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白く塗りたる墓

曽野綾子に与う。

彼女や麻生太郎のキリスト教がいかに偽りのものであるかは、下のイエスの幾つかの言葉から明瞭だろう。彼らの言動のすべてはイエス・キリストのこれらの言葉に背くものである。彼らこそが、パリサイ人(びと)、偽善者であり、偽りの信仰者、白く塗った墓である。表面はカネと地位と虚名で飾られてきれいだが、中には腐敗した死骸と蛆しか無いのだ
米国におけるキリスト教も、これらのイエス自身の言葉をまったく無視していることは言うまでもない。欧米のキリスト教は、イエス・キリストの教えとは無関係な、偽キリスト教なのである。



(以下引用)新約聖書ルカ伝より。

・偽善者よ、まず己が目より梁木を取り除け。

・汝ら我を「主よ主よ」と呼びつつ何ぞ我が言うことを行わぬか。

・今や汝らパリサイ人は酒杯と盆の外を浄くす。されど汝らの内は貪欲と悪とにて満つるなり。

・災いなるかなパリサイ人よ、汝らは会堂の上座、市場にての敬礼を喜ぶ。災いなるかな汝らは隠れたる墓のごとし。その上を歩む人、これを知らぬなり。

・汝ら教法師も災いなるかな、汝らは担い難き荷を人に負わせて、自らは指一つだにその荷に触れぬなり。


・凡そ己を高うする者は卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり。

・饗宴を設くるときは、むしろ貧しき者、不具、跛者、盲人を招け。彼らは報ゆること能わぬゆえに、汝ら幸福なるべし。正しき者の復活の日に報いらるるなり。

・汝ら神と金とに兼ね仕ゆること能わず。

・人の中に尊ばるる者は神の前に憎まるる者なり。

・汝の持てる物をことごとく売りて貧しき者に分かち与えよ。

・富める者の神の国に入るは如何に難いかな。富める者の神の国に入るよりは駱駝の針の穴を通るは却って易し。






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勉強して意味があるのは漢文が一番、古文が二番

「ネットゲリラ」から転載。
私の高校時代の沖縄では、受験生に、受験には受験そのものについての知識が必要だという知識すらなく、教師も受験知識をまったく教えなかったし、参考書のレベルや良否についても誰も教えてくれなかった。そんなふうだったから、沖縄の大学合格率は惨憺たるものだった。
同じころに本土では、出世するなら東大を目指せ、というのが当たり前だったはずだが、当時の沖縄で東大を目指す人間というのは奇人変人の類いであった。何のために東大に行くのか、その意味さえ大多数の受験生には分からなかったのだ。まして、キャリア公務員になるには東大出であることが必須条件であることなど、当時の沖縄では、誰も言わなかった。いや、あまりおおっぴらには本土でも言われてはおらず、いわば社会上層部内部の密教的知識だったのではないか。
まあ、それはともかく当時の高等学校教育は、授業で教師が意味不明のことをぺらぺら喋り、生徒はそれをまったく理解できず、自分で参考書などを読んでやっと少しだけ理解する、そういうものだった。(今でもそうかw)
漢文など、教科書はあっても、どう読めばいいのか、どうすれば読めるのかは学生の頃は分からず、多少読めるようになったのは、仕事で塾講師をして、その必要から勉強をしてからだ。もちろん、初歩的な漢文読解参考書などを使うことからスタートした。下の記事のコメントを読むと、今でも漢文を読めない生徒はたくさんいるようだ。
漢文の知識があると、夏目漱石や森鴎外が(深い意味で)読める。それだけで、人生の宝である。日本最高の知性の持ち主があなたの友人や師になってくれるのと同じなのだ。
私の人生で物理や化学や数学(算数は別)の知識を使ったことは一度も無いが、漢文の知識は日常的に、日本語の文章理解の上で役立っている。
古文も、日本語そのものの深い理解に役立つものである。


(以下引用)


せんずればひとをせいす

| コメント(7)

無駄のない、簡潔な文章を書こうと思ったら、漢文の素養は大事です。オンナの書く、ダラダラした文章は、アレはちゃんと漢文を勉強してないせいだと思うw 土佐物語の時代からだがw 最近では、中国本土でも繁体字を見直す動きが出ているらしい。若い人が、香港とか台湾とか日本に行くと、みんな繁体字を使っているわけです。簡体字なんて使うのは本土だけ。学のなかった毛沢東が、歴史を無視して、バカでも読み書き出来るようにと、簡体字を作った。それでも、ちゃんとした古典を勉強したり、あるいは習字をしたり、繁体字がまったく使われなくなったわけではない。

スレ主は日本の高校で使用されている古典・漢文の教科書を写真で紹介。唐詩や論語、儒家思想といった内容に「日本の作家はみな漢文を知っている。漢文を知らない作家はいない」と断言した。
「日本人って、こんなことまで勉強するの?」
「オレは大学4年だが、論文を書くのに漢文を読んでいるだけ。日本人はすごいな」
「かわいそうな日本人。こんな難しいこと勉強するんだ」
「日本人は中国語が読めるの?」
「私、これ読めない。意味もわからない」
「中国人として、なんだかとてもうれしい」

最近では、神保町が中国人だらけらしいw 日本にしか残されていない、貴重な中国の古書を、カネに糸目をつけずに買い漁っているそうでw まぁ、日本人は、中国人の上位互換ですからw



