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「国土防衛隊」とは何か

別ブログからの自己引用で、スレ主以外のコメントはカットした。

非常にリアルで、これは本物の自衛官の証言だろう。
これを載せるのは、自衛隊を誹謗する意図はまったく無い。この「現実」をいかに活かすか、という議論のためである。
つまり、他の仕事は務まらないが、身体は健康という「ぎり健(ぎりぎり健常者)」層はかなりいるはずで、暴力団などに入るよりは自衛隊のほうがマシであるのは言うまでもない。しかし、軍隊というのは平時には「無駄飯食い」であるわけで、だから私は自衛隊を「国土防衛隊」にして、土木工事補助や農作業補助、あるいは献血要員(その他、冬期の雪国の雪かき要員など、必要な仕事は無数にある。)などに活用すべきだという意見なのである。そういうシステムなら、身体は健康だが無職という人間は「強制徴兵」してもいい。www それで車や船の運転、整備などを習えば、当人も、大学などで役にも立たない知識を学ぶより有益だろう。もちろん、銃が撃てるという特典もあるww


(以下引用)








コメント
1: 風吹けば名無し 2021/11/02(火) 19:46:06.56 ID:Qanq6sX50
第3位
・年下の先輩
20歳で入った時点で覚悟はしてたけど一個下からの「お前」は相当堪えたで

6: 風吹けば名無し 2021/11/02(火) 19:47:59.77 ID:Qanq6sX50
第2位
・クソみたいな仕事
アラフィフのジジイになっても真夏に草刈りは当たり前
職種は希望通りにいくわけじゃないから全く興味ないことを定年までやる羽目になる可能性の方が高い

15: 風吹けば名無し 2021/11/02(火) 19:51:34.73 ID:Qanq6sX50
第1位
・クソ野郎の軍勢
学校一のギリ健を全国から集めたような組織が自衛隊や
運動しかしてこなかったアホとチー牛、元ニートorフリーターが9割を占めている
そのクソ野郎どもと24時間同じ屋根の下で暮らさなアカン地獄は筆舌に尽くしがたい

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「国民を守る」立場の人間は安倍の死の意味をよく考えよ

久しぶりの「反戦な家づくり」記事である。
この意見にまったく同意する。安倍政治によって貧困化を余儀なくされ、自殺した人間や絶望から犯罪を行って人生を破滅させた人間がどれだけいることか。握り飯一個を盗んで逮捕された人もいる。生活保護を受けられず、餓死した人もいる。貧困から家庭が崩壊し、子供が非行に走った家も無数にあるだろう。それだけの人間の死と絶望が、安倍という愚劣で悪辣な人間ひとりの死と引き換えにできるはずがない。
と同時に、一般人にはまったく解決不可能な、この巨大な政治力と対抗できるのは、「たったひとりのテロリスト」だけである、という事実は重い。
あらゆる政治家は、安倍の運命こそ未来の自分を待ち受けている運命である可能性に思いを致すべきだろう。それは与党の共犯者である「無能な野党政治家」も同じなのである。

(以下引用)
2022-07-09(Sat)

お悔やみ申し上げま せん

日本で他殺で死ぬ人は、年間300人近くいる。
どんな人でも、理不尽に殺されたのだから、哀悼の意を表すべきだという人は、毎日毎日殺された人のために、哀悼の誠を捧げ続けていただきたい。
私はそんな考えでは無いので、縁もゆかりも無い人が殺されたからと言って、お悔やみなど申し上げる気はさらさら無い。
まして、私の中では悪い政治家No.1の人物であればなおさらだ。(橋下徹氏と同率1位)

だからと言って、安倍晋三暗殺を、私が喜んでいるかというとそんなことはない。
瞬間的に想起したのは、2.26事件だ。
血盟団テロから2.26クーデターへの道は、民主主義という妥協の知恵を一瞬で破壊し、排外と強権と戦争への道へ日本を突き落とした。
安部銃撃の報を聞いた瞬間、いよいよその行程に入ってしまったのか、と戦慄した。


あらゆる暴力は許せない、とも言わない。
この世には、どうしようもない暴力にさらされて、生きるためにやむにやまれぬ暴力もある。
大きな暴力は見えにくく、小さい暴力は見えやすい故に、軽薄な「暴力反対」は、大きな暴力だけをはびこらせることになる。


それでもなお、テロで生きやすい世の中は作れない。間違いなく。
テロによる政治は、皮肉なことに、安倍晋三がやろうとしていた強権と恫喝の政治と同じだ。
理想を強制する政治は、その理想が間違っていようが正しかろうが、絶対に生きやすさは生み出さない。


もう一点、安倍暗殺を喜ぶわけにいかない理由。
安倍晋三には、生きて地獄を味わってもらいたかった。
名誉も生きる意味も失って、天命を全うするまで、苦役を担ってもらいたかった。


もともとロクでも無い日本の政治を、ほんとにどうしようも無いことにしてしまったのは、小泉純一郎(私的悪政治家No.2)と、安倍晋三だ。
安倍晋三の大きな暴力で、どれだけの人が殺されたか。
こんなにあっさりと死んでいい人だとは、思えない。


これから、安倍晋三を英雄化する動きが、マスコミを総動員して始まるだろう。
絶対に屈しない。
絶対に哀悼の意など表しない。
断固として、お悔やみなど申しあげ ない!


