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凡人が自分の手が届かない事柄を支配しようとする愚

政木和三というのは面白い人物で、有益な発明を幾つもしていながらその特許権を放棄して世間に知られない社会奉仕をする一方で、私のような凡俗には信じがたいような神秘主義的思想の持ち主でもある。「大摩邇」に引用された彼の文章の中で、一般人にも大きな便宜である「考え方」をここに転載しておく。
ここに書かれた事例の本質は簡単なことで、(古い事例になるが)ボーリングの球を投げる(転がす)時、はるか彼方のピンの群れを目掛けて投じると、ほぼ必ず失敗する。だが、間近にあるスパット(と言ったと思うが、レーンの途中に描かれた印である)を目標にして投げると、かなり正確に投げられるのである。あるいは、銃の射撃でもいい。遠くの目標を睨みつけ、それを目掛けて撃つのではなく、目標と銃の照準(と言うと思うが、目の近くの目印)と照星(銃の先端の目印)を合わせて撃つのである。見ているのは主に照星と照準だ。つまり、近いところを見ている。
これを大きく言えば、ヴォルテールの「カンディード」の末尾に書かれた人生訓「自分の足元を耕せ」ということになるだろう。
下の事例は、大きなゴルフ場を意識から追放して、自分の足元1平方メートルだけが『自分のゴルフ場』だ、とする発想が非常に面白い。つまり、自分がコントロールできるのはそのわずかな面積の中だけなのである。さらに言えば、自分が支配できるのは自分だけであり、それさえもできない人間は膨大にいる。つまり、精神異常である。ゴルフでミスをするのは「瞬間的な小さな精神異常」であるとも言える。これはプロでも免れない。
もちろん、これ(自己制御可能な範囲の問題)は金力や権力で他者を支配する類の話とはまったく別問題だ。



(以下引用)

 筆者は

 『無欲の大欲』

 の意義をゴルフによって体得した。

 昭和五十二年十月、田辺カントリークラブにおいて実施された関西シニア選手権試合の当日である。

 第一打を打とうとしたとき、インスピレーションの形で頭にひらめいた。

 『なんじのゴルフ場は足許一米(メートル)平方である』

 この言葉である。

 いままでは真ん中へ飛ばそうとか、グリーンの旗の近くへ寄せようとか思って打つために、頭が動いたり、手に力が入ってとんでもない方向に飛んでいったが、この神示、

 『なんじのゴルフ場は足許一米平方』

 と考えれば、飛ばそうと思わなくてもよい。

 方向は最初構える時に決めるだけでよい。

 スパットを見付け、その方向に素振りをする気持ちでクラブを振り、クラブヘッドをボールに当てるだけでよい。

 ボールに当たれば、ボールはその力だけ飛んでゆく、目の前に川があろうと、池があろうと、バンカーがあろうとも、それらは全て地上にあるものであった。

 ボールの飛ぶ空中とは何の関係もない存在である。

 ゴルフをはじめたころは、目の前に大きな池があれば、力んで池の中に何個もボールを打ち込んだものである。

 空中を飛ぶボールにとっては、無関係な川や池を意識したために力がはいり、そのような不首尾な結果を招いたものである。

 自分のゴルフ場が、自分の足許一米平方だけであって、広い草原の上はボールの飛ぶ空間であり、飛んでいるボールには地上は無関係である。

 落下したとき、ボールの近く数平方米だけが必要なゴルフ場となる。

 当日は、第一打の瞬間に頭の中にひらめいた言葉によって、目先の欲望を捨て去ることができて、選手権の二日目を無欲のプレーが続き、そのために状勢が有利に展開し、ついに優勝の栄をになうことになった。

 無欲の大欲。

 この相反するような言葉は、目前の欲望を捨てて、自分のすべきことを黙々とやっておれば、大きな成果が自分のものとなることを教えている。

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なぜ弱点を克服する努力をしなかったのか

別ブログに書いた記事である。クロアチア戦でPK戦になる前から解説の本田圭介がPK戦になるのを恐れていたという。つまり、日本がPK戦に弱いことを熟知していたということだ。

