少し前に書いた「スメラミコト」の語源の話だが、最近は「スメラ」が梵語の「スメル」から来ているという説が学界の主流になりつつあるらしい、という話を前記事に追記した。
「スメル」が「聖なる」の意味(厳密には「須弥山」の意味だから、「聖なる」とは違うようだ。)だという点では非常にいい説だと思うが、それが「スメラ」と変化する意味が分からない。外来語を「語尾変化」させるのは不自然だと思うわけだ。おふざけで「プリティ」を「プリチー」などというのとはわけが違う。
まあ、別に「統べる」説に固執するわけではないので、もっといい説が出てきたら、私も考えを変えるし、前に書いた内容もそれほど深く考えて書いたわけでもない。単に、「澄む」はおかしいだろう、というだけの話だ。
そして、「ミコト」が貴人を指す、というのはいいとしても、なぜ貴人を「みこと」というのか、その語源はどう考えられているのだろうか。
今思い付いたのだが、よく人名で「人」を「と」と読ませるように、「みこと」は「ミコ人」だったのではないか。そして「み」は「御」であるとすれば、後は、間にある「こ」が何か尊貴さを表す言葉で、古い時代から存在した形容語だと考えられる。それが何かは、いずれ考えよう。「巫女」を「みこ」と読ませたあたりにヒントがありそうな気がする。つまり、「霊力」に関係するかと思う。あるいはそのまま「巫女的な人」という意味で「ミコヒト」→「ミコト」となったのかもしれない。(「こ」が単独で意味があるのではなく、「みこ」で一単語だという考えだ。もちろん、「こ」単独で意味がある可能性も排除しない。)
(以下某サイトより引用)
次に挙げられるのが、岩波書店から出版された『岩波古語辞典』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編/岩波書店/1974)の中に掲載されているサンスクリット語からきているとする説です。
ちなみに、サンスクリット語とは古代インドで使われていた言語で梵語とも呼ばれ、特にお墓に時折記されている文字として知られています。
この説は、「スメラ」は古語で「皇」と表記し、それがサンスクリット語で須弥山(古代インドで世界の中心にあるとされた聖なる山)を意味する「スメール」からきているというものです。つまり、後ろに「ミコト」がつくことで「聖なる君主」を意味する「スメラミコト」となったという考えに立ちます。
「スメル」が「聖なる」の意味(厳密には「須弥山」の意味だから、「聖なる」とは違うようだ。)だという点では非常にいい説だと思うが、それが「スメラ」と変化する意味が分からない。外来語を「語尾変化」させるのは不自然だと思うわけだ。おふざけで「プリティ」を「プリチー」などというのとはわけが違う。
まあ、別に「統べる」説に固執するわけではないので、もっといい説が出てきたら、私も考えを変えるし、前に書いた内容もそれほど深く考えて書いたわけでもない。単に、「澄む」はおかしいだろう、というだけの話だ。
そして、「ミコト」が貴人を指す、というのはいいとしても、なぜ貴人を「みこと」というのか、その語源はどう考えられているのだろうか。
今思い付いたのだが、よく人名で「人」を「と」と読ませるように、「みこと」は「ミコ人」だったのではないか。そして「み」は「御」であるとすれば、後は、間にある「こ」が何か尊貴さを表す言葉で、古い時代から存在した形容語だと考えられる。それが何かは、いずれ考えよう。「巫女」を「みこ」と読ませたあたりにヒントがありそうな気がする。つまり、「霊力」に関係するかと思う。あるいはそのまま「巫女的な人」という意味で「ミコヒト」→「ミコト」となったのかもしれない。(「こ」が単独で意味があるのではなく、「みこ」で一単語だという考えだ。もちろん、「こ」単独で意味がある可能性も排除しない。)
(以下某サイトより引用)
次に挙げられるのが、岩波書店から出版された『岩波古語辞典』(大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編/岩波書店/1974)の中に掲載されているサンスクリット語からきているとする説です。
ちなみに、サンスクリット語とは古代インドで使われていた言語で梵語とも呼ばれ、特にお墓に時折記されている文字として知られています。
この説は、「スメラ」は古語で「皇」と表記し、それがサンスクリット語で須弥山(古代インドで世界の中心にあるとされた聖なる山)を意味する「スメール」からきているというものです。つまり、後ろに「ミコト」がつくことで「聖なる君主」を意味する「スメラミコト」となったという考えに立ちます。
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