中国人、日本の教科書を見て驚愕 「何故だ?日本人はみんな漢文が読めるのか?日本人ってすごい!」、というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。
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自慢じゃないが
俺は読めないよ漢文
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読めるわけねーだろ(笑)
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そりゃ読めそうな人いっぱい殺しちゃったもんな文革なんかでな
いかにも国破れて山河しか残らなかった地域のやつらっぽい意見だわ
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レ点とか一とか二とかあれば読める
なければ厳しい
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雲子鰤鰤
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ヤフーチャットがあった頃に
中国人と片言の漢文でチャットしてたけど
くだらない内容だったら結構通じる
相手に「実は中国人じゃ無いのか?」って思われたぐらい
日本人は繁体と簡体両方使うからおもしろいって言ってたな
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国破れて山河あり、城春にして草木深し
くらいしかわからん
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国やぶれてサンガリア
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漢文なんて書き下せば古文と同じになってしまうからな。
そして高校教育をまともに受けていれば、白文も書き下せてしまうという。というか難関大学の試験は白文が出題されることが多いから必然的に受験生には必須の能力。
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英語と同じだから、お前らでも白文のままで読めるぞ
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漢文教育を工夫すれば、あとは発音と現代の言葉を教えれば中国語教育に使えそう。
むしろ日本の古文の教育が、古典文学の研究者養成以外何の役に立つか疑問に思う。
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俺たちが本当の漢民族なんじゃね?
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随分まえに電気もない中国奥地にしばらく仕事で居たが、
地元の食堂なんか漢字で適当に書くとほぼイメージ通りの物が出てきたな。
美味也とか書くと、通じたのか喜んでたよ。
兌換元で支払ってくれる客だったからか、サービスも良かった。
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漢字って道具としてかなり優秀なのに
捨ててしまった民族がいたよな
その後あの民族はどうなったんだっけ?
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いわんやおや
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三国志演義の槍の一振りで二、三百人吹っ飛んだとか書かれていて
ねーよwって爆笑した思い出
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あっちは簡体字だから読めねえのか
繁体字の台湾なら読めるんかな?
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日本人として一言
漢文も読めないのにお前ら本当に中国人なの?
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森鴎外とか漢詩書いてるしな。
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俺は漢文が読めず、国語の授業中グランド10週させられてた
ますますみんなについていけなくなったよ
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つかそもそもが支那本土の漢字も底辺馬鹿の識字率上げるために簡略化して
元々の漢字が読めない奴がほとんどで、最近元の漢字がクールだってんで
復権してきてる、ていうのを昨夜ニュースでやってたな
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漢文を日本語で読める という魔改造だけどな
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語順が英語に似てるから意外と簡単に読めるよね
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漢文は欧米に於けるラテン語だな
知識人の伝統的教養としか言いようが無い
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本場の中国こそ長く漢文の授業を取ってるかと思ってた
良い事書いてあるのにな...嗚呼文革
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西洋文明にとってのギリシャローマと、
日本にとっての古代中国文明は同じボジションって話だな
だから、西洋でのラテン語と同じボジションが、日本にとっての漢文なんだよな
ラテン語は欧米知識人の基礎的教養だが、それは日本での漢文も同じだった
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唐の文化は中国ではなく、日本に受け継がれている......だっけ?あれ冗談じゃないのかよ
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遠くから友達が来て楽しかった

てのだけ覚えてる。
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学生の頃は漢文は苦手だったけど漢字は結構覚えてたので良かったわ
旅行に行っても筆談で結構助かった
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白人が、漢字を覚えて中国語をマスターするのは容易じゃないが、日本人だったら半分以下の手間と時間で中国語がマスターできる。アメリカが恐れているのはそこです。中国市場を日本に取られると警戒しているw

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「嗚呼、射精寸前」男悶絶。「口内発射可?」
「不可」女曰。「貴殿射精場所即我膣内」
 女舌技停止。萎縮物即硬直、聳立。先端、先走汁有。
「騎乗可?」女訊。男頷了解。
 女、硬直物添手、潤滑繁茂地帯誘導。
「嗚呼」女悶。「我膣内、巨大硬直物挿入完了」
 女下半身躍動開始。一、二、三・・・
「嗚呼」男短声。「謝罪」
 女呆然、運動停止。「貴殿既射精!?」
「汝舌技巧妙故。御免」
「最低!! 三擦半男!!」女絶叫。「亀頭鍛錬不足!!
 貴殿包茎手術経験者!?」
「何故汝知其事実??」
 男墓穴。
 以後、男、性交時避妊具二重着用
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簡体字なんて使ってるからダメなんだろ
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中国人すら読まないものを勉強させられていたのかよ
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ちなみに中国では、三千文字の漢字が読み書きできないと半文盲と規定
1500漢字を読み書きできても完全文盲扱い
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日本こそ東洋文化の担い手、中華だからな。
大陸の国は昔中華だった国
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↑かつての李氏朝鮮みたいなこと言うな
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お前ら史記とか三国志とか大好きなくせに何で漢文は憎むの?
授業で四面楚歌やった時興奮しなかったの?
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英語も
返り点や送り仮名つけて教えたらどうだ?
まあ文字以外は同じ様な事だし
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つーか、中国人こそ自国の古典の漢文をやらないのかよ
そっちの方が驚きだわ
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中国人のほとんどは漢詩が読めない
今の中国語表記は第二次大戦後に確立されたもので
漢詩と話言葉の表記は全く違うものなのだそうだ。
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考えてみれば幕末の下級武士ですら素読はおろか漢詩を自作してたんだから凄いよな
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漢文は好きで得意だった
古文は嫌いだった。英文と同じように難しかった
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日本の古典は漢文で書かれた古典を元に書かれているので、古文と漢文は不可分。
漢文をよく理解していた作家は永井荷風や永井より先に死んだ芥川龍之介、中島敦まで。
それ以降とは文章力と教養が雲泥の差。
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1000年前の土佐日記の原文も文字起こしすれば
まあ読めなくもない
意味の変遷や言い回しの変化以外
文法としての体躯は変わって居ない

