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人生は帰らざる河の上を流れていく舟

映画「帰らざる河」の主題歌へのコメントのひとつだが、

Life itself is a River of no return

は名言である。まあ、誰でも人生の時は二度と戻らないとは知っているが、それが「River of no return」と象徴化されると胸に迫るものがあるわけだ。

歌詞サイトの多くはコピーできない仕様なので、某語学ブログのたぶん耳コピ歌詞を載せておく。訳は気に入らないし、英語自体は意味不明の「ウェイラリー」(たぶん、囃子言葉的なものだろう。私の山勘では"wait a little"をわざと訛らせたのではないか。)以外は非常に分かりやすいので、ご自分で読解するといい。なお、コピーの一部を読みやすく手直しした。



♪River of No Return♪(M.M. version)


Hmmm
If you listen,
You can hear it call

Wailerie (wailerie)

There is a river
calledThe River of No Return
Sometimes it's peaceful
And sometimes wild and free

Love is a traveller
On the River of No Return
Swept on forever to be lost
In the stormy sea

(Wailerie)

I can hear the river call

(No return  no return)
No return  no return
(Wailerie)

I can hear my lover call
'Come to me'

(No Return  no return)

I lost my love on the river
And forever
My heart will yearn
Gone gone forever
Down the River of No Return

Wailerie
(wailerie)
wailerie.....
You never return to me            

(No return  no return)









(以下引用)
Lovely song. Life itself is a river of no return...

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「おもろ」考

私は沖縄の人間だが、昔から沖縄の古代歌謡集「おもろさうし」の「おもろ」の意味が分からなくて心の底にその疑問が蟠っていた。「おもろさうし」だけならいいが、今では地名にまで「おもろ町」という地名までできているのに、その意味が分からないとなると問題だと思うのだが、他の沖縄県人は気にしないのだろうか。
で、「おもろ」の意味についての現在の代表的な説は次のようなものらしい。
の解説

沖縄奄美 (あまみ) 群島に伝わる古代歌謡。神事や宮廷の祝宴などに歌われた叙事詩。

[補説]「思い」と同語源の「うむい」の変化した語で、神に申し上げるの意というが、ほかにも諸説がある。

この説には、先ほど読んだ法政大学文学部助教授(現職は知らない)の間宮厚司氏も疑念を出している。その疑問点の詳細は忘れたが、私なりに考えると、まず「思い」と「申し上げる」はまったく別の事であって、しかも名詞と動詞の違いもある。
で、間宮氏が推奨している説は、(「思い」説が定説扱いされる以前にはこの説を主張する人も何人かいたようだ。伊波普猷などもそうだったのではないか。)貴人や神の所在の場所を意味する「御室(みむろ)」が「おむろ」と別読みされて、その「む」が前の「お」に引きずられて「も」と音韻変化して「おもろ」になったのではないか、という説だ。
これは京都の仁和寺が「御室(おむろ)」と呼ばれていること(おそらく、天皇が一時期所在したのではなかったか。)に通じるものだ。
そういう「貴人や神の前で歌う歌」を「おもろさうし」は集めたのだろう。
で、「おもろ」が場所のことなら、「思い町」とは段違いに「御室町」のほうが地名にふさわしいわけである。

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美が美である時と美でなくなる時

小林秀雄と江藤淳の対談の中で江藤淳が語ったエピソードだが、或る大学教授が美術館の青磁か何かが陳列されている部屋に入ると、かけらばかりがしばらく並んでいて、そのどれも非常に美しく感じた。ところが最後に、完全な形の壺があり、その完璧さを見るといやな感じがあり、かけらを見ている時の自由さがなくなった。そして振り返ってかけらを見ると、かけらは醜かった、という話である。
これは「美」というものについての示唆的なエピソードだと思う。
私がこれを読んで即座に想起したのは、「サモトラケのニケ」と「ミロのヴィーナス」である。ニケは、頭も両腕も無い(と記憶している。)胴体と下肢と背中の翼だけだったはずだ。ミロのヴィーナスはご存じの通り、両腕が無い。では。これらの彫刻に欠けている頭や腕があったら、もっと美しかっただろうか。いや、そうは思わない。特にニケは、あの姿こそが完璧な姿だと思う。頭や両腕が無いからこそ、見る者はそこに何とも言えない「美しいもの」を心の中、頭の中で漠然と補完するのである。ヴィーナスも同じだ。だが、無理に想像で補完しなくても、我々は、目の前のヴィーナスの「両腕の無い姿」をひとつの完璧なフォルムとして嘆賞するのである。その顔や胴体の美しさは、両腕という「余計なもの」が無いために、余計に我々の目に迫ってくるのである。
つまり、美というものは対象物の中にだけあるのではない。それは対象物と見る者との共同作業だ、ということが、最初のエピソードやこのふたつの彫像から分かるのだ。
前に書いたショーペンハウエルの認識論と通底する話である。
冒頭の話に戻る。なぜ、「美しかったかけら」は、完璧な姿の壺を見た後に「醜いもの」となったのか。それは、かけらだけを見ていた時に見る人が自分の心の中で「創造した(想像というほど明白なものではないが、ある種の「後光」を「創造」したのである。)」姿が、「完璧な姿の壺」の案外な醜さの印象によって、その後光が消滅したのである。