(追記)別スレッドのコメントの一部である。GKはゴールキーパーのことだろう。
        • 5. ななしさん@スタジアム
        •  
        • December 07, 2022 20:39
        •  
      ID:tBgCgGrz0
        • PKの練習は必要
          主にGKは
          キッカーは遊び感覚でやればいい
        • 6. ななしさん@スタジアム
        •  
        • December 07, 2022 20:40
        •  
      ID:Bwff9blI0
        • バスケでいうフリースロー練習みたいなものではないのか?
          プロなのにそんな基本的な練習すらやってなかったのかとちょっと驚いた
        • 7. ななしさん@スタジアム
        •  
        • December 07, 2022 20:41
        •  
      ID:byQ8YikZ0
        • 今の日本じゃカウンターサッカーしか無理やん
          ポゼッションサッカー出来るほどの技術ないもん
      • 11. ななしさん@スタジアム
      •  
      • December 07, 2022 20:45
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    ID:NJM0qzHg0
    • 狙ったところに誰も蹴れないからな
      4隅に強く蹴る技術があればキーパーはノーチャンスなのに
      甘いコース蹴って止められたり、真ん中蹴って入ったり運ゲーしてる
PKの練習はゴールキーパーの練習にもなるのだから、なぜそれをやらないのか不思議である。ゴールキーパーなど、ほとんど走らない、運動量の極端に少ないポジションであり、PKでボールに飛びつく練習でもしないとジャンプ力と反射神経と読みと勘が育たないだろう。それはPK以外のシュートに対しても役立って当然だ。
そして、他のポジションの選手がPKの練習をしていないということは、基本的に「シュートそのものの練習をしていない」ことであり、試合の流れの中での偶然的なシュートだけがシュートになっていて、キック力の増強練習が疎かにされているということでもあるだろう。吉田麻也のように、PKでDFが蹴るということ自体が馬鹿げている。DFがゴールに向けてシュートするなど絶対にありえない事態だろう。なぜFWが手を上げて志願しないのか。つまり、日本というチームには本物のFWが存在していないということだ。それが日本の得点力の低さの根本原因である。

「ボールを拾う」練習を積んでいるバレーボールの選手を連れてきて2週間くらいゴールキーパーの特訓をしたほうが、PK防御の成績は上になるのではないか。身長も高い方がキーパーとしては有利だし。飛んでくるボールの位置や軌道を瞬時に判断する能力も高いはずだ。
ついでに言えば、陸上や野球でレギュラーになれなかった選手の多くはサッカー選手になれば成功できると思う。なぜなら、身体の頑丈さと素材としての運動能力の高さは折り紙付きだからだ。ハンマー投げの室伏選手など、あの体で実はダッシュ力や瞬発力も凄かったのである。
他競技の二流選手や三流選手の中にサッカーの素晴らしい才能を持った選手がたくさん埋もれていると思う。そういう人々はしかし、子供のころからサッカーをやってきて他の子供たちにそれだけで差をつけてきた「サッカーエリート」に自分は及ばないと勘違いしているのである。
つまり、井口博士の言う「子供横綱」理論である。これが日本のスポーツ界全体の宿痾だ。




       
       
       
1: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:12:25.47 ID:m8+FijcBa
bal0002-001
【W杯】スペイン代表エンリケ監督が断言「PKは運ではない」 選手たちに課したトレーニング「決まったルーティーンが必要」

スペイン代表のルイス・エンリケ監督は、現地時間12月6日のカタール・ワールドカップ(W杯)の決勝トーナメント1回戦、モロッコ代表との試合に向けた前日会見で、PK(ペナルティーキック)戦を想定して代表選手たちに「1年間でPKを1000本蹴る」という練習を指示していたと話している。
 


2: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:12:37.14 ID:m8+FijcBa
たしかに
3: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:13:26.12 ID:UaBefgDja
まあ普通は蹴らんもんな
パの投手のバッティングみたいなもんやし
8: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:15:28.30 ID:yBH9XYm00
運ゲー扱いしてるやつって相手ゴールキーパーに対してめっちゃ失礼だよな
10: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:15:55.71 ID:d8QhI9Xj0
フツーは練習しないからあえて練習しないからしろって指示出してんじゃん?
12: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:17:31.49 ID:UaBefgDja
まあグループリーグ突破には不要だからな
17: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:20:49.39 ID:UaBefgDja
結果はしゃーないが意図は聞いてみたいよな
21: それでも動く名無し 2022/12/06(火) 17:21:34.00 ID:BeKm+mlO0
世界最大の注目を集めるWカップがPKあるのに
PKないルールでやってるって意味わかんねーよな