石器、縄文と10万年以上かけて作られた
日本語、大和言葉が如何に完成され
継続性、拡張・冗長性のある言語かが解る。
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作家志望とか考古学者意外何の役にも立たない
経営とか経済学学んだ方が断然マシ
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中国語習ってたときに、先生に教科書みせたら驚愕してたわ。
リーバイ(李白)知ってるなんて凄い!と感動された。
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つかなんで日本で漢文なんて教えてんだ
おかしいだろ
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四書五経暗記出来てないと公務員になれないからな
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戦時ぐらいまでは漢文的な表現使いまくりんぐだったのにな
廃れすぎだろ
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漢文の授業は、中国語の授業と統合したらいいんじゃないかな。そうなれば、高校卒業する頃には、現代中国語が読み書きできるというのも、夢ではないだろう。ちなみにネトウヨは馬鹿なので漢文は読み書き出来ないが、昔の右翼は、自分で漢詩のひとつやふたつ、作って、吟じてましたw

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漢文は少なくとも数学の公式よりは実用になったよ
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李白の詩は酒飲んでる時読むと感動する
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先んずれば人を制すを、せんずればひとをせいすと読んでクラスが変な空気になるところまでが漢文の授業
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子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
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これの現代語訳

先師がいわれた。聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。
なんと生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなったら、なんと人生は楽しいことだろう。
だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか

中国語短すぎワロタw
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中国人でも分けわかんねーものを高校で無理やり勉強させんなよ
役に立ったことねえぞ
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漢字が簡体字になって読めなくなってるのもあるんじゃね?
台湾人はスラスラ読めそうな気がするけどなぁ。

つか、杜甫とかあっちではやらんのか?
イギリス人だって、シェイクスピアやミルトン、ワーズワーズを読んでるだろうに......
自国の古典ぐらい読めよー
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古文や漢文が、得意科目だったが、案外簡単だったけどな
漢字の意味さえ把握していれば、あとは文法を英語的に解釈するだけ
日本語は動詞が最後にくるから、それを逆読みすれば何とか判読できる
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漢文は東アジアの知識層の共通素養であったし、
これからもそうであるのが良いと思う
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漢文の凄いところは、チョコチョコと記号書くだけで読めるようにしてしまうところだな
誰が考えたのあれ
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壮士ひとたび去かば、復たび還らず

とか、見ただけですごいイメージが湧く文章
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漁夫の辞とか最高に泣ける
年取る毎に感じ方が変わって泣けてくる
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昔香港行った時、具合悪くて薬局行ったら全然英語が通じなくて
筆談で漢文もどきの文書いたら何とか通じたのを思い出した
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中国人が論語の意味を日本に留学して初めて知るみたいな話はよく聞く
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このスレ「中国人がなんで自国の漢文読まれへんねん」と「昔の言葉なんか習ってどないすんねん」が共存してて笑える
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中学しか出てない無学な田中角栄ですら、中国を訪問した時には自作の漢詩を読んでいる。無学なので、韻も踏んでない稚拙なんだが、ちゃんと意味は通る物です。それが日本人の凄さです。

コメント(7)


>学のなかった毛沢東が、歴史を無視して、バカでも読み書き出来るようにと、


は・・・。
それで日本も歴史見直しなのか?



毛沢東は混乱した中華を暴力でもって統一させるようなカリスマ性はあったのだろうが、経済政策とか文化政策とか、そういった文治政治には全くアホだったんだと思う。



 汪兆銘の獄中詩


 石をくわえてひたすらに
 大海原をやりこめる
 一人で飛んでも疲れない
 鴎におくれをとるものか
 (略)
 堂々と北京で主義主張を通し
 従容として囚人の名に甘んじよう
 少年(自分のこと)の首を
 さっぱりと斬ってくれ
 たとえ肉体は灰と化しても
 我が志はこの世にとどまり
 燐の青い光は衰えることなく
 夜毎に紫禁城を照らすだろう


「美のコンキスタドール 一度死んだ男・汪兆銘の魅力」
(2004年02月号 選択より)


 その原文


 啣石成痴絕﹐滄波萬里愁。
 孤飛終不倦﹐羞逐海鷗浮。
 吒紫嫣紅色﹐從知渲染難。
 他時好花發﹐認取血痕斑。
 慷慨歌燕市﹐從容作楚囚。
 引刀成一快﹐不負少年頭。
 留得心魂在﹐殘軀付劫灰。
 青燐光不滅﹐夜夜照燕臺。
 
 ttp://big5.gmw.cn/g2b/blog.gmw.cn/blog-1517-414235.html



薄毛の人には気になる名前>毛沢山w



> 土佐物語
土佐日記じゃないかな。著者の紀貫之は当時の教養人としてもちろん漢文は自由自在だったが、かな文字で書きたくて、わざとそうしたという。
石川九楊によれば、日本語の根幹の半分くらいは中国語(というか漢文)だといっていたが。
漢文知ってると、いろいろいいことあると思います。



そののち毛のなかった飯田橋さんは、カスに絡まれて…



>毛沢東が、歴史を無視して、バカでも読み書き出来るようにと、簡体字を作った。
コレは、ちょっと乱暴な意見だと思うけど。
毛沢東は日本の明治維新やそれに繋がる江戸時代の日本人が作成した
儒教関連著作や歴史にも通じていたよ。
近代中国の歴代権力者で海外留学経験が無いのは毛沢東だけですけどねぇ