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今の子供は英語が苦手?

「紙谷研究所」から転載。途中省略。
私は世界史の上での西洋の暴虐ぶりへの反感から西洋嫌悪症というか、白人差別的なところがあるのだが、英語は好きで、もしも触れる機会があればフランス語も好きになったかもしれない。ドイツ語は大学1年次に少しやったが言葉自体は嫌いではない。まあ、漢文も好きだし古文も好きなので、語学自体が嫌いではないと思うが、怠け者なので何一つまともに勉強していない。その中では英語は比較的真面目に高校浪人時代は勉強したが、まったく物にならなかった。しかし、ジャズやポップスの英語歌詞を自分で訳したりする程度には好きだ。
で、おそらく私の英語勉強法は間違っていたと思うのだが、それは語彙力が付いていないという部分だ。その原因は、「発音が分からない」というのが一番の原因である可能性がある。つまり、発音記号だけを見ても本当の発音が分からないから、単に意味と綴りだけを覚えることになるわけだ。これは実は教師の発音を聞いて覚える方法の限界でもある。その教師の発音が本当に正しいと確信できないから、どうしてもいい加減に聞いてしまうのである。たとえ発音の優れた教師が担当でも、自分自身の発音がその教師の発音と同じかどうかは自分では分からない。
まあ、今の時代なら、音声機器を使って英語の発音を覚える方法も容易なのではないか。
問題は、下の記事のように「あまりに短期間であまりに大量の単語を覚えることを強要すること」の悪影響である。それは下のグラフに如実に表れている。

(以下引用)

今年度の中学英語が大変になっている可能性はないのか

  

 中2の娘の定期テストの結果を見る。


 英語の最下位クラス(0〜29点/100点満点)にかなりの人数がたまっている。他の教科と比べても段違いだ。1学期・2学期・3学期とこの傾向は変わらない。


 グラフにしてみた。


 


f:id:kamiyakenkyujo:20220309150009j:plain


 


 


f:id:kamiyakenkyujo:20220309145419j:plain


 


f:id:kamiyakenkyujo:20220309145436j:plain


 この学校だけ、英語の授業が悪いのだろうか?


 そういう可能性もある。


 しかし、今年から中学校の英語が変わった、と前に記事で書いた。


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 昨年の10月22日付「しんぶん赤旗」でもそのように書かれていた。


blog.goo.ne.jp


 


 


 娘に話を聞いてみると、娘が受けている授業は決して「英語で全部話している」わけではなく、日本人の先生がふつうに日本語で話しかけてくる授業だということである。娘は英語の授業に不満があるのだが、その不満の中身を聞くと、「文法だけ教えるみたいな…」と、赤旗や日経の記事とは逆のことを述べている。


 テスト結果に保護者が何か書いて担任に返す通信があるのだが、そこで「どうして学年全体でこんなに英語の出来が悪くなってしまっているんですか」と疑問を書いたのだが、担任から返事はなかった。


 


 このことについて、共産党の福岡市議である山口湧人議員が3月10日の福岡市議会(条例予算特別委員会の教育こども分科会)で質問していた。


 (中略)


 結構重大なことだと思う。なぜなら、事前に「これは悪くなるぞ」という予想が出ていて、それを裏づけるかのような結果が出ているからである。


 しかし、あくまでそれは「1つの学校のデータ」に過ぎない。


 また、個別の取材(娘)では懸念されていたことが現実の授業では起きていないようにも考えられる。


 うーん、これが全市・全国のトレンドかどうかもわからないので、何かそれを検証するデータがあればいいんだが…。誰か取材してくれないだろうか。(人任せ)