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「させていただきます」の無礼さ、傲慢さ

「プレジデントオンライン」記事で、「させていただく」という語法の慇懃無礼さを問題視したのはいいが、無意味にアカデミックな文飾が多く、読みにくくなっているのが欠点である。
私が感心した一か所は赤字にしておく。要するに「こちらは相手の行為を許容していないのに、許容したことに勝手にされている」のが「させていただく」なのである。本当なら「~してよろしいですか」の後に、相手のOKを得て「では~させていただきます」となるべきであるわけだ。

(以下引用)

そもそも敬語になっていない…「させていただく」と言われるとイラッとする言語学的な理由【2022編集部セレクション】

椎名 美智 - 昨日 15:15




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2022年上半期(1月~6月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2022年2月20日)「させていただきます」という表現は敬語なのだろうか。法政大学文学部の椎名美智教授は「相手に敬意を向ける謙譲語ではなく、自分の丁寧さを示す丁重語として使われている。だから恩着せがましく感じるのだろう」という――。

※本稿は、椎名美智『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ』(角川新書)の一部を再編集したものです。

「させていただく」は関西発祥?

「させていただく」は関西と関係が深いと言われています。それが関東に、そして全国に広がったとされています。一向宗の信者であった近江商人が行商しながら全国に広めたという説もあります。


司馬遼太郎の『街道をゆく24 近江散歩、奈良散歩』から関連箇所を引用します。


日本語には、させて頂きます、というふしぎな語法がある。


この語法は上方から出た。ちかごろは東京弁にも入りこんで、標準語を混乱(?)させている。「それでは帰らせて頂きます」。(中略)「はい、おかげ様で、元気に暮させて頂いております」。


この語法は、浄土真宗(真宗・門徒・本願寺)の教義上から出たもので、(中略)絶対他力を想定してしか成立しない。(中略)「地下鉄で虎ノ門までゆかせて頂きました」などと言う。相手の銭で乗ったわけではない。自分の足と銭で地下鉄に乗ったのに、「頂きました」などというのは、他力への信仰が存在するためである。もっともいまは語法だけになっている。(※)


※司馬遼太郎(2009)『街道をゆく24 近江散歩、奈良散歩』朝日新聞出版、引用は11~12頁からです。


この「おかげさまの精神」は、今でも「させていただく」に含まれているのでしょうか? すぐに「そうだ」と言えないのは、意識調査から「させていただく」の恩恵性を人々が意識しなくなっていることがわかったからです。

本当に込められているのは敬意ではない

私が行った意識調査では、「なぜ『させていただく』を使うのか?」と、使う理由を聞いています。実際の行動と自分の行動に対する自己認識は必ずしも一致するわけではありませんが、参考までに回答を見ると、人々は丁寧さと謙虚さを示すために「させていただく」を使うと答えています。こうした人々の認識は調査結果とほぼ一致しています。しかし、人々が「させていただく」に込めているのは敬意なのでしょうか?


本当に込められているのは、実際には聞き手意識だと私は考えています。あなたに直接向けるのではなく、自分の行為を表現することによって間接的に伝わるあなたへの配慮です。これは従来の敬語の敬意とはちょっと違います。


「させていただく」フレーズ全体は、「あなた認知」(近接化ストラテジー)を丁重に表現する(遠隔化ストラテジー)、遠近両方のストラテジーを用いた「新・丁重語」への変化過程にあります。謙譲語と丁重語は自分がへりくだる点は共通していますが、相違点があります。


謙譲語は自分の行為が相手に向かい、結果として敬意が相手に向かうのですが、丁重語は自分だけで完結する行為を示すので、敬意が相手に向かっていきません。その代わり、丁寧さが自分に向かうのです。つまり、丁重語は自分の丁寧さや謙虚さを示す品行の敬語なのです。

「~させていただきます」にイラっとするのはなぜ?

