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非婚時代の日本と犯罪率

日本は世界的に見て犯罪率が非常に低い国だろう。その原因は、昔は社会道徳や宗教が人々を戒めていたからだと思うが、宗教が無力化してもまだ犯罪率は低い。その原因を単純に言えば、庶民にとって「犯罪は割に合わない」からである。だから、犯罪が「割に合う」経済犯罪や権力者の犯罪は非常に多い。経済犯罪や権力犯罪の多さが、犯罪率の低さを日本人の道徳性によるものだとする国粋主義的主張を否定するわけである。
で、その損得勘定の「思考計算」の中で、日本の場合はこれまでは家族という存在が非常に大きかっただろう、というのがここで私が主張することである。「命も要らぬ、名も要らぬ」という人でも、「家族の命、家族の名誉(「名」に当たる)」があるから悪事や冒険(革命的行動)に手を出さないのである。
とすれば、家族から切り離された(家族を捨てた)人間は、犯罪への自己規制が非常に弱いと考えるのが理の当然なのではないか。
最近の犯罪の多くは、というか、ほとんどは独身者によるものではないだろうか。ただし、家族や家庭というのは密閉空間、密閉社会だから、お互いへの憎悪もエスカレートしやすく、殺人などはむしろ近親者によるものが多いだろう。だが、この前の国税庁役人ほかによる2億円搾取事件は独身の若者たちだけだったはずである。家族との関係は分からないが、非常に薄いものだったと私は想像している。つまり家族の存在が犯罪の抑止力として機能していなかったわけだ。
で、結論だが、非婚時代というのは、この種の「家庭という存在による犯罪抑制機能」が失われるわけだから、これから日本の犯罪率は非常に高くなっていくだろうと予言しておく。

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「教える+聞く」≠「理解する」

「学校の授業は無駄。教科書さえあればいい」というスレッドのコメントのひとつだが、こういう「対面授業・集団授業」の根本的問題を真面目に考えている教育者はほとんどいない気がする。単に教師の学力や熱心さの問題だけが論議されていないか。
そもそも「教える」という行為が絶対善とされているから、「授業を聞く」ことも当然視され、「自分で考える」という部分が疎かになる、という気もする。だが、「授業を聞く」ということは、聞いている間は「自分で考える」ことが不可能なのである。
教師は「教えたつもり」になり、生徒は「教わったつもり」になるだけで実は何も理解していない、という授業が膨大にあるような気がする。
もちろん、最初から聞く気もなく理解する気もない、と言うか理解できる気にならないという生徒も膨大にいるわけである。

(以下引用)赤字は夢人による強調。まさに学生のころ授業中に私が無数に経験したことである。当時は気づかなかったが、軽い難聴で「聴覚の解像度」が低かった気もする。思考スピードが遅かったというのもある。

  • 8. 自他とも認めるパーティマン
  • 2022年06月05日 15:58
  • 学校の授業って、一瞬聞き逃したり、「あれ?今の説明よくわからなかったな」って立ち止まった瞬間、置いていかれるのが苦手。
    ノートも取るのに手間とられるし、後で読み直すほど、時間も無いし。
    結局、最終的に偏差値が大きく上がったのは、参考書を自分のペースで読んで、自分で理解しながら進める方法だった。俺にはこれが合ってた。

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山下清による「日本が大東亜戦争に至った道」の説明

知人から貰った本の中に徳川夢声の対談集「問答有用」があって少し前から読みかけているが、その中に山下清との対談があって、大東亜戦争(太平洋戦争)に関する部分が面白かった。
言うまでもないが、「裸の大将」山下清は知能指数が低く(IQ80くらいか)、周囲の人間からは白痴扱いされていたが、ここでの発言は実に鋭いもので、日本を再び戦争に陥れようとしている安倍一派などよりはるかに高い知能と歴史認識、政治認識、優れた人格を示している。
日本の一般国民の中で(いや、教師連中の中でも)、日本の近代史をこれほど簡潔に、しかも本質を押さえて説明できる人がどれだけいるだろうか。
岸田総理、あなたは日本の軍備増強や米国追従について「分かっていて指揮している」のか、それとも「分からないで指揮している」のか。