 


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アニメ「平家物語」のこと

「平家物語」だが、全12回か13回(ワンクール)で作るという話を聞いてがっかりしたものである。あの長編をわずか12回かそこらで描くのは、いくら吉田玲子脚本でも不可能だろう、と思ったからだ。で、現在、終わり少し前まで見ているが、感想は下の引用とほぼ同じである。まあ、私は少し厳しい見方だが、それは最初からの「長さのための無理」のせいである。
「平家物語」をアニメでやるのは素晴らしいが、それは100回くらいの長さが最低でも必要だろう。NHKあたりで1年をかけてやるべきものだ。
山田尚子監督は健闘しているが、パステル調の淡い色彩は日本的な美の世界にはあまり合わない気がする。もっと日本画や水墨画の技法を使って、そして夜の闇の凄さ、そこに生まれる月光の美しさなど、チャレンジしたらよかったのに、と思う。たとえば、「小督」の場面など、夜の美しさの見せ場である。音楽も琵琶と尺八で見事に日本的な荒涼の美を描いた武満徹の「ノベンバー・ステップス」などがぴったりだったのではないか。あまり、現在の若者に受けようと思わないで、日本的な美の追求をするべきだっただろう。
まあ、「平家物語」は黒澤明が映画化したいとずっと思っていて果たせなかった作品だから実写化は無理だろうが、アニメなら実写以上の表現能力がある。今度は長編の「アニメ平家物語」を期待したい。



シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。


世界は美しいが醜い──アニメ『平家物語』


 
2022年の冬アニメをじっくり鑑賞している暇は無いのだけど、どうしても観ないわけにいかないと目を付けていたのが『平家物語』だった。
 
絵柄も話題性も自分が好きな方面の作品ではなく、アニメの通人が云々する方面のようにもみえた。とはいえ尻込みしていられない。なぜならタイトルが『平家物語』だから。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。それなら観るしかない。
 

www.youtube.com
 
で、観た。
かじりついて観てしまっている。
 
9話まで観たが、この9話のなかで平家の栄枯盛衰がおおよそ描かれきっていた。私は原作でお寺が燃える話がすごく好きで、善光寺などは、ほとんどとばっちりのように炎上していてそれも好感が持てるのだけど、このアニメ版でも寺社がしっかり狼藉&炎上している。平安時代末期の末法観に彩りを沿えていて、とても良かった。
 
 

娑婆は美しくも醜い。人もまた。

 
もちろん寺社の炎上ばかりが『平家物語』の魅力なのではなく。
 
たとえば平清盛は、あくがつよく、強欲で、強引な人物として描かれる一方、才気煥発で稀有壮大な人物としても描かれ、後白河上皇は楽しげで人の良さそうな顔つきと怖ろしい陰謀家の顔つきをしていて、どちらも良かった。
 
平重盛とその息子たち、そのほかの平家一門も、その人柄や得手不得手がわかりやすく・覚えやすく描かれていて見ていて楽しい。重盛の息子たちは作中もすくすくと成長していき、そのさまも見ていて楽しかった。
 
徳子たち、女性陣もふるっている。
 
が、なんといっても平家物語のいいところは、そんな平家一門とその周辺が無常の風に吹かれてたちまち滅びていくところだ。これがたまらない。
 
主要人物のなかでは、まず平重盛が早逝する。もし重盛が生きていたら、後年の平家の没落フラグは回避できていたのではないか? そう期待させる要石の退場を、アニメ版『平家物語』は主人公・びわの特殊能力の継承とあわせて描いている。
 
続いて平清盛。アニメをとおして物語全体を眺めてみると、平清盛も早く死んでしまった人物で、もうしばらく生きていたら平家没落のプロセスも違っていたのでは、と思わせる死にっぷりだった。
 
じゃあ物語の筋として、重盛や清盛が生き永らえる根拠というか、必然性があったのかといったら、どこにもなさそうだった。原作でもこのアニメ版でも、平家には罰が当たって当然の咎、カルマの蓄積があった。東大寺も興福寺も三井寺も清水寺も焼いたのだから仏罰覿面だし、そうでなくても平家一門はおごり高ぶり、四方八方に狼藉を働いてきた。だから、その平家一門の首脳陣には罰が当たってしかるべきなのである。少なくとも物語の大きな筋として、彼らはきっちり苦しんで死ぬべき人々だった。
 