そのように考えると、「させていただく」はやはり、相手に敬意を向ける謙譲語ではなく、自分の丁寧さを示す丁重語として使われていると考えた方がよいわけです。こうした「させていただく」に含まれている意味合いは、敬意で説明するより、ポライトネスの概念を使って相手との距離感と捉えてそれを微妙に調節していると考えるとしっくりきます。


私が聞いた話として、講演会の入り口で「受講票を確認させていただきます」と言われて怒って出て行った男性の例があります。「させていただきます」と言われてなぜ怒るのかを考えたとき、じつは「いただく」は相手に触れないというまさにそのことにおいて(とりわけ言い切り形で使った場合に)相手に触れることなく結果だけを「もらっちゃうからね」と言われているような感覚を与えてしまう側面があります。それが、否定的な受け止め方を生じさせてしまう原因の一つなのではないかと考えられます。


意識調査では、このような例文に対して、中年層は比較的高い違和感を示していました。こういう場合の遠近両用ストラテジーは、必ずしもすべて人に好印象を与えているわけではないということです。「させていただく」文への違和感にはいくつかの要因が関与しているとはいえ、能動的コミュニケーション動詞が言い切り形で使用されること(たとえば「話させていただきます」や「質問させていただきます」など)は、聞き手が違和感を覚える原因の一つではないかと思います。

遠い相手にも寄り添っているように感じられる

つまり、「させていただく」使用への違和感は、単に使用頻度が高くなったことだけが原因ではなく、どんな動詞と使われているか、後ろがどんな形なのかにも関係しているということです。能動的コミュニケーション動詞の言い切り形に対して、人々は、自分の期待するコミュニケーションのあり方と違うと思っているようです。ここでは話し手の意図と聞き手の解釈の食い違いが起こっています。ここに年齢差も加わってきます。


これまで見てきたことを表でまとめておきます。表にすると、「させていただく」の現状分析と通時的変化の方向性が一致したことが見えてきます。


図表1を上下二層に分けて見ると、二つの調査結果が呼応していることがわかります。意識調査でわかった聞き手の存在・関与の重要性は、コーパス調査で「させていただく」の前にくる「話す」「質問する」など相手を必要とする能動的コミュニケーション動詞の種類が増加していたことと呼応。一方的言語行為への大きい違和感は、相手に交渉の余地を与えない「言い切り形」での使用が特に増えていることと呼応しています。


次に、「させていただく」が持つ矛盾に目を向けてみましょう。元来、「させていただく」は話し手が主語で聞き手に言及しなくてよいという敬避性を備えているので遠隔化ストラテジーが作用します。しかし実際の用法では、相手の存在や関与が意識される動詞と一緒に使われると、違和感が小さく受容度が高いことがわかりました。これは共感性、つまり近接化ストラテジーの効果が加わったからです。


「させていただく」は人との距離をとる意味では敬語と同じ働きをしていますが、運用において近接化を帯びている点が従来の敬語とは異なります。ここでは、そうした遠近両方の性質を持つ「させていただく」を「新・丁重語」と名づけました。「新」を付けることによって、距離をとるだけの「丁重語」と差別化したかったからです。

気遣いのつもりが慇懃無礼になってきている

後ろの形が言い切り形に定型化すると使いやすくなり、私たちの注意は前にくる動詞にシフトします。そして、便利に使えると思って色々な動詞と一緒に使ってきたわけです。でも、ふと後ろを見ると、コミュニケーションが固定化していることに気がつきます。対人配慮が「合理化」されて多様性を失い、「させていただく」フレーズ全体がコミュニカティブな意味合いを失っているのです。


これはコミュニケーションにおける矛盾です。すなわち、コミュニケーションは近接化を図ろうとする行為であるにもかかわらず、そこで最も遠隔化効果の高い「させていただく」を交渉の余地のない言い切り形で使用しているからです。これはコミュニケーションにおいて、アクセルとブレーキとを同時に踏み込むような行為です。「させていただきます」には、ここにも相反する方向性が内在しています。そのことは「させていただく」が人々によく使われていると同時に、人々が違和感を抱く要因の一つになっていました。


ものごとには良い面と悪い面があります。「させていただく」を使うと絶妙な距離感が取れるので若年層に好まれているようです。しかし、アクセルとブレーキを使って微妙な距離感が調節できて便利だと思って使っているうちに使いすぎて、気遣いをやりとりしていたはずが、慇懃無礼になってきているのかもしれません。日本語は文の後ろの方で話し手の態度を示すので、終わり方にもバリエーションが必要だということです。

