「混沌堂主人雑記(旧題)」からの抜粋だが、面白い思考課題なのでメモしておく。
かつての学生運動などは「持たざる者」のリベラル運動だったと思われるので、ケン氏の主張はかなり限定されると思うが、主旨は面白い。
「誰のための」「どのような自由か」が議論されず、やみくもに「自由は絶対善である」とする狂信が世界中を覆っている。それに対して秩序の重要性を主張すると、頑迷な保守主義者、伝統主義者、権力の側として排斥されるわけである。
人間には誰でも超人願望があるから、自分だけが超人になりたいと思うわけで、リベラリズムとはその超人願望を背後に隠しているわけだ。形を変えた権力願望である。絶対の自由は神にしかないのだから当たり前の話だ。
前にも書いたが、どうしようもなく下品で低劣な人間がスーパーマンになったら世界はどうなるか、という問題を明示化したのが藤子不二雄の「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」で、これはあらゆる人が読むべき短編漫画である。リベラリズムの戯画として読むことも可能だろう。リベラルとは「自由」なのだから、超人や神こそが絶対の自由を象徴するに決まっている。
盗んだバイクで走り出し、夜中に学校の窓ガラスを壊して回るのが「自由」だとするのを、私は中二病的リベラリズムと言っているのである。殺人の自由や強姦の自由は犯罪者の「自由」だ。それと盗んだバイクで走り出すこととどれほど違うのか。
私が概してロックが嫌いなのも、その種の「自由」がまるで素晴らしいことであるかのように歌われるからである。刺青やピアスでしか示せない自由など、愚劣だとしか思えない。前衛芸術にも同じ心性を感じる。つまり「虚勢」のみっともなさだ。まあ、自由の無い大衆に自慰的満足を与える機能があるのだろう。射精したら終わりで、世界や社会を変えるエネルギーにはまったくならないわけだ。ロックが世界的に流行した背後にはDSの指示がある、という説も荒唐無稽だとは限らないのかもしれない。なお、ロック音楽の音楽的革命のすべてを私が否定しないのは言うまでもない。ビートルズの音楽性の歴史的な新しさや、ロックが権威の虚妄性を打破した部分もあることは認めている。ただ、スタージョンの法則の通り、あらゆるジャンルの8割はクズである。その屑がロックやラップはひどい悪臭がするだけのことだ。
(以下引用)
リベラリズムは本質的に富裕が前提とされます。
その理念は「権力からの個人の権利と財産の保護」にあるからで、個人の権利と財産は富裕者しか持ち得ないからです。
そして、その富裕は基本的には他者からの収奪の上に成り立つもので、西欧の場合は全世界からの搾取、現代では東欧の安価な労働力と奴隷化した難民の上に成立しています。
リベラリズムのリベラルが誰のためのものであるかなど、あまりにも明白なのです。
Posted by ケン at 2022年06月15日 09:56