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日本人は「物づくり」が合っている

べつにスズキからカネを貰って提灯持ちするわけではない。(今使っているのは、軍需産業でもある大嫌いなメーカーの車であり、中古で安く買っただけだ。スズキとは縁が無い。)
この記事の中に、「物作り」における日本人の真面目さ、誠実さが良く表れており、そういう「真面目な物作りへの回帰」が、日本という滅亡しかかっている国の再生への道ではないかと思うから転載するのである。下の記事におけるスズキという会社の努力の誠実さは、頭が下がる。
ただし、10代目キャリーは製造を中止するのではなく、アメリカなどへの販売・売り込みをするべきだろう。性能と運転の快適さは、記事を読めば歴然としている。
日本の軽自動車と軽トラックの性能の良さは、世界的にもっと評価されていい。(法的に軽自動車を受け入れない国もあるが、そこを何とかするのが政治家の仕事だろう。)

(以下引用)


       
       

10コメント


1: 2022/07/07(木) 07:44:31.43 ID:CAP_USER
日本中、どこに行っても見かける軽トラのひとつ、スズキ「キャリイ」。国内累計販売台数は、2021年末時点で467万台。個人商店や町工場、農家などで、人や荷物を運ぶ「仕事に役立つ車」として、日本中で大活躍しています。

そんなキャリイですが、実は先代にあたる10代目がデビューした直後、ユーザーから苦情が相次いで寄せられる事態となってしまいました。10代目キャリイの失態とは?? そしてその危機をスズキはどうやって乗り越えたのでしょうか。

■「いいことずくめ」のはずだったが…
1999年1月に登場した10代目キャリイは、当時の軽自動車の、新たな衝突安全基準をクリアするため、車両前方にボンネットを追加し、先代に対してボディサイズを全長100mm、全幅80mmも拡大しました。併せて、従来の運転席真下に前輪がある「キャブオーバータイプ」から、前輪の位置を前方に置いた「セミキャブタイプ」のレイアウトと変更。それによってホイールベースは1855mmから2350mmへ、なんと495mmも延長しました。

no title

こちらは1991年に登場した、9代目キャリイ(DC51)

その結果、安全性は改善し、荷室幅も拡大、足元空間も広くなり、フロア高も下がったことで、使い勝手は一段と良くなりました。また、ホイールベースが延長されたことで走行安定性が増し、乗り心地も向上していました。当時は、誰もが「大ヒット間違いなし」と太鼓判を押したことでしょう。しかし、そうはいきませんでした。

■大ヒットのはずがユーザーから苦情が相次ぐ
冒頭でふれたように、10代目キャリイは、軽トラックのメインユーザーである農家の方々から嫌われてしまいます。その理由は、小回り性能の低下。先代は3.6mだった最小回転半径が、ホイールベースを延長した10代目は4.1mにまで悪化していたのです。

no title

1999年に登場した、10代目キャリイ。ホイールベースが長くなっているのがよくわかる

畑や田んぼの間の農道は、昔は手押し車で移動していたほど道幅が狭く、また石や穴が所々にあり、さらには直角に近い曲がり角が多くあります。こうした道で使われることの多い軽トラにとって、小回り性能は最重要性能。購入したユーザーからは「小回りが利かなくなった」という苦情がスズキへ相次ぎ報告されました。

これを受けて、スズキは急遽、小回り性能の向上に取り組み、2001年9月、ホイールサイズを変更したモデルを登場させました。リム幅を狭める小さな改良でしたが、最小回転半径を4.1mから3.8mへと小さくすることに成功します。しかし、ユーザーの要求レベルには届かず、抜本的な対策にはなりませんでした。
2: 2022/07/07(木) 07:44:38.85 ID:CAP_USER
no title

2005年に登場した、キャリイのショートホイールベースモデル。ホイールベースの変更は、車体を設計し直すほどの大変更だが、スズキとしてはメーカーのプライドをかけて取り組む必要があったのだろう

それから4年後の2005年11月、ついに答えが見つかります。ホイールベースを1905mmへと 445mmも短縮した、フルキャブタイプのモデルを追加したのです。そして最小回転半径は9代目と同じ3.6mとなったのです。ホイールベースの変更は、車体を設計し直すほどの大変更。クルマの重心が変わるため、足回りから、ステアリング機構、エンジン位置、ブレーキなど、あらゆる部品を見直して、フルモデルチェンジに近い大改修となりました。さらには、「農繁仕様車」には、ぬかるみからの脱出に威力を発揮するデフロック機構も標準装備。もちろん、結果は受け入れられ、販売も復調。