語尾のテンプレ化が気になってしまう

これを現在の日本語のコミュニケーション状況として眺めると、表面的な配慮は多様化しているにもかかわらず、実際の対人的側面における交渉的配慮は後退し、コミュニケーション全体としては貧弱化していると見ることができます。その意味で、「させていただく」をめぐる問題は、使う側の便利さというメリットが、受け取る側への不快感というデメリットになる矛盾を孕んでいます。そのことは、図表2のように図式化できます。


前にくる動詞の選択肢が多様化して距離感が調節できることは、話し手のインセンティブになっています。使う側は「させていただく」を敬意マーカーとして自分の丁寧さを演出するために使います。しかし、聞き手が気になるのはそこではなく、後ろの活用部分の固定化です。聞き手は「させていただきます」という言い切り形のために、コミュニケーションが自分に開かれていない印象を持つわけです。

「聞き手がどう感じるか」も考慮すること

ここでも話し手の意図と聞き手の解釈が食い違っています。実際のコミュニケーションでは、そこに年齢差や社会的役割が関わってくるのですから、意味合いはもっと複雑になっているはずです。


ここで考えているのは、話し手は丁寧に言ったつもりなのに、相手が失礼だと思うような場合のことです。ポライトネスのはずがインポライトネスになっています。ポライトネスを考える際には、話し手側の意図だけでなく聞き手側の捉え方も考慮に入れなければならないというのが、最近の考え方です。ここで示した「させていただく」をめぐる矛盾は、そのこととも呼応しています。「させていただく」表現に対する矛盾した印象は、こうした話し手側と聞き手側の視点の違いに関係しているのかもしれません。


---------- 椎名 美智(しいな・みち) 法政大学文学部 教授 宮崎県生まれ。言語学者。お茶の水女子大学卒業、エジンバラ大学大学院修士課程修了、お茶の水大学大学院博士課程満期退学、ランカスター大学大学院博士課程修了(Ph. D.)、放送大学大学院博士課程修了〔博士(学術)〕。専門は歴史語用論、コミュニケーション論、文体論。『歴史語用論入門』(共編著、大修館書店)、『歴史語用論の世界』(共編著、ひつじ書房)、『「させていただく」の語用論』(ひつじ書房)など著書多数。近著に『「させていただく」の使い方 日本語と敬語のゆくえ』(角川新書)がある。 ----------




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真理は時の娘

世には「勝者の歴史」しか残らないのだから、歴史上の悪役のどこまでが事実かは分からない。「時の娘」のリチャード三世など、その代表で、彼に対する誹謗のほとんどは敵方の讒謗か、それに基づく後世の伝聞にしかすぎないらしい。まさに「真理(真実)は時の娘」である。これには「時の経過によって真実が表に現れる」と楽観的な解釈もできるが、むしろ、「真実とは、その時代によって異なるものだ」、つまり「真実」というもののあやふやさへの皮肉と見るのが適切だろう。「現代の『真実』」ほど怪しいものはない。911事件のような明白な詐欺事件が、既に歴史的事実として扱われているくらいである。

(以下引用)



リチャード3世英語Richard III1452年10月2日 - 1485年8月22日[1])は、ヨーク朝最後のイングランド王(在位:1483年 - 1485年)。薔薇戦争の最後を飾る王である。


エドワード3世の曾孫であるヨーク公リチャード・プランタジネットセシリー・ネヴィルの八男で、エドワード4世ラトランド伯エドムンドクラレンス公ジョージの弟。即位前はグロスター公に叙されていた(在位:1461年 - 1483年)。護国卿でもあった(在位:1483年)。


戦死した最後のイングランド王であるが、他に戦死した王は1066年ヘイスティングズの戦いで敗死したハロルド2世と、1199年に矢傷がもとで死亡したリチャード1世がいるのみである。1484年1月に王直属の機関として紋章院を創設したことでも知られる。旗印は白い猪、銘は“Loyaulté Me Lie”(ロワイオテ・ム・リ)で、意味は古フランス語で「忠誠がわれを縛る」。

生涯[編集]