(以下引用)

山下「どうして戦争がはじまったかというと、日本はシナと戦争して、アメリカがシナをたすけた。いろんな武器をはこんだ。なかなか勝負がつかないから、アメリカをやっつけてしまえば、シナもやっつけられると思って、大東亜戦争をやった。どうして、シナの戦争がはじまったかというと、日本が満州と戦争して満州をとったんだな。シナが「満州をかえせ」っていったけど、日本はかえさなかった。満州をかえすと日本は弱くなっちゃう。
日本はもともと北海道と本州と四国と九州だけだった。北海道と本州と四国と九州だけじゃ、いくら東条さんでも、アメリカとは戦争しようと思わなかっただろうな。明治になってから、日本はよその国と戦争するようになった。明治になってから、台湾をとったり、朝鮮をとったり、カラフトをとったり、満州をとって、日本はうんと強くなった。シナもすこしとったかな」
夢声「はじめ、占領してたね」
山下「日本の国がうんとひろくなったから、アメリカと戦争しても大丈夫だろうと思ったんだね」
夢声「勝てるかもしれないと思った」
山下「勝つか負けるか、よくわかんなかったんだな、東条さんもやっぱり(笑)」
夢声「戦争はきらいですか」
山下「うん、おっかないから」
(中略)
山下「いくら大将でも失敗する。東条さんでも、とうとう失敗しちゃった。いくら東条さんでもわかんないこともあるだな」
夢声「わからないところだらけだった
山下「それで、指揮する(笑)
夢声「わからないで指揮するから、いけなかった(笑)」





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「少子高齢化」が問題視される本当の心理

前に、いずれ考察したいと書いてほったらかしにしていた「少子高齢化問題」だが、同問題に関する某記事コメントが示唆的なので載せておく。

(以下引用)赤字部分が夢人による強調。

Nash Bridges

 | 6時間前非表示・報告

江戸末期までなだらかに3000万人になったのが明治以降急激に増えた。2005年ごろをピークに今度はジェットコースターのように急降下。
反動で3000万人くらいまで減るかもしれない。イーロンマスクが日本人は滅びる、とツイートとして物議を醸し出したが、団塊ジュニアが退場したあとは国家予算の医療費を子育てに回せるだろうからゼロにはならないだろう。ただ崩れたタワマンや空き家、廃線の線路、など暗い荒涼とした風景が広がっているであろう。



(以上引用)ここから考察。

赤字部分を強調したのは、日本の適正人口は、小泉進次郎ではないが、3000万人くらいではないか、と考えたからだ。
つまり、「少子高齢化は大変な問題だ」という命題自体が誤解ではないか、という考えである。
江戸時代と違う点は、高齢者扶助が個々の家庭だけの問題ではなく税金(年金)でかなり補助されていることだろう。そうすると、少子高齢化で若者(生産年齢層)の負担が激増するから大変だ大変だと騒ぐことになる。だが、老齢年金は受給者当人が若いころから納めてきたカネを受け取るという部分が土台で、後は受け取る前に死んだ連中の分が上積みされるわけだ。だから、生産年齢層の負担が大きくなるという見方は偏りがあると言えるだろう。
そのように考えれば、「少子高齢化問題は何も問題はない」と結論してもいいことになるのではないか。
要するに「働かない(働けない)人口」が増大することに多くの人が怯えているというのが「少子高齢化問題」が問題視される本当の理由だと思う。その底には「働かざる者食うべからず」という昔からの心的機制があるわけだ。これは生活保護受給者攻撃の根底にもある心理だろう。子供は「将来は働くだろうからお目こぼしする」し、病人は「病気が治れば働くだろうからお目こぼしする」が、老人はこの先、死ぬまで無駄飯食らいだろうから、「死んだ方がいい」と偉い人たちや若者の多くは考えているのではないか。それが「老害」という罵言の根底にありそうだ。
なお、女性が「子育ては大変だ大変だ」と騒ぐだけで、「子供を持つ楽しさ」「子供の可愛さ」を語らなくなったのも、若者の結婚離れの一因かと思う。
まあ、「スパイ×ファミリー」の大ヒットは、そういう「愛する人や小さな子供のいる家庭の幸福」という視点が多くの人の共感を呼んだのだと思う。(ちなみに「スパイファミリー」ではなく、「スパイ×ファミリー」であり、掛け算である。)