■ユーザーの期待を裏切らないモノづくりを、とことんやりぬく
このような大改修は、薄利多売をしている軽トラックでは、通常考えられないこと。スズキはどの自動車メーカーよりもコスト意識が高いことで知られています。が、この10代目キャリイの大改修は、ユーザーの期待を裏切らないモノづくりを、とことんやりぬく企業風土も同時に持ち合わせている、ということを裏付けているといえます。ユーザーの声を真摯に受け入れ対応する、スズキのクルマづくりには今後も期待できますね。

https://forza.ismcdn.jp/mwimgs/2/f/640m/img_2f070535dff8bb16e3b0506eddbc17a41575603.jpg
現行キャリイ。2021年には、キャリイ60周年記念モデルも登場している
Text:Tachibana Kazunori,MMM-Production
Photo:SUZUKI
Edit:Ogiyama Takashi

https://forzastyle.com/articles/-/64833

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資本主義70年周期(リセット)説

「阿修羅」所載の、おそらく佐々木敏という作家の文章の一部だが、この「資本主義70年周期(リセット)説」は阿修羅読者の間ではたいてい既知の説だと思うので、べつに佐々木氏の了解なしで転載してもいいかと思う。確認していないが、「金持ちは国家を相手に金を貸す」や「旧ユダヤの館」などにも書かれていたような気がする。
ついでに言うと、「70年周期」というのは、前の大戦の記憶を持つ者がほとんど死去して、戦争を知らない世代が社会の中心になっているからである。


(以下引用)


●ネズミ講の宿命●
近代以前の貧しい社会に資本主義システムが導入されると、まず少数の者が豊かになり、豊かな食生活や高価な医薬品、医療サービスの恩恵を受けて寿命を延ばす。
この結果、年齢別人口構成を示すグラフはピラミッド型……ではなくて、逆T字型になる。所得別人口構成のグラフも同様である。
この場合、少数の金持ちは、高度な教育を受け、情報を集め、国家や企業の運営方針について、排他的独占的に影響力を行使する。
政治は少数の豊かな特権階級に基づく非民主的独裁政治か、または(1918年以前の英国や1925年以前の日本がそうであったように)所得(直接税の納税額)によって選挙権を制限する「制限選挙」に基づく議会制民主主義政治となる。


逆T字型の「上」(頂点)に立つ年長者、政治家、官僚、経営者、管理職、商品開発者、研究者、著者、芸術家から「下」にいる若者、貧乏人、労働者、消費者、読者、観客に向かって、政策、法律、教育、広告宣伝、流行情報、文化、命令、需要が発せられるので、「下」はひたすら「上」に従えばよい。
たとえ「下」にいる者でも、このシステムに(早く)参加した者は豊かになれる。貧しい家に生まれても、「上」の望むような教育を受けて、読み書きや「毎朝起きて定時に同じところへ通う生活習慣」を身に付け、就職後はよく働き、よく稼ぎ、貯めたカネは、「上」の連中が開発した商品やサービスを購入するのに使う。そうこうするうちに「下」の連中もある程度寿命が伸び、生活水準が向上するので、逆T字型は中盤が少し幅広になって、三角形型、すなわち典型的なピラミッド型になる。


この傾向が続いて、「下」の者が全員中年や中産(中流)階級、すなわち「中」になってしまうと、「下」がいなくなって困る。そこで、政府は女性には大勢の子供を産んでほしい。
が、生活が豊かになり、セックス以外に「やること」の増えた中産階級の夫婦はそうそう大勢の子供はつくらない。医療のお陰で乳児死亡率も下がったことだし、「少なく産んでだいじに育てよう」と考える。このため、年齢別人口構成も所得別人口構成もやがて、ピラミッド型から逆U字型(釣鐘型)になり、最終的には逆ピラミッド型になる。


この「最終段階」になると、ネズミ講は破綻する。
そもそも「下」の連中は、「努力して勉強や仕事や貯蓄をすれば『上』に上がって、命令を出したり流行や文化を作り出したりする側にまわり、最先端の医療や教育を受けられ、老齢年金も十分に得られる」と思って頑張って来たのに、いざ自分たちが中年や中産階級になってみると、「『上』はもう定員オーバーで、新規募集は行っておりません」と言われたことになるからだ。
国民の大半が豊かになって「総中流」になった国があるとすれば、それは成功であると同時に失敗なのだ。


国民の多くが「努力して『中』(真ん中)に上がったと思ったら、依然として『下』だった」というのは、民主主義国家としては、いかにもまずい。大勢の国民がそういう現状に不満を抱くと国家体制が崩壊しかねない。そこで、国家がこのシステムを破綻させないためには、抜本的な対策が必要になる。


歴史的に見て、方法は2つ。
1つは、豊かになった国民を相対的に「中」に押し上げるために、貧しい外国を自国の経済圏に組み込み、外国の貧乏人と若者を自国経済圏のピラミッド構造のいちばん「下」に敷くこと。もう1つは、革命か戦争で自国を含む各国の国家体制を破壊して、すべてを「ご破算」にすることだ。