幼くして父を失ったリチャードは、兄エドワードや母方の従兄にあたる実力者ウォリック伯リチャード・ネヴィルの庇護をうけて成長した。ウォリック伯の元で少年期を過ごし、騎士としての修業を積み、1461年に兄がエドワード4世としてイングランド王に即位するとグロスター公に叙位された。


政権内の争いから、1470年にエドワード4世がランカスター派に寝返ったウォリック伯によって追放されたとき、ウォリック伯の誘いを拒否して一貫してエドワード4世に忠誠を誓い、翌1471年の兄王の復位に貢献した。1472年ヘンリー6世の継嗣エドワード・オブ・ウェストミンスターの寡婦であったウォリック伯の娘アン・ネヴィルと結婚した。アンの姉イザベル・ネヴィルの寡夫であったリチャードの兄クラレンス公ジョージが1478年に処刑されると、リチャードは広大なウォリック伯領を独占相続して、名実ともに実力者としての地位を確立した。


その後、王妃エリザベス・ウッドヴィル一族が政権内で勢力を伸ばすと、これと対立するようになる。1483年にエドワード4世が病死するとその息子(リチャード自身にとっては甥)であるエドワード5世の摂政(護国卿)に就任。まもなくリヴァーズ伯アンソニー・ウッドヴィルらの王妃一派を捕らえて粛清し、協力者のヘイスティングス男爵ウィリアム・ヘイスティングスも処刑、さらにエドワード5世とその弟リチャード・オブ・シュルーズベリーロンドン塔に幽閉した。2人はそのまま消息不明になり、殺されたとみられる。3ヵ月後の同年6月26日、エドワード5世の正統性を否定した議会に推挙されて(エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの結婚は無効、2人の間の子供は庶子とされた)、イングランド王リチャード3世として即位した。同年、支持者の一人ジョン・ハワードノーフォーク公位(ロンドン塔に幽閉された甥リチャードから剥奪された)を与える。


1483年10月、リチャード3世政権の樹立に貢献のあったバッキンガム公ヘンリー・スタッフォードが反乱を起こすとこれを鎮圧したが、反乱の噂は絶えず、政情は不安定なままに置かれた。1484年4月には一人息子のエドワード・オブ・ミドルハムが夭折し、1485年3月には王妃アン・ネヴィルも病死する。唯一の子供であったエドワードの死後、リチャード3世は一時、自身と王妃の甥であるクラレンス公の幼い遺児ウォリック伯エドワードを王位継承者に指名したが、王妃の死後にそれを取り消し、代わって別の甥(姉エリザベス・オブ・ヨーク (enの息子)であるリンカーン伯ジョン・ド・ラ・ポールを王位継承者に指名した。


1485年8月、ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)がフランスから侵入し、ボズワースの戦いで国王自ら軍を率いて決戦する。この戦いでリチャード3世は味方の裏切りに遭い、自ら斧を振るって奮戦したが戦死した。遺体は、当時の習慣に従って、丸裸にされ晒された。

死後[編集]

評価[編集]

2015年までリチャード3世の墓とされたレスター大聖堂のリチャード3世の墓碑。「1485年8月22日にボズワースにて殺害されたイングランドの王、リチャード3世」と刻まれている。
発掘されたリチャード3世の遺骨(2012年)

リチャード3世はウィリアム・シェイクスピアによって、ヨーク朝に変わって新たに興ったテューダー朝の敵役として稀代の奸物に描かれ、その人物像が後世に広く伝わった。


一方で、リチャード3世の悪名はテューダー朝によって着せられたものであるとして、汚名を雪ぎ「名誉回復」を図ろうとする「リカーディアン (Ricardian」と呼ばれる歴史愛好家たちもおり、欧米には彼らの交流団体も存在する。リチャード3世を兄(エドワード4世)思いで甥殺しなどしない正義感の強い人物として描くベストセラー小説も、ジョセフィン・テイ時の娘』(1951年)をはじめとして数多くある。1980年代以降には以下のような作品がある。

ただし、デヴィッド・スターキー英語版のように著名な歴史家が「甥殺しのあの悪人」と書くなど、評価はいまだ分かれている。2002年、BBCが発表した「100名の最も偉大な英国人」では82位に選出された。