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魔術的言葉と魔術的思考

「in deep」の過去記事の一部だが、私はシュタイナーという神秘主義思想家が嫌い(というより発言が難解で理解する気にもならない。)なのでシュタイナー云々以降は省略する。
コリン・ウィルソンの発言も、ルソーの歴史的意義についての認識があまりに極論だと思うが、「自由の(解釈の)拡大が世界を不道徳で他者傷害的なものに導いた」というのは事実だろう。では、それ以前の「厳密な階級社会」を肯定すべきかと言えば、私は絶対にノーと言う。まあ、それは私の思想にすぎないが、邪悪な自由もあれば邪悪な規律(秩序)もあるというだけの話だ。
その根本において「あらゆる自由は邪悪である」とするのがここでのコリン・ウィルソンの発言ではないか。
だが、「あらゆる自由が邪悪」なのではなく、以前に書いたことを繰り返すが、「自由主義」という思想、あるいは「自由」という言葉の粗雑な、あるいは恣意的な使用が、ある特定集団の自由を拡大することで他の集団(時には社会の大多数)の自由を侵害するのである。これがたとえば急進的フェミニズムの活動の愚劣さがネットであれほど批判される理由だ。
私はこの種の「人間を非合理的行動に導く言葉」をかなり昔に「マジックワード」とした。それはコリン・ウィルソンの「魔術的思考」に似ているように見えるが、後者は単なる「理性の混迷」だろう。私は「言葉が人々を不合理に導く」ことの危険性を言っているのである。「いい加減な言葉の使用が国家や社会を劣化させる」ことは大昔に荀子が「正言(言葉を正す)」という章で明確に論じている。(この荀子は孟子などよりはるかに重要な哲学者で、孔子に比肩するか、あるいは社会学的にはそれ以上の思想家だと思うが、性悪説や法学という、儒学社会では不人気な思想の祖でもあるので中国思想史ではほとんど無視されている。絶対平和主義の墨子も不人気である。本来は、孔子の徳治主義を発展させれば墨子になるのだが。)

(以下引用)


この「〇〇だから△△をした」という動機の〇〇と、結果の△△の間にまったく関係性のない犯罪を起こす思想をコリン・ウィルソンは、


「魔術的思考」


と呼んでいます。


コリン・ウィルソンは、その源泉として、1762年にルソーが出版した『社会契約論』の中にある以下の文章に「すべての責任がある」という論旨になっています。


「人間は自由な人間として生まれている。」


私は何十年かぶりにこの言葉を思い出しました。


コリン・ウィルソンのこの『現代殺人百科』の前書きは、ものすごく長いもので、前書きだけで一冊の書籍として完成するほどの長さがありますので、内容をうまく説明はできないのですが、彼は前書きを以下のように締めくくります。


 




 

コリン・ウィルソン『現代殺人百科』前書き「殺人の時代」より

自由は責任と規律がなくても存在できるという思想を広めたのはルソーだが、この問題の責任の大半はこのルソーにある。


1951年、アルベール・カミュは著作『反抗的人間』で、サドからカール・マルクスやレーニンにいたるすべての反抗の哲学は、圧政と自由の破壊を招いたと強力な宣言を時代に投げつけた。