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マルクスたちによって貶められたことで世界の支持を失った「初期社会主義」

かなり正確に「『空想的』社会主義」の説明をしているサイトなので、その一部を転載する。私がその一派であることはこれまで何度も書いてきている。そしてここに書かれた「空想的社会主義」のほとんどは「共産主義」ではないことに注意してほしい。つまり、初期社会主義は「理想主義」であり、「人道主義」であったのである。「共産主義」(私有財産完全否定思想)は「悪辣な社会主義」「狂人的社会主義」であり、実現可能性ゼロの、社会主義の鬼子のようなものだ。マルクスの「暴力革命」だの「プロレタリア独裁」だののプロパガンダのために、世界は社会主義や共産主義を憎悪し、初期社会主義の理想主義性を見失ったのである。

(以下引用)

1-3:空想的社会主義が生まれた背景

それでは、初期社会主義(空想的社会主義)の議論を説明する前に、初期社会主義が生まれた時代背景を簡単に説明します。


初期の社会主義の思想は、イギリスやフランスの知識人の中から生まれました。


結論から言えば、社会主義思想がイギリスやフランスの中から思想が生まれたのは、それだけ社会で格差が大きい社会だったからなのです。


そもそも、社会主義思想が生まれた18世紀後半、フランスは君主や貴族、聖職者の権力が強く民衆の自由は阻害してされていました。君主や貴族、聖職者が特権を持っていたことからもちろん経済的な不平等も大きく、フランスではそれが革命の原動力になります。


→フランス革命について詳しくはこちら


一方、イギリスは王権が憲法で制限されていましたが(立憲君主制)、民衆らの中で格差が生まれていました。なぜなら、イギリスは産業革命の中心であり、生産が機械化されて、生産設備を持たない手工業者や労働者らが貧しくなり、一方で生産設備を持つ資本家は富を拡大していったからです。


→イギリスで立憲君主制を成立させたイギリス革命について詳しくはこちら


イギリスでは、格差拡大で貧しくなった人々が反乱を起こすようになります。

  • ラダイト運動(機械打ちこわし運動):機械化によって失業した手工業者が工場を襲う
  • チャーティスト運動:労働者階級の政治運動で普通選挙などを求めた「人民憲章」を掲げる

社会主義は、こうした社会の中から生まれたものだと覚えておいてください。


このような時代背景から生まれたのが、空想的社会主義と言われる素朴な社会主義思想です。まずはここまでをまとめます。

1章のまとめ
  • 空想的社会主義とは、フランス革命・産業革命期に生まれた、理想的な社会主義
  • 空想的社会主義は現実社会を変える力は産まなかったが、その後の社会主義思想に大きな影響を与えた
  • 初期社会主義が「空想的社会主義」と言われたのは、マルクス、エンゲルスが定義したため
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2章:空想的社会主義(初期社会主義)の代表的思想

「空想的」というのは、この時代の社会主義は理想的な社会を描くのみであったり、個人的な取り組みとして行われるのみで、社会を大きく動かすほどの学問的な議論や強い社会思想ではなかったためです。


そのため、この時代の空想的社会主義は社会を変革することはありませんでしたが、その後社会を大きく変えていく社会主義・共産主義という思想を生み出したという点に、その意義があるのでした。


代表的な初期社会主義の議論を紹介します。


社会主義・共産主義的な思想をたどれば古代まで遡ることができます(たとえばプラトンが『国家』で論じた理想社会やトーマス・モアの理想的な共産社会など)が、近代的な思想・イデオロギーとしての社会主義・共産主義の起源と言える思想に絞ってここでは紹介します。


2-1:バブーフ(フランス)

バブーフ(1760-1797年)は、フランス革命の中で登場した、最初の社会主義思想家です。バブーフはフランス革命の「自由、平等、友愛」というスローガンに対し、「平等、自由、共通の幸福をーしからずんば死を」というスローガンを対置し、私有財産制の廃止や独裁による改革を主張しました。

バブーフバブーフ

バブーフの思想は、以下のようなものでした2

  • 市民は勤労によって祖国に奉仕する(しないものには権利を認めない)
  • 国立養老院で教育された青年が大国民共有体を組織し、この組織があらゆる財産を所有
  • 賃金は廃止され国内では貨幣も廃止される

バブーフは領主の領地を管理する管理人を仕事とした人であったため、農業共同体をベースにこうした共同体的(共産主義)社会を理想としたのです。


バブーフは1796年に反乱したものの鎮圧し失敗に終わります(バブーフの陰謀)。しかし、革命を起こして独裁政権を樹立し共産主義的社会を実現する、というこの思想はその後の社会主義・共産主義思想に継承されていきました。


