続した場合、事態はさらに深刻になる可能性があるという。

とありまして、極端な水不足、つまり「雨が降らないこと」が、まずは大きな問題のはずなのに、各地で先ほどのような信じられない規模の豪雨と大洪水が発生しているということに、「何かおかしい」と感じてた次第です。

まあ、「おかしい」も何も実際に起きてしまっているわけですから、その現実を認識するしかないのでしょうけれど。

そして、雹。

この雹というのは、以前から、とても「象徴的」な気象現象のような気もします。
何の象徴というような具体的な意味ではなく、「荒れること」に対しての代名詞としての感じ程度の意味です。




ますます過激になる雹

昨年の6月にゲリラ豪雨が雹となって、東京の三鷹市などに大量の雹が降ったこことが話題となったことがありましたが、今の南米の雹は、その積もった量が比較にならないです。

雹は、昨年くらいから「量が異常」なものとか「大きさそのものがすごい」という系の報道が多く見かけます。


2014年3月14日 エリトリアの首都アスマラ
eritrea-bighail2.jpg

▲ 2014年03月18日の記事「直径1メートル以上のヒョウ(というより氷爆弾)が雨あられと降り注いだエリトリアの光景…」より。



2014年7月2日 スペインのアルマサン


▲ 2014年07月04日の記事「アーサー王の名を持つハリケーンの襲来と共に始まった 2014年のアメリカ独立記念日…」より。



2014年7月14日 ロシアのウラル地方
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▲ 2014年07月16日の記事「気温40度の中に降った爆撃のような雹。そして、「世界の終わり」という地名がつくシベリアに突然開いた巨大な穴」より。


ところで、今回の記事の主要な舞台であります「南米」という場所は、何年か前から「地殻変動」の方で何度も記事に登場した場所でもあります。




地殻変動も劇的だった中南米

2011年1月の「原因不明の地割れと地滑りで破壊され「7日間で地図から消えた」コロンビアの町」という記事以来、南米から中南米では、下のような出来事が連続して起きました。

south-america5.gif

▲ 2011年07月22日の記事「中南米の「地殻変動ライン」: メキシコの地割れとグアテマラのシンクホールの位置」より。


2011年1月に「地殻変動で町が消滅してしまった」コロンビアのグラマロテという町の写真の中には、

「欠けた五芒星」が廃墟に浮かんでいる。

などというものがあったりしました。

下の写真がそれです。
建物と建物の間に浮かんでいます。

g-1-8d5bc.jpg

過去記事より。

これは、時期的にクリスマスの後くらいですので、おそらくは、クリスマスの装飾用イルミネーションが壊れたまま電線にひっかかった状態となり、このような光景が出現したと思われますが、それにしても象徴的な光景でした。

見ようによっては「欠けた五芒星が空から落ちてきた」ようにも見えたからです。

この五芒星というのは、五芒星 - Wikipedia によりますと、


Pentagram2.gif

図において、青の線分と赤の線分の長さの比、同じく緑と青の比、紫と緑の比は一定の値を取る。これは黄金比と等しい。

古くから黄金比で構成されている図形は美しいとされており、単純ながらも黄金比を数多く含む五芒星は美しい図形の代表格とされた。

ということで、五芒星というのは、「この世で最も美しいもののひとつ」ともいえるもののようなのですね。

そういうものが、町が消滅するという激烈な自然災害の現場に「欠けて浮かび上がる」という象徴性はいろいろと考えさせてくれたものでした。

いずれにしても、今の南米は(北アメリカもですが)非常に極端な気象に見舞われていると言っていいと思うのですが、では、こういうことが世界全体に波及していく過渡期にあるのかどうなのか。

たとえばですが、東京や大阪のような大都市に、ボゴタに降ったような、とんでもない雹の嵐が起これば、都市の機能は著しく損なわれると思われます。電気化や無線化などで高機能化した都市ほど、自然災害の影響は甚大になりやすいはずですので。

しかしまあ、そういうような可能性というのはあるのかどうかというようなことは、実は誰にもわからないのですよね。

最近の報道で、

「今年、ふたつのエル・ニーニョが発生するという経験をすることになるかもしれない」

というものがありました。

double-elnino.gif

▲ 2015年3月22日の PRI より。

こちらに関しては、まだ予測として曖昧な感じですので、今回はご紹介いたしませんが、仮に、そういうことが起きたとすると、

・異常に暑い地域
・異常に低い気温の地域
・異常に雨の多い地域
・雨がまったく降らない地域
・雹
・台風やハリケーン


などが、「同時に」いろいろな地域で、無秩序的に展開する可能性もあります。

それに加えて、今後は太陽活動が段階的に弱くなっていく時期ですが、太陽活動が弱まると宇宙線量が増え、雲の量が多くなるため、これも気温や気象に影響を与える要因になると思われます。