>日本人は、中国人の上位互換ですからw
っつーか、文化・文明の行き着く先
→まさに極東&武力闘争に敗れた流民の終着点てのが当て嵌まるような気がします。


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浮世の流れの水の泡

「逝きし世の面影」から転載。
私も、ずっと前に、別のブログがいきなり閉鎖されたことがあった。何の通告もなく、閉鎖理由もまったく分からないままで、それまで書いた記事がこの世界から消滅したのである。それにかけた時間はすべて無駄になったわけだ。まあ、サーバー(というのか? ブログの元締め会社だ)のところには記録は残っていて、何かの機会に「法的証拠」として使われたりするのかもしれないが、書いた本人の元には何一つ記録もない。いちいち、記事を保存してからネットにあげるような手間はかけていないからだ。
なお、そのブログは「最高の塔の歌」という名前であった。(言うまでもなく、ランボーの詩の題名から取ったもの。)詩歌の紹介、翻訳など文芸中心のブログであったから、政治的な意味で目を付けられるはずは無かったと思う。
いずれにしても、ネット上に記事を書くことは、いつでもこうした運命が降りかかることを覚悟しておくべきだろう。

流れに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし(方丈記)


[ 訂正:「流れに」ではなく「淀み(澱み)に」だったか。手元に蔵書がほとんど無いため、記憶だけで書いているからこういう間違いをする。]




(以下引用)




『2014年12月10日の憂鬱』

」が削除されてしまいました。同じ日にホワイトフードさんの「放射能とたたかうブログ 」も削除されています。

どうゆうことですか。
勝手に削除という事。?21 時間 どうゆうことですか。 勝手に削除という事。?

 
そうです。朝開いたらアカウントなども強制削除されていました。

21 時間前そうです。朝開いたらアカウントなども強制削除されていました。

 

酷い話ですね。私もアメーバにブログがありますが、更新停止します。はてなとかシーサーとか他で更新を続けようと思います。
 

履歴も残らない。 私も削除される可能性大。 次々削除がされるかもですね。
 

重要そうな内容は手直しして他のブログに転載して置いた方が良いかと思います。まさかの多重防護ブログ運営が必要となる時代となるとは。もともと法の趣旨は統治側の人の情報漏洩を防止するという事なので、ブロガーの言論を抑止するのは筋違い・・
 

削除されたのは今のところアメブロだけです。アメブロは特に気をつけたほうが良いと思います。
 

元々はネトウヨ系のブログも消されることはありましたよね。貴方のブログも消されたことあったんでしたっけ
 
やはりアメーバが真っ先でしたか。
あそこは昔からその手の評判が一番悪かったですから。 他のサブのブログの今後の動向も要注意ですね。

21 時間前やはりアメーバが真っ先でしたか。 あそこは昔からその手の評判が一番悪かったですから。 他のサブのブログの今後の動向も要注意ですね。

 

アメーバ側は削除理由は何と言ってきてるんですか?
 

現在問い合わせ中です。削除時は何も通告もありませんでした。ホワイトフードさんも同じです。
 

うわ! ホントだ!! 超参考にしてたのに!!!
 

FASCISM ブログだけでなく、政府に批判的な人間も消されそうで、怖い世の中になってきたが、だからこそ声をあげる必要がある。不当な言論弾圧を黙認してはならない。自民党は、liberalでもなく、democraticでもない。
 

数か所に分散保存しても、ことごとく削除される恐れがある。麻生政権末期に逆戻りか。オフライン保存が必要になる日も近い。
 

記事にて、拡散しました。 ⇒ いよいよ、何かが始まったみたいですね。 ヤマダさんのブログ削除、残念でなりません。 まだ、FC2の本命ブログがありますので、 あまり気を落とさないで下さい。


 


 


12月9日
「安倍首相と金正恩との比較,三世・・」をtweetしてから、今リツイート1の数字からピタリと止まっている。「怖い怖い」はリツイート2.これまでこういう数字はまずない。
 
『ニーメラー師の後悔』
 
ナチスが共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産 主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチスは社会主義者を攻撃 した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。次にナチスがユダヤ人を・・・
真実を探すブログも放射能と戦うブログも、私が読まないエキセントリックなブログなので無関係ですが、・・
今回の突然の強制閉鎖に、少し不安になっている・・・



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逆上がりって、人生で何の役に立った?

「ハフィントン・ポスト」から転載。
気持ちの悪い顔の写真だが、書いていることは面白い。
実際、体育の授業など、「出来る子」と「出来ない子」を際立たせる以外の意味は無かったような気がする。出来る子には優越感(他人を見下し、自分に思い上がる心)を生じさせ、出来ない子には劣等感(自己嫌悪、出来る子への嫉妬、他者の目への羞恥心)を生じさせる。
これが学力テストなら「オレは真面目にやっていないだけ」というフリも出来るが、体育の授業ではそういうウソはまず無理で、あからさまに出来る子と出来ない子が「仕分け」される。そういう残酷な場が体育の授業だった。
だからこそ、「小学校では足の速い子がモテ、中学校では面白い子がモテる」と言われるわけだ。中学校でも足の速い子はモテる可能性はあるが、それがクラブ活動での各種スポーツに特化していくだけの話だ。そして、頭の中身や個性の指標として「面白い」かどうかが加味されてくる。
まあ、人間の選別は一生を通じて行われるのがこの社会のならいだが、その中で常に「劣等者」であり続けることは辛いものだ。自分の劣った部分を、できるなら他人の目にはさらしたくないのが当然の気持ちだろう。それは「甘え」の一言で切り捨ててよいだけのものなのだろうか。
下記記事の女の子の「もうこれで鉄棒の練習をしなくてすむのね」という言葉は、練習が嫌、というだけの意味ではなく、そういう「人前でさらし者にされた」悲しみがあるのではないか。そもそも、なぜ逆上がりができる必要があるのだろうか?