バブーフからしばらく後、ロバート・オーウェン、サン・シモンらの代表的な空想的社会主義者が登場します。


これから紹介するロバート・オーウェン、サン・シモンらは今でこそ「空想的社会主義の論者」として知られていますが、注意が必要なのは、自ら空想的社会主義者であると名乗ったわけではないということです。エンゲルスによってラベルを貼られたのだ、と理解しておきましょう。



2-2:サン・シモン(フランス)

サン・シモン(1760-1825年)は、アメリカ独立戦争に商工として参加し、後に合理的な産業社会を追求することによる社会主義を提唱したことで知られています。

サン・シモンサン・シモン

「サン・シモン主義」とも言われる彼の思想は、以下のようなものでした。

  • 社会で重要な役割を果たすのは産業者(農民、手工業者、労働者、商人など広い意味)である
  • 産業者の手にかかれば、より効率的な公共財産の管理が行える
  • 産業者は能力に応じて組織の中で業務が割り当てられ、遂行する
  • 社会の産業化を進めることによる平等の実現では、「革命」のようにラディカルなことをしなくても、平和的に社会体制を変えることができる

このように、国家がいわば大きな会社や工場のように組織化されることで、国家運営が合理化されると共に平等な社会が実現されるとサン・シモンは主張したのです。


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2-3:ロバート・オーウェン(イギリス)

ロバート・オーウェン(1771-1858年)は、イギリスで紡績工場を経営していた資本家であり、空想的社会主義者でもありました。

ロバート・オーウェンロバート・オーウェン

オーウェンは『協同組合雑誌』において「社会主義」という言葉を初めて使ったという説があります3。つまり、オーウェンを社会主義の起源と見ることも可能です。


オーウェンは、労働者の生活を改善するために自ら動いたことで知られ、工場内に幼稚園を設置したり、労働者を保護する労働立法を主張し、工場法(1833年)の制定に大きな影響を与えました。


オーウェンの思想には以下の特徴があります。

  • 機械化による生産性向上が格差を広げるため、農業労働は機械化をやめて人力に戻し、農業人口を増やす
  • そのような農業を中心とした、平等な人々によって構成される共同体(ホームコロニー)を作るべきと考えた

オーウェンも農業を中心とした、共産的な社会を理想としたのでした。


オーウェンの特徴はとことん実践家であったところで、オーウェンは理想の共同体を実現するためにイギリスからアメリカ・インディアナ州に移住し、「ニューハーモニー村」を作りました。


この村は失敗こそしたものの、オーウェンの挑戦的な行動は労働運動における協同組合運動に影響しました4


サン・シモンやオーウェン以外にも、生産の国家統制を主張したルイ・ブラン(フランス)や、無政府主義者(アナーキスト)のブルードン(フランス)、民主主義的でかつ共産主義的な理想の共同体を理想としたカベー(イタリア)などがこの時代現れました。


いずれも、このように多くの社会主義者が登場したのは、産業革命によって苦しい立場に置かれる労働者が急増したことが、彼らの問題意識にあったからでしょう。


彼らのような初期社会主義者は、実際に社会を変革することには失敗しました。


しかし、社会主義という可能性があることを多くの人に知らしめ、その後の世代に影響を与えていったという点でやはり意義を持つ存在なのです。

2章のまとめ
  • バブーフ:フランス革命期に登場し独裁による改革や、農業共同体をベースにした共産主義社会を理想とした
  • サン・シモン:「産業者」の役割を重視し、巨大な工場組織のような社会を理想とした
  • オーウェン:農業を重視し、労働立法の主張をして、実際に理想社会実現のためにアメリカに移住して実験した
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東海アマ氏による「小泉純一郎の日本破壊」論

「東海アマ」ブログ記事で、珍しく、書かれた内容にほぼ同感である。
アマ氏への私の信頼度は55%といったところで、氏の論説には30%くらいは強烈な偏見と極論と夢想的部分がある。しかし、良い記事の時には、素晴らしい記憶力と論理力を見せるのである。まあ、劇薬である。本来なら味方(似た思考)である人間でも、少しでも自分の説や見方に反するところがあると、完全に敵扱いするのが氏の最大の欠点ではないか。れいわへの決別の言葉などを見ても、「政治は妥協である」という根本を受け入れられない人物のようだ。

(以下引用)



 21世紀初頭、小泉純一郎は、世界最高の、気高い「モノヅクリ職人国家」だった日本を、新自由主義による金融博打で儲ける国に変えると宣言し、それを竹中平蔵にやらせた。
 真面目にモノを作って世界の人々の生活に寄与することで、生計を立てていた日本職人に対し、競馬や競輪と何一つ変わらない金融ギャンブルで生活しろと指示し、以来、日本は博打に夢中になって生活を顧みない、浅ましい浮浪の徒に変貌し、世界経済に寄与するイノベーションの職人魂は二度と見られず、目先の利益しか目に入らなくなった人々の生活の質も、堅実な精神も、際限なく凋落させていった。