今の日本は比較的穏やかな天候が続いている地域が多く、私の住むブエノスアイレスでも(そうなのかよ)いや、所沢でも穏やかな日々が続いています。

まさに「絵に描いたような春」なんですが、こんなままの穏やかな日々がこれからも続いていくのかなあ、ということに関しては、どうも疑わしい部分もあります。

どうなりますかね。

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ロックの本質としての暴力性と攻撃性

「in deep」から抜粋転載。
私も前々から、ロックの特徴は暴力性と攻撃性だと思っていたので、「緊張」と「攻撃」を軸とした音楽だ、という筆者の言葉には同感する。オジー・オズボーンの言う、「暴力ではなく攻撃性だ」というのは詭弁に近い。耳に聞こえる音の感覚として暴力性と攻撃性の区別など無い。
しかしまた、彼の言う「攻撃性こそ成功の鍵さ」という言葉には納得するしかない。どんなに穏やかな人間に見えても、社会的に成功する人間にはどこかに攻撃性があるように思う。ただ、その攻撃性が何に向かうか、ということによって、成功の質、成功の仕方が違ってくるということではないか。自己の内なる他者と戦うこともまた攻撃性だとするならば、「克己心」は攻撃性であると同時に、ほとんどあらゆる成功への鍵だとも言えそうだ。
ただ、「外部の敵」への攻撃性は、当人を成功に導く確率は高いが、他者を不幸に陥れるものである。だから私はいつも競争主義を否定し、「勝つってそんなにいいことか」と言うのである。
で、最初の話に戻ると、ロックの特徴は暴力性と攻撃性にある、というのが私の考えであり、たとえその歌詞の中で平和や共感や同情や愛を歌っていても、その曲調そのものが歌詞の内容を裏切っていて、聞く人の中の暴力性や攻撃性を助長している、と思っている。まあ、あっさり言えば悪魔の音楽である。で、曲調としても暴力的でも攻撃的でもないロックがあれば、それは実はロックではないのである。
私は、世界の非人間化(残虐化)の一つの原因にロック音楽の蔓延があると本気で思っている。




(以下引用)


「 432Hz と 440Hz の比較」を体感してみました

というわけで、理屈ではいろいろと言われているものですが、実際にその音を聴き比べててみてどうなのか。

440Hz と 432Hz は、音の差だけでいえば、わずかです。

432Hz の方がやや低いですが、完全に別々に聞かされた場合、音に詳しい方以外は、どちらがどちらだか聴いてもわからない程度の差だと思います。

それについて、ギターの調律のAを 440Hz と 432Hz にして、比較している動画がありますが、これを見た(聴いた)時には本当にやや驚きました。体感でわかるのです。

オリジナルは、

440 hz vs. 432 hz - my guitar experiment

という動画ですが、一部だけでもぜひ聴き比べていただきたいですので、数十秒抜粋してみました。

本当に一瞬で気づくほどの差を多分、体感できると思います。

440Hz と 432Hz の差(アコースティックギター)


どうでしょうか。

体感の違いを感じられたでしょうか。

もちろん、人によって違うと思いますけれど、私の場合は、

432 Hz の音が鳴った途端、体の緊張が解かれる感覚になる

440 Hz では、一瞬小さなリキみのような緊張が走る

というのを一瞬で感じました。

何度聴いても、そのようになります。

いろいろと先に知識などを持って聴いているせいで、「構えて聴いているからかな」とも思いましたが、何度聴いても、そのようになりますので、体感への影響は多少なりともあると確信を持てます。

ただ、この違いを体感して思ったんですが、

仮に現在の世界の基準調律音が 432Hz だった場合、ロック音楽は生まれなかったかもしれない。

という思いにも駆られます。

ロックにも様々ありますけれど、その基本は「緊張」と「攻撃」を軸にした音楽で、上で体感できるような「 432Hz =リラックス」的な基本音とその倍数音が主体だった場合、パンクやハードロックなどの音楽は生まれにくかったように思います。

実際、ロックの発展の歴史と「 440Hz の採用の歴史」は、わりとリンクしていることがわかります。

その歴史に関しては、基準周波数A=440Hz って何?というサイトによりますと、432Hz は、19世紀にヴェルディが提言して、イタリア政府が公式に採用したところから始まったようです。


基準周波数Aが 432Hz から 440Hz へと移行した歴史

1884年 432Hz イタリア政府によって制定
1925年 440Hz アメリカ政府と団体によって制定
1939年 440Hz ロンドン国際会議によって制定

432Hz を葬ったのはアメリカ政府だったようです。

そして、その後、1953年に ISO (国際標準化機構)によって、440Hz が国際基準値として決められ、ここにおいて、すべての国の基本調律は 440Hz となりました。

ロック音楽が本格化したのは、ロックンロールがポピュラーとなった 1950年代からです。
こちらもまたアメリカで始まりました。

もう少し正確に書けば、「ロック時代」という概念は、一般的な見解では、1954年に発売されたビル・ヘイリーという人の「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がビルボードチャートで1位を記録した時から始まるとされていますので、1953年の 440Hz が国際基準値とされた直後から、ロック時代が始まったといえそうです。

ビル・ヘイリー / ロック・アラウンド・ザ・クロック( 1954年)



その後、世界全体として「ロック時代」に突入していきます。

まあ、私なんかもずっとロックを聴いていたわけですけど、ロックの種類もいろいろとありますが、基本的には確かに攻撃性の強い音楽ですので、若者も攻撃的になりやすくなる面は非常にあります。

ヘヴィメタル系の「悪魔的サイド」を売りにした中でのロックスターに、オジー・オズボーンという人がいますが、彼は昔、テレビで、


「音楽は暴力を助長しない。攻撃性を高めるものだ。そのふたつはまったく違う。良いことを教えよう。攻撃性こそ成功の鍵だ。それが、アメリカ流ってやつさ」

というようなことを言っていますが、440Hz 、ロック、攻撃性こそ成功の鍵、というのは、現代の「アメリカ的社会」を象徴することで、このアメリカ的社会が、日本も含めた多くの社会構造となっているという面はあるかと思います。

そりゃまあ、世の中も荒れますよ。

ロック音楽には、シュタイナーが警告していた「悪魔の世界」と近い性質を持つ要素が含まれていることは、若い時代からロックにどっぷりと浸かっていた私から見ると、それは否定できません。

それにしても、今回の記事を書いている途中で何度も「なるほどねえ」と頷いていました。

たかが基本調律と思っていましたけれど、今書きましたロックのことにしましても、いろいろなことの間の説明がつくのです。いろいろと世の中の仕組みは、いろいろとあるのですねえ。


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