けれども平家没落は、咎を引き受けるべき大人たちだけでなく、伸び盛りの若者や子どもをも巻き込んでいく。アニメ版9話では、美男子として知られる敦盛と、笛の名手である清経の二人が世を去った。ネタバレがはっきりしている平家物語だから、他の若者たちが今後どうなるのか、安徳天皇がどうなるのかは語るまでもない。平家物語は悲劇だ。その悲劇がアニメになった時、こうもきっちり悲劇的なアニメになるのかと感心した。と同時にすっかり悲しくなってしまった。たまらねえなあ。
  
 


世界は美しいと歌うけれども

 
このアニメの主題歌『光るとき』は、いかにも平家物語を指しているかのように、以下のように歌う。
 


何回だって言うよ 世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても
今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ


 
充実した制作陣のおかげか、挿入される花(と、その花がぼたりと落ちる描写)が美しいためか、とにかく、アニメ『平家物語』の世界は美しい。いや、原作の平家物語だって人の情、人の勇気、そういったものに胸を打たれるシーンがたくさんある。国語の教科書にも出てくる那須与一のシーンもそのひとつかもしれない。
 
だから主人公であるびわが見届け、後世に語っていく世界とは、悲しくて苦しくても美しい世界だったのだと思う。
 
じゃあ、美しい世界とは、世界の美しさとは、どのようにして成り立っていたのか? アニメ版も、そこのところは下品にならない範囲でしっかり描いていたように思う。強い者が奪い、弱い者が奪われて泣く、醜い末法平安ワールドがそこにあった。びわの両親もびわ自身も、そうした弱肉強食の世界に苦しめられて、奪われてきた側だ。びわが、それでも世界は美しい、君のまま光ってゆけよと歌うとしたら、それはとても尊いことだ。しかしその美しさは、いわば泥の中に咲いた蓮の花も同然、それか死体の上に咲いた彼岸花だったりしないか。
 
そしてびわ自身はともかく、作中で美しく咲き誇った花たちも次々に散ってゆく。
 
日本人の心には「桜は散るから美しい」といった感性があるというが、そうだとしたら、私はそのバイアスに基づき、平家物語で散っていく人々をことさら美しいと感じているのかもしれない。いや、しのごの言わず美しいものは美しいと言おう。けれども。
 
けれども、このアニメ版の平家物語は美しい悲劇の周辺にある醜さをあまり躱していない。いや、作品の品(ひん)とか放送コードとかを無視すれば、こんなものは幾らでも醜く描けるだろうけれど、作品を毀損しない範囲で醜さを想起できるようには作られている。美しさの裏側にべっとりとこびりついた醜さ。「世界は美しいよ、だけど……」と言いたくなるような含みがこの作品にはいつもある。それもまた、たまらない。
 
平家物語という美しくて醜い悲劇は、あと2話残っている。
最終回のストーリーは初めから決まっているけれども、そのストーリーがアニメのなかでどう描かれ、登場人物たちがどのような光を放つのかは観てみなければわからない。楽しみだ。びわと一緒に、壇ノ浦まで見届けたい。
 
 


あの人はジョーカー

 
ところで、後白河上皇ってこんなに凄かったのか。作中では陰謀家であると同時に楽しげな人物でもあり、木曾義仲に顔をしかめていたり、幽閉されて悔しがったり、なんとも人間的なお人だった。
 
とはいえ栄枯盛衰の大波小波のなか、この人はのらりくらりと生き残って、たぶん、最終回を無事に迎えるのだろう。政治の舵取りが上手かったのもさることながら、平家の要人が次々に世を去るなか、まず健康に長らえたこと自体、ずるいほど幸運に見える。
 
なにしろ保元の乱の勝者なのだから、幸運、という言葉だけで後白河上皇を片付けることはできないのだけど、才気だけで生き残れるほど甘い時代でないことは清盛や重盛が身をもって示しているわけで。
 
最終回のストーリーを知っている側からすると、後白河上皇がジョーカーにみえる。なんだかんだ人生をエンジョイしている感じも良い。こんな風に世渡りできる人間は稀だが、そういう稀な人生があるのも、また娑婆だったりするし、こういう人生があるから、余計、平家(や源氏)の悲劇が悲劇的にみえてならない。
 

 



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山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う