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深淵に見返された人間の目

粗暴犯の顔というのはだいたい判別できるもので、年齢とは無関係にやはり粗暴な顔をしている。そしてそれは犯罪者か、まだ犯罪をしていない人間かには関係がない。
知能犯の顔は判別が難しい。罪を犯す以前は普通人でやや知的な顔、というだけだ。ただ、学歴の高い人間が知的な顔をしているわけでもない。それより、知的な職業(詐欺師とかww)歴が長い人間に知的な顔が多いようだ。
などと書いたのは、人間の顔によってその人間性を判別することが可能か、という問題を考察しようという意図である。というのも、今読み始めたばかりのジョセフィン・ティの「時の娘」の話の始まりが、主人公の刑事が病気療養の徒然にふと見た肖像画のリチャード三世の顔に惹きつけられ、これは世間で言われているような極悪人の顔ではない、と考えるところから始まっていると聞いているからだ。そこで、私も、その文庫本の表紙に載っていたその肖像画を眺めて、その人格判断をしてみようと考えた次第である。
私が見た感じでは、その顔は悪人の顔と言うより、何か性格の弱さを感じる顔である。強い欲望から意志的に悪事を行うのではなく、「これをやる必要が自分にはある」という思い込みで、悪事をやる感じの顔だ。つまり、自分の思想に精神が占領されてしまう人間、という感じで、いわば「罪と罰」のラスコリニコフ的な顔である。描かれた当人がこの肖像画の顔と同じなら、この絵描きはかなり優秀な画家だろう。対象の外見だけでなく精神まで描いたのだから。「時の娘」の主人公の刑事がこの肖像に惹かれたのは当然である。
ちなみに、その肖像画で特徴的なのはその目である。何かを見ているようで見ていない。見ているのは自分の精神の中の何かだ。


(追記)今、先ほど読み止めた箇所の続きを読むと、そこにこういう記述がある。リチャードの目についての意見は(私が下線を付けた部分に関して)私とティ女史は一致していたようだ。

「一見したところでは、その両眼はいかにも凝然とこちらを見据えているかのようであるが、なおよく見れば、じつはそれは内にこもった、ほとんど放心状態と言っていいような眼つきであることがわかるのだった。」




King Richard III.jpg
リチャード3世
在位1483年6月26日 - 1485年8月22日
戴冠式1483年7月6日


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メタバースという外部妄想世界と読書という内部妄想世界

日本政府が大真面目に広報している「ムーンショット計画」なども人間と機械の(脳にまで至る)融合という、ある意味アニメ的な妄想だが、メタバースというアイデアは仮想現実の中で社会を作り、その中で「生活」するという、まさに空想的、いや、妄想的世界である。細野守監督などはこの妄想が大好きで、幾つかの作品でこの仕掛けを使っている。
だが、現実の世界で美味な料理を食う事と、メタバースの世界で物を食う事が同一の快感を与えるはずがない。これを敷衍すると、メタバースとは読書と原理的には何も変わることは無いのである。
つまり、妄想世界を作るには何もITの力を借りる必要など無く、本を読めばいいわけだ。プラトンの本を読めば即座にソクラテスと会話ができるし、論語を読めば孔子と会話ができる。トルストイともドストエフスキーとも会話ができる。自分の脳が彼らの思想と知性に触れて高次元化するのである。「我が闘争」を読めばヒトラーの脳内世界だろうが体験できる。剣豪になることもできれば宇宙の果てに行くこともできるのだ。それに比べたら、メタバース体験など、遊園地だろう。

(以下引用)


「プレステの父」久夛良木氏、メタバースに否定的な見解示す


画像はShutterstockのライセンス許諾により使用

メタバースの価値が問われる

「プレイステーションの父」と呼ばれる久夛良木健(くたらぎ・けん)氏は20日、メタバース(仮想空間)に否定的な見解を示した。同氏にインタビューを行った『ブルームバーグ』が報じた。


久夛良木氏は、現実世界に存在することが重要であり、仮想世界に入り込むことに価値を見出せないと説明。分身となるアバターを使うメタバースは、「匿名の掲示板サイト」と本質的には変わらないと述べている。


メタバースとは


インターネット上に構築された、多人数参加型の3次元仮想現実世界のこと。アバターを使ってゲームや音楽のライブ、オンラインカンファレンスに参加できるなど、様々な領域で活用が期待されている。