 小泉純一郎は、2001年ー2006年の間に「小泉構造改革」の名で「規制緩和」「市場解放」「民営化」「自己責任」の「新自由経済政策」を実施した。
 「経済効率」を旗印に掲げ、弱肉強食だけを原理とする政策のみを実行した。

 「儲からない事業」は、すべて切り捨てられた。地方の隅々まで経済の血液を行き渡らせていたはずの公共交通は、「儲からない」を理由に、片っ端から廃止させられ、高齢化によって自動車の運転ができなくなった地方の老齢世帯は、もはや交通機関のない地方に留まることができず、都会の貧民施設に身を寄せるしかなくなった。
 自民党は、公共交通廃止の代替事業を一切行わず、ただ地方の人々の生活が荒廃するに任せた。

 地方に人々が住むということは、国家の隅々まで血が通う、生きた国家の活性を支える大切な要素である。
 もしも、山奥、過疎の地方に人が住まなくなれば、たちまち大河川の源流、上流は荒廃し、上流で大規模気象災害が起きたとき、下流の生活圏に取り返しのつかない災厄を招く。

 また、過疎地方の農業は、大都会の人々の健康を支える大切な食生活を担っている。それは、大昔からの先住民が担ってきた膨大な「生活の知恵」の上に作られたものだ。
 大都市の住民は、休みになれば過疎の奥山に向かい、心の癒やしを求めてきた。
 そうした、大自然との触れあい、癒やしの場も、奥山に住み続けてきた人々あってのものなのだ。
 そんな過疎の地方で生活する人々を切り捨てるということは、実は日本国家そのものを切り刻んで弱体化させることだった。

 小泉純一郎と金融担当大臣として起用した竹中平蔵の二人は、米国支配層と綿密に計画した上で「小泉構造改革」を実行。
 「金にならないものは切り捨てる」を合い言葉に三公社五現業の民営化を実行、これも大切な地方への血液循環を破壊していった。
 大都会を支える地方では、儲からない公的事業が生計の支えであったケースが多い。

 竹中平蔵は2002年「りそな銀行倒産」の可能性を言及した結果、日本企業の株と不動産が暴落し、予定通りユダヤ金融資本の買い占めを誘導した。
 竹中平蔵は一転して「りそな銀行国有化」に踏み切ったため日本企業株と不動産価格が暴騰、ユダヤ金融資本に莫大な利ざやをもたらした。
 竹中平蔵氏はユダヤ金融資本の指令で日本経済を一時的に崩壊させた上で急回復させユダヤ金融資本に莫大な利益をもたした。

 このとき、植草一秀が一貫して批判しているように「国家インサイダー取引」の大犯罪が行われた。
  https://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/2d4c9f6362afdb57362820c6c3cebafb

 竹中平蔵は、ハーバード大ロックフェラー研で、フリードマン・ハイエクによる新自由主義思想の薫陶を受け、それを日本に持ち帰り、日本経済の原理を根底から破壊していった。
 自民党員(維新・公明も)は、すべて竹中平蔵の思想による弱肉強食社会に協賛することになった。

 日本は大昔から「職人社会」であり、民衆の生活の必要ニーズに、きめ細やかに対応する相互扶助の社会であり、三井高利流にいえば、「三方良し」=売る側、買う側、作る側が、みんな満足できるシステムを大切にしていた。
 https://kigyotv.jp/news/sampo-yoshi/

 その協調社会に対し、竹中平蔵の持ち込んだ新自由主義は、「弱肉強食原理」であり、「力の強いものが市場原理に従って社会を淘汰することで最適化される」という理屈だった。
 こんな社会では強者が弱者と社会のすべてを飲み込み、最強のユダヤ金融資本が、全世界を一元支配し、管理するという社会以外は許されなくなる。
 これはユダヤ教タルムードにある「神に選ばれたユダヤ人だけが人間であって、他のすべての人々はユダヤ人に奉仕するためのゴイム=家畜である」という、論理を実現するものである。

 新自由主義にあっては、ただ「金儲け」だけが人間の自由であり価値である。人間愛とか助け合いなんて利他主義の思想はゴミに等しい。ただ利己主義だけが正義なのだ。
 それがフリードマンの思想だった。
 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-03-23/15_0601.html

 これらは、何回も書いてきたように、「優秀な人間が優秀な理論で社会を変革する」という、いわば「優秀病」ともいえる競争淘汰主義から導かれたもので、神の選民を自負するユダヤ人たちが生み出した思想である。
 それは資本主義なのだが、一方で共産主義もまた、ユダヤ人が生み出した「優秀病患者」の思想だった。
 マルクス・エンゲルス・レーニン・トロツキーらは、すべてユダヤ人である。新自由主義のフリードマン・ハイエクもユダヤ人である。

 自民党員のほぼ全員も、この種の「優秀病」患者であって、幼いころから競争主義に飼い慣らされ、「自分が一番になりたいという立身出世病=エライ人病」の重篤な患者ばかりである。
 彼らもまた「金持ちになり尊敬される」ことが、人生最大の価値であると信じこんでいる。だから、容易に利己主義=新自由主義に馴致されるのである。