前に、英語では愛や恋を何でもloveでひとまとめにしてしまう、と書いたのだが、日本人にはこういう大雑把さは無いというか、嫌うのではないか。
若いころの異性への感情を分類しても「関心→憧れ→好き→恋」くらいの段階がありそうだ。まあ、好きと恋の間に段階があるというのは私の判断だ。
で、この中の「憧れ」という時期が日本人はわりと長いのではないか、という気がするのだが、英語で憧れを何と言うのか、思いつかないのでネットで調べると、次の3種類が出てきた。
憧れ」の翻訳
名詞

longing
憧れ, 切望, 熱望, 渇望, 憧憬, 慕情

yearning
憧れ, 思慕, 共感, 追悼

aspiration
願望, 抱負, 希望, 向上心, 憧れ, 野心

この3つとも日本語の「憧れ」とは少し違うような気がするが、まあ、この中では「yearning」だけは英語の古い歌(ジャズ系統の歌だったか)で見たことがある。longingは知っていたが「切望」の意味が最初に思いつくので、「憧れ」の印象は無い。とは言っても、確か石黒正数の漫画で無名のシンガーソングライターの作った歌のタイトルが「憧れロンジング」だったような記憶もある。で、aspirationとなるとアスピリンとインスピレーションの間の子供か、としか思えない。yearningにしても、何だかうめき声みたいである。
まあ、少なくとも、英語人種は「憧れ」という感情とはあまり縁が無さそうである。憧れる段階をすっ飛ばして、即座に行動し、即座にセックスして気に入らないと即座に別れそうであるwww
昔、枯堂夏子という作詞家がいて、彼女の「恋愛の達人」という作品だったと思うが、「片思いの間(「恋をしたその瞬間」だったか)が一番いい」という趣旨の一節があって、至極感心したものである。何しろ、相手の正体や正味を知らないのだから、幻滅する心配が皆無だ。www
ただ、英米人でも憧れという感情が無いわけではなく、相手が人間の場合は「憧れ即行動」なだけだろう。或る種の「理想郷への憧れ」となると、日本人よりむしろ強いようで、「虹の彼方に」とか「ムーンリバー」とか「酒と薔薇の日々」とか名曲・佳詞が色々ある。タイトルに使ったカール・ブッセの詩もそうである。(英米人ではないが、似た民族だろうから一緒にしておく。)
理屈を言うなら、日本人は日常生活や周囲や社会への不満というものをあまり持たない民族なのではないか。不満があるのは自分のせいでしかない、というわけだ。だから「革命」などと縁が無いのだろう。

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村上春樹作品における「女性のモノ化」

哲学・社会学好きであるらしい在日米国人のブログ記事の一部で、村上春樹の作品の或る一面をなかなか鋭く見ているように思うので、転載する。私は「小説の上手さ」という点で村上春樹の一部の作品を高く評価しているが、作家として好きかどうかと言えば、あまり好きではない。何か「小ズルい」感じがあるのである。まあ、人間性と作家能力は別な問題で、小説家としての能力が高ければ、小説家はそれでいいわけだが。
村上春樹が売れてきたころ、女性作家たちの対談(「男流文学論」だったか)で彼が論じられたことがあり、メタメタにけなされていたのだが、その理由は彼のこの「女性への視線」が賢明な女性読者には分かっていたためかもしれない。もっとも、彼の作品を愛読する女性も多いからこそ世界的な人気作家になったのだろうが、愛読者の主流は男性だろう。
言うまでもなく、「女性のモノ化」はほとんどの男性の視線の中に、無意識的意識的な思考の中にある。それは「女性崇拝」の一面でもあるわけだ。たとえば、武者小路実篤の「友情」などは、それをかなり早くに描いた作品だが、多くの読者は「友情」という題名に迷わされて、そこにある「女性のモノ化」問題を見過ごしていたのではないか。
これも言うまでもないが、少女漫画や女性漫画は「男性のモノ化」の花園である。芸能界など、モノ化された人間の博覧会だ。
うっかり「性的モノ化」を単に「モノ化」と書いたが、人間が人間をモノ扱いするのは社会で普通に見られる現象であり、それが「性的」であるのは「モノ化」現象のひとつにすぎない。ちなみに、化粧やファッションに気を使うのは自分で自分自身を「性的モノ化」しているわけだが、バルザックは「身なりに気を使わないのは社会的自殺である」と言っている。実際、私が今住んでいる田舎町には昼間から酒を飲んでふらふら歩いている浮浪者風の男が何人もいるが、その身なりの汚さは、確かに「社会的自殺」だなあ、と思う。まあ、私も身なりに気を使わない半世捨て人だが。

(以下引用)


 先日に友人とやったラジオで「性的モノ化」に関することを口にしたけれど、自分で言っていてこの言葉についてきちんと理解していないことに気が付いたので、ちょっと調べてメモをまとめることにした。


 


 まず、江口先生の現代ビジネスの記事。


 


gendai.ismedia.jp


 


女性を「性的対象物」として描くこと、あるいは「性的モノ化」「性的客体化」などと訳されている言葉と概念は、フェミニズム思想の最重要キーワードの一つだ。


この言葉は英語では”sexual objectification” であり、男性が支配的な社会においては、女性たちが性的な「オブジェクト」、すなわち単なる物体(モノ)として扱われているということを指す。現代社会においては、男性は「能動的な主体」であるのに対し、女性は「受動的(受け身)な客体」であり、眺められ触れられるモノとされている、という発想である。

 

この「性的モノ化」という概念は、性表現や性暴力の問題を論じる文脈で頻繁に使われてきたものの、そのままではぼんやりした概念である。


2016年に京都賞を受賞した哲学者のマーサ・ヌスバウム氏の代表的な業績の一つに、この「性的モノ化」という概念を分析した論文がある。彼女によれば、「性的モノ化」という概念は、実は複数の要素を複合したものだ。


 


 


 複数の要素の内訳は、下記のようになっているらしい。


 


(1)他人を道具・手段として使用する


-これは(2)〜(9)の大前提となっている。また、ここでいう「手段として使用する」の意味合いは、カントの定言命法に基づいている(はず)。


 


(2) 自己決定を尊重しない


(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在とみなす


(4)他と置き換え可能なものとみる


(5)壊したり侵入したりしてもよいものとみなす


(6)誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える


(7)当人の感情などを尊重しない


(8)女性をその身体やルックスに還元してしまう


(9)胸や腰や脚などの特に性的な部分やパーツに分けて、その部分を鑑賞する


 


 友人との会話のなかではわたしは「村上春樹の作品では女性がモノ扱いされている」と語ったのだが、そこで言おうとしていたことは、(1)と(2)と(4)と(8)と(9)が混ざりあったものだ。


 たとえば、春樹の作品では女性の登場人物について主人公が「女とはこういうものだ」とか「こういうタイプの女なのだからこうなのだ」とカテゴリにくくって判断することが多い。これは(2)と(4)に関連しているように思える。また、女性の人物のルックスや身体的特徴、あるいは話し方や表情や仕草などが、その人物の人格やアイデンティティと結び付けられて表現されることは、やはり多いような気がするので、(8)と(9)もある。


 そして重要なのは、春樹の作品では、男性の登場人物は基本的にこのように扱われたり表現されたりすることがないということだ。春樹は、男性キャラクターはそれぞれの人格を持った個別の存在として描いている。それに比べて、女性キャラクターの描き方はカテゴリやステレオタイプを前提としたものになっている。つまり根本的には、女性を理性的な存在と見なしたうえでその人格を目的として尊重することを、春樹はおこなっていないのだ。だから(1)も当てはまる。


 カテゴリに収めて判断したりステレオタイプに基づいて判断したりすることもある種の「モノ化(客体化)」である、とわたしは思う。すくなくとも、相手に対して「女だからこうなんだ」と判断することが相手の理性的人格を尊重した行為であるとは思えない(……とはいえ、だいたいの場合においてステレオタイプは事実をおおむね正確に反映している、と議論することも可能であったりするのだが)。


 


 ラジオでわたしは「男性はみんな多かれ少なかれ女性をモノ扱いしている」と主張したうえで、男性による女性に対する性的モノ化やその「嫌さ」を見事に表現しているところが『女のいない男たち』の優れた点である、と語った。


 とはいえ、友人からも指摘があったように、「じゃあ男性はほかの男性のことはモノ扱いしてないのか」ということにもなるし、「女性は男性のことをモノ扱いしていないのか」ということにもなるだろう。


 たしかに、「性的モノ化」の解釈を拡大すればみんながみんなをモノ扱いしていると言うことができるだろうが、そうするとモノ化の何が悪いのかわからなくなる。


 モノ化は程度の問題であり、そして男性からの女性に対するモノ化は程度がひどいので悪い、ということもできるかもしれないが、そうするとなにか重要なものを掴みそこねる気もする。男性→女性のモノ化は、男性→男性や女性→男性に比べてなにか異質さがあるような気もするからだ。

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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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