これは、左翼に怒りの渦を巻き起こした。


カミュの死後、彼の正しさは現実に証明されるところとなった。自由の哲学は国際的テロリズムの正当化の根拠となった。


イタリアのテロリストは大学の教室に押し入って、教授の脚を銃で撃ち、この教授は基本的に非道徳的な社会に適合することを学生に吹聴した罪があるとうそぶいた。チャールズ・マンソンは、自分の追随者は「兄弟愛」から殺人をおかしたと法廷で広言した。


これが自由の哲学の帰結である。自由の哲学が狂気に走った例である。


満ちてくる潮のように暴力が社会にのさばる。


常に自由を云々してその正当化を求める。


この種の風潮を見るとき、間違っていたのはルソーで、正しいのはカミュだということを、われわれは考えずにはいられない。


ルソーの時代には変革を求める強い必然性があり、したがってルソーの思想を認めるべきだとするなら、同じ根拠で今はカミュを認めなければならない。


現代の教育制度に「倫理的責任」を教える権力があるかどうかは分からない。しかし、社会の底辺にのさばっているこの頑迷な自由の哲学を否定する能力はあるはずだ。この態度に変革を迫ることが、われわれの社会の変革の鍵である。




 


ここまでです。



 


このルソーやカミュのことについてはともかく、今、アメリカでもヨーロッパなどでも起きているさまざまな暴力の根源には、ここでコリン・ウィルソンが言っていることが内在しているということが、今の世の中で生きている中ではじめてわかります。


この「自由」という言葉は、ちょっと日本語では大仰で、これに対して何か述べる才覚は私にはないですが、ただ特に 21世紀くらいになってから、日本を含めて、どこの国でも言われるようになったのが、


「格差」


「平等」


という言葉などで、最近のアメリカの多くの暴力などにも、こういう概念が根底にあると思いますが、どうも、この概念は「利用されている」ように感じるのです。


人類文明が登場して以来、「すべての人が平等で、すべての人に格差がない」ときなど一度もありませんでした。


それが、今になって、やたらと喧伝されるようになった。


私自身もまた、ルソーの言う「人間は自由な人間として生まれている」のフレーズには、若い時からとても違和感を感じていました。


そして「自分は自由な人間としては生まれていない」から、いろいろと希求する。


「自由の本質とは何か」を考える。


ずっと考えてはいたけれど、全然勉強をしない人生でしたので、そのあたりがよくわからない。


そうして、最近、ブログで書くようなこと、つまりシュタイナーの言う未来の人間とか、イエス・キリストの話とか、量子力学とかを少しずつ知る中で、


「自由の本質」


というものが何となく、ほんの少しだとしてもわかってきたような気がしないでもないです。


その観点から言えば、今の人間の状態では、「人間は絶対に自由にはなれない」と断言することができます。


こんなことを書いているのも、前回の記事で、ルドルフ・シュタイナーが、「人間は精神的世界に進まなければ、道を失う」と述べていたこととも関係があるのかもしれません。

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勝つってそんなにいいことか

「徽宗皇帝のブログ」の2010年3月くらいの「メモ日記」はそれよりさらに10年くらい前の頃に書いていた「メモ日記」をネットに上げたものだが、今読んでも面白い。自分自身の考えだから自分で気に入らないはずがないwww
その中に書いてある思想のほとんどが今でも変わらないというのも驚きで、これを「進歩が無い」と言うべきか、思想の根底が確固としていると言うべきか、まあ、どちらでもいい。
で、その中には自分で再読しても面白い記事がたくさんあるが、私自身の思想として私の心から離れないのが「勝利至上主義への嫌悪」である。下の記事には書いていないが、「勝つ」ということは「負ける」人がいるということだ。その人は負けることでどのような苦痛を感じるかと考えた時、私は「勝つってそんなにいい事か」と思うのである。誰かが勝てば誰かが負けるという、この当たり前のことを、なぜ勝利至上主義者たちは無視できるのだろうか。

(以下自己引用)ひとつだけ語句の間違いを訂正した。


メモ日記「政治・社会」14
#128 勝つってそんなにいいことか?