(以下引用)



粕尾将一 Headshot

はじめて逆上がりが出来た女の子:成功後の一言が指導者を撃ち抜く

投稿日: 更新:

あるところに逆上がりの出来ない女の子が居ました。


授業で必死に練習しましたが、残念ながらできるようにはなりませんでした。落ち込む女の子を見た担任の先生は「放課後、一緒に練習しよう」と声をかけます。それからの放課後、先生とのマンツーマン練習が始まりました。


練習は毎日の放課後、担任の先生とマンツーマン。女の子は真面目に練習をして、先生も頑張ってアドバイスを掛けます。そんな練習も数週間が経ったある日、ついにその時が来ました。


ついに彼女は逆上がりを成功させました。初めての成功に女の子は大喜びです。先生も我が事のように一緒に喜びます。


次の瞬間、女の子は喜びながらこうつぶやきました。

「もうこれで、逆上がりの練習しなくて良いんだね!!」


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これは大学時代に教授から聞いた実話です。
この話はスポーツを初め、運動指導に携わる人全てに大きな疑問を投げかけていきます。スポーツを教えるとは何か、子どもが本当に求めているものは何なのかを改めて考えたいと思います。


■ 本当に子どもは技を習得したいのか?


スポーツ指導に携わる人は「上達」「習得」は素晴らしいと信じています。できなかった技ができるようになる、教える側にも教わる側にも達成感が生まれる瞬間です。


先に上げた女の子は逆上がりという技を習得し鉄棒の技術も上達しました。しかし最後に先生に投げかけたセリフは逆上がり・鉄棒との断絶宣言です。なぜ女の子の口からはこんなセリフが出たのでしょうか?


きっと、女の子の本心は「逆上がりが出来るか?」なんてどうでも良かったのだと思います。出来なくてもいいし、出来れば出来たで嬉しい。でも先生が必死に教えてくれるから練習しなきゃ。。。あぁ、あとどのぐらいこの練習は続くのかな。こんな心の声が聞こえてきそうです。


しかし先生はこの気持ちに気付くことが出来ませんでした。授業中に出来なかった事が悔しかったに違いない、それじゃ一肌脱いで逆上がりが出来るまで練習に付きあおう!と言った感じでしょうか。


女の子の思いとは裏腹に、出来なくて悔しがっている→達成できたら喜ぶに違いない、という方程式が見えてきます。


■ 技を教えるより大切だったこと


この先生の例は極端でしたが、似たようなケースが運動指導・スポーツ指導の現場でも見られると思います。


たとえば縄跳びでも「難しい跳べたら嬉しいに違いない!」という教える側の勝手な思い込みにより、子どもが望んでいないのに無理矢理に難易度の高い技を教えようとするコーチがいました。それは粕尾将一、縄のまっちゃんです。


新しい技や初めての動きを修得するためには、反復練習が必要です。しかし地味な練習を繰り返し、しかも失敗ばかりする練習のどこが楽しいでしょうか。子どもたちの集中力はみるみる削がれていき、その場にしゃがみ込む子も出てくる始末です。


失敗の原因は順番を間違えたこと。技を教えるより、まず初めに運動そのものの楽しさを伝えなければいけなかったのです。縄跳びって楽しいね!!この遊び楽しいね!!と思ってもらうことが最優先でした。


楽しさを自分自身で見いだした子どもに小手先の指導テクニックは必要ありません。放っておいても勝手に練習を続けます。こちらが技を提供すればスポンジのように吸収していきます。


まず「運動そのものに楽しさを感じられる」という素地を作ることが重要なのです。


■ まとめ


子どもに運動を教えるとき、大人は「逆上がり」「二重跳び」などのわかりやすい目標に目が行きがちです。確かに上達・習得は素晴らし経験でしょう。しかしこれらの目標は運動・スポーツの一側面に過ぎません。


技や理論だけでなく、運動の「楽しさ」や「やりがい」をシッカリと次世代に伝えていきたいですね。


(2014年11月22日「シルクドソレイユ 日本人アーティスト  縄のまっちゃんのブログ」より転載)




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日本の国土という人類の至宝

「谷間の百合」さんの12日の記事、「国民こそ国の資源では?」の全文である。
私はこの日本という国が好きなのだが、その理由の1,2番目に来るのが、日本の自然である。この国の春も夏も秋も冬もすべていい。そして、その自然から生まれた日本人の芸術的感覚の鋭さ、文化的伝統と創造力が大好きだ。
特に観光地に行かなくても、自分の家の周辺を見るだけで、美しい花や紅葉が見られ、美しい空や雲が見られる。これほどの贅沢は無い。もちろん、他国にはその国なりの自然の美しさがあるだろうが、日本の自然は日本だけにある貴重な、そして世界的に希少な財産であることは確かだろう。
話が逸れるが、「赤毛のアン」が特に日本であれほど愛された理由の一つは、その中に描かれた自然描写の美しさが、日本人には特によく理解されたからではないか、というのが私の仮説である。
ふつうの欧米人の感覚では、自然とは野蛮・未開のことであり、「征服すべき対象」なのだから。そして、自然を破壊し、経済効用の高いものに置き換えていくことを彼ら(と、その使用人の現地官僚組織)は「グローバリズム」と称している。それは私(だけではなく、自然を愛する人間、おそらく多くの日本人はそうだろう)から見れば、野蛮そのものの思想なのである。



