「in deep」の過去記事の一部だが、私はシュタイナーという神秘主義思想家が嫌い(というより発言が難解で理解する気にもならない。)なのでシュタイナー云々以降は省略する。
コリン・ウィルソンの発言も、ルソーの歴史的意義についての認識があまりに極論だと思うが、「自由の(解釈の)拡大が世界を不道徳で他者傷害的なものに導いた」というのは事実だろう。では、それ以前の「厳密な階級社会」を肯定すべきかと言えば、私は絶対にノーと言う。まあ、それは私の思想にすぎないが、邪悪な自由もあれば邪悪な規律(秩序)もあるというだけの話だ。
その根本において「あらゆる自由は邪悪である」とするのがここでのコリン・ウィルソンの発言ではないか。
だが、「あらゆる自由が邪悪」なのではなく、以前に書いたことを繰り返すが、「自由主義」という思想、あるいは「自由」という言葉の粗雑な、あるいは恣意的な使用が、ある特定集団の自由を拡大することで他の集団(時には社会の大多数)の自由を侵害するのである。これがたとえば急進的フェミニズムの活動の愚劣さがネットであれほど批判される理由だ。
私はこの種の「人間を非合理的行動に導く言葉」をかなり昔に「マジックワード」とした。それはコリン・ウィルソンの「魔術的思考」に似ているように見えるが、後者は単なる「理性の混迷」だろう。私は「言葉が人々を不合理に導く」ことの危険性を言っているのである。「いい加減な言葉の使用が国家や社会を劣化させる」ことは大昔に荀子が「正言(言葉を正す)」という章で明確に論じている。(この荀子は孟子などよりはるかに重要な哲学者で、孔子に比肩するか、あるいは社会学的にはそれ以上の思想家だと思うが、性悪説や法学という、儒学社会では不人気な思想の祖でもあるので中国思想史ではほとんど無視されている。絶対平和主義の墨子も不人気である。本来は、孔子の徳治主義を発展させれば墨子になるのだが。)
(以下引用)
この「〇〇だから△△をした」という動機の〇〇と、結果の△△の間にまったく関係性のない犯罪を起こす思想をコリン・ウィルソンは、
「魔術的思考」
と呼んでいます。
コリン・ウィルソンは、その源泉として、1762年にルソーが出版した『社会契約論』の中にある以下の文章に「すべての責任がある」という論旨になっています。
「人間は自由な人間として生まれている。」
私は何十年かぶりにこの言葉を思い出しました。
コリン・ウィルソンのこの『現代殺人百科』の前書きは、ものすごく長いもので、前書きだけで一冊の書籍として完成するほどの長さがありますので、内容をうまく説明はできないのですが、彼は前書きを以下のように締めくくります。
コリン・ウィルソン『現代殺人百科』前書き「殺人の時代」より
自由は責任と規律がなくても存在できるという思想を広めたのはルソーだが、この問題の責任の大半はこのルソーにある。
1951年、アルベール・カミュは著作『反抗的人間』で、サドからカール・マルクスやレーニンにいたるすべての反抗の哲学は、圧政と自由の破壊を招いたと強力な宣言を時代に投げつけた。
これは、左翼に怒りの渦を巻き起こした。
カミュの死後、彼の正しさは現実に証明されるところとなった。自由の哲学は国際的テロリズムの正当化の根拠となった。
イタリアのテロリストは大学の教室に押し入って、教授の脚を銃で撃ち、この教授は基本的に非道徳的な社会に適合することを学生に吹聴した罪があるとうそぶいた。チャールズ・マンソンは、自分の追随者は「兄弟愛」から殺人をおかしたと法廷で広言した。
これが自由の哲学の帰結である。自由の哲学が狂気に走った例である。
満ちてくる潮のように暴力が社会にのさばる。
常に自由を云々してその正当化を求める。
この種の風潮を見るとき、間違っていたのはルソーで、正しいのはカミュだということを、われわれは考えずにはいられない。
ルソーの時代には変革を求める強い必然性があり、したがってルソーの思想を認めるべきだとするなら、同じ根拠で今はカミュを認めなければならない。
現代の教育制度に「倫理的責任」を教える権力があるかどうかは分からない。しかし、社会の底辺にのさばっているこの頑迷な自由の哲学を否定する能力はあるはずだ。この態度に変革を迫ることが、われわれの社会の変革の鍵である。
ここまでです。
このルソーやカミュのことについてはともかく、今、アメリカでもヨーロッパなどでも起きているさまざまな暴力の根源には、ここでコリン・ウィルソンが言っていることが内在しているということが、今の世の中で生きている中ではじめてわかります。
この「自由」という言葉は、ちょっと日本語では大仰で、これに対して何か述べる才覚は私にはないですが、ただ特に 21世紀くらいになってから、日本を含めて、どこの国でも言われるようになったのが、
「格差」
「平等」
という言葉などで、最近のアメリカの多くの暴力などにも、こういう概念が根底にあると思いますが、どうも、この概念は「利用されている」ように感じるのです。
人類文明が登場して以来、「すべての人が平等で、すべての人に格差がない」ときなど一度もありませんでした。
それが、今になって、やたらと喧伝されるようになった。
私自身もまた、ルソーの言う「人間は自由な人間として生まれている」のフレーズには、若い時からとても違和感を感じていました。
そして「自分は自由な人間としては生まれていない」から、いろいろと希求する。
「自由の本質とは何か」を考える。
ずっと考えてはいたけれど、全然勉強をしない人生でしたので、そのあたりがよくわからない。
そうして、最近、ブログで書くようなこと、つまりシュタイナーの言う未来の人間とか、イエス・キリストの話とか、量子力学とかを少しずつ知る中で、
「自由の本質」
というものが何となく、ほんの少しだとしてもわかってきたような気がしないでもないです。
その観点から言えば、今の人間の状態では、「人間は絶対に自由にはなれない」と断言することができます。
こんなことを書いているのも、前回の記事で、ルドルフ・シュタイナーが、「人間は精神的世界に進まなければ、道を失う」と述べていたこととも関係があるのかもしれません。
ノートも取るのに手間とられるし、後で読み直すほど、時間も無いし。
結局、最終的に偏差値が大きく上がったのは、参考書を自分のペースで読んで、自分で理解しながら進める方法だった。俺にはこれが合ってた。