▶️仮想通貨用語集


関連次世代の仮想空間サービス「メタバース」とは|ブロックチェーンとの関係も解説


プレイステーションはソニーの家庭用ゲーム機。久夛良木氏はプレイステーションの生みの親として知られ、過去にはソニーの副社長も務めた。


今回のインタビューで久夛良木氏は、ソニーも開発するメタバース用のヘッドセットについては、「個人的な好みはあるだろうが、現実世界と切り離されるため自分は好きではない」と説明している。


同氏は現在、ロボットやモビリティソリューション向けのAIソフトウェアの開発を行う「アセントロボティクス社」の最高経営責任者(CEO)。同社は20日、ソニーおよびSBIグループを引受先とした第三者割当増資で、10億円の資金調達を行ったことを発表している。


アセントロボティクスは現実世界とサイバー空間をシームレスに融合することを目的としているが、ガジェットをあまり使わない方法を開発。久夛良木氏は「技術は現実とサイバー空間を分離するのではなく、融合するために活用すべきだ」とも述べ、同社の取り組みとメタバースは方向性が異なるとの認識を示したという。

大手企業の動向

現実世界を重視する姿勢は、アップル社も同じと見られる。先週には、仮想世界ではなく、現実の環境と組み合わせた技術を重視しているとし、アップル社はメタバース事業には参入しない可能性が浮上した。


関連米アップル、メタバース事業には参入しない方針か=報道


ソニーについては今月、プレイステーションの開発・販売などを行うソニー・インタラクティブエンタテインメントが、次世代のVR(仮想現実)ゲームシステムのリリース予定を発表。新システムの導入により、プレイヤーは、ゲーム内に実在しているかのような感覚や没入感、エモーションをますます高められるという。


商品名は、PlayStation®5向け次世代バーチャルリアリティシステム「PlayStation®VR2」と、新しいVRコントローラー「PlayStation VR2 Sense™コントローラー」だとした。


関連ソニー、次世代の仮想現実ゲームをリリース予定


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「団体行動」と「チームプレイ」

米原万里の「打ちのめされるようなすごい本」の解説に井上ひさしが、この本の中での米原万里の言葉として書いているが、これは非常に面白い指摘だな、と思ったので引用しておく。

「日本人は団体行動は得意だが、実はチーム・プレイは苦手である」

何となく、この指摘は正しいようでもあり、間違っているようでもある。
正しいと感じる理由は、サッカー、間違っていると感じる理由はかつての東京オリンピックの女子バレーボールだが、サッカーも東京オリンピックでは好成績を挙げたのだから、これは、世界の中でのサッカーやバレーボールがまだ市民権を得ていない時期だったからかもしれない。それ以降で集団競技で日本が活躍した事例はせいぜいWBC(ワールドベースボールクラシック)での日本の優勝くらいか。ただ、これも野球が普及している国の数が少ないことが大きな原因だろう。それに野球は「個人プレーの集合」というスポーツであり、チームプレーが主体ではない。
で、米原万里の指摘が正しいと仮定して、その原因を考えてみると、

「団体行動は『上からの命令に従順に従うこと』であり、チームプレーは『各人が自分の為すべき仕事を熱意と誠意をもって実行する』ことだから」と言えるように思う。

しかし、そうだとすると、日本以外の外国の人も同じ(チームプレーなどしない)なのではないか、という気もしてくる。特に、仕事をやる際の真面目さは、日本人のほうが世界的にも上位だと思われる。ならば、この「チームプレーの定義」は間違っていると思われる。では、「チームプレー」に必須の要素は何か。
それは、「全体の目的を最優先する」姿勢なのではないか、と今考えたのだが、どうだろうか。つまり、目先の功利ではなく、「最終的な目的のために自分は今、何をすべきか」を考える姿勢だ。これは組織の指導者も同じことである。日本の場合、何か「やっているふりはする」が、それが何のための仕事なのか、ということがいつの間にか見えなくなって、スローガンだけで動いていることが多いのではないか。
最終的な目的のために役立つかどうかではなく、自分のポジションでの評価だけが問題というのは日本人だけでなく世界的にそうなのだろうか。
かなり不満足な考察なので、いずれまた考えてみたい。少なくとも「団体行動」はロボット(自分で考えない機械的存在)がもっとも得意とするもので、日本人もそれが得意なのは分かる。




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