 小泉以降の政権のほとんども、竹中平蔵の新自由主義路線を踏襲してきた。わけても、麻生太郎・安倍晋三・菅義偉が、まるで竹中に直接操られるような弱肉強食経済政策を行い、日本民衆の格差拡大に貢献し、シングルマザー世帯や老人世帯を地獄に追いやってきた。

 岸田文雄はどうか? 彼は「新しい資本主義」を提唱した。
 
 岸田首相の「新しい資本主義」って何? 2021年10月25日
 https://plus.chunichi.co.jp/blog/okkun/article/561/10366/

 岸田首相が重視する「分配戦略」とは何?

【「分配戦略」の1つ目は「働く人への分配機能の強化」です。具体例として、賃上げを実施する企業への税制支援や大企業による中小企業に対する下請け取引の監督強化などをあげています。2つ目は「中間層の拡大と少子化対策」です。教育費や住居費支援、保育制度拡充と環境整備をあげています。3つ目は「看護、介護、保育などの現場に働く人の収入増」です。コロナ禍での医療現場や少子高齢化の最前線で働く人々の収入を増やすために、サービスの公的価格の在り方を見直すとしています。】

 上の説明を見れば分かるとおり、新自由主義を本質的に批判し改革する姿勢など微塵もない、小手先の人気取り政策に終始していて、「ものごとの理解力」が存在しない人物だと分かる。
 大切なことは、人々が目先の金儲けに走るのではなく、職人的ライフスタイルに立脚して、人々のニーズにきめ細やかに答えて、人々に奉仕することを人生の満足、目的とする利他主義を社会の礎にしなければならないのだ。

 新自由主義を批判するということは、利己主義を批判し、利他主義に向かうということだ。
 だから、岸田のいう「新しい資本主義」というのも、結局、新自由主義の装飾であり、毒々しさを薄めたものでしかない。弱肉強食の残酷な人間疎外を、ほんの少しだけ薄めて、誤魔化して見せるだけのものだ。
 だから岸田は、日本人に対して、竹中や小泉同様、金融博打=マネーゲームによる金儲けを薦め始めた。

 国民の過半数が「生活が苦しい」と回答しているのに、国がマネーゲームを主導してよいのか 2022/06/25
 https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/307282

 政府が「貯蓄から投資」への政策を推し進めている。だが、国が国民を巻き込んだマネーゲームを主導してよいのだろうか? 根底にあるのは新自由主義が世を席巻してから散々言われてきた「自由と自己責任」だ。
 そこには「どんな人でも見捨てずに救う」という、本来、国が国民に対して持つべき優しさが感じられない。

 政府としてはお定まりの国債やNISA(一定額で購入した金融商品の利益が非課税となる制度。利益が出ることが前提)だのiDeCo(個人型確定拠出年金。60歳までは引き出せない)だのに、もっと国民がお金をつぎ込むことを期待しているのだろう。

 しかしながら一般的に考えて投資には、うまくいけば配当が得られる代わりに、元本割れなどのリスクがある。いわば一種のギャンブルを国民に推奨しているわけで、政府は「お勧めはするけどリスクまでは負わないから自己責任でどうぞ」と突き放しているのと同じだ。
 自己責任は自由の代償として生じるものだ。そして、何をするにも選択肢を多く持てる余裕のある状態を「自由」と呼ぶのだと思う。

 いまの日本は働く人の4割近くが非正規雇用者で正規雇用者の給料も目減りし続けている。
 その国で、虎の子の資産を「自己責任」で投資できるほど自由な人がどれだけいるだろうか? 当たり前だが、元手がなければ運用はできない。日本の給与所得者の平均給与は1997年の467万円がピークで、2020年は433万円と34万円も減っている(国税庁調べ)。

 にもかかわらず、黒田日銀総裁は「家計の値上げ許容度も高まっている」と発言し、岸田首相も就任当時に掲げた「令和所得倍増計画」が実らぬまま、5月になって「資産所得倍増」を打ち出した。
 景気の先行きが不透明で賃金も上がらないのに、それを解決せずに家計の金融資産2000兆円を投資に回して何とかしようとするのは本末転倒だ。
 国民の大半が不利益を被ったら国はどうするのか。「自己責任だから」と見放すのか。

 そもそも生活に余裕がなく、投資や運用に縁のない人を救うためのセーフティーネットを用意するのが国の仕事ではないのか。国民生活基礎調査(20年)で「生活が苦しい」と答えた人が54.4%もいるのに、投資や運用を勧める政府の意識は私たちとかけ離れたものだ。

 最近は、不労所得の稼ぎを競う「キャッシュフロー」という子ども向けのボードゲームがあるという。また今年4月から高校の家庭科で、金融教育の授業も始まった。政府の「貯蓄から投資へ」の政策を後押しするかのようだ。