(以下引用)一番最後のスナップ写真、二本の樹の深緑と黄色のコントラストが美しい。


それがあたかも道理か事実であるかのように頻繁につかわれる「常套句」があります。

たとえば、「日本は資源のない国」「国際化」「日米同盟は日本外交の基軸」などなどです。

わたしは、多分この5年くらいの間に、それらがすべて政治的なキャッチコピー(プロパガンダ)だということに気が付いてきていました。


鹿児島の伊藤知事は(いまどき珍しい時代劇の悪代官を地で行くような人物)川内原発の再稼働を「やむを得ない」ことだと言いました。

なにがやむを得ないかといえば、いうまでもなく、日本は資源がないということなのですが、それをさも正当で立派な理由であるかのように、だれもそれに文句はないだろうという感じで言っていることにわたしは違和感をおぼえるのです。

わたしはもうそういう言葉を聞き飽きましたし、それが正当な理由にもならないことに気が付くべきだと思いました。






資源とは何ですか。

日本でいわれている「資源」はイコール「石油」を指します。(その他レアメタルなど)

石油がないだけで、日本は資源小国になるのだそうです。


レアメタルの鉱脈が発見されたというアフガニスタンや石油の埋蔵量を誇る国々の地は、ほとんどが砂漠や荒涼とした岩山です。

それに引き替え、日本には有り余る緑ときれいな水があります。

まさに、「緑の日本列島」です。

これこそが人間が生きていく上での絶対不可欠な資源なのです。






人口減は止まらないのでしょうが、人間あっての資源であると共に、人間そのものが資源なのです。(人的資源)

それなのに、政治家や企業家はなんとその資源(宝)である国民を粗末に扱い苦しめていることでしょう。

子どもは国の宝だと言いながら、少子化を促進するような政策ばかり採っています。

国の宝である国民をすべて奴隷労働者にしようとしています。

そうしておいて「日本には資源がない」と言う為政者に、わたしは怒り以上の感情を持つのです。


きれいで豊かな水があるということは、喜びと幸せの源泉です。

(もちろん、それが時に洪水となって人に仇をなすのですが)






「封印された技術」といわれてきた水で走る車の実用化ももうすぐだそうです。

人間ではなく、お金がもっとも価値あるものとして尊重されてきた歴史が終わるのもそう遠くはないのでしょうか。

石油を軸に動いてきた国際環境や政治も終焉のときを迎えるのでしょうか。

人間や生きものが尊重されない世界は「死の世界」です。

そういう世界がどれほど人類を苦しめてきたことでしょう。

想像を絶します。

わたしは、人間の感性や理性や知性、そこから溢れ出てくる知恵や想像力こそが人類の資源なのではないかと思っています。



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夕凪の時代

「馬鹿国民帝国日本の滅亡」から転載。
私はプルーストの散文詩の中にある「あらゆるものは日々転落していく」というフレーズが好きなのだが、今の日本はまさしく日々転落していっているようだ。まあ、我々の人生そのものが生まれた瞬間から死に向かって転落しているようなものだ。重力には逆らえない。(笑)
山に登った以上、いつかは下山しなければならないわけである。登り道だってべつに楽しいばかりでもない。それどころかきついし苦しいだろう。下り道の方が楽なくらいである。
そう考えれば、日本という国がこれから滅亡に向かうとしても、我々の毎日の生活は案外穏やかに営まれるのではないか。
毎度言うことだが、ケインズ曰く「長期的に見れば、我々はみな死んでいる」。


(以下引用)


”ドル崩壊”神話の信憑性
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世の中、何が起こっても不思議ではない。




歴史は、それを示している…





…、だが、過去がそうだから、未来もそうなるとは必ずしも言えない。





陰謀論では、ドル崩壊のショックドクトリンが計画されているといった話が広められている。




そういうものが語られるには、それなりの根拠があって、一概に否定することはできず、”陰謀論”のひとことで片づける態度は間違っているだろう。




その”都市伝説”を完全に葬り去れる根拠をもっているのでもないかぎり、決めつけるのは損である。





ただ、”ドル崩壊”伝説は、まあなんというか…ずっと議論されていることである。




「ドル崩壊」「アメリカ崩壊」などと噂されながら、いまだにしっかりドルもアメリカも存在している。





したがって、今後も、これらは”噂”に留まるであろう…そう考えても、おかしなことではない。





ただし、単に「何も起こらない」「危機は回避される」と、ノーテンキに構えると”痛い目”にあうだろう。





まず第一に、危機は回避するような努力が行われるものである。




たとえば、「金本位制」から自由相場に移ったのは、具体的な「ドル危機」回避策である。




もちろん、ただじゃすまない、世界に激震が走った…のであるが、さて…





では、聞くが「金本位制」停止でだれが大きな被害を受けて、それを記憶にとどめたであろうか?





そんなこと、経済や歴史の勉強でもしなければ、「だれも知らない」ことである。





だから、”ドル崩壊”が現実になったとしても、だれもそのことを「”ドル崩壊”によるこの世の終わり」などとは受け止めないかもしれない。





原発事故で、とんでもないことになっているにも関わらず、大半は「ふつう」に暮らしている。





まあ…そっちの”事実”の方がわたくし的には「よっぽど”怖い”し、「日本の終わり」だとも思うが…




「ふつう」の日本人にとっては、「ふつう」の毎日があるだけであり、「ふつう」に生き、「ふつう」に死んでいくだけのことでしかない。





それは、これから放射線障害で多くの人間が死んだり、病気になったりすることがあったとしても、「ふつう」に病気になり、「ふつう」に死んでいくだけであって、「放射能」がどうこうなんて、知っていようが知っていまいが関係ないことなのである。




多くの日本人にとって、それこそが「ふつう」のことなのだ.





