近くの市民図書館は、蔵書数は呆れるほど少ないが、児童書や学術書も含めれば読む本が探せないこともない。で、最近痛感しているのが、「自分はいったい、これまでどんな読み方をしてきたのか」ということで、前に書いた速読の悪癖をやめて熟読(精読)するようにしたら、過去に読んだ本でもいろいろな発見に満ちている。つまり、過去に読んで面白かったと言っても、実はその6割か7割くらいしか理解はしていなかったのである。それを再読するのも大きな娯楽だ。
たとえば、フレドリック・ブラウンの「さあ、気ちがいになりなさい」は、星新一の新訳で児童書コーナーに置かれていたが、もちろん、中学生か高校生のころに私は読んでいる。しかし、今読むとさまざまな発見があるのである。
たとえば、「シリウス・ゼロ」の、その星への来訪者を幻覚で操作する異星人の話は、映画化もされた「ソラリス(惑星ソラリス)」とまったく同じと言ってもいいのではないか。ただし、私は「ソラリス」を読んでもいないし、映画も見ていない。いずれにしても、アイデア自体はフレドリック・ブラウンが先だろう。あるいは、それ以前にも別の作者の同じアイデアがあるかもしれない。
また、「町を求む(A Town Wanted)」の冒頭で、田舎町のギャングが、その親分への報告の中で言う「保護の料金を払いたがらない男がいた。そして、そのアニーはもはや世を去りぬ、というぐあいです」の中に唐突に出て来る「アニー」は、明らかに「アニー・ローリー」という古歌で歌われているアニーだろう。実は、私はこの歌の日本語歌詞の「さなり、我が子は逝きぬ」を、耳で聞いただけなので、「逝きぬ」は「行きぬ」で、母を捨てて去っていっただけだろうと思っていたのである。もちろん、昔「町を求む」を読んだ時は、この部分に注意も払わず読み飛ばしたはずだ。(私は、「アニー・ローリー」を別の唱歌と勘違いしていたようだ。まあ、その手の勘違いは私には膨大にあるので取り消し線だけ付けて、そのままに恥の記録を残しておく。)
これもどうでもいい話だが、「帽子の手品」の原題が「The Hat Trick」であるのを見て、サッカーの「ハットトリック」(個人一試合三得点)が帽子の手品の意味であることに生まれて初めて気が付いた、というのもなかなか驚きだった。なぜ一試合三得点が「帽子の手品」なのか。意地悪く考えれば「人目を驚かすが、実は子供だまし」という意味とも取れる。
ということで、過去に読んだ小説の再読は実は新しい発見に満ちているという話だ。別の言い方をすれば、我々は読む本の数分の一しか理解していないということだ。
たとえば、フレドリック・ブラウンの「さあ、気ちがいになりなさい」は、星新一の新訳で児童書コーナーに置かれていたが、もちろん、中学生か高校生のころに私は読んでいる。しかし、今読むとさまざまな発見があるのである。
たとえば、「シリウス・ゼロ」の、その星への来訪者を幻覚で操作する異星人の話は、映画化もされた「ソラリス(惑星ソラリス)」とまったく同じと言ってもいいのではないか。ただし、私は「ソラリス」を読んでもいないし、映画も見ていない。いずれにしても、アイデア自体はフレドリック・ブラウンが先だろう。あるいは、それ以前にも別の作者の同じアイデアがあるかもしれない。
また、「町を求む(A Town Wanted)」の冒頭で、田舎町のギャングが、その親分への報告の中で言う「保護の料金を払いたがらない男がいた。そして、そのアニーはもはや世を去りぬ、というぐあいです」の中に唐突に出て来る「アニー」は、明らかに「アニー・ローリー」という古歌で歌われているアニーだろう。実は、私はこの歌の日本語歌詞の「さなり、我が子は逝きぬ」を、耳で聞いただけなので、「逝きぬ」は「行きぬ」で、母を捨てて去っていっただけだろうと思っていたのである。もちろん、昔「町を求む」を読んだ時は、この部分に注意も払わず読み飛ばしたはずだ。(私は、「アニー・ローリー」を別の唱歌と勘違いしていたようだ。まあ、その手の勘違いは私には膨大にあるので取り消し線だけ付けて、そのままに恥の記録を残しておく。)
これもどうでもいい話だが、「帽子の手品」の原題が「The Hat Trick」であるのを見て、サッカーの「ハットトリック」(個人一試合三得点)が帽子の手品の意味であることに生まれて初めて気が付いた、というのもなかなか驚きだった。なぜ一試合三得点が「帽子の手品」なのか。意地悪く考えれば「人目を驚かすが、実は子供だまし」という意味とも取れる。
ということで、過去に読んだ小説の再読は実は新しい発見に満ちているという話だ。別の言い方をすれば、我々は読む本の数分の一しか理解していないということだ。
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