 そんななか、ニューヨークのダウ平均株価が16日、1年5カ月ぶりに3万ドルを割った。これは世界恐慌の前ぶれではないかとさえ思う。為政者が間違ったかじ取りをしたとき、国民が声を上げて正さなければ何も変わっていかない。7月の参院選には、ぜひ投票に行っていただきたいと思う。
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 引用以上

 三枝氏の指摘は極めて正しい。
 【生活に余裕がなく、投資や運用に縁のない人を救うためのセーフティーネットを用意するのが国の仕事ではないのか。国民生活基礎調査(20年)で「生活が苦しい」と答えた人が54.4%もいるのに、投資や運用を勧める政府の意識は私たちとかけ離れたものだ。】

 現在、生活に余裕がなくなっている世帯は、54%どころか、おそらく80%くらいに達しているはずだ。みんな生活の質を大きく落としている。
 私は、健康上の理由で毎日山歩きをしているが、ガソリン代高騰で、もはや車を利用できないので、リットル50K走る原付を利用している。冬場は凍結する道なので、どうしたものか心配でならない。

 中津川市から下呂市に向かう国道は、金曜の夜から日曜の夜まで、渋滞が出るほど交通量が多かったものが、ガソリン代高騰が始まってからは、ガラガラになり通行が楽になっている。みんな観光もセーブしているのだ。
 こんななかで、国が貧しい民衆に投機生活を勧めているのだ。

 ピント外れも著しい。今こそ、社会生活から落ちこぼれる寸前の貧困に陥った人のために強力なセーフティネットを作らねばならないのに、金融投機=博打を薦めているのだ。
 原発を無意味に推進したがるのも、そうだが、こんな政権は続いてほしくない。
 だが、期待していたれいわ新撰組も、原発推進の浅草キッドを候補に立てた。私としては、世の中が完全に二極に分かれ、もう誰にも期待できないのだと理解するしかない。

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「体育」がなぜ「競争」科目になっているのか

私もひ弱で運動音痴の子供だったため、運動会や体育の授業のたびに屈辱を味わって、それが一生消えない劣等感・虚無感の原因になっていると思うが、学力試験などと違って、多くの人の目の前で屈辱的な姿をさらすというところに、その原因がある。学力など、誰がどういう成績なのか、当人以外には分からないし、多少成績が悪くても「俺はまだ本気出していないだけ」と言い訳もできる。「教師の教え方が悪い」とも言える。
で、小学校の場合は、早生まれと遅生まれの間に1年近くもの体格差や運動能力の差があるのに、同じスタートラインで競走させられるわけだ。どうしても、早生まれ(実質的には同学年中の遅生まれと言うべきだろう。)の子供は、「学年が違う連中と勝負させられる」のと同じことになる。
まあ、子供だから、衆目の前で恥辱にさらされることの心理的影響は、ほとんど一生残ると思う。いわゆるトラウマである。多少他教科の成績が良くても、それで褒められても、その痛みは埋められないだろう。世の中には案外スポーツを憎悪している人間は多いと思う。(観る娯楽としては私もスポーツは大好きである。しかし、それは「選ばれた人間」のやることだ。)
もちろん、体育が、本当の意味で「体を健やかに育てる」教科ならば、実に結構なことであり、あるいは小学校や中学校の教科の中で一番大事かもしれない。健康で強い体は一生の宝である。
だが、その「体育」が、実は「競争の科目」になっていることが最大の問題なのである。スポーツとは基本的に競争なのである。つまり、「体を健康に育てる」ことなど最初から無視されて体育のカリキュラムは組まれている。「子供の興味を高めるため」という名目で、あれこれの「スポーツ」、つまり「競争」をさせるのが体育という教科なのである。
まあ、「体育」など、運動場を子供に解放して、好きなように歩いたり走ったりボールを蹴ったり投げたりさせておけばいいのである。つまり、「体を動かし、骨格と筋肉を発達させ丈夫な体を作る」ことが体育の本当の第一義だということだ。もちろん、その中から「サッカーをやりたい」「野球をやりたい」「空手をやりたい」「短距離走の時間を測りたい」というグループができれば、それも勝手にやらせればいい。教師は、危険が無いように見守り、管理するだけでいいのである。
「競争」をさせることでメンタルが鍛えられると思う父兄も多いと思うが、それは子供の心の脆弱さをあまりに知らないものである。一度の失敗が一生の破滅の原因になる可能性があるのが、人間(特に子供)の心理なのである。

(以下引用)

徒競走を実施する意味がないのでは?「順位をつけない運動会」にモヤモヤする保護者たち


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◆変わる、学校教育の在り方

運動会シーズンになると、自分が子どもだったころとは随分変わった運動会の在り方に違和感を覚える保護者も少なくないようです。「運動会に関するアンケート調査」に寄せられた声を紹介しながら、昨今の「順位をつけない運動会」について考えてみました。



◆「競争のない運動会」に保護者は違和感


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