仮にいま、危機を回避して「命が助かった」と喜んだとしても…




「人はいつか必ず死ぬ」という宿命は、なにも変わってはいない。





そのときまでは生き、そのときがきたら逝く…ただ、それだけのことなのである。





だから、案外「大したこと」じゃないのだ。




チェルノブイリを上回るような事態が生じていても「大したことない」のだから…






それから第二に、”ドル崩壊”なんて とっくにしてますよ。この上何か?…ってな話…




『やまはFX』さんのブログに、おもしろいチャートを見つけた⇒ダウゴールドレシオチャート





クリックして、そのチャートをみていただきたい。




金何オンスでダウが一単位買えるかというチャートである。





ダウチャートを検索してチャートを見れば、一本調子で力強く上昇しているようにみえる。




どう考えてもアメリカ経済は空洞化し、ボロボロ。なんで”株高”が続くのかと不思議であろう。





だが、金を基準に考えれば、ダウの価格は2000年をピークに一貫して下落を続け、いまや日本がバブルだったころの19990年当時の水準にまで落ちこんでいるのである。





2000年から金価格は上昇し、2012年でいったんピークをつけて今に至るが、だれも「金が値上がり」という視点でみているだけで、金を基準にして「自分たちの資産が下落している」とは考えなかった。





…まあ、こんなものである。




金融や経済について無知であるということは、とんでもないことだが、本人にとっては「大したこと」ではない。




それで1000万単位の資産を失ったとしても、(絶対そうだと気づきなんかしないからw)ドロボーや罰金やギャンブルで失った10万円の方が「おおごと」なのである。





だから、今後もこのように、いつのまにか”崩壊”しているのに、だれもそれに気づかないで「平和な」日々を送り続けるってことになるのではないか?




私としては、こっちのシナリオの方が実現確率が高いと思う。


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「我々は他人の不幸に平然と耐えられるほど勇敢だ」

「神州の泉」記事全文を転載。ただし、趣旨に同意してのものではない。
私にはむしろ、マサダ砦で全滅したユダヤの民が、太平洋戦争で悲惨な運命に追いやられた日本国民の姿に重なって見える。そして、生きるために食物に群がる人々を叱責した「武家の女性」の姿が、日本を亡国に導いたA級戦犯たち(今日の「徽宗皇帝のブログ」参照)の姿と重なって見える。
自分自身が、自分自身の主義主張のために死ぬのは結構な話だ。だが、自分の信条のために他人を死に追いやる人間というものほど悪質な存在は無い。また、そういう人間に踊らされてご立派な愛国心とやらを周囲に強制し、自らも先頭切って討ち死にするような「勇者」もはた迷惑な存在だとしか私は思わない。要するに、戦争を正当化する言説はすべて戦争から利益を得る人間に踊らされているだけだ、としか私は思わないのである。
国家や民族や愛国心という抽象物のために死ぬ大人はただの狂信者や、強者(国の上層部)に抵抗する勇気が無かっただけの卑怯者だから勝手に死ねばいいとしても、戦争でいわれなく死ぬ乳幼児や子供たちが存在することを正当化するどのような言説がありうるだろうか。


(以下引用)

2014年9月18日 (木)

惰弱なる日本に残された時間はあとどれくらいあるのか



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自分も含めて、日本人は全体的にわずか数年前の過去のことをすぐに忘れてしまうのだろうか。これに比べてユダヤ人は数千年も前のことを忘れずに子々孫々に言い伝えている。例えば“マサダ”である。マサダとはヘブライ語の要塞という意味で、イスラエルの東部にある歴史的な遺跡である。そこは自然に切り立った崖からできている峻険な岩の砦である。


西暦66年にユダヤとローマ帝国との戦いが始まり西暦70年にエルサレムは陥落した。避難民の兵士と女子供を含む967名はマサダに籠城した。マサダは峻厳な自然要塞であっためにローマ軍は攻めあぐねていたが、大勢の捕虜と奴隷の人海作戦で崖を埋め、突破口を築いたという。西暦73年、ようやく避難民の陣地に突入したローマ軍は、戦う相手が一人もいないことをすぐに悟った。967名の内、女性2名と子供5人を除いて960人全員が集団自決していたのである。


約2000年前のこの遠いできごとをユダヤ人は昨日のことのように決して忘れないという。ところが日本人はどうだろうか。わずか70年前の集団自決、玉砕死、特攻死について、ほとんど何も記念しないし何も決意しない。それどころか大勢の人がまるで唾棄すべきできごとであるかのように、そのことを記憶から消し去ろうとしている。


同じ血が流れていた直近の先祖たちを、まるでエイリアンか何かのように異邦人扱いして恥じない。このような忘恩の徒に変節しているからこそ、日本は貪り尽くすアメリカに心まで牛耳られ、亡国のとば口に立たされているのだ。


マサダの自決例と、今村仁(いまむら ひとし)起草の戦陣訓にある「生きて俘囚の辱めを受けず」が同質のものかどうか、浅見にして判断できないのだが、少なくとも平安時代から武士階級には戦時における心構えがあったのであり、それは江戸時代の常朝の「葉隠」などにもあったものだ。人間だれしも死ぬことは恐怖であり、第一に避けるべきは自死である。


しかし、場合によっては死ぬことが不可避のことや、死ぬよりも耐え難いことがあるのも事実だ。日本人は全てではなかったにしろ、一千年以上も死生観を研ぎ澄ましてきた歴史があった。それがわずか70年に満たない月日の東京裁判史観や戦後教育で死滅してしまったのだ。先祖たちはさぞかし無念ではないのかと、凡愚の身ながら時折斟酌(しんしゃく)する。


神州の泉の母は満州北部の開拓団にいたが、ソ連兵に追われて家族と離れ離れとなりながら、命からがらハルビンまで逃避行をした。空腹と疲労で参っていた母たちの集団へ、満人(中国人)の子どもたちが握り飯を売りに来たという。


その時、母たちとは別の集団でハルビン市にたどり着いたある武家血筋の奥さんが、やおら懐刀を抜いて高く差し上げ、空腹で握り飯に飛びついた日本人たちに向かって、『いやしくも日本人であるなら、浅ましい振る舞いだけはするものではない!』と喝破したそうである。周囲が押し黙ってしまうほどの大音声だったそうだ。


母はこの奥さんも空腹で疲れきっていたことを知っていた。また、母は「武家の女性はほんとうに肝が据わっている」と、このとき強く感じたそうだ。母が伝えようとしたことは何だったのだろうか。この当時は決然たる死生観を持っていた日本人がまだいたんだよということだったのか。今となっては分からない。


生前、母は何度もこの話を自分にしてくれたのだが、それを思うと、若かった母にはよっぽど印象深いことだったのだろう。ふと思う。今、このような凛冽(りんれつ)なる日本人がどこかにいるのだろうか?鼻水とよだれを垂らし、惰弱なる平和に埋没した日本は、今、グローバル資本によって、富だけではなく精神も未来も奪い去られようとしている。


戦後は、アメリカの価値観とアメリカの核にすがりつきながら商魂だけはたくましい日本人となった。だが、何か大事なことを置き忘れているような気がしてならない。いつまでも戦勝国を飼い主として崇め奉り、先祖たちを軽視する日本人はもう先がないのでは。





(夢人付記)magictrainさんのサイトから転載。なぜ我々はこの素晴らしき世界を血に染める必要があるのか。

この素晴らしき世界 – ルイ・アームストロング:Louis Armstrong – What a wonderful world







Louis Armstrong – What a wonderful world



I see trees of green,
red roses too.
I see them bloom,
for me and you.
And I think to myself,
what a wonderful world.


I see skies of blue,
And clouds of white.
The bright blessed day,
The dark sacred night.
And I think to myself,
What a wonderful world.


The colors of the rainbow,
So pretty in the sky.
Are also on the faces,
Of people going by,
I see friends shaking hands.
Saying, “How do you do?”
They’re really saying,
“I love you”.


I hear babies cry,
I watch them grow,
They’ll learn much more,
Than I’ll ever know.
And I think to myself,
What a wonderful world.


Yes, I think to myself,
What a wonderful world.


Oh yeah.


(意訳)


私には緑の木々が見える、
赤いバラの花々も
私と君のために
咲いているんだ。
そしてひとり思うんだ、
なんて素晴らしい世界だと。


私には青い空が見える、
白い雲も
輝き祝福された日、
暗い神聖な夜。
そしてひとり思うんだ、
なんて素晴らしい世界だと。


虹の色彩、
空にあって何と可愛らしい
行き交う人々の
その顔にもあって
私には友人たちが握手しているのが見える、
「ごきげんいかが?」って言ってるよ
彼らは本当は言ってるんだ
「愛しています」って


私は赤ちゃんたちの泣き声が聞こえる、
彼らの成長を見守ろう
彼らはより多くを学ぶだろう、
私が知るだろうことよりも。
そしてひとり思うんだ、
なんて素晴らしい世界だと。


そうさ、ひとり思うんだ、
なんて素晴らしい世界だと。


ルイ・アームストロング(Louis Armstrong:1901-1971)の「この素晴らしき世界」(What a Wonderful World)は、G・ダグラス(Bob Thiele as George Douglas)とジョージ・デヴィッド・ワイス(George David Weiss)が作詞作曲した1968年のヒット曲です。
当時の泥沼化したベトナム戦争への嘆きからこの歌詞が書かれました。
66才になっていた晩年のルイ・アームストロングにとっても久々のヒット曲でしたが、本国アメリカよりもイギリスを中心としたヨーロッパからのヒットを受けて世界的に人気を得ました。


歌詞は分り易い言葉で書かれていますが、少し個人的な解釈を書いておきます。
先ず、この歌がベトナム戦争への嘆きから書かれていることを考えると、この平和な歌詞は悲惨な現実に対するアイロニー(irony)の意味があることを知っておく必要があると思います。
ベトナムの戦場では、人が常には感じるはずの素晴らしく美しい世界感は忘れられて、緑の木々は焼かれ、赤いバラも野の花も踏みにじまれました。もう一度普通の人間としての感情を持とうよ、というメッセージが最初の節から感じられます。
次に青い空と白い雲はアメリカ国旗のホワイト・ストライプスを連想させる色です。そして輝く日と暗い夜の対比は、白と黒の色です。また神聖な日・夜から独立記念日やクリスマスを連想させます。これらの要素を組み合わせることで、アメリカという国の理想が再確認されています。
次の節では虹の色、それが行き交う人々の顔に恩寵を与えているということと、実際に多様な色の顔があるということ、多様な人種の人々が挨拶を交わし、お互いを理解しあえる社会のことを書いています。
そして、この世界が本当に「素晴らしき世界」であるよう托すのが、泣き声を上げている赤ちゃんたちで、彼らが成長して私たちが経験し、知ったことから多くを学ぶ希望でこの歌は終ります。


世界は美しいのですが、その美しさに目を向けられなくなる現実的な不幸が無くなったときに、この歌はアイロニーではなくなるのです。



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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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