人生の目的が他人に勝つことであるような人間というのは、一種の異常者ではないかと私は思っている。ところが、我々のこの社会は、そうした「好戦的な性格」を奨励しているのである。学校とは、表向きには「みんな仲良く」を標榜しながら、実際には「他人に勝て」を子供に教え込む「ダブルバインド(二重拘束・矛盾した指令)」の社会である。「頑張って」試験の順位を上げよと子供に言い、「頑張って」スポーツの試合に勝てと子供に言う。「試験の順位なんてどうでもいいよ。前より君自身が少しでも物事を分かるようになれば十分だ」と言う教師は滅多にいないし、「試合に勝つ必要はない。ゲームを楽しみなさい」というスポーツ指導者などほとんどいない。「いや、俺は子供に『楽しめ』と言っている」と言う指導者も、その本音は、自分の指導しているチームや子供が好成績を残すことしか頭には無い。子供は敏感だから、そんなことはみんな知っているのだ。こうして、「勝たなければ無意味だ。勝たなければ自分は無価値だ」という思想が子供たちの心を汚染していく。もちろん、事は学校だけの話ではない。我々の社会全体が「競争は正しい」「勝利に向かって努力しない人間はクズだ」という思想の社会なのである。しかし、人間、それが楽しければ自然と努力するものであって、勝利はべつに努力の唯一の目的や報酬ではない。そうしたのんびりとした努力、いや目の前の物事自体を楽しみ、結果としての勝利には重きを置かないような人間が増えることが、このぎすぎすした社会を居心地のいい社会に変えていくのではないだろうか。

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「自由主義」とは何か

「自由主義」というのは麻薬的な言葉で、悪魔の囁きと言ってもいい。
人間というのはいつでも自由への憧れ、それも絶対的な自由への憧れを持っているものだ。「絶対的な力への憧れ」と言ってもいい。だが、それで何をやりたいかというと、それがまさに悪魔的なものなのである。
「倫理とは禁止の体系である」という言葉があるが、その倫理というものを踏みにじって、やりたい事をできる力、というのが「絶対的な力」だ。まさに、悪魔になりたいということなのである。嫌いな人間を殺す自由、目の前の女を犯す自由、あらゆる法律を踏みにじる自由。それが究極の自由だ。さらに妄想を言えば、空を飛ぶ自由、月や金星や木星に行く自由。そういう自由をSF作家などは書いてきた。透明人間、不老不死、etc etc。
つまり、自分を縛っているもの、それは法律であり倫理であり、家庭であり、学校であるが、それから自由になりたいというのが「自由主義」の本質なのである。だが、それで自由になるということは、他人の自由や権利や心情や感情を踏みにじることである。誰かが自由になれば別の誰かの自由が奪われる。それを調節する社会的知恵が法律であり倫理であり社会的慣習だ。これは「伝統」という別名がある。
その法律や倫理や社会的慣習を守ろうというのが「保守主義」なのである。
これが自由を求める人間の反発を呼ぶのは当然なわけだ。自由主義が社会的無軌道とほとんど同化するのは当然のことなのである。今のアメリカ社会がその究極の姿だろう。そこでは、低額の窃盗は犯罪ではない(逮捕されない)とする法律すら制定されたのである。(もちろん、州法だ。)そして毎日のように銃によって何人もの人間が殺される。これは銃所持の自由であり、犯人は「他人を殺す自由」を主張したわけである。
もちろん、これは極論だと言われるだろう。だが、本質論とは常に枝葉や飾りを切り落として論じるのであり、極論が当たり前